べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「那古野神社」(再)(名古屋市中区)

1/22。

「名古屋東照宮」まできたのに、「那古野神社」にお参りしないわけにはまいりますまいて。

 

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「那古野神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。
むっきむき。

 

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摂社「福寿稲荷社」。

 

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拝殿。

 

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手水鉢。

 

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摂社「金山神社」の狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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参道から拝殿正面。

 

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参道鳥居近くの狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

御朱印は、御神職不在ということでいただいておりませんです(以前は、豪快なのをいただきました)。


さて。

今回も少々引用をしてみましょうか。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

名古屋市史』の「社寺編」からいってみましょう。

31ページです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「一 那古野神社
那古野神社は西区上長者町一丁目の西側に在り、西部において東照宮と境を接す、(略)、旧天王社(又は亀尾天王社)と称し、城内三之丸(今の第三師団司令部の東部)に在り、尾張志、名所図会等に当社縁起を引きて、延喜十一年三月十六日、勅によりて此地に鎮座せし由を記す、天文元年三月十一日、那古野合戦(織田信秀那古野城今川氏豊との戦争)の兵火に焼失し、同八年再営す、慶長十五年築城の時、当社廊内となれるを以て、之を外に移さんとす、家康往昔の恵報を思ひ、神鬮によりて神慮を定めしむ、即ち神鬮を取る両三度、遂に遷移のの鬮無し、家康愈、敬粛し、神祠を旧地に安んじて奉斎せしむ、義直(敬公)また恭順最も渥く、寛永六年、社僧堯養に命じて重修せしむ、明暦二年、光義(二世光友)修営を加へ、太刀、馬を献す、(略)、明治維新の際、須佐之男社と改め、同五年郷社に列す、同九年十月五日今の地(もとの明倫堂の地)に遷座あり、十一月七日懸社に昇格す、三十二年七月八日、那古野神社と改号し、三十五年より神輿渡御を始む、(略)
祭神、中扉は素戔嗚尊奇稲田姫命、左扉は兵主神、右扉は八柱神(もと八王子と云ふ)なりもとは三神殿に別々に在せしを、(略)、明治五年に一社に集めたり、本国帳の愛知郡従一位素戔嗚名神は此神にして、熱田の末社なる素戔嗚社は、当社の遥拝所なるべしとの説あり(略)、天野信景は集説に義直(敬公)が寛永六年に、当社の梁牌を画せし時、素戔烏神社としたるは故ある可しと述べたり。
神殿は神明造にして、南面す、明治九年の再建なり、拝殿は三之丸鎮座の建物を徒す、瑞籬、中門、御供所、宝殿、神楽所、社務所等あり、境内神社七所存す、(略)古へ六月十五日の夜試楽あり、十六日また車楽、朝祭を行ふ、現今は七月十六日午前に神事ありて、午後神輿二基、若宮八幡社へ幸す、此事明治三十五年七月より始まる(略)
別当を安養寺と云ふ、俗に天王坊と稱す、塔頭は常林坊、南坊、西坊の三坊ありしが、神仏分離の際に廃寺となる(略)
史料
天王社廓内神社(南向)拝殿 鳥居 門(南向)
八王子(西) 兵主社(東)
末社彌五郎殿社 白山社 日宮 月宮
本地堂(西向) 安薬師
(略)
寛永六己巳年、前大納言義直卿、命法印堯養天王坊十二世修造本殿及八王子社、新建兵主明神祠於本殿東、十一月十六日、本殿遷宮、津島祠神主紀長俊奉命行之、六月十六日祭礼、車楽二輌称祇園会、今日府南若宮神輿一基臨幸于当社、神主供奉(略)
源敬公再建梁牌書素戔烏尊神社、此神詞名古屋市氏神也和俗其土地所有之神社、是称氏神、是土人始祖神之義乎
(東)兵主太神宮 兵頭神、祭神不詳、俗称弓矢神、(略)
(西)八王子 素戔烏尊之子、五男三女神祭之(以下略)」

 

境内社が、以前も今回もちゃんと撮影できておらず……これはいけない、また行ってこなければ。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑『尾張志』の「名古屋」編も見てみましょう。

2ページからです。

前半は、いくつかの文献の引用が細かくされており、くじを引いて神意を問い、それによって「牛頭天王」は遷らずに名古屋城の守護神となったこと、『旧話略』という文献には、「徳川家康」が幼い頃にこの辺りで遊覧したとなっているけれども、他の文献から織田の人質になって「天王坊」に押し込められたらしいこと、「牛頭天王」を遷さなかったのはそのためではないか、といったことが書かれています。

 

「本社
(略)祭神素戔烏尊也寛永六年十一月源敬公御造建の棟札に素戔烏尊神社とかかせ給へりしは本国神名帳の愛智郡のうちに従一位素戔烏尊名神とあるを此社の事也とおぼしめして◼︎か遊ばされけむさるゆゑは天野信景か本国帳集説のこの牛頭天王の條に我敬公再建梁牌書素戔烏尊神社(略)とかきしも此天王の社は本国帳の素戔烏名神なるへしと敬公思召◼︎ゑありてかくかかせ給ひしにやと信景か◼︎し◼︎かりし也 さてその熱田所摂六社中とあるは元禄宝永の頃撰る熱田尊命記集説熱田社問答雑録なといへる書に海蔵門外の東西六社のうちに従一位素戔烏神社と記し又延宝六年に書る厚見草に海蔵門の外云々南の方に六坐の神を祭奉る姉子今彦氷向素戔烏日長青衾也みな西向にたつ北を上とす是を東の六社と云 何れも社はなく石を■るしとすと見え 木下寶聞◼︎が厚見草付録に是等の神社元禄六年造替也と書しを見ればもと荒廃して社はなく◼︎るしの石ばかりありしを元禄六年造建ありしほとの微々たる小社なり 扠熱田鎮坐記といふものに内之遥拝所七社外之遥拝所五社といふ事見えたり 熱田の部にくはしくいふへし是則今の東西六社にてもと遥拝所なるべけれは 本社とおもへるは誤なるべし されは本国帳の名神大社を引当て是也といはんはいかかあり すべて神名式本国帳に載せし神社のとくうせて在處定かならぬを今案をもてそれ彼なと引当定めん事はおほろけならぬかたきわさなれはいはてやむへき 本意なれとかく微々たるを熱田六社の中なるをそれと定めんよりは源敬公のおほしめ◼︎に随ひ奉り信景が意によりこの三の丸天王社を素戔烏名神社とあがめ奉らまほしき事なりけり (略) 摂社 八王子社(略) 兵主社(本社東の方 以上二社は源敬公御建立にて寛永六年己巳十一月十六日あらたに祠を建つ) 稲荷社(略) 日神社 月神社(略) 弥五郎社 白山社(略) 銀杏樹(拝殿の西の方にありてたぐひ少き大樹なり嫉妬の女此社にまうでて此樹に釘を打人を呪詛せし事ありし故瑞龍院君の御はからひにて樹のめぐりに垣■ひまはして今◼︎木のもとへ人のよるとなし) (略)宮寺 亀尾山安養寺俗に天王坊と稱す真言宗にて仁和寺明王院を兼帯す開山は恵日国師伊勢国多藝郡長松山安養寺と同法◼︎也其始祖恵日国師の法嗣大恵禅師みづから平等と号し諡を仏通といふ兼学密の法◼︎今に相承せり(略)」

 

半分くらいは「熱田神宮」の記事になっていますが、「熱田神宮」にある小さな社は、元々は遥拝所なのだから、延喜式神名帳名神大社とされている「素戔烏名神」が「熱田神宮」の東六社なはずがなかろう、といった内容です。

 

「寛永六己巳年、前大納言義直卿、命法印堯養天王坊十二世修造本殿及八王子社、新建兵主明神祠於本殿東、十一月十六日、本殿遷宮、津島祠神主紀長俊奉命行之、六月十六日祭礼、車楽二輌称祇園会、今日府南若宮神輿一基臨幸于当社、神主供奉」

「摂社 八王子社(略) 兵主社(本社東の方 以上二社は源敬公御建立にて寛永六年己巳十一月十六日あらたに祠を建つ)」

 

それにしても、「徳川義直」は何を持って「兵主社」を造営したのでしょうね……「津島神社」にならって「八王子社」「弥五郎殿社」というのはわからないでもないですが……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑順番がなんかいつもと逆ですが、『尾張名所図会』から。

28ページです、

 

「亀尾天王社
御宮の東隣に鎮座。醍醐天皇の延喜十一年三月十六日、勅によりて此地に鎮座ありし由、当社縁起に見えたり。天文元年三月十一日、那古野合戦の兵火に焼亡せしかば、同八年再び造立す。慶長十五年御城御営築の時、御郭内になりし故、他に遷されむとの議定ありしかど、神慮はかりがたかりければ、神君の思召にて、神前にて御鬮をとりしに、他に遷り給はじとの御鬮再三下りし上、往昔、神君御若年の時、此天王坊に三年ばかりが程おはしませし其御したしみにより、終に外へは遷地なくしてやみぬ。かくて御城擁護の鎮守、府下の氏神といはひ祭れり。(略)
本社 南向。祭神素戔烏尊。
拝殿 (略)
中門
瑞籬
御供所
宝蔵
御井
鳥居
摂社 八王子社は本社の右、兵主社は本社の左にあり。寛永六年己巳十一月十六日、源敬公新に御造営なり。瑞籬の外の末社は稲荷社・日神社・月神社・弥五郎社・白山社等、皆本社の右にあり。
神木公孫樹 拝殿の西にあり。昔嫉妬の婦人咒詛せし爲、屡この樹に釘を打ちし事の有りし事の有りしかば、国君の御計ひにて、寛文十二年樹の巡に柵ゆひまはせしより後、木の本へ人の寄ること能はず。(以下略)」

 

「銀杏樹(拝殿の西の方にありてたぐひ少き大樹なり嫉妬の女此社にまうでて此樹に釘を打人を呪詛せし事ありし故瑞龍院君の御はからひにて樹のめぐりに垣■ひまはして今◼︎木のもとへ人のよるとなし)」

「神木公孫樹 拝殿の西にあり。昔嫉妬の婦人咒詛せし爲、屡この樹に釘を打ちし事の有りし事の有りしかば、国君の御計ひにて、寛文十二年樹の巡に柵ゆひまはせしより後、木の本へ人の寄ること能はず。」

 

尾張志』、『尾張名所図会』ともに、「丑の刻参り」の標的(?)となったイチョウのことが書かれていますが、もう今はないのかな……そうか、遷座したときに一緒に移さなかったのかもしれないですね……確認してこなければ。

宿題が増えた1月も終盤の神社巡りでした〜(尾張徳川家の勉強とか、しないとですね……最近ようやく、附家老というのがあったらしい、ということを覚えました)。