べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

不定期「熱田」考(6)

さて、どうしましょうか……一応見てみますか、『名古屋市史』。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

もう、こっちも熱田関係の記事が膨大で……それぞれでご確認ください(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

気になるところとして、184ページ。

 

「楠木御前 俗ニ子安ノ宮ト云。
祭神伊弉諾尊伊弉冉尊也、是諸神之太祖神也、二尊ハ天神七代ノ終リ、陰陽ノ正徳也、神代図説ニクハシク記セリ、周易曰、大哉乾元、萬物資始ムハ父ノ道ナリ、至哉坤元、萬物資生ズハ母ノ道也、諾並ノ両神ハ蓋シ国ノ父母也、此社三輪造ニシテ本社ナシ、大ナル楠ノ古樹アリ、回ニ神籬ヲ構ヘテ以テ神トス、然シテ二神ヲ以テ子安ノ神トスルコト故アリ、神紀ニ二神ハ日神、月神、日兒、進雄及ビ五行ノ神ヲ生ジ、百穀蠶桑ヲナシ、国洲ヲ生ジ玉フコト有、気化ノ神生々ノ始メナレバ、産育ヲ祈ルコト尤モ理ニ叶ヘルカ、此社及ビ下知我麻ノ神社、元禄五年壬申冬御修理、即遷宮、 [熱田尊命記集説]」

 

「三輪造」とあるのは、本殿がなく、御神体(山、木)を拝む形式、ということかと思います。

なるほど、国産みの両神ですから、子安の神となっても不思議ではありませんが……むしろ、子どもに恵まれなかった神のほうが適切ですが……あ、ある意味恵まれてませんね(「素盞嗚尊」とか)。

 

「(精進河上)
鈴御前 天鈿目命(アツタ記) 御曾支神云云、一書ニ御祓(みそぎ)ニ作ル
問フ祭神何ノ神ゾヤ、答フ不知、蓋シ按ルニ、祓戸ノ八百万神歟、即此ノ所当社ノ祓所也、一説ニ住吉也ト云、住吉ハ禊事ノ神ナレバ、據ナキニ非ズ、後賢是ヲ補ヘ [同書]」

 

どうも「鈴御前社」の神は「禊」の神かもね、ということらしいです。

そうすると、「天鈿女命」でなくてもいいんですけれどね……。

 

「鈴御前社 並 牟山戸
此社ノ神ハ巫部ノ祖神ノ天穂日命縣御子ノ祖神天鈿女命也、此鈴宮ハ本ト浮島神社トテ、往古海中ニ在シガ、度々洪水アリ、其時今ノ處ヘ漂着シ、故ニ自然ト易地成也、故ニ其跡を牟山戸ト云、鈴ノ宮ト同神也、故ニ古代ハ縣村ニモ(村椙記)謂縣神社、此神ニヤ、尤巫覡ノ祖神タルニヤ、縣ノ社ハ惣ノ斎女ノ預リニテ、神楽座一老代リテ祭ルトキ、小◼︎餅ヲ供セシコト昔ハ有シトゾ、其小◼︎ヲ用ルハ、年々小◼︎ヲ神税ニ収メシ故、一老ガ其小◼︎ヲ箕ニ盛テ態備ヘシガ、後ハ餅ニノモ備ヘシ◼︎モ有シヨシ、今堀ノ内ヲ縣ト云モ、惣ノ斎女ノ領ニテ、縣御子ノ居地ナリシ故トゾ、何レニ浮島社、今ノ鈴ノ宮ハ二神ヲ祭リ、巫覡ノ祖神ナル故ニ、神楽ノトキノ採物ヲ以テ社号トス也ト、又浮島カラ流レ来タル故、今世モ東脇ノ氏神ニテ、是浮島ヨリ移ル氏子ナリト、故真英ノ説ナリ、又、此處ヲ祓戸トスル事、古代ノ記ニ、精進河ノ神社、祭神底筒男、中筒男、表筒男ノ神、云云、此三神ハ諾尊不意凶目杵ノ處ニ至リ、還後橘小戸ノ波間ニ祓ナリテ、底ノ底カラ男の心ニ成給フ徳名ニテ、即チ祓神也、今世ハ此社ナシト雖、其神アルニ因テ河アリ、河アレバ其神霊アルコト疑ナキ、故、茲ヲ祓所トスルコト宜ナリ、但鈴宮ハ祓神ニアラズト知ベシ、東西南北ノ祓戸ノ辨ノコト有ベシ [熱田社伝]」

 

こちらはもう少し面白い感じ。

「縣御子」は、「かかりみこ」で、神がかりする巫女のことでしょう、であれば「天鈿女命」はぴったりな感じです。

それから、神社が浮島だった、というのも面白いですね。

普段はお参りせず、必要な時だけはお参りする、ということは普段からいていただくには畏れ多い、「祟り神」なのでしょう。

何に祟っているのかはよくわかりませんけれども。

「禊」の神、「祓戸」の神は、基本的に水辺にあることが条件(絶対ではないですが)なので、海中にある浮島の神社、というのもありかな、と……ううむ、妄想が浮かんできませんが、例えば何らかの聖別された空間で、斎宮のような巫女がそこで身を清めるための離れ小島、という感じだとするとどうでしょうか。

 

「牟山堂 ◼︎出或無山戸、今社亡
祭神 不詳
厚見草曰、牟山戸ト云ハ、方十四間計ニシテ、芝生深ク、四方ヲ堤ノ如ク築キ、中央ニ老タル松五六株モヤ有シ、翠ノ色青ヤカ也、昔ハ巫女ノ◼︎カナデケルト、今ハ其事モ無シ、如何ナル所ニヤ、或ハ古ヘ墓所ニテ有シトモ云フ、又秘所トモ云、此松古ヘヨリ倒ルル事ナク、高潮上リテ人家ヲ流レ、大木ヲ倒シケル事有テモ、此所ニ浮上リテ水難ナシ、風モアタラヌト語リヌト也 [熱田宮略記]」

 

おや、「牟山堂」とか「牟山戸」とかって、

 

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「鹽竈神社」(中川区)※2016/10/06追記 - べにーのGinger Booker Club

 

↑「鹽竈神社」(中川区)の記事に出てくる「無三殿」と何か関係あるんでしょうか……なんでもかんでも結びつけてはいけませんが、ありそうな〜なさそうな〜。

 

さて、「円通寺」についてもみておきましょう。

寺院の記事が並んでいる部分、678ページです。

 

「七七 円通寺
円通寺は補陀山(一に羽休山と曰ふ)と號す、南区熱田新宮坂町に在り、境内は千七百十九坪六合一勺あり、常恒会地特級にして、静岡県浜名郡富塚村普済寺の末寺なり、此地往古より秋葉三尺坊の霊地として一小宇ありしを、弘仁中、空海此堂に自刻の観音像を安んじ、一寺を創建して、補陀山円通寺と號すといふ、又此堂老松の下に在りしに因り、世に松下の観音と呼べり、北朝明徳二年、田島尾張守仲宗の開基なり、(熱田之記に云、田島丹波が菩提所云々」とあり、田島丹波とは田島丹後守仲定(寛文七年卒)を指すなり、又同記に「寺僧の云、寛徳年中………尾張守仲安の父(田島丹波先祖)帰依して、今の円通寺を建立し」と見ゆ、仲安は仲定の父にして、其父は尾張守仲和なり、今寺伝には単に田島家と称するのみ、今姑くは田島氏系譜に依る)、誓海義本(普済寺第二世、勅諡大明禅師、文明二年八月八日寂、墓あり)を以て開山とす、此時の山号を松露山といひしが、後今の山号に改むといふ(厚見草附録、金鱗九十九之塵所引寺伝)、宝暦七年十二月、十六世龍重旭泉の住するに及び、悉く旧債を償ひ、諸堂の傾頽を修補し、影室、鐘楼、応事、禅堂、庫裏、秋葉堂、陽谷軒、衆寮等を一新す、明治二十四年の震災に、本堂、秋葉堂(即ち神殿)等倒壊し、四十年六月より、今の本堂を再建す、本尊は釈迦牟尼仏(作者は詳ならず)なり、(此説古雅書に依る、張州志略には「安十一面観音(弘法所造)」とあり、蓋し此像はもとは観音堂安置の像なりしか、本堂の本尊となし、後脇立となししが如し)、現今の堂宇は、本堂、庫裏、玄関、禅堂、鐘楼(略)、総門、神殿(鎮守秋葉三尺坊堂なり、又羽休堂の称あり、明治二十七年に再建す)、奥の院等あり、塔頭には瑞用(用一作陽)軒、宝暦八年疊寺となり、天明六年、知多郡大野村宝蔵寺へ譲與し、その跡畑となりて、当寺の控となれり)、陽谷軒(明和四年、疊寺となり、七年再建す)の二所ありしが、今廃す、末寺は熱田之記に「熱田ノ内ニ有之円通寺末山ハ悉ク天台宗ナリシガ、文明年中、当宗ニ改ム」と見え、又同記に「厚覧草云々、此末寺五十餘寺有ト云々」と見え(略)」

 

うむ……という感じです。

あんまり、「秋葉大権現」については触れられていないので、妄想がはかどりませんね。

体系的には何も考えていないもので……。