さて、ぼちぼち終わりにしとかないとですね。
『史跡あつた』という素敵な本がありまして。
そのp30より、
「別宮 八剣宮
正面参道を入って一の鳥居をくぐるとすぐ左側に南面して鎮座。祭神は本宮と御同前で、鎮座は、元明天皇の和銅元年と伝える
。古来別宮、外宮、下ノ宮などの称があった。八剣とは八口の剣の意味ではなく八は弥々と読み、「ながし」「ひさし」の意味で、永遠に剣の宮という意であるという。」
……「八」というのは古い日本語では、「大きい」とか「多い」という意味で使われることが多い、とされています。
そこから、こういった説が出てくるのはわからないでもないです。
以前の記事で引用したように、和銅元年に新しく宝剣が作られ、奉納されたのでこちらに祀られている、ということなのですが、そのときに八振りの宝剣を収めたとは考えづらいですし……それに、何といいますか、三種の神器ですが、何か「草薙剣」だけちょっと違いますよね。
「八咫鏡」「八尺瓊勾玉」ときて、「八劔」的な名前だったらいいのにな……と誰か思ったりしたのかもしれません(だったら多分、「八拳劔」でよかったんでしょうけれども……外せなかったんですかね「草薙剣」は)。
p36には、
「摂社 松姤社
熱田区市場町に鎮座。祭神は宮簀媛命であるが、俗に「つんぼの神」と云われ、お詣りすると耳が聞えるという伝えがある。」
「末社 鈴之御前社
熱田区伝馬町に鎮座。祭神は天鈿女命である。古老の伝によると、東より宮の宿、即ち現今の熱田に入るものは必ずこの社で”鈴の祓い”を受けたものであるといい、例年七月三十一日には”茅の輪くぐり”の神事があってにぎわう。」
御祭神なんかは、明治以後に整理されたものを掲載しているようですので、こんな感じにになっています。
あと、前回の「鈴御前社」は「浮島神社」ではないか、に対して、
という記述もありまして、あれどこにあったんだろう……探してみないといけませんね。
p50から、
「精進川
その源を千種の今池に発し、御器所、高田、大喜、などの東方丘陵地帯(現在の昭和区、瑞穂区)と、いわゆる熱田半島を形成している西方の台地との間の低地帯の田畑からにじみ出る溝川を集め、七本松(鶴舞公園西南)附近では大池のあふれ水までまじえて南へと流れ、熱田の東で大きく廻って、東海道筋である伝馬町を横ぎって羽城地内に入てから海にそそいでいた。古書に僧都川と記されたものもある。
江戸方面からの宮の宿への入口である伝馬町、また築出の町が(五丁目、六丁目)できていなかったころ、永禄年間前までは精進川は宿境であった。即ち境川であったという。その古い時代に熱田の宿駅に入る者は、この川でミソギをしたという。そのミソギの場所が『鈴の宮』『スズのミヤ』『レイのミヤ』祓所(ススギどころ)であったといわれて、これは熱田に大社が鎮座せられるところから伝えられたことのようだ。」
なるほど、かなり古い時代のお話のようで。
宿に入るときに、いちいち禊をしたものなのか……という検証ができませんので、なんともですが。
書かれているように、「熱田神宮」の勢力というか大きさを物語っているのかもしれないです。
「姥堂
東海道の伝馬町筋にまだ橋が架けられてなかったころ、人々は川を渉って通行していたが、出水の時など溺死者もあった。永禄の頃(一五五八)、この川の出水のはげしいおりからを、幸順という沙門が渡渉しようとして急流のため溺死をしてしまった。と、このあたりに住む非常に貪欲な老婆が、その衣を剥ぎとってしまった。この老婆は、今までに溺死した多くの人々の衣装を剥ぎ、持ち物等を奪ったりしていたが幸順沙門の衣を剥ぎ取ってから急に大熱が出て狂い廻り、遂に死んでしまったが、それ以来毎夜のように精進川のほとりを魂がさまよい飛ぶを土地の人々が老婆の霊魂として哀れみ、罪障消滅のため姥堂を建立し、三途の川の奪衣婆のすがたを安置した。姥の座像は、たけ八尺一寸で、作は安阿弥と伝えられていた。(以下略)」
『羅生門』の世界のようですが、江戸時代の話です(庶民の暮らしはそれほど違わなかった、ということなのでしょうか)。
◯こちら===>>>
↑熱田区の史跡散策路のHPより。
「大正時代まで熱田区内には精進川が流れ、東海道には裁断橋が架けられていました。また、精進川を三途の川と見立て、橋のたもとには死者の衣服を奪い取る奪衣婆(だつえば)をまつる姥堂がありました。橋の名の由来には、死者を閻魔大王が裁断する場という説もあります。
1926年に川が埋め立てられ橋は撤去されましたが、1953年に近くの姥堂境内に縮小して復元されました。元の橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)は名古屋市の文化財に指定され、名古屋市博物館に所蔵されています。そして、この擬宝珠の一つには、私財を投じて橋の架け替えを行った堀尾金助の母が、亡き子をしのんで書いたとされる和文の銘が刻まれています。
1590年、18歳の堀尾金助は小田原の戦いに出発しましたが、病に倒れ帰らぬ人となりました。裁断橋まで出征を見送った母は、翌年、供養のために裁断橋を架け替えました。その後、33回忌にも再度架け替えを行い、擬宝珠に刻まれたわが子に対する母の想いが人々に語り継がれました。
なお、愛知県大口町に堀尾一族の屋敷があったことから、同町の五条川にも裁断橋と擬宝珠が復元され堀尾跡公園となっています。」
精進川を三途の川に見立てて「奪衣婆」を祀る、とはいえ江戸時代のことです。
「姥堂」の伝説の原型は、やっぱり「宇治の橋姫」系のもので、そもそもは橋の守り神として祀られていた女神が零落した、と考えても面白いのかもしれないです。
p58より、
「松姤社(おつんぼかみ)
日本武尊が東征の命をうけて、伊勢より尾張国に入り、氷上の里(現在の大高町)に、尾張国造乎止与命を訪う道すがら、たまたま、布曝女(当時は無名の地)を通った時、清流で布を晒していた美しき乙女に氷上への道を問うたが、乙女はつんぼをよそおうてこたえなかったという。この乙女こそは、氷上の乎止与命の娘、後に日本武尊の后となった宮簀媛であったと伝えられており、尊の死後、社地を布曝女(そぶくめ)と呼ばれ、その場所に小社を祀り、『おつんぼ神』を人々は、耳の神としてあがめたと伝えられていた。
林家居宅図を見れば摂社松姤社十握社が東北角へ入込んで居る。
摂社 松姤社—祭神は宮簀媛命であり居宅の跡即乎止与命の下館跡である。
同 十握社—同所にあり草薙の劔を奉持した場所として伝える。」
似たようなお話が「神武天皇」でもありましたね。
英雄流離譚的な神話では典型ということでしょうか。
というか、侵略者ですから、そりゃ警戒するでしょうね、という雅やかの欠片もないことなのかもしれないです。
◯こちら===>>>
「氷上姉子神社」 - べにーのGinger Booker Club
「内々神社」+「妙見寺」 - べにーのGinger Booker Club
「猿投神社」(妄) - べにーのGinger Booker Club
「猿投神社」(妄)その2 - べにーのGinger Booker Club
『景行天皇社』(再) - べにーのGinger Booker Club
「伊奈波神社」(妄) - べにーのGinger Booker Club
↑私の妄想では、
「双子の入れ替わりトリックで、「大碓命」は「小碓命」に殺されている」
「なので、「宮簀媛」は「小碓命」を殺したのではないか」
ということになっています(?)。
で、熱田周辺は、当時の尾張氏の勢力下だったとして、「日本武尊」との間に子供のない「宮簀媛」が、「日本武尊」の子孫たちを祀る理由はないわけで。
となると、尾張の力が減退し、中央で記紀神話が整っていった時期に、表向き恭順するために(あるいは、東国が壬申の乱で「天武天皇」に味方していることから、何らかの取引があったのかもしれないですが)、「日本武尊」の王子たちが「熱田神宮」の摂社末社に加えられていったのかもしれません。
消化不良の妄想でした……。