べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「松姤社」「鈴之御前社」「姥堂」「裁断橋」(名古屋市熱田区)

1/28。
熱田神宮」を出て、周辺をぐるぐる歩いてみよう、ということで、参道正面の道を南へ。

 

f:id:bennybebad:20170128101747j:plain

こちら、「蔵福寺の銅鐘」の案内板ですが、高くて読めない……。

ちなみに、「ひつまぶし」などのうなぎ料理で有名な、あそこの向かいあたりに立っています。

 

f:id:bennybebad:20170128102136j:plain

大きな通りに出たところで、東に折れてしばらく行きますと、見逃しそうなポイントに「松姤社」があります。

社標にはしっかり「熱田神宮摂社」とあります。

 

f:id:bennybebad:20170128102102j:plain

鳥居を潜って、行き止まりを左に向くと、社があります。

 

f:id:bennybebad:20170128102045j:plain

f:id:bennybebad:20170128102009j:plain

ちょっと高いところにあります。

 

f:id:bennybebad:20170128102039j:plain

その左手付近にあった祠。

案内板も何もないなぁ……。

 

f:id:bennybebad:20170128102939j:plain

f:id:bennybebad:20170128102948j:plain

「松姤社」の鳥居まで戻り、そのまま大通りを東南方面へ進んでいくと、住宅街の中に「鈴之御前社」があります。

 

f:id:bennybebad:20170128102718j:plain

こちら拝殿……というのか。

 

f:id:bennybebad:20170128102728j:plain

本殿。

 

f:id:bennybebad:20170128102824j:plain

f:id:bennybebad:20170128102809j:plain

うーんと……御神木かな……。

 

f:id:bennybebad:20170128102905j:plain

f:id:bennybebad:20170128102843j:plain

f:id:bennybebad:20170128102928j:plain

お猫様に遭遇。

こちらも、案内板などはありませんでした。

 

f:id:bennybebad:20170128103332j:plain

そこから遠くないところにあるのが、姥堂「裁断橋跡」です。

えらく近代化されているのでちょっと驚きました。

 

f:id:bennybebad:20170128103314j:plain

「裁断橋跡
宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。
天正十八年(一五九〇)に十八歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。三十三回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たせず亡くなり、養子が母の意思を継いで元和八年(一六二二)に完成させた。この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。
現在は裁断橋も縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。」

 

f:id:bennybebad:20170128103306j:plain

橋址の標。

断が旧字体

 

f:id:bennybebad:20170128103256j:plain

こちらは「都々逸発祥之地」の標。

その案内はないのか……。

 

f:id:bennybebad:20170128103224j:plain

おっと、「姥堂」の解説がありました。

 

「延文三年九月(一三五八)法順上人が亀井山圓福寺の巌阿上人に帰依して、この場所に創建したと伝える。本尊姥像は熱田神宮に在ったものを、ここに移したと伝えられ姥像の衣紋に熱田神宮の桐竹の紋が金で描かれてあった。旧東海道筋に在ったので古文書や古地図で存在は早くから知られており尾張名所図会にも登載されている。
昭和二十年三月の戦災で堂宇本尊ともに消失したが、姥像は高さ八尺の座像で、その大きさから奈良の大仏を婿にとると江戸時代俚謡に歌われたほどである。
尊容から奪衣婆と見る説もあるが、両手に童顔の御像を捧持していること、熱田神宮伝来などから日本武尊の母か宮簀媛命の像ではないかとも想定されている。昔から民間では安産や子育て・家内安全の仏として信仰され「おんばこさん」と呼ばれ親しまれてきた。現在の本尊は平成五年五月に焼失前の写真を元に四尺の大きさで復元した御像である。」

 

「裁断橋」のもありますね。

 

「文献では永正六年(一五〇九)「熱田講式」に名が見られるのが初見とされている。姥堂のすぐ東に精進川が流れていて、そこに架けられていたが大正十五年に川が埋立られ、橋の擬宝珠四基は残されて道路脇に保存されてきた。大正十五年出版の「橋と塔」浜田青陵により全国的に存在が知られ、母が子を思う擬宝珠の仮名書き銘文が多くの人々の感動を呼び有名になった。
昭和二十八年三月地元伝馬町の人々の尽力により姥堂地内に擬宝珠四基が移設保存され、後には小学校の教科書に堀尾金助の母の銘文が取り上げられもした。しかし、青銅の擬宝珠の腐食が進み損耗の恐れが甚だしくなったので平成四年三月に名古屋市当局がこの場所より撤収した。
圓福寺では、金助の母が「後の世のまた後まで」と願った思い、子を思う煩悩を昇華して万人の為に尽くす行為に替えた菩提心を後代に伝える為に、母の銘文の拓本を取り平成五年五月此処に架設した。」

 

……その肝心の銘文というのは、ひょっとして「裁断橋」を渡った先の扉の中でしょうか?

「圓福寺」というのは、「熱田神宮」近くにある寺院ですね……。

 

f:id:bennybebad:20170128103143j:plain

f:id:bennybebad:20170128103152j:plain

姥堂」に上がってみました。

普段は、寺院の中を撮影するのは遠慮するのですが、ここまで透けていればよかろうと思いまして。

とはいえ、ご本尊(?)の姿はよく見えませんが。

 

 

 

うむ、なんとなく中途半端な感じですが……本日はここまでで。