べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「七所社」(名古屋市中村区)

4/23。

 「油江天神社」の参拝を終えて、以前から行ってみたかったところへ。

「七所社」です。

 

○こちら===>>>

七所社ホームページ

 

「豊国神社」や「油江天神社」は地下鉄中村公園駅が近いのですが、こちらは岩塚駅から徒歩で20分ほど。

万場大橋のすぐたもと、ほぼ庄内川沿いにあります。

 

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「七所社・きねこさ祭

この社の創建は、保存されている神鏡に「元慶八年(八八四)御田天神」の銘があり、そのころと考えられている。「応永三十二年(一四二五)岩塚城主吉田守重社殿修造」の棟札も残されている。

尾張三代奇祭の一つとして五穀豊穣・厄除等を祈念し、毎年陰暦一月十七日に行われる。当日は、一本の笹竹を十二人の役者が持って庄内川に入り、笹竹の折れる方角でその年の吉凶を占う。市の無形民俗文化財に指定されている。」

 

尾張三代奇祭」ってなんだろう、と思い検索してみました。

 

○こちら===>>>

尾張三大奇祭 – JAなごや

 

↑「熱田神宮」の「歩射神事」、「国府宮」の「はだか祭」と並び称されるとは、かなりのものです(が、かつてこのあたりに住んでいたのに、私は全然知りませんでしたよ……)。

 

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指と蕃塀。

 

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狛犬さん(新しめ)。

 

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明治の奉納碑。

 

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「七所社

御祭神

日本武尊 天照大神 倉稲魂命 天之忍穂耳尊 高倉下命 宮簀姫命 乎止與命

由緒

尾張地名考に、「岩塚村に延喜式の愛智郡御田神社、本国帳の従三位御田天神とあるは七社明神をいうなり」とある。神社に祀られている神鏡に元慶八年(八八四年)の銘があるところから、このころには創建されていたと考えられる。古木繁る清浄な神域として、千年を超える悠久の歴史を持つ神社である。

現在の七所社に威容を整えたのは、旧岩塚城主であった、吉田社家の祖先吉田守重である。尾張誌に、「熱田七社を祀る故に社号を七社という。応永三二年(一四二五年)に、吉田治郎右衛門守重、社殿修造す」とある。

境内には、日本武尊の東征伝説にまつわる「日本武尊腰掛岩」があり、境内に残る三つの塚(円墳)とあわせ、この地「岩塚」の名の由来となっている。

尾張三大奇祭の一つ、きねこさ祭は、旧暦正月一七日に斎行され、特に厄除けに霊験があると伝えられる。」

 

うーん、『尾張地名考』や『尾張志』から引用されちゃうと、あとで引用するものがなくなってしまいます……。

ともかく、日本武尊ゆかりの地、と考えられており、

 

 

伝承地でたどるヤマトタケルの足跡 尾張・美濃・近江・伊勢

伝承地でたどるヤマトタケルの足跡 尾張・美濃・近江・伊勢

 

 

↑こちらの本にも掲載されています。

 

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祭事一覧。

 

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どどん、とアップで(全容を撮影し忘れた……わけではありません、撮影順にいきます)。

コンクリート造の社殿に黒い戸。

なかなか面白い風合いだと思います(社殿を新しくした、ということは荒廃し、さらには地元の崇敬が厚い、ということだと)。

しめ縄が立派ですね……そこに何かあるのかないのか。

 

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春祭りの案内。

 

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本殿向かって左の、末社

奥から「白山社」「熊野社」「石神社」。

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末社前から臨む、本殿と拝殿(手前)。

 

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末社の後方にある戦勝記念碑。

陸軍大将寺内正義の揮毫のようです。

すご……いのかな……。

この碑が建っている場所が、円墳ではないかと考えられています。

 

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社殿前から参道を。

東名阪自動車道です。

 

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百度石と撫で牛と。

天神様もあるんですね。

 

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牛。

 

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岩塚古墳」の碑。

読めるかな……。

 

「此ノ墳ハ岩塚郷開祖ノ墳塋ニシテ其ノ規模小ナレ共構造上平安初期ノ形式ヲ存シ濃尾平野ノ南部沖積層ニ於ケル唯一ノ古墳タリ

延喜式ニ御田神社トアルハ本町七所社ヲ言ヘルモノナレバ此ノ神域ニ斯カル墳墓ノ築カレタルハ故アルコトニシテ岩墓即チ岩塚ノ名称亦ココニ起因セリ」

 

よかったよかった読めました。

 

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本殿を向かって右から。

 

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神木「ナギの木」。

内側が朽ちて、中には竹が生えていたそうです。

豊臣秀吉」がこの竹を刀の目くぎに使ったとか、大正琴の創始者森田伍郎氏がこの竹で琴を作ったとか、逸話があるようです。

伊勢湾台風で倒れてしまったそうです。

 

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日本武尊」の腰掛岩。

 

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案内板……の向こうにちらっと覗く「二宮尊徳」像がちょっと怖い。

 

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こちらちゃんと「古塚」とされています。

 

奈良時代初期の古墳と伝えられている。埋葬者は不明であるが、当時この辺りを支配していた人物のものと考えられる。

七所社境内には、周囲に濠をめぐらせているものと、拝殿の西にあるものと、合わせて三つの古墳がある。中村区で現存する古墳はここだけであり、岩塚の地名の由来ともなっている。」

 

大きさはそれほどではありませんが、綺麗な円墳として残っているのが間近で見られるのはなかなか珍しいのではないかと。

子供の頃は、こんなこと習わなかったなぁ……あ、学区じゃないからか。

 

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そのまま東へ行くと……あれ、こちらはどちら様だったかな……。

 

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末社群その2。

向かって右から、「神明社」「天神社」「若宮社」。

 

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神馬の後ろに砲弾……忠魂碑ですね。

あれ、でも本物の砲弾だったりするかもです。

 

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「御田神社」。

延喜式』の式内社、に比定されています。

荒廃したのを、後世あらためてお祀りしたものと思われます。

 

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延喜式御田神社ハ愛知郡岩塚村ニアリ今ハ七社明神トイフ是ナリモトハ熱田ノ摂社ナリシカ戦國ノ後ハ鎮皇門内西ヨリ第四目ニ寳田ノ小社ヲ立テ祈年新嘗ヲ別々ニ執行セリ今俗ニ寳田ヲモテ御田ノ神社ナリと思フハ甚タ誤リナリ  尾張地名考」

 

うーん、全くあとで引用する必要がなくなっていく……『尾張地名考』というのは、『尾張神名帳集説本ノ訂考』の著者津田正生が書いたものです。

手元にはないのですが、国会図書館デジタルコレクションには入っています。

ここにあるように、元々は「熱田神宮」の摂社でしたが、どういう経緯でか、小さな社を「熱田神宮」内に立てています。

そこが本地じゃない、こっちだよ、と言いたいわけですね。

 

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東側の鳥居です。

 

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「御田神社 

延喜式内の御社なり

其旧址は當岩塚なり

今に其祭式存す正月

十七日の御田祭是なり

神代に尾張開拓の神を

天香語山命と申す

其神の御母天道日女命と申す

此命人々に衣食の道を教へ給ふ

稲を耕作するには先つ田神豊宇氣大神を祭り給ふ

其祭場のあと御田社是なり」

 

 これはまた。

天道日女命

については、

 

先代旧事本紀 現代語訳

先代旧事本紀 現代語訳

 

 

↑『先代旧事本紀』の「天孫本紀」より、

 

「天照国照彦天火明櫛玉饒速日の尊は、天上では天の道日女(みちひめ)の命を妃として、天の香語山の命(奈良県葛城の高尾張から、愛知県尾張地方に移り住んだ尾張氏の先祖)が生まれた。」(p239)

 

 とあり、その注に、

 

「天の道日女の命 『紀国造系図』では、饒速日の尊とともに天下った天の道根の命の父の姉(妹)とする。『海部氏勘注系図』では大己貴の娘とある。『播磨国風土記』では火明命は大汝命の子とある。義父の意か。京都府舞鶴市堂奥の山口坐祖母神社は、年老いて当地まで来て麻織物や養蚕を普及して没したという天の道日女の命を祭る。巻三注81に記したように、『海部氏系図』などにもとづいて饒速日の尊(天火明命)が丹後地方に下ったとすれば、妃の天の道日女の命の伝承がこの地にあるのは理解できる。熱田神宮の境外摂社の青衾神社に祭られる。高倉結御子神社・氷上姉子神社とともに式内社である。」(p279)

 

とあります。

「豊宇氣大神」は、「伊勢神宮」の「外宮」のご祭神ですが、稲作に関係あるからといって直結させるにはちょっと無理があるような気がします(とはいえ、伊勢と尾張は遠くもないですから、いずれかの時代に、田んぼの神様・食事の神様ということで導入された可能性はあります)。

ここでの「天道日女命」の伝承は、「京都府舞鶴市堂奥の山口坐祖母神社は、年老いて当地まで来て麻織物や養蚕を普及して没した」という、この伝承を参考にしているように思います。

 

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うーん、さすがに読めない……、

 

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と思いきや碑文が活字に〜(有難)。

 

岩塚は古は一栁荘に属せり 文和三年四月熱田太神宮御神領目録に愛智郡岩墓郷と見え又古き同太神宮御神領目録にいわすか村と見ゆ 氏神七所社は熱田七社を移し祀る 応永三十二年の棟札に岩塚郷本社を造立し奉る大施主藤氏守重社僧大権那沙弥心淨とあり其中祠は熱田神宮 東祠は八劔宮大幸田社 西祠は日割御子神高座結御子神社氷上姉子神社と坤方に上知我麻神社となり 社前になぎの太さ三抱なるあり朽ちたる洞中に竹繁茂す神木と為す 末社白山熊野三狐若宮八幡天神神明の六社は各社地ありて祠なかりしか 享保十九年祠を作り此境内に遷し祀る 而して此三狐は石神の字音の轉訛にて太古村落開拓せし時に必す石神を祭れりし其遺社なり 尾張地名考に今は熱田に在す延喜式神名帳に載する所の御田神社の舊地は岩塚七所社是なるへし 其祭のみ猶此に残る 毎年正月十七日御田祭を行ふと云へり 然らは天武天皇白鳳四年二月より国幣に預り給ひし社地なり 其御田祭種下の祭式祭文尤も古雅なり 祭文巻軸の終に応永三十二年と書けり 祠官吉田氏此日特に四位の袍を著るを聴さる並に寺社方奉行の臨監あり社僧は林高寺なり 維新後は皆止む 是祭今に行はれて遠近より参詣人群衆し祭具に觸れて災厄を禳はんことを禱る者多し 昔足利将軍の代に其支族吉田某は岩塚城を築きて世々此地を領し慶長年末に至る 城趾は遍慶寺なり 徳川将軍の代に逮ひて尾張藩徳川義直公は寛永二年佐屋路を開き 同十三年岩塚宿を置く 貞享元年問屋場を建て元禄七年二月上中下中稲葉地日比津の四村を定助郷とし夫役に便す 其後宿役繁多にして加助郷四十八村を増す 上半月は萬場宿當番とし下半月は岩塚宿當番なり 諸侯の往来と行李逓奠の人馬と常に宿中雑沓せり 明治五年正月共に廃せらる 同三十九年五月隣村と常磐村を編成し更に大正十年八月名古屋市中區岩塚町と稱す」

 

カタカナはひらがなに、また適宜空白を入れました。

いやぁ……岩塚の歴史から何からよくまとまっていて、何を付け加えたらいいものやら……。

熱心な方がいらっしゃったようです。

大体これを読めばわかります。

 

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堀を巡らせた円墳、というのはこれですね。

 

厳島神社(弁天様)

祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

元来、水の守護神であるが、本地垂迹説では弁財天に擬せられており、芸能、金運に御利益があるとされている。

社が祀られている濠中の小山は、「岩塚」の名の由来となった、境内に三つある塚の一つであり奈良時代初期の古墳であると伝えられている。」

 

島になっていたからちょうどよかろう、と弁天様にしてしまった、と。

もともと、大きな古墳には(なぜか)濠がついています。

いろいろと説はあるようですが、神話学的に解釈するなら、生死の境の象徴で、いわゆる「三途の川」みたいなものでしょうか。

一方、古墳の頂上に神社が祀られている例も多いと思います。

自然崇拝から祖先崇拝に移行していき、古墳が作られるようになり、やがて古墳で行われていた祭祀(祭ごとに仮屋を作っては壊していた)が常態化したものが神社の原型、という説もあります(この「仮屋」のために、ユダヤ教とのつながりがトンデモされます)。

今も神社の多くで、川が流れ、橋が架けられているのは、ここにルーツがあるのではないか……という話をどこかで読みました

結構いい線いっている仮説だと思います。

というわけで、古墳の上に「厳島神社」があっても不思議ではないし、「厳島神社(弁天様)」の基本は「島」になって祀られるというものなので、結構合理的な祀り方かもしれないな、と(ただ、古墳の主からしてみれば、全然関係ない神社を上に乗っけられても嬉しくはないでしょうね)。

 

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拝殿遠景。

ちゃんと撮ってましたよ。

 

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鳥居まで戻って遠景。

鯉のぼりの季節が近かったですねそういえば。

 

御朱印はいただけると思うのですが、どうしたんだったかな……お留守だったか。

なので、いただいておりません(泣)。

昔、近くに住んでいたので、いただいておきたかった……。

 

さて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑いつも通り『尾張名所図会』より引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

267コマです。

 

「七社明神社

岩塚村にあり。本社 日本武尊。 摂社 八剣宮・高座宮・大福田祠・日割祠・氷上祠・源太夫祠。 すべて熱田の七神を祀る故に七社明神と称す。
末社 若宮八幡祠・天神祠・大日祠・辯財天祠・三狐神(さごじ)祠・熊野祠・白山祠。
当社は、日本武尊五十葺(いぶき)山の荒神を退治せんと、熱田より彼山に至り給ふ道、此所にて暫く憩ひ給ひし旧地にして、其時御腰をかけ給ひし岩とて、本社の東のかたに半埋れて猶存す。又其側に大なる塚あり、当所岩塚の称是より起るといへり。
例祭 正月十七日にして田祭といふ。俗に種まき祭、又きねこさ祭ともいふ。甚古雅なる様なり。祭事にあづかるもの、七日以前より萬場川に水あび身を清め、当日申の刻に足揃をなし、神主の家にて饗応の式あり。夜に入り戌の刻神前に揃ひ、拝殿の前にて種おろしといふ祭事を行ふ。さて種おろし畢って各列をなし、拝殿の前を廻る事三度にして後本祭を行ふ。獅子・犬引・鷹匠・餅つき・弓・鉾・兒などの行装、古雅なる事図を見て知るべし。其種おろしの唱歌に云く、

 

明神のごくうでんの種おろしいたそうよ。ヲヲそれよござらう。村中の種おろしいたさよなう。それようござらう。やあらたのしやらたのし、野も山も打ひらいて、田につくろつて。もろとしゆのなかには、しらひげの種あり、せんごくも萬ごくもで。さぶらひしゆの中には、めつぼふはうあつていしの子のたねあり。千石も萬石もで。ぢようろ衆のなかには、十二ひとへのいしの子のたねあり、千石も萬石もで。せんてうまうすまんてうまうす。いひもちないさかもりない。いなづまこめかめわがまつかめ。おろろうにふくのたねまこよおろろう。てによくてによくてにてにつづいた。」

 

268コマには図絵がありますが、そこにはまだ健在だった「ナギの木」が雄々しく描かれています。

当時の図絵なので、寸法には怪しいものがありますが、インパクトは社殿よりも大きいものだったようです。

弁天様も、当時から古墳の上に祀られていたことがわかります。

また269コマには、「きねこさ祭」の様子も描かれています。

「獅子・犬引・鷹匠・餅つき・弓・鉾・兒などの行装、古雅なる事図を見て知るべし。」とありますが、『尾張名所図会』でも、祭が図絵に描かれていることはなかなかないので、「尾張三大奇祭」と言われるだけのものが、江戸の頃からあったようです。

祭の囃子(昔は祭文だったかもしれないです)も残されています(引用では、多少省略してあります)。

なかなか貴重です。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 5 愛知郡

 

一応『尾張志』からも。

22コマです。

 

「七社ノ社
岩塚村にあり 熱田七社神を祭る 社殿三宇相双へり 中央本社にて日本武尊右の社八剣高倉大福田左の社に日割氷上二神を相殿とす 源太夫神社は境内の未の方にあり 是を総て社号を七社とぞいふなる 応永三十二年に吉田治郎右衛門守重社殿を修造す 境内に縦横四間二尺はばりの塚ありて其處に縦四尺横三尺ばかりの岩立り 名を不生石といふとそ 是この村名の岩塚といへる本基也 又本社の西の方に社宮司社白山社熊野社東の方に大日社天神社若宮八幡社巳の方に辨才天社などの末社あり 此七社この村の氏神なり 社人吉田求馬と云」

 

散々引用してきた内容なのですが、「日本武尊」の「腰掛岩」のはずが、なぜか

 

「名を不生石といふ」

 

となっています。

かなり不吉な名前で、伊吹山に向かう「日本武尊」の命運を暗示しているかのようです……と書くと何か神秘的な感じですが、実際には「日本武尊」のいく末を知っている誰かが後出しでつけたものだと思うので、感心する必要はないです。

「腰掛岩」が「不生石」と呼ばれた、という文献が他にもあると、何か思いつくのかもしれないのですが……。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張国地名考

 

↑これも散々引用しています『尾張国地名考』から。

39コマ。

 

岩塚村(略)

【土民曰】宮のうしろに塚あり又岩もあり此故に岩塚といふと 【正生考】非なり岩も塚も近世の好事家の偽物なりいはつかとは殖付の転語なるべし 

延喜式】愛知の郡御田の神社 【本国帳】従三位御田天神 【正生考】岩塚村七社明神と呼宮地是なり

祭神一座 保食神(うけもちのかみ) 社家 吉田氏

但し応仁戦国の後社伝記録を失ひて近世は社家も村民も只熱田の七社明神とのみ思ひて 熱田七社といふ事旧俗説なり事は熱田村の條下を見合べし 祭神保食の御神なる事をさへしらずありぬ

【附記】今大宮鎮皇門内の寳田の社は此宮を後にあつたに祀たるなるべし毎年正月十七日の夜に御田祭あり 同日未刻に場ならしあり俗に種蒔祭ともいふ 其古雅なる神事なり 神役人は社家社僧 今は門徒宗の寺なり 並村の若者三日の間萬場川に出て身滌をして神役をつとむ 祭の時刻に及べばたねおろしといふ辞を読あぐ 其文句字音も交りて旧来俗語なる上に転言おほくて解かたき詞往々ありて書すにたらず されども其文章実意にして貴くおぼゆ 種おろしの辞は応永三十二年の文句なりときけば中古より伝はりし祝詞祭文は戦国より絶たるなるべし(略)」

 

……どうやら津田正生翁は、「岩があって、墓があるから『岩塚』なんだよ」という説には真っ向から異を唱えているようでございます。

 

「非なり岩も塚も近世の好事家の偽物なりいはつかとは殖付の転語なるべし 」

 

「殖付」は「うゑつけ」と読むようです(「植え付ける」ってことでしょうか)。

同じく津田翁の『尾張国神社考』(ブックショップ「マイタウン」)を見てみますと、

 

従三位御田天神 [正生考]一揚(ひとつやなぎ)荘岩塚村七社大明神といふ社是なるべし。社人吉田氏

謹案、そのかみは熱田の摂社にて祭神は保食神なるべし。応仁戦国の後社伝記録を失ひて、近世は社家も村民も只熱田の七社明神とのみおもひて 熱田七社といふ事もと俗説也附録にいふべし 祭神保食の御神なる事をさへしらずありぬ。

[附記]大宮鎮皇門内の寳田の社は、此宮を後に祀りたるにて、御田神社の遥拝所なるべし 此こと委く附録にいふべし 岩塚村の名義、其おこる所植付(うえつけ)の義なるを、爲和通加と轉語、遂に岩塚の文字をさへ塡たるなるべし。後世鎌倉の頃には仮名を誤る地名おほし。(略)この岩塚村に正月十七日の夜種おろしの神事あり。いと古雅なる祭にて是を種蒔祭とも、又杵古曾祭とも申也。祭文もあれば訛りて今つばらに解かたし。此神事といひ、村名といひ、旁御田神社なる事著名ものを也。」

 

ま、同じ人が同じことについて書いているので、ほぼ同じ内容です。

また、「附録」とされている部分は、

 

「○愛智郡御田神社辨解式内

(略)まづ地名の岩塚、其おこる所殖付(うゑつけ)の義なるを爲和通加と轉り(略)遂に岩塚の字をさへ塡たる也。かく村名を塡誤る事、後世鎌倉以後の俗習也。(略)又正月十七日種おろしの神事ある、其古雅なる事見る人はおのづからにしるべく、是又御田神社にまします徴也。種おろしの祭文は訛り唱へて解は施しがたしといへども、其質朴古雅なる事自然の真心にいでて、後世よりはあらそひかたし是又御田に縁ある一證なるをや、既に辨へたる如く御田神社の社号をうしなひて、七所明神と申しきたる事、誤りなから是則熱田の摂社なるしるしにぞある。(略)さて熱田鎮皇門内西より第四目に寳田の小社をたてて、祈念新嘗を別々に執行せり。是御田神社の遥拝所なりけるを、却てこれを御田神社なりとおもふは、甚じき誤にこそ。」

 

と書いています。

津田翁の説にはいろいろ弱点がありまして。

一番大きいのは、「七所社」境内の古墳が、奈良〜平安時代のものと想定されていることです(確定ではないようですが)。

ということは、「岩塚」という地名の起源(「塚」について)が、奈良〜平安時代に求められる可能性がある、ということです(ただ、どこまで遡れるのかは不明です)。

他にも、なぜ地名として「御田」が定着せずに、「植付」などという中途半端な動詞が定着したのか、とか。

いえ、かつて「御田神社」が「七所社」のあたりにあった、ということはいいとしましょう。

その「御田神社」が荒廃し、後に(応永年間でしょうか)吉田氏が再興させたときに、「熱田神宮」の諸社を勧請してきた(バックに「熱田神宮」がいたのかもしれないです)。

ついでに、そのときに、境内にあった岩を「日本武尊」の「腰掛岩」にしてしまった、ということは考えられます。

熱田神宮」によるプロパガンダですね(?)。

で、この時代に、「岩」と「塚」を合わせた地名が作り出されたのかもしれません。

そう考えると、そもそも「岩塚」という地名は新しいのだから、何も無理やり「植付」に語源を求める必要はないのです。

昔は「御田」と呼ばれていた、吉田氏が城を築いた頃から「岩塚」と呼ばれていた。

それだけの話ではないかと。

↑最初の方の案内にありましたが、

 

神社に祀られている神鏡に元慶八年(八八四年)の銘があるところから、このころには創建されていたと考えられる。」

 

実際には、伝承されている鏡の古さと神社の古さを比較することはできませんが、「延喜式神名帳」に「御田神社」がある以上、相当古い神社と考えていいと思います。

「きねこさ祭」については、再興された応永年間か、江戸時代から始まったお祭りじゃないでしょうか(それでも十分古いです)。

こちらも資料がないので何ともいえません(少なくとも、現在のような形の祭は、江戸時代にはあったと思われます)。

岩塚」の語源として、個人的に面白いなと思うのは、「三つ」の「円墳」なんだから、「三輪塚」で、それが訛って「岩塚」、と。

今回の妄想はこのくらいですね。

 

 

庄内川のほとりで、派手ではないですが、地元の人には忘れられることなく存在感を発揮している、鎮守、氏神としてのあるべき姿を見たような気がします。

 

 

 

 

あ、そういえば、近くに「御田中学校」ってあるんですよね(後付けだと思います)。