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神社仏閣ラブ(弛め)

「建中寺」(補)

さて。

文章だらけですので、お時間のあるかたはどうぞ。

まずは、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

なんとなくひさびさの『尾張名所図会』から。

139コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「徳興山建中寺 京町通の東にあり。浄土宗、無本寺。国君御代々の御菩提所なり。慶安四年 瑞龍院殿御父 源敬公の御菩提寺として御建立あらせられ、下総国結城の弘経寺の廓呑和尚を招請して開山となし給へり。同五年二月経営成就の後、廓呑上京し、六月二十二日参内して、住僧代々賜紫勅許の 綸旨を拝受して帰れり。境内広大にして、国君御代々及び 御簾中方・御連枝方の御廟・御霊屋をはじめ、堂宇甚多く、善美を盡させ給ひ、又御寄附の宝物すくなからずといへども、忌諱を犯し奉らん事を畏れてこれを略す

本尊 阿弥陀仏は鳥仏師の作、廓呑所持の霊仏なり。鳥仏師は聖徳太子同時の人なり。
経蔵にかくる転法輪蔵の額 智恩院尊超法親王の筆なり。
鐘楼の洪鐘 慶安四年五月七日林道春の銘にして、[羅山文集]にのせたり。惜しい哉天明五年正月二十三日に焼失せり。今の鐘の銘は細井徳民の作なり。文ここに略す。
塔頭七宇 惣門と楼門の間の両側に並びてあり。 正信院竹腰山城守正信建立。 宗心院成瀬隼人正正虎建立。 全順院寺尾土佐守直龍建立。 甲龍院志水甲斐守忠◼︎建立。 養寿院阿部河内守正興建立。 光寿院間宮大隅守正照建立。 誓安院渡邊右馬允守綱建立。 餘は図上にて知るべし。
境内に明人陳元贇の墓あり

展陳元贇墓   乾堂

虎林殊域客
流寓百餘年
絮酒酹今日
吟詩感断編」

 

尾張随一といってもいい仏閣のわりに淡白な記述だな……と思います。

 

「忌諱を犯し奉らん事を畏れてこれを略す」

 

↑これは宝物を羅列しないよ、と言っているのですが、徳川菩提寺で、江戸時代に書かれたものですので、こういった意識が働くのもうなずけるところです。

 

「本尊 阿弥陀仏は鳥仏師の作、廓呑所持の霊仏なり。鳥仏師は聖徳太子同時の人なり。」

 

↑「鳥仏師」はつまり、「鞍作止利」のことなのですが、さすがに誇張があるように思います。

 

「鐘楼の洪鐘 慶安四年五月七日林道春の銘」

 

↑鐘の銘が「林道春」による……って誰だろうと思ったら、「林羅山」のことでした(直後に『羅山文集』って出てますから気づきそうなものですけれど>鈍い)。

残念ながら焼けてしまいました。

塔頭と、それを建立した人々の名前が挙げられています。

 

○こちら===>>>

尾張藩 - Wikipedia

 

↑の「家臣団」の項目を見ていただくと、多くの名前が見つかると思います。

なかでも、「成瀬隼人正」は、このブログの他の記事でも登場しています(が、あんまり覚えていません)。

 

○こちら===>>>

「那古野神社」 - べにーのGinger Booker Club

「犬山神社」 - べにーのGinger Booker Club

「七尾天神社」(東区) - べにーのGinger Booker Club

「足助八幡宮」「足助神社」(豊田市) - べにーのGinger Booker Club

 

↑この辺りでちらっと出てきます(が、あんまり覚えていません)。

 

○こちら===>>>

竹腰正信 - Wikipedia

成瀬正虎 - Wikipedia

阿部正興 - Wikipedia

渡辺守綱 - Wikipedia

 

↑なかでも著名な人については、個々でウィキペディアの項目に上がっています。

成瀬家は犬山城主、竹腰家は美濃は今尾の領主で、ともに尾張藩付家老だった、らしいです。

この辺り、私に突っ込まれてもまったくお答えできませんので……スミマセン。

 

「境内に明人陳元贇の墓あり」

 

……そういえば、「陳元贇」の墓所がどこにあったのか……普段は見られないところなのでしょうか(檀家さんだけ、とか……徳川家菩提寺に檀家さんっているのかしら)。

漢詩を読んだ乾堂」というのは、

 

○こちら===>>>

小曽根乾堂 - Wikipedia

 

↑幕末の人らしいです。

幕末は、ちょっとだけ勉強したことがあるんですが(「坂本龍馬」中心に)、いやあ覚えていませんね……「淡海槐堂」くらいは記憶にあるのですが(梅の掛け軸を贈った人……でしたっけ……<記憶にない)。

文字部分より、137コマから4ページにわたる絵図をごらんください。

堂宇の配置は現在とほとんど変わりません。

総門の位置が動いているような気もしますが……そうでなければ、今は公園があるところに、塔頭が並んでいたことになります(ちょっと狭い気がします)。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『岡崎市史』もそうでしたが、自治体で編纂されているものはやはりありがたいものです(調べる面白みは減りますが、何しろ大変で……デジタルコレクションも、ネットで見られない資料があるものですから)。

383コマです。

 

「建中寺
建中寺は徳興山と號す、東区筒井一丁目の北側に在り、境内は三萬五百七十四坪九合五勺、徳川時代には東西二百六十間、南北二百十九間、四萬七千三百四坪ありて、除地なりき、別格徳川時代には無本寺、定紫衣の地十一等にして、京都知恩院の末寺なり、慶安四年、藩主光友、藩祖義直の爲めに経始し、五年二月、大殿、方丈、鐘楼、山門、書院、庫裏等を落慶す、巨構壮麗、実に当時府下寺院の第一と稱す、乃ち今の名を号し、龍高廓呑、同月晦日、請に応じて進院開堂す、同年五月七日、建中寺法式相応寺法式に同じ、但し文は小異ありを定められ、大鐘を鋳造し、三回忌の法事に千部経を修す、八月、廓呑参内して、代々紫衣◼︎許の綸旨を賜はる、承応二年二月、境内を拡ぐ、相原戸右衛門、清水久右衛門、竝に足軽屋敷を召上げられ、石川伊賀の下屋敷を門前屋敷となす、元禄十一年十二月、霊仙院藩主光友の生母也の霊屋を建て、十二年九月五日、泰心院(藩主綱誠)の御霊屋を落し、十四年三月二十八日瑞龍院光友の御霊屋上棟、五月十六日落慶、遷牌供養し、竝に御廟を造営す、以来藩主簾中及び連枝の霊屋、或は御廟を建つ、

(略)

都合四宇の御霊屋ありき、正徳三年九月、従来御仏殿御堂と唱へられしを御霊屋、御廟と唱へられしを御宝塔と改む、天明五年正月二十三日、火災に罹りて、本堂、塔頭及び霊屋等を焼失し、ただ四ノ霊屋、山門及び塔頭宗心院を残すのみ、尋いで藩命に依りて再造せらる、七年四月二十三日、再建落成し、翌日夜尊霊を相応寺より遷座す、五月大鐘を改鋳す、即ち十九世辨及喚阿(神蓮社到誉方遍光と號す、寛政五年五月十六日寂す)の代なり、仍りて辨及を以て中興と稱す、明治五年二月、三宇の御霊屋を廃毀して、一ノ御霊屋に合祀し、四十四年九月、普峯院、貞松院の二廟を政秀寺より遷し、大正三年八月、高原院の霊屋竝に御廟を萬松寺より遷す、徳川家より寄附の宝物は、明治維新の際、殆ど全く散逸して今に遺留せらるるもの稀なり、本尊は木造阿弥陀如来坐像恵心僧都の作と伝ふ、一に鳥仏師作と云ふなり(略)」

 

一部省略しました。

 

徳川時代には無本寺、定紫衣の地」

 

↑日本仏教にうといので説明しきれませんが、「無本寺」というのは江戸時代の「本末制度」(宗派ごとに、本寺と末寺を設定して管理させた)において、本寺(本山)がないお寺のことのようで、要するに特別扱いというやつでしょうか。

尾張名所図会』にも書かれていましたが、開山の「廓呑」上人が勅許により代々紫衣を賜ることを許されたようです(「勅許紫衣法度」や「禁中並公家諸法度」のあとの話ですが、徳川家菩提寺ですから別格でしょうね)。

尾張徳川家菩提寺として、藩主やその室・兄弟の御霊屋などが整備されていったのですが、

 

「明治五年二月、三宇の御霊屋を廃毀して、一ノ御霊屋に合祀し、四十四年九月、普峯院、貞松院の二廟を政秀寺より遷し、大正三年八月、高原院の霊屋竝に御廟を萬松寺より遷す」

 

廃仏毀釈の結果、この有様です。

ちなみに、「高原院の霊屋・御廟」については、

 

○こちら===>>>

「名古屋東照宮」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑こちらの社殿となっていて、ばっちり拝見することができます。

元は権現造のきらびやかなものだったのではないかと思いますが、今は渋く佇んでおられます。

 

「本尊は木造阿弥陀如来坐像恵心僧都の作と伝ふ、一に鳥仏師作と云ふなり」

 

おっと、「鞍作止利」だけでなく、「源信(恵心僧都)」も持ち出してきましたか……まあ、『往生要集』を著されたかたですし、徳川家との関係でいえばそちらのほうがすんなりと理解できます。

 

……あ、特に妄想もなく終わってしまいました。

いや、勉強不足なもので……尾張三河の歴史くらいはね……と思うのですが、あちこちの神社に行きたいものでなかなか……すみません……。