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「那古野神社」の参拝を終え、御朱印をいただくと、神職さんから、「お隣にもお参りしてみてください」とのご案内。
お隣はそう、「名古屋東照宮」です。
◯こちら===>>>
銅を貼ったものと思われる鳥居が渋いです。
「東照宮
当社に奉斎する家康公は尾張徳川家中興の祖にして名古屋の地を開き城を築きて第九子義直公(尾張藩祖)を以て始めて居城せしめられ名古屋開府の祖神にして恩神でもあります。
家康公逝去後三年即ち元和五年(1619)九月十七日に義直公は日光山鎮座の式に準じて城郭内三の丸に社殿を創建し天台宗尊寿院並びに神主吉見氏を以て奉斎せられ社領一千石を附せられたが廃藩と共に廃せらる。
明治五年五月村社に列せられ同年八月八日県社に昇格同九年十月旧藩立校明倫道跡地即ち現在地に遷座される。建物は創建以来の権現造の本殿、渡殿、楼門、唐門、透垣、楽所、社務所等極彩色の国宝の諸建造物が並び輪郭の美を極めていたが戦災を被り烏有に帰す。
現在の本殿は昭和二十八年十月尾張徳川家より藩祖義直公の正室高原院殿(春姫)の霊廟(慶安四年(1651)建立)を移築し、社殿とする。昭和三十五年六月愛知県重文に指定さる。(後略)」
どうも神社っぽくない社殿だな、と思っていたんです。
東照宮っぽくもない。
霊廟でしたか。
「万松寺内にあったもの」を「建中寺」に遷し、「東照宮」の社殿となったわけです。
「万松寺」も「建中寺」も、名古屋では大きな寺院です(「万松寺」の方は……なんか、ビルになっちゃいましたが……)。
境内摂社として「福神社」がありました。
つまり、「恵比寿」「大黒」ですな。
天海僧正の彫刻した「大黒像」がある、らしいです。
「腰に両刀を差し、両手に玉を抱えた」姿で、「邪を斬り悪魔を払い玉の如く円満ある大慈悲心」の表現だそうです。
ま、元々が「超強力な悪魔」みたいなもんですから。
「神輿殿」、でしょうか。
透垣の外に燈籠も並んでおります。
うん……雰囲気がやはり、神社という感じではないなぁと。
『尾張名所図会 絵解き散歩』という本の、
「東照宮の祭礼」というページには、延々と続く祭りの行列と、それを見物する町人の姿が描かれています。
近くの町からは山車が曳かれたそうです。
「本町」「宮町」「上長者町」「桑名町」「伝馬町」「中市場町」、「和泉町」、「七間町」、「京町」で、それぞれ「猩猩車」、「唐子車」、「二福神車」、「湯取車」、「林和靖車」、「石橋車」、「雷電車」、「橋弁慶車」、「小鍛冶車」、だそうです。
さて、「東照宮」といえば、徳川家康を「東照大権現」として祀った神社のことで、「日光東照宮」を初め、全国にあります。
東京だと、東京タワーの近くにありますね。
愛知県の鳳来山にもあります。
それぞれが、徳川家康(徳川家)に由来したところ、のはずです。
こちらの「名古屋東照宮」ですが、前回の「那古野神社」と並んで建立され、後に明倫堂跡地に移転した、とされています。
◯こちら===>>>
http://network2010.org/article/8
↑こちらのページ、真ん中辺りの地図で、移転前の「名古屋東照宮」、「那古野神社(天王社)」、「明倫堂」の位置関係がわかります。
また、前回出てきた「成瀬隼人正(守?)」の居宅の場所も分かったりします(お宮正面ですね)。
知っての通り、明治以前と以後では、神社仏閣のありようには大きな変化がありますので、江戸時代の「◯◯名所図会」なんかは、その前の時代を知る上で、貴重な資料だと思います。
西洋的な写実性はないですが、それはそれで面白いといいますか。
葵の御紋。
「えびすだいこく」。
ちなみに、鳥居の向かいは、
「東照ビル」でした。
天気も良く、日もそれなりに高いので、もうちょっと歩いてみようと思います。