3/11。
三つの数字が並ぶと、何か特別なものに見えるのは、スロットマシンのせいでしょうか。
日本人が忘れることのないだろう日。
中村区で所用を済ませてから、ふと思い立って、名古屋の中心地に出かけてみました。
「那古野神社」。
◯こちら===>>>
中区、という名古屋の中心にあり、地名としては丸の内。
目の前には名古屋城の堀があります。
「丸の内」という地名は、「城のある場所(丸)」の敷地を意味しています。
お近くに「丸の内」があれば、いつの時代にか、城があったことの痕跡です(多分)。
「那古野神社
延喜十一年(911)の創建といわれ、素戔嗚尊を祭神とする。もとは天王社又は亀尾天王社ともいい、城内三の丸にあった。慶長十五年(1610)名古屋城築城の際、徳川家康が御神籤でもって神意を伺ったところ、遷座不可と出たため、そのまま城内に留まり城の鎮護、名古屋の氏神として祀られた。明治九年(1876)現在地に移され、明治三十二年那古野神社と改称された。
かつて六月十五・十六(現在は七月十五・十六日)の例大祭に車楽(だんじり)が曳きだされ、また近隣からも山車が集まって、夏の城下町名古屋を鮮やかに彩った。」
名古屋城で三の丸といえば、徳川宗春が蟄居を命ぜられたところとして有名です(そうか?)。
往時、三の丸にあったころは、宗春もお社を臨んで、様々に祈ったのでしょうか(どうも、蟄居を命ぜられたとはいえ、豪奢に生活できたんじゃないか、と言われているようですが)。
現在地に移されたのは、名古屋鎮台(旧帝国陸軍の編成単位で最大のもの)を創設するためだったそうです。
「御祭神
延喜十一年勅に據り尾張国那古野庄に創祀 天文元年三月兵火に罹り同八年織田信秀再興す 文禄四年八月三日豊臣秀吉朱印社領三百四十八石餘寄進す 名古屋城築城に及び郭内三の丸に鎮座天王社と稱す 元和六年九月朔日徳川義直改めて高三百四十八石餘寄進黒印地となし社殿修造直営の例を開き例祭に幣帛を献る 万治二年徳川光友更に祭車領五十石献り典礼を盛にす 明治維新の際社領上地し氏子の経営となり須佐之男神社と号す 明治五年郷社に例せられ同九年十一月七日県社に昇格す 名古屋鎮台設置に当り現在地に移転鎮座 明治三十二年七月八日那古野神社と改稱 同四十年十月二十六日神饌幣帛料供進神社に指定せらる」
「朱印地」は幕府、「黒印地」は大名によって確認された社領のことを言うようです。
秀吉が将軍になったことはないので、意味合いとしては「最高権力者のお墨付き」というところでしょうか。
神厩舎でしょうか。
「金山神社」。
「南宮神社」から御迎えしております。
◯こちら===>>>
「福寿稲荷社」。
これは亀石のようです。
「亀尾天王社」の由来、でしょうか。
なんとなく。
他の境内社。
それぞれ、手作りの由緒書がおかれていますが、野ざらしなので残念な感じになっていたりします。
「白山社」、「青麻社」、「彌五郎社」のものはいただいてきました。
「白山社」は言わずと知れた「白山比羊神社」。
「青麻(あおそ)社」は東北の岩切山にある神社で、「青麻神社」「岩戸三光宮」とも言うそうです。
祭神は「天御中主神」、「天照大神」、「伊豆岐能(いずぎの/常陸坊海尊)」。
文政三年(1820)、尾張侯の命で、成瀬隼人守、横井伊折が神札をいただいて、天王社にお祀りしたそうです。
全く存じませんでしたが、俄然興味は出てきました……が、仙台ですか……。
「彌五郎社」は、「津島神社」にあります。
◯こちら===>>>
津島神社(前編) - べにーのGinger Booker Club
オフィス街にあり、決して広いといえない境内ながら、独特の空気感があります。
……面白くない記事だな……。
「那古野」という地名については、
◯こちら===>>>
名古屋の地名「那古野」の由来について知りたい。 | レファレンス協同データベース
↑で解説されています。
そもそも日本の言葉というのは、話し言葉に大陸の文字を無理矢理当てはめた(万葉がな)に始まるので、同じような地名でも、様々な文字が当てられました。
「名護屋」も「名古屋」も「那古野」も、「なごや」と呼ばれていたのは間違いないようです(※現在「那古野」と書いて、「なごの」と読む町名があります)。
「なごやか」だったんですかねぇ……(当たり前ですが、古い地名ほど「訓読み」です……大陸の流行が入ってくると、そうでもないでしょうが)。
昔、
『なごやかホルモン』、
という番組がありましたな……。
池田貴族氏……。
知らないうちに、「中区史跡散策路」に乗っかっていたようです。
◯こちらの「碁盤割コース」===>>>
では、これに乗っかってしばらく行ってみましょう〜。