べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「石山寺」(補)

さて。

 

 

現地で↑な本を購入しまして、かなり詳細に書かれているので、是非ともこちらを読んでいただければ、と思います。

また、滋賀県立近代美術館で開催された『石山寺縁起絵巻の全貌』の図録も現地では発売されていたので、それも買ってみたりしました。

 

(以下、赤字での引用は『石山寺の信仰と歴史』より)

 

伝承としての縁起は、奈良時代聖武天皇発願の東大寺大仏造営にさいし、鍍金のために膨大な量の黄金が必要」となったので、良弁僧正が金峯山に籠って黄金が見つかるよう祈願したそうです。

すると、「蔵王権現」が出現し、「「近江の国の瀬田に山がある。この山は霊地であるから、ここで祈願すれば、必ず黄金を得ることができる」」と告げたそうです。

で、良弁僧正が近江国に行ってみると、老翁にめぐりあい、これが比良明神の化身だった、そして「石山の地こそが霊地であることを知った良弁は、巨岩の上に天皇より賜った如意輪観音像を安置して草庵を結び、連日祈祷を行った」ところ、陸奥国から黄金が発見されたそうです。

この「如意輪観音」像を「聖武天皇」に返そうとしたのですが、「仏は石の上を離れず、そこでこの地の荊棘を切り払い、整地をして仏閣を建てることになったが、そのときに土中から五尺の宝鐸、すなわち銅鐸が出現した、と縁起にみえる」と。

前回の記事で紹介しましたが、「石山寺」の門前では貝塚が発見されていますので、昔から人が住み、また貝塚をある種の「供養の場」だと考える学説もあると聞きますので、聖地だったのかもしれません。

地図を見てもらえればわかるとおり、「石山寺」は瀬田川のほとりといってもよい位置関係です。

水際は生活の拠点になりやすく、人が集まれば聖地ができます。湖はそれほど水面の変化がないと思うので、その周囲に集落や聖地が集まるのも、当たり前といえば当たり前です。

石山寺」の名称の由来となっているのは、「標高二三九メートルの伽藍山」の露出した珪灰石です。

昔からランドマークになっていたりしたのではないか、と妄想が捗ります。

山号は「石光山」ですから、ひょっとして陽光を反射していたのか……妄想妄想。

瀬田、という土地は記紀にも登場する交通の要衝ですし、銅鐸が見つかったということは古墳時代も聖地だった可能性が高く……ただ、奈良時代くらいまでは忘れられていたのでしょうか。

それで、どうして「金峯山」で「蔵王権現」だったんでしょうね……山岳信仰の一大聖地ではあるわけですが……伝承が成立した頃の「金峯山」の影響力を考えなければいけないのでしょうが……それから「比良山系」って琵琶湖の西岸辺りのことですが、「石山寺」付近はギリギリって感じですよね……地主神といえばそうでしょうが……しかも、黄金が見つかったのは陸奥国ですから、「石山寺」全然関係ない……縁起に箔をつけたい、という意識が働くのは当然なので、大仰な物語もいいと思うのですが、何というのか、地に足がついていない……あるいは、当時としては当たり前でも現代の我々には読み取れない何かのメッセージがあるのでしょうか……。

まあ、山岳信仰の担い手は、鉱脈の在処を熟知していた、と言われたりしますので、金属の関係する伝承に登場したら、裏には鉱脈(鉄や丹=水銀)を巡る物語がある、と考えてしまうのは、高田崇史好きにとって当たり前です(?)。

ポイントは、仏教の仏や神ではなく、「蔵王権現」や「比良明神」という地主神が登場するところでしょうか。

本地垂迹の浸透がまだまだな時代、地元の秘密は地主神(に象徴される集団)が握っていたわけで、山岳信仰のネットワークがつながっていたとすると、陸奥国で黄金が出たのもそうした山の人々のおかげだった、と……妄想できますね。

奈良時代における石山寺の造営については、正倉院文書のなかに関係文書が遺って」おり、それによれば、天平末年、創建当時の石山寺は、長さ五丈、広さ二丈、高さ一丈一尺の檜皮葺きの仏堂一宇、板葺の板倉一宇、板屋九宇のみであった」のが、天平宝宇三(759)年に、石山寺の西北に淳仁天皇により保良宮の造営が開始されると、それまでは仏堂と板倉、板屋数棟のみであった石山寺は、保良宮を護持する寺として拡張改築されることになった」そうです。

この「護持」というのは、もちろん霊的な意味での「護持」なのだと思うので、地主神の力が仏教的なものに転換された(まあ、大抵は強引にですが)とすると、その辺りを縁起に盛り込んでおかないと、祟られますから……大きな仏教寺院が創建されるとき、伝承には地主神が出てくることが多いのですよね……比叡山とか高野山とか……ひょっとするとそんな理由ではないか、と妄想してみます。

(以上、赤字での引用は『石山寺の信仰と歴史』より)

 

◯こちら===>>>

寒川辰清 編 ほか『近江輿地志略 : 校定頭註』,西濃印刷出版部,1915. 国立国会図書館デジタルコレクション

近江輿地志略 : 校定頭註 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-11-23)

 

滋賀県といったら、『近江輿地志略』です(?)。

266コマから、「石山寺」の記事が載っています(結構なボリュームです)ので、ご参考に。

そのp444に、「三十八所明神社」のことが、「所謂三十八所明神は般若十六善神、薬師十二神将、法華十羅刹女なりといふ。」と書かれていましたので、メモしておきます(?)。

 

紫式部」と『源氏物語』のこととか、中世以降の歴史とか、さっぱり触れていませんが、大寺院はボリュームが多すぎて……この辺りにしておきます(そもそも、古代史好きなのです)。

さて、近江から名古屋への帰り道にちょっと寄ったところがありますので、次はそちらの記事を〜。

「石山寺」(滋賀県大津市)

5/3。

黄金週間、自由に動ける日がこの日しかなかったので、石山寺へ行ってみました。

 

◯こちら===>>>

www.ishiyamadera.or.jp

 

滋賀県も行きたいところは多いんですよね……。

 

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名古屋から車で、高速を使えば2時間かからないくらい、でしたか。

貝塚があったようですね。


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……広っ。

黄金週間ということもあって、参拝者は多かったように思います。


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「日本遺産」……琵琶湖とその水辺景観ですか……近淡海ですからね……それにしても、遠淡海が諏訪湖じゃなくて浜名湖だったのはなんでなんでしょうね……諏訪湖、そんなに大きくなかったのかな(そういう理由ではないと思います)。


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東大門。


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一応、建久元年(1190)建造らしいですが、「慶長年間(1596〜1615)に新築に等しい大規模な修理改造」がなされたようです。

それにしたって、400年ですから……。


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仁王門でした。


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かつては、門には「多聞天」が安置されていたようなので、仁王門ではなく、二天門だったようです。


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垂木と格子の連続性……構造の美……しかし、千社札は、今となっては残念な風習ですね……嫌いではないんですがね……。


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仁王様アップ。


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案内板……が鏡面仕上げで読みづらい……。


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東大門を入って、大黒天の御堂。

弘法大師」作と伝わる「拳印大黒天(右手親指内にして握る)」が安置されています。

案内板によれば、万寿元年に湖水に出現したようなので、もともと「石山寺」に安置されていたのかどうかがよくわかりません。

善光寺」や「浅草寺」の伝承を見るに、大事な仏像は川や海に浮かんでくるものですので(決めつけてはいけない)、それに倣ったのかな。


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「比良明神影向石

東大寺の僧良弁僧正(689〜773)は、聖武天皇東大寺の大仏建立に必要な黄金の調達を命じられ、金峯山に籠って金剛蔵王の夢告を受け、この石山の地を訪れました。すると岩の上で老人が釣りをしており、お告げの場所がまさにこの地であった事を良弁僧正に告げました。この老人こそが近江の地主である比良明神で、比良明神が座っていた石は「比良明神影向石」として今もなお大切に守られています。」

 

……黄金が出たのか……。


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「龍蔵権現社」……だと思われます。


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石段のぼる……。


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「龍蔵権現社」だと思われます……あれ、さっきもあったな……ちょっと遠くから撮影してみました、だと思います。


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多宝塔。

あそこまで行きます(多分)。


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「神木」。

天平時代、創建の頃から在る杉の木、とのこと。


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「西国三十三ヶ所霊場」。

まとまってます。


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鬼瓦。


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毘沙門堂」。

ご本尊は「兜跋毘沙門天」です。


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蓮如堂」。

本堂の隣の建物です。

「三十八所権現」の拝殿として作られたようです。


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……これはどこだったかな……。


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岩山の下から多宝塔を拝する。

だから「石山寺」なんでしょうかね(まだわかっていない)。


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本堂は国宝です。

内部はもちろん撮影できませんよ。


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「源氏の間」というのがありまして、「紫式部」か参籠して、『源氏物語』の着想を得たという……え、そうだったんですか(無知)。

国文学科じゃなかったもので……なるほど、人気があるのもわかります。


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本堂と青葉をいくつか。


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本堂から多宝塔に向かっていく途中に、「三十八所権現」があります。

鳥居は潜れません(昔は潜れたのだと思いますが……)。


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先ほどの蓮如堂が「三十八所権現社」の拝殿だった、というのは、位置関係(上下)からだと思われます。

今のように石段が整備されていたわけではないと思いますので、登るのも一苦労……だったのではないかと。


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こちら「三十八所権現社」。


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本堂を下に。


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経蔵……の肝心の写真がない、という。


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安産祈願の腰掛石。


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紫式部」の供養塔、だそうです。

うむ、今一つ地味……隣の芭蕉の句碑も、地味……。


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登ってきました。

左下の建物は「毘沙門堂」です。

 


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国宝の多宝塔。


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めかくし石、なるものがありました。


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うむ、わりと細身ですね……多宝塔って、もうちょっとどっしりというか、1階部分、円形のところがもっと大きいイメージでした。


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ちょっと登って、やや上からの多宝塔。


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一気に飛びましたが、「光堂」です(どのくらい飛んだかは、最初の方の案内板か、公式HPの境内案内を参照)。

平成20年に寄進されたそうなので、非常に新しいのですが、現代の技術で懸造を再現したというのは純粋にすごいと思います。


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鎌倉時代には、実際にあったそうです「光堂」。

現在の本尊は「阿弥陀如来」で、他にも仏像が安置されており、近くで拝見できますし、解説の映像を見たり、お話を聞いたりもできる空間でした。


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紫式部」さんです。


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青紅葉。


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「八大龍王社」。

龍穴の上に建てられているようです。

池の中の島にあって、この様子だと、「弁天様」じゃないかと思うのですが……あ、いいのか龍神だから。


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「西国観音霊場」。

まとめられていました。


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補陀落浄土、ということですね(観音様なので)。


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いやまあ、とにかく天気が良くて……。


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天智天皇の石切り場」。

こちらで採石された石が、奈良の「川原寺中金堂」の礎石に使われていることがわかったそうです。

なるほど、だから「石山寺」なのか(まだまだわかっていない)。

 


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あ、これが切り出し途中と思われる石です。


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「天狗杉」なるものもありました。


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……あれ、位置的に、最初の方に出てきた「龍蔵権現」かな……。


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水車。


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「若宮」。

平成14年の建立。

大友皇子」を崇る……急にどうした……と思ったら、元々はここに葬られていて、寺僧が密かに供養していたと……。

 


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色々見ながら、ぐるっと回って東大門のほうに戻ってきました。

「大湯屋」は、お風呂場なのですが、今も残っているのは珍しいようです。


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「大黒天」の庭に、「大黒」様がいらっしゃいました。


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門前で、何か食べないと、と思って、揚げ団子を食べました。

美味しかった。


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御朱印

 

ほぼ若葉の写真でしたな……大きな寺院ですので、様々なところで紹介されていると思います。

 

引用などは次回に〜。

「三囲神社」(補)

さて。

 

◯こちら===>>>

 

大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第2輯第6編 江戸名所図会 第4巻,大日本名所図会刊行会,大正9-11. 国立国会図書館デジタルコレクション

大日本名所図会 第2輯第6編 江戸名所図会 第4巻 江戸名所図会. 第1-4巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-10-28)

 

↑『江戸名所図会』を見ておくことにしましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

p349です。

「三囲稲荷社 小梅村田の中にあり。故に田中稲荷とも云ふ。別当天台宗延命寺と號す。神像は弘法大師の作にして、同大師の勧請なりといへり。文和年間三井寺の源慶僧都再興す。慶長の頃迄は、今の地より南の方にありしを、後此地に移せり。当社の内陣に、英一蝶の画ける牛若丸と弁慶が半身の図を掛けたり。

五元集

牛島みめぐりの神前にて、雨乞するものにかはりて

 

夕立や 田をみめぐりの神ならば 宝晋齋其角

 

あくる日雨ふる。

 

社僧云く、元禄六年の夏大に旱魃す。しかるに同じ六月の二十八日、村民あつまりて神前にむかひ、請雨の祈願す。其日其角も当社に参詣せしに、伴ひし人の中に白雲といへるありて、其角に請雨の発句をすべきよしすすめkれば、農民にかはりて一句を連ねて、当社の神前にたてまつりしに、感応やありけん、その日膏雨たちまちに注ぎけるとなり。其草は今も当社に伝へてあり。」

 

現地の解説板とちょっと異なっていますが、まあ概ね同じ内容かと。

弘法大師」が祀ったかどうかはさておき(日本全国に登場しますからね、あのお方も)、その後に「三井寺」の僧侶がどうして再興したのかがよくわかりません。

現地の解説板によれば、そのときに白狐にまたがる老翁の像が発見され、狐がどこからともなくやってきて3回回ったので「三囲稲荷」と呼ばれるようになったそうですが……あ、絵図の方には、自在に狐を呼べたらしい嫗のことがちらっと書かれています……実際には何があったのか。

三井寺」、「三囲」、「三井」……いろいろと妄想はできそうです。

 

え〜、参拝を終えた後、土砂降りでした。

宝井其角許すまじ(そうではない)。

「三囲神社」(東京都墨田区)

4/29。

牛嶋神社」の参拝を終えて、ぶらぶらしながら、やってきました「三囲神社」

 

◯こちら===>>>

www.mitsuipr.com

 

三井広報委員会ってすごいな……。

 

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参道入口。

堂々たる社標……鳥居より大きいのは珍しいのではないでしょうか。


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「三囲神社(三囲稲荷社)

三井家(越後屋)が江戸進出時に三囲の名にあやかって守護神としました。港区にあった三井八郎右衛門邸が小金井市江戸東京たてもの園に移築される際には、屋敷神だった顕名霊社、三角鳥居、家紋の入った水鉢などが寄贈されました。

鬼平犯科帳にも数回、登場しますが、特別長編「迷路」の「妙法寺の九十郎」には、三囲稲荷社は、大川の堤の道を一段下った鳥居から田圃の中を松並木の参道が東に伸びた先にあり、境内は広くはないが、美しい木立と竹林に囲まれ、本社は立派なものであると、当時のたたずまいが描かれています。」

 

鬼平情景」……

 

www.city.sumida.lg.jp

 

……なかなかなものが整備されていますな(うらやましい)。

「火付盗賊改」……をもじって、「過剰盗賊改」という役職が出てくるSF漫画が昔ありましたね(誰が知っているのか……)。

 


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鳥居。


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「由緒

(略)

一 村社 三圍神社

一 御祭神 宇迦能魂命

(略)

当社の草創は実に一千余年前の事にして其間婁々の変遷あり 元亀年間火災に罹り社殿を再建し慶長年間には隅田川築堤に際し旧社地より約南二丁の現地に移さる

霊験妙なるが中にも元禄六年六月の大旱魃の時俳聖晋其角献句雨乞によりて霊験立ちどころに顕れ翌日大雨あり之より御神徳天下に普く特に京都の巨商三井家江戸に進出するや三囲大神の信仰厚く当家の守護神と仰ぎ享保元年三井高治三井高久三井高房相議りて神祇の司職吉田家に神位を乞請け捧げ奉り又享保十二年五月には従二位卜部朝臣兼敬に請ひて更に霊璽を当社に遷し鎮め奉り田地を捧げ社地を拡張し神殿瑞垣を改築せり

爾来二百余年子孫代々祖先の志を継ぎ敬神以て今日に至る迄昔の随々に当社の維持経営に努め又三囲講を創設して祭祀に力を致す

境内末社多く中にも大国神恵比寿神隅田川七福神の一として其名高く額殿に奉掲せる額は三井家に関係のもの大部を占め又樹間に黙綴せる諸名家の碑石は其の数多く興趣掬すべし」

 

※ちょっと旧字を改めました。


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なぜか欄間の彫刻を先に撮影。


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拝殿。


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本殿を横から。

流造に瓦屋根。

 


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扇塚かな……。


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おキツネさん。

 


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別角度。


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「老翁老嫗の石像」。

それより下の張り紙が……確かに、雰囲気がいいので、そういう(そういう)撮影に使われそうでした……。

 


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像。

白狐祠を守っていた老夫婦で、どうやら狐を自由に呼べたようです。

 


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こちら「白狐祠」でした。


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もともとお稲荷様だからか、集められたのか。

多いですね、お稲荷様。


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こちらもお稲荷様かな。


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屋根に飛び狛がいるかと思いきや、飛び狐……かな。


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ええと、はいそうですね、前年は京都の三ツ鳥居を見に行きましたので、東京の三ツ鳥居も見に行こう、という勢いでやってきたのでした。

まあ、原型はあちらのようですが。

 

◯こちら===>>>

「木嶋坐天照御魂神社」(京都市右京区)〜急に日帰り京都旅 - べにーのGinger Booker Club

 

 


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なんか、不思議な庭園っぽい空間……。


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こちら「顕名霊社」。

先祖を祀っている……ううむ、霊舎に先祖を祀る例はもちろんあると思うのですが、仏式でないのは珍しいのか……建てたのは明治になってからなので、復古神道の流れか……。

 


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……どちらだったか……。


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あれ、「月読尊」だった。


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狛犬さん。

シンプルかつ意匠的。


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隅田川七福神の「大黒恵比寿」様。

 


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境内をぐるりと巡って、拝殿正面に戻りました。


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コンコンさん。


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ライオン像。

なるほど、三越のライオンの起源か……。


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ライオンの前の石灯籠は「三囲稲荷大明神」。


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コンコンさん。


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宝井其角の雨乞いの逸話。

古来、聖人の条件は雨乞いができるかどうかにあった、といっても過言ではない……いや過言ではありますが、旱魃時に雨乞いが叶うと、圧倒的な支持が得られることでしょう。


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句碑。


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狛犬さん。

いろいろアップで撮影してみたら、なかなかの趣。

 


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「最古の紀年碑」だそうです。

「藤堂高睦」は、

 

◯こちら===>>>

kotobank.jp

 

↑だそうです。

 


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正面遠景。

向背の部分が銅葺のようです。

 


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「三囲神社

弘法大師が祀ったという田中稲荷が始まりとされる。当時は、現在地より北の田んぼの中にあった。文和年間(1352〜56)に近江の三井寺の僧である源慶が社を改築した折、土中から白狐にまたがる老翁の像を発見。その像の周りをどこからともなく現れた白狐が、三度回って消えたという縁起から「三囲」の名がつけられた。

三井家は江戸進出時に、その名にあやかって守護神とし、平成21(2009)年に旧三越池袋店からシンボルだった青銅製のライオン像が境内に移設された。

日照りが続いていた元禄6(1693)年、俳人宝井其角能因法師小野小町の故事に倣い、「ゆたか」を頭字に詠み込んだ「ゆふだちや 田を見めぐりの 神ならば」の句を献じたところ、翌日には雨が降り評判になったという話が伝わっている。」

 

ふむ……「右遶三匝(うにょうさんそう)」から来ているっぽいですね。


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参道遠景。


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御朱印

 

引用はまた次回〜。

「牛嶋神社」(補)

さて。

 

◯こちら===>>>

 

大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第2輯第6編 江戸名所図会 第4巻,大日本名所図会刊行会,大正9-11. 国立国会図書館デジタルコレクション

大日本名所図会 第2輯第6編 江戸名所図会 第4巻 江戸名所図会. 第1-4巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-10-03)

 

今回は『江戸名所図会』だけにしておきます(文献はたくさんありそうですので)。

p357です(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

「牛御前王子権現社

同所北の方にあり。別当最勝寺と号す。牛島の総鎮守にして、祭禮は隔年九月十三日、北本所石原新町の旅所へ神幸ありて、同十五日に帰輿す。祭神素盞嗚尊(牛御前と称す)、清和天皇第七皇子(王子権現と称す)共に二座なり。相伝ふ、清和天皇の御宇貞観二年庚辰秋九月、慈覚大師東国弘法の頃、素盞嗚尊位冠の老翁と化現し、此地に跡を垂れ、永く国家を守護せんと告げ給ふ。仍て大師一社に奉じ、上足の良本阿闍梨を留めて是を守らしむ。当社の本地仏大日如来の像は、良本師彫刻と云ふ。又五十七代陽成院の御宇、清和帝第七の皇子東国に遷されさせたまひ、天慶元年丁酉九月十五日、此地に於て薨じ給ふ。依て開山良本阿闍梨ここに葬り奉り、牛御前の相殿に合祭なし奉るといへり。其後霊告ありて云く、素盞嗚尊第二の御子にて、仮に清和帝の皇子と生を替へさせ給ふと云々。

或人云ふ、当社を牛御前と称しまゐらするは、この地いにしへ牛島の出崎にてありしゆゑ、牛島の出先といふべきを略して、牛御崎と唱へたりしならんを、後世誤りて崎を前に書きあらため、またそれを御前と転称せしにやと云へり。

 

按ずるに、摂州輪田御崎・筑前鐘御崎、其餘相州の三崎・大江戸の月岬等、すべて海に臨める地なり。今当社の辺を須崎村と名くるも、むかし海辺の出洲にして、其頃は文字も洲崎に作りたりしとおぼしく、いにしへ此あたり蒼海に濱し、やや年を歴て陸地となりし事は、次の寺島蓮華寺の條下につまびらかなり。其條下をあはせ考ふる時は、牛の御崎とする説も據あるに似たり。しかる時は、御崎の仮名の美を御とし、崎の文字を前に書あらため、再びサキの訓を音に転じて、ゼムとは呼びしならん。されど神号に御前と称するもの、又人のうへにも用ひたりし事、往々其例あり。ことごとく擧ぐるにいとまあらず。故にこれを略す。」

 

ふう……。

かつては「牛御前社」と呼ばれていた、その語源を探るという試み……こういう解釈とかは今に限らず、人間は昔から大好きなのですよね……なにしろ『日本書紀』とか『古事記』の時代ですら、それより前の言い回しやら何やらが既に語源不明になっていたりするので、1000年以上経っていてはそりゃわかるはずもない、けれども解釈したい……そして解釈がいくつも生まれ……今になって混沌としていたりするのです。

妄想の余地があるとも言えますが。

このあとには、千葉家に関するもの等奉納されている社宝が紹介されておりまして、

 

「当社は往古鎌倉右府将軍源頼朝卿崇敬厚く、養和元年辛丑宮社を経営あり。ここに於て千葉介常胤、其頃当国の主たるにより、許多の田園を寄附し奉り、尊信尤も厚かりしとなり。然るに永禄に至り、北條氏直老臣大道寺景秀に命じ、先規の例に任せ、神領寄附あり。則社前の水田是なり。」

 

……千葉家の本はちょっと読んでいたのですが、途中でほっぽり出したな……また読まなければ……。

さて、牛と「素盞嗚尊」が結びつくのは「牛頭天王」以外にはないと思いますので、「牛御前」は「牛頭天王」なのだと思われます。

そこまで古くもなく、また新しくもなく、という感じでしょうか。

牛頭天王」関係の本も何冊か読んでいるのですが、最近思い出していないんで……。

 

◯こちら===>>>

bennybebad.hatenablog.com

 

↑こんな感じの記事も、昔は書いておりました。

しかし、「牛御前社」ではあっても、「天王社」ではない、というのは、やはり地名としての「牛島」が先にあったからなのかな、と思われます。

関東は「氷川神社」がありますから、出雲系というか、「素盞嗚尊」を祀る神社がないわけではない……「天王社」は「祇園」系の「牛頭天王社」……その辺りの勢力と集合しなかったのも、そういう理由ではないかと。

鎮守の神の勢力、侮るなかれ、と。

で、今となっては「牛島」がなぜ「牛島」なのか、まで探っていくのはなかなか難しいのでしょう。

 

 

 

まあ、いつも通り適当に書いておりますので、あまり信用はしないでくださいね。

 

 

というわけでお次は、「牛嶋神社」に来たからには行くしかないでしょ、のアソコに参拝いたします。

 

 

「牛嶋神社」(東京都墨田区)

4/29。

日比谷にある野音で、とある催しがあったので(※2022年のことです)、いそいそと出かけていきまして、その前にと立ち寄ったのが、牛嶋神社です。

 

◯こちら===>>>

www.tokyo-jinjacho.or.jp

 

↑東京都神社庁のHPより。

公式はインスタグラムがあるようです。

 


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いやあ、怪しい天気だ。

スカイツリーもこうして見ると、ちょっと切ない感じがします(?)。


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鳥居と扁額。


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境内の形が結構不思議。


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北条時宗」の偉功を讃える碑文、のようです。

蒙古襲来に関してっぽいです……。


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……力石っぽいものも集められている感じでしょうか。


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烏亭焉馬による狂歌の碑、のようです。

案内板が小さくて読めない……狂歌については全く知らないもので……川柳も……江戸のことも勉強しないと。


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鳥居からの拝殿。

すでに濡れている……拝殿のすぐ前に三輪鳥居があるのが印象的です。


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権現造かな……かなりしっかり造られていますね。

彫刻も蝦虹梁も良い。


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天水桶。

紋がはっきりしないけれど、葵っぽい……。


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びっくりな顔の狛犬さん。


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狛牛さん……だったかな。


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立派な獅子山がありました。


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……子獅子との距離が結構近いな。


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ダンディ狛犬さん。


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ちょっと暗くなってしまった……緑青が美しいです。


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「牛島神社について

牛島神社は、もと本所区向島須崎町に鎮座していたが、関東大震災後昭和のはじめ、水戸徳川邸跡の現位置に再建された。

当社の縁起書によると貞観二年(八六〇年)御神託によって須佐之男命を郷土守護神として創祀し、のちに天之穂日命をまつり、ついで清和天皇の皇子貞辰親王をお祀りし「王子権現」と称した。

また天文七年(一五三八年)後奈良院より「牛御前社」との勅号を賜ったと言われ、隅田川に沿う旧本所一帯の土地を、むかし「牛島」と呼んだところから、その鎮守として明治初年から「牛島神社」と称するようになった。例祭日九月十五日は、貞観のむかしはじめて祭祀を行なった日とされている。

治承四年(一一八〇年)源頼朝が大軍をひきいて当地におもむき、豪雨による洪水に悩まされた時、武将千葉介平常胤が祈願し、全軍無事を得たところから、頼朝はその神徳を尊信して社殿を建立し、多くの神領を寄進した。

江戸時代には鬼門守護の社として将軍家の崇敬厚く、特に三代将軍家光は、祭礼神輿渡御の旅所としての土地を寄進した。現在の本所二丁目のお仮宮がこれである。

総桧権現造り東都屈指の大社殿を誇る牛島神社は、昭和三十二年鎮座千百年祭を執行、氏子五十余町牛島講の守護神として崇敬尊信をあつめている。」

 

ちょっと旧字を改めた箇所があります。

島か嶋か、ちょっとはっきりしないですね……昔は島か。


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ダンディ狛犬さん。


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獅子山。


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天水桶。


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ううむ、彫刻がやはり素敵……。


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狛牛さん。


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とぼけた顔して狛犬さん。


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蝦虹梁の連続性から、新緑。


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「小梅稲荷神社」。


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脇の鳥居。


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牛嶋神社

貞観2(860)年に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀したと伝えられる本所の総鎮守。関東大震災で消失する前は墨堤常夜燈の東側にあった。昭和7(1932)年に隅田堤の拡張により、現在の場所に再建された。

本殿の左右に、神牛が奉納されている他、建長3(1251)年には牛鬼が社中を走り回り、落として行った牛玉を神宝としたという伝承も残る。また境内には、江戸中期から後期の国学者・加藤千蔭の碑や江戸落語を中興したといわれる立川(烏亭)焉馬(1743〜1822)の「いそかすは 濡まし物と 夕立の あとよりはるる 堪忍の虹」の句碑などがある。

5年に1度の例大祭は、牛が引く鳳輦を中心に古式床しい祭列が、向島から両国に広がる氏子の町内を2日かけて巡り、本所2丁目の若宮公園内にある御旅所で1泊する。返礼の町神輿の宮入れは50基が連なる都内最大の連合渡御となる。」

 

……「牛玉」ってなんですかね……「牛鬼」ってそんなの持っている妖怪でしたっけ……。


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撫牛さん。


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拝殿と三輪鳥居。


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びっくり系狛犬さん。


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溶岩っぽいな……富士塚の跡かな……。


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さて、×の字がありますが、切支丹灯籠でしょうか……ハートっぽいマークの方が気になります。


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菊の御紋……「後奈良上皇」から勅号賜っているからか……。


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境内から出てみました。


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曇っているせいか、緑青が美しい。


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社標。

東郷平八郎の揮毫……あれ、やっぱり「牛島神社」か……。

 

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御朱印

何か滲んでいるのは、この後、大雨の中で日比谷野音にいたからです……。

 

引用等は次回に〜。

「福島天満宮」(大阪府福島区)

4/10。

よんどころない事情で大阪に出かけまして、目的地の近くにあったのでお参りしてきました「福島天満宮

 

◯こちら===>>>

baifuugakuen.wixsite.com

 

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わりとこじんまりとした境内に収まる拝殿。


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狛犬さん。


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境内社は、(奥から)「事平神社」「安廣神社」「野見宿禰神社」「住吉神社」「勇神社」。


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拝殿遠景。


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「吉高稲荷神社」、かな。


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(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)

 

「福島天満宮社記

御祭神 菅原道真

相殿 大国主大神 事代主大神 中之社大神

(略)

畧由緒

菅公筑紫へ御左遷の砌風待の遺跡にして、公配所に薨去の後自から描き残されし御影を延喜七年◼︎霜月十五日斎き祀り翌八年◼︎正月十三日相殿の神を勧請すと、即ち当社の起源と伝ふ

御社殿・建物

明治四十二年七月北区大火に類火炎上して一木をも残さず、大正十年再築、昭和四十一年都市計画による道路拡張に伴ひ御社殿移築改装境内全境改修の大工事を起し、四十二年四月竣工して現姿となる。」

 

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正面。

 

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横の入り口。


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……裏?(記憶が……)。

 

御朱印はいただいておりません。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯第5編摂津名所図会,大日本名所図会刊行会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション

大日本名所図会 第1輯第5編摂津名所図会 摂津名所図会. 上,下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-09-06)

 

↑『摂津名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

p345です。

 

「福島天神祠 上福島・中福島・下福島三所にあり。何れも菅神を祭る。毎歳六月二十五日天満祭の時、神輿供奉の船此所より出づるなり。往昔鉾流の神事の遺風なりとぞ。此地に勧請のはじめは、菅公つくしへさすらへ給ふ御時、此島に船がかりましまし、里人に所の名を尋ね給へば、餓鬼島なりと申上ぐる。是不祥の名なり。改めて福島と名乗らば、後世繁昌すべしとの仰によりて、福島といふ。異名を葭原島ともいふ。」

 

……何がすごいって、元々が「餓鬼島」だったというところですね。

ホラー漫画始まりそう……その由来が気になります(船が島に引っかかったということは、浅瀬でよく船が座礁でもしたのか……それと「餓鬼」とのつながりがどうも……)。

 

◯こちら===>>>

大阪府誌』第5編,大阪府,明36.4. 国立国会図書館デジタルコレクション

大阪府誌 第5編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-09-06)

 

↑『大阪府誌』も見てみましょう。

88コマです。

 

「福島天神社

福嶋天神社とは上ノ天神、中ノ天神、下ノ天神の総称にして、共に福嶋に在りて菅原道真を祀れるを以つて此の名あり。上ノ天神は上福嶋二丁目に在りて相殿に少彦名命及び大国主命を祀り、氏子三千五百餘戸を有し五百二十六坪の境内に六座の末社を駢ね、伝へて道真出船の旧跡にして延喜七年の創建なりとし三社中最壮観なり。中ノ天神は上福嶋三丁目字樋ノ下に在りて道真を相殿に少彦名命を祀り、境内二百十五坪末社三座ありて氏子六百四十戸を有し前社と同年の創建なりといふ。又、下ノ天神は下福嶋二丁目に在りて祭神創建共に中ノ天神と同じく、氏子は八百餘戸あり。」

 

公式HPには、もう少し詳しく縁起が書かれています。

「餓鬼島」も「鹿飢島」だったようで……それはそれで由来が気になる……。

「下ノ天神」は健在のようですが、「中ノ天神」はこちら「上ノ天神」に合祀されているようで(「下ノ天神」も行きたいところです……)。

それにしても、「少彦名命」と「菅原道真」公って、何かつながりがありましたっけ。

あまりピンとこない……のは私の浅学故なのですが……何かあるのかも……。