11/3。
休日だったので、思い切って京都に出かけることにしました。
年に一回は京都に行きたい、というか「萬福寺」に行きたいのです……時間が……お金も……というわけで、急に思い立った京都旅、午前8時には嵐山に到着したのですが、紅葉には目もくれず、「車折神社」へ。
○こちら===>>>
社標。
嵐山の駅から歩いて行ったら、正面には出なかったもので。
なので、多分裏の鳥居です。
狛犬さん。
「東郷神社」で見たような感じの造形……新しめ、でしょうか。
裏の鳥居。
いやあ、日差しが若い。
「車折神社
高倉天皇に仕えた学者清原頼業(文治五年(一一八九歿)を祀る。
むかしある貴人が牛車に乗ってこの社前を通ろうとした時、たちまち牛が倒れ車が折れたので車折神社とよばれるようになったといわれている。昔から商人がこの神社の小石を持ち帰り家に納め満願の際この石数を倍にして神社に帰し商取引の違約のないよう祈る慣しがある。毎年五月第三日曜日に新緑の大堰川で行われる当社の三船祭には龍頭鷁首の船や詩歌管絃など多くの供奉の舟が川を上下して優雅な平安京の昔を偲ばせる。」
おっと、実在の人物が御祭神だったとは……無知もいいところだ……。
「地主神社」。
御祭神は……氏神様でしょうが……ううむ。
「滄海神社」。
池はありませんが、橋がかかっているっぽくなっています。
「弁天様」、「市杵島姫命」は島にいらっしゃいます(理由は色々……)。
本殿を横から……だったかな?
「清めの社」。
役割としては「祓戸大神」でしょうか。
石、というのが珍しいでしょうか。
「神田神社」。
朝だというのに、ちょっとぼんやり暗いのが素敵でした。
「天満天神社」。
「天神様」っぽいですが、ちょっと違うっぽいです(っぽいって)。
狛犬さん。
拝殿脇にいらっしゃる狛犬さん。
扁額。
本殿裏手には「八百万神社」。
……ちょっと、社殿の配置が謎ですけども……本殿の裏手にある境内社……単に土地の大きさの関係なのか……ううむ……。
拝殿の狛犬さん。
あれ、さっきもいらっしゃったか……?……な狛犬さん。
神社の案内にもあった風習が、「祈念神石」という名前で続いているようです。
今は、石は授与されているのですね(勝手に神域の石を持ち帰ってはいけません)。
拝殿を正面から。
紅葉が見事でした(写真は加工してあります)。
えっと……あれ、蕃塀ですか?
ん〜……昔からこうだったのかどうか、がわからないのでなんとも言えませんが……所謂「蕃塀」ではない気がします。
とはいえ、拝殿前に立っているのは事実……どんな意図なのか(意図なんかないのか)。
鳥居から拝殿。
公式HPによれば、鳥居から拝殿までは直進できず、参道は封鎖されていて、正面から御祭神に近づかないように(敬意を欠くから)だそうですが。
……それって御霊……。
「葵忠社」。
「忠魂社」のことでしょうか……。
「祖霊社」。
流石に字が小さい……断念。
順番が前後していますが、有名な「芸能神社」の奉納玉垣の数々です。
「芸能神社」。
御祭神は当然のように「天鈿女命」。
昭和になって創建されている、まだ新しい神社……なのですが、どうでしょう、折りからの映画ブーム、京都の撮影所の賑わいなどがムーブメントになったのではないか、と思っています(違ったらすみません)。
まあ、一番度肝を抜かれたのは、ジェラール・ドバルデュー氏も奉納していたことですが……。
「辰巳稲荷神社」。
おキツネさまが独特で可愛らしかったです。
こちらも「祖霊舎」……あら、字が珍しい。
小唄の碑……なのですが、さっぱり読めず……「小唄片側町」かな……。
「清少納言社」。
御祭神「清原頼業」公の同族ながら、生没年・墓所などがはっきりしていないので、こちらでお祀りしている、ということです(案内板より)。
……なかなかの剛腕で持ってきた、という感じがします。
こちら、入口近くの「愛宕社」です。
素直に火除けの神、と考えればいいのか、愛宕山が近いといえば近い(嵯峨野から望もうと思えば望め……たと思います……)からの勧請なのか……。
ううむ。
「水神社」は、素直に龍神様です。
「罔象女神」の方ですね(「龗神」にしたって、龍神と考えられますけれども)。
正面入り口から。
三条通まで出てきました。
「車折神社
(略)
社伝によれば、後嵯峨天皇が、牛車に乗ってこの社前を通ろうとした時、突然牛が動かなくなり、車の轅(引棒)が折れたことから、車折神社と呼ばれるようになったと言われている。昔から学問の向上、商売繁昌、売掛金回収に御利益があるといわれ、社務所で授与された小石に祈願を込め、家に持ち帰り、願いが成就したらお礼の石を一個添えて神前に返納するという慣しがある。
境内には、芸能道の祖神といわれる天宇受売命を祀った「芸能神社」があり、古来、芸能上達を祈願する人に厚い崇敬を受けている。また、当社の宮司でもあった富岡鉄斎の「筆塚」がある。
毎年五月の第三日曜日に行われる「三船祭」では、新緑の嵐山大堰川に、御座船をはじめ、龍頭船、鷁首船、扇流し船などの多くの船を浮かべて、平安時代の優雅な風情を再現する。三船の名称は、白河天皇が、漢詩・和歌・奏楽に長けたものを三隻の船に分乗させたことによる。(略)」
……「芸能神社」は古来からなのか……それとも「天鈿女命」が古来から芸事の方の崇敬を受けていたという意味なのか……ううむ……芸事、富岡鉄斎が宮司を務めていたこととも関係があるのでしょうか……ううむ。
御朱印。
さて。
○こちら===>>>
大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯第1編都名所図会,大日本名所図会刊行会,大正7-8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959904 (参照 2023-01-14)
https://dl.ndl.go.jp/pid/959904
↑『都名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
p378です。
「車折社 は下嵯峨材木町にあり。五道冥官降臨の地なりとぞ。一説には清原真人頼業の霊廟といふ。昔此所を車に乗りて行くものあり。忽牛倒れ車を折岸とぞ。今は遠近の商家、売買の価の約を違変な気やう、此社に祈り、小石をとりかへり、家にをさめ、満願の時件の石に倍して此所に返す。五道冥官焔魔王宮の庁に出でて善悪を糺し、金札、鉄札を見て違変な気を当社の風儀とするか。」
……ん?
ううん……。
○こちら===>>>
宗形金風 著『論攻山城志』,郊外社,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1230890 (参照 2023-01-14)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1230890
↑こんな本があったので見てみようかと。
p288です。
「車折神社
車折神社は下嵯峨小字朝日にあり、祭神は清原頼業公で、明治六年村社に列せられて居る。社号の起因に就てはは各種の説があり「京羽二重織留」巻四に
車前石、下嵯峨にあり、傳云、亀山帝嵐山へ行幸の時、清原真人頼業の社の前にて御車止まり、牛も地に伏して行かず、供奉の人怪み、始めて此社此所にある事を知リヌ、主上すなはち御車より下させ給犬と、是より此石を車石と号せり云々
即ち路上の石塊が行幸を阻んだに因む社号であれば、車前(クルマサキ)であるべきに、事実「車折:であり「クルマサキ」と訓されて居る。元来「折」は「オリ」であり「サキ」ではない。古事記神代巻に「為鬘天之眞拆」(アメノマサキヲカヅラトナシ)とあつて「サキ」の場合は「拆」と書くべきである。字書に「拆」は音「セキ」にて裂也ーーとあり、訓して「サキ」と読んでゐる。「折」は音「セツ」にて断也ーーとあるから「サキ」と読マシムルなれば「折」は誤字となる。されば社号は誤伝「折」の借字をなし「サキ」と読ましめたもので当然改められねばならぬものだ。」
いきなりの社号への疑義から始まっているのでちょっと引きますな……ただ、おっしゃる通りとも思えます。
何か意図があるのか……。
続いて、
「神社はもと天龍寺の塔頭宝寿院の境内にあつたもので、同院は祀神清原氏なる舟橋家の寺で、社伝には祠殿の地上に小さき石塔ありとあるから、祭神頼業公の墳墓上に祠を建てたものであり、神仏分離、社僧復飾の明治維新以前は宝寿院が当社の別当として社務を預り来つたものである。日次紀事四月十四日の條にも
清原真人頼業忌、嵯峨宝寿院修之
とあり、清原系図にも
良賢真人、応永四出家、法名常宗、贈従三位、当道初例内昇殿大外記博士、当院内北半町許有小社、祭清原頼業朝臣霊也。
とあり、宝寿院は一族歴代の菩提所となつて墳墓が置かれた訳だ。」
以降は、「清原頼業」公について書かれています。
○こちら===>>>
「清原頼業 きよはらのよりなり (1122−1189)
平安後期の漢学者。14歳で学に志して家業を継ぎ、少外記(げき)、大外記、穀倉院別当などに任ぜられ正五位上に上る。大外記の労は24年に及び、和漢にわたる学識と実務の手腕は当代無比といわれた。早くから藤原頼長(よりなが)に認められて『春秋左氏伝』を講義し、晩年は藤原兼実(かねざね)の眷顧(けんこ)を被って政治の諮問にあずかり、その子供に講書を依頼された。また、明経(みょうぎょう)道の復興に力があり、死後車折(くるまさき)明神として祀(まつ)られたが、その学識は『礼記(らいき)』から『中庸(ちゅうよう)』を独立させたのは頼業であるという誤伝を生んだほどである。[大曽根章介]」
という方のようです。
神社、そして御祭神としては若い方ですね。
こういう共通認識があるのに、どうして江戸時代末期の『都名所図会』には、「五道冥官降臨の地」とか書かれちゃったのでしょうか……。
神社の方にはその痕跡も残っておらず……近くに「十王堂」とかありましたかね……「宝寿院」にあったのか……。
「小野篁」のように、現世と冥府を行ったり来たりできた、といった逸話が「清原頼業」公にあればまた別ですが。
契約を成就させるための、石を持ち帰るといった風習は、確かに「閻魔王」の方が相応しいように思います。
ふむ、モヤモヤする……『都名所図会』が何か勘違いしていたということにしておきましょうか……(いいのかそれで)。
また機会があったら調べてみましょう。
というわけで、半日で歩き回った京都日帰り旅の始まり始まり〜。