9/23。
そろそろ周回遅れを何とかしたいところですが、なんともなりません。
今回は、「熊野社」へ。
○こちら===>>>
ぼちぼち紅葉が、という頃だった気がします。
摂社の入口……だったかな。
こちら、参道の入口だったはず。
摂社は、「秋葉神社」「熱田神宮」「山の子神社」「中山神社」。
狛犬さん。
緑区と天白区の境辺りにありまして、地形的にここから平針の運転免許試験場の方へ上っているのです。
だから階段が結構きついです。
もうちょっと。
到着。
そして、修繕中……。
扁額。
コンクリート造でしょうか……いずれ神社の建築様式として、正式に採用されるのかなコンクリート造。
狛犬さん。
囲いの中に。
由緒が書かれていました。
「創祀は延喜式内社と思われる
日本史に蒙古襲来の頃に編纂された古文書「鳴海旧記」に鳴海奥山廻間(神の倉)に熊野権現の宮有り云々 祭礼に船にて川を奉詣の折り童児神楽を舞いその折り扇を川に落とし候云々 由縁を以って扇川の名基成り
伊福利部連命 イフクリベムラジのミコト」
式内社と思われる……ううむ、あったかな……。
狛犬さん。
本殿も修繕中っぽかったです(1年半前、終わっているかな……)。
「龗神社」……あ、さっきの狛犬さんはこちらでした。
ふぅ……思えば、「日光東照宮」も、岡崎の「六所神社」も、修繕中だった……巡り合わせが悪いこともあります。
手水鉢の龍。
ちょっと渋かったので。
帰り際、階段を下ろうとしたら、偶然目の前に落ち葉が。
蜘蛛の糸か、蓑虫の糸に引っかかっているんですけど、まさに落ちてきた瞬間を捉えた感じになったので。
連続体好きにはなかなかな景色です。
緑区だから、というわけではないですが、緑が多いです。
社標と入口。
御朱印は不明です。
さて。
冒頭で紹介した、名古屋市のHP「鳴海東部周辺の見どころ一覧1」によりますと、
「神ノ倉の神は熊野社を指し、地名の由来はこの神社のある山が神の鎮まる座、御神座の山を呼んだことによる。古名の字名に伊副ケ根(いふがね)祝ケ根(いわいがね)とあるが、もともとイブクマノ神社の名で呼ばれていた伝承による。祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊福利都連命(いふくりべむらじのみこと)で熊野三社に源がある。この地一帯は江戸時代に尾張藩の御林だった山で明治になり官林から民間に払い下げられ最近まで雑木林だった。近年開発され神社の社殿や参道が整備されて昔の面影は無くなったが、3.7万平方メートルの特別緑地保全地区で桜並木は素晴らしい。参道入口に正観音堂があり、「右あすけ道」「左くまの権現道」の道しるべがある。」
となっており、神社としては式内社を主張されているようなので。
○こちら===>>>教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
(参照 2023-01-06)
↑『特選神名牒』から引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
p265です。
「伊副神社(イフキノジンジャ)
(略)
今按昔円融帝の朝郡司藤原元命と云暴悪の吏丈六の地蔵大士を彫せしめ伊副神社の傍に安置すと云事或書にみえ如意寺由来記に元命伊副宮司に命じて祭りせしを是より毎年正月十五日御寶前に於て流鏑馬を行ふ其後星霜を経て社跡なく廃し終に祭祀断絶せり中興地蔵尊の寶前に於て毎年の正月二十四日漁父驛士の輩集ひて的を射蛤をささげて放生会を執行すとあるを張州府志に是は伊副神社の本地仏なる故に其祭禮の遺意を修むと云る如く応永2年寺を遷すとき神社も遷てありしを此後社は絶て祭のみ遺れるなるべし其他同郡祐福寺村また春日井郡宇福寺村又愛知郡沓掛村上高根村伊副狭間の若王子と云ひ又相原村のいふかねにます熊野社などいささかの縁語を以ていへる説あれど皆うけがたし」
などとありまして、祐福寺や宇福寺、「相原村のいふかね」が「伊副」に通じるからといってこの神社のことだというのはどうも違うのではないか、との説が述べられています。
というわけで、「熊野社」は「伊副神社」ではないのではないか、と。
○こちら===>>>
↑なんか前にも調べたことがあるなぁ「藤原元命」さんは……コトバンクにある『朝日日本歴史人物事典』には、『尾州鳴海地蔵縁起』にも言及があり、これが「丈六地蔵尊」のことだと思われます(縁起なので、多分に事実とは異なるようですが、そんな話が伝わるほどに影響力があったのかな、と)。
○こちら===>>>
大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯第8編尾張名所図会,大日本名所図会刊行会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/959911
(参照 2023-01-06)
『尾張名所図会』には、山崎村の「熊野権現社」の記事がありまして(p567)、
「熊野権現社 同村にあり。創建の年紀詳ならず。伝へ云ふ、当社は城主信盛の城中にありし守護神なりしよし。寛永年中より追々修理を加へし時の棟札ありて、頗る古社なり。(略)」
とありますが……ううむ、他にいい感じの「熊野社」を見つけられなかったので、違う「熊野社」かもしれません。
「信盛」は「佐久間信盛」のことですね(織田家臣団中「逃げの佐久間」の異名をとったお人ですね……晩年はちょっと悲惨)。
○こちら===>>>
深田正韶 等編 ほか『尾張志』5 愛知郡,博文社,明31.3. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/764866
(参照 2023-01-06)
↑『尾張志』を見てみると(p7)、
「熊野三所社
山崎村にあり伊弉諾尊伊弉冉尊を祭るといふ本社の東西に脇宮といふ社二社あり速玉之男神事解之男神を祭るこれを総て熊野三社といふ境内に末社いなりの社あり(略)」
とあります。
すっかり「伊副神社」のカケラもないので、やはり違う「熊野社」なのか……このあたりは、郷土史の先達にお任せしたいと思います。
個人的に引っかかったのは、祭神が「伊弉冉尊」なんですよね……どうして「伊弉諾尊」じゃないのか……謎謎、ということで、次回は旅先の話になりそうな予感です。