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神社仏閣ラブ(弛め)

「斎宮神社」(京都市右京区)〜急に日帰り京都旅

11/3。

車折神社」を後にしまして、太秦まで行こうと思ったのですが、グーグルマップ先生によれば徒歩20分程度ということで、まだ朝早い嵯峨野を歩くことにしました。

その途中で発見、「斎宮神社」。

 

○こちら===>>>

ja.kyoto.travel

 

京都市公式HPです。

 

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いきなりの社殿です。


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ちょっと離れますと、こんな感じ。

本殿と、脇にも摂社があるっぽいですね(記憶よ……)。

 


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「白龍大神」。

御神木でしょうか。


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愛宕山」。


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ちょっと、時期的に御神木のグラデーションが美しかったので……。


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社殿交えて。

よいロケーションです。

 


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斎宮神社略記

(略)

祭神 天照皇大神

(略)

由緒

口碑によれば、当地は垂仁天皇の第二皇女で初代の斎宮として、天照皇大神のご神体を奉して各地を巡歴し、ついに伊勢にこれを鎮祭して神宮を創祀せらた倭姫命の別荘のあったところである。そのため命の薨去後、里人が祠を建てて天照皇大勧請したという。斎宮土御門天皇の御代まで四十一代続いたが、この地は斎宮が禊を修せられた所であるという伝えもある。嘉永元年(一八四八)の棟札によれば、往昔この村で初午講行われた時、当家から出火して村内全焼し、当社の古記録も悉く消失したが、社殿は安泰であった、しかし、寛文年中に破損したので改築、同九年(一六六九)十一月二十日遷宮を奉仕した。その後百八十年を経て嘉永元年改築、玉垣も新造し九月十六日遷宮したという。現に寛文九年の棟札も社蔵している。

昭和三十年十二月十六日現在の社殿に改築した。

(付記)

七世紀後半の天武天皇の頃に制度化され、天皇の即位に際し選ばれるのが例であり、御醍醐朝以後に廃絶するまで続いた。選ばれた皇女・女王は、まず宮城内の初斎院で潔斎し、次いで宮城外の浄地を卜して斎所となる野宮を設け、潔斎所をここに移し、川で禊・祓の儀が行われたと伝えられるが、この神社は、こうした野宮の一つ、有栖川禊の旧跡である。また、斎宮が三年の間潔斎したのち、伊勢に下向することは郡行と呼ばれた、なお、境内にある椋の木は樹齢数百年で板根は二メートル近い。また、嵯峨街道(三条通)にも同じく椋の大木が二本あって、社地の広さを物語っているが、交通量の激増により昭和三十五年に伐採された。

(付記二)

『生田(おいた)』地名の由来は、斎宮神社の馬場の松並木の小枝が風にゆれる様から小枝村と称したのが転訛したという。」

 

若干の誤字はともかく、「倭姫命」の別荘かどうかということもなかなか証明するのは難しいでしょうが、少なくとも潔斎地(野宮)の一つがあったのではないか、ということですね。


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「有栖川禊」と書かれています。


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遠景。

こじんまりとしたつくりですが、土塀といい、御神木といい、鳥居といい、なんとも風情のあるお社です。

それにしても天気が良かった。


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社標。

御朱印は不明です。

 

さて。

 

○こちら===>>>

『京都史蹟古美術提要』,京都市観光課,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/1042174

(参照 2023-01-18)

 

ざっと探してみたものの、これというものが見つからなかったので(斎宮に関する記事はもちろんたくさんありました)。

↑などいかがかと(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

p174です。

 

「野宮

崇神天皇の御代、豊鍬入姫命以来、後醍醐天皇建武三年までの間、御代毎に伊勢太神宮に皇女を御差遣になつて奉侍せしめ給ふたのであつた。これが斎宮である。斎宮に御卜定あらせられた皇女はまず皇城内の斎院に移り給日、更に城外の斎地を御卜定になつて、ここに三年の間潔斎させられて、伊勢に御発向になるのである。この所を野宮と申し上げる。

野宮は平安奠都後、はじめは平城に置かれたが、文徳天皇の御代以後は北野あたりから、この嵯峨野に多く設置せられたやうである。いまそのあとと伝ふるところは、天龍寺の北の野宮神社車折神社の近くの斎宮神社、四條西大路の西の西院野宮、妙心寺の東などにあるが、天龍寺の北の野宮神社こそ、古き黒木の鳥居、小柴垣の俤を残してゐる。何れの御代の野宮の御址かは判らない。近時近代的な施工を加経て、野宮の古い面影を消してゆのは惜しいことである。」

 

神社の案内板にある、「有栖川禊」があったかどうかまでは判らないですが、嵐山の「天龍寺」近くに「野宮神社」があるのは確かで。

ただそれも野宮があったという伝承の残っている土地、というだけで、実際のところはなかなか判らないとしか言いようがないかと。

いずれにしろ、潔斎をするのですから、近くに川は流れていたことでしょう。

失火で資料が失われたのは惜しいところです。

 

さて、「広隆寺」に向かいますよ。