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神社仏閣ラブ(弛め)

「白山比咩神社・吉田天満宮」(愛知県豊橋市)〜豊橋ちょっとぶらり旅〜

2/24。
さて、短かった豊橋の旅も終了……ラストは「白山比咩神社」です。

 

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「白山比咩神社」と「吉田天満宮」。

 

こちら参道入り口……裏ですが。

 

表に回ってみました。
「新銭座」の跡……だったのですね。
後ろの機械式駐車場のでかいこと。

 

拝殿。

 

狛犬さん。
優美。

 

鳥居から。

 

こちら「吉田天満宮」。
「新銭座」の扁額もあります。

 

梅が咲いていました。

 

筆塚です。
天神様ですからね。

 

御朱印
書置きのものが置いてあった……んだと思います。

 

近くは繁華街のようですが、休日の昼日中に来ると、嘘のように静かでした。

さて。

 

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東参河資料叢書. 第1編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

まずはこちらから、『東参河資料叢書』の『三州吉田記』。
27コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

白山権現社 新銭町 (略)
元在魚町熊野之社地。因号脇宮。
寛文五乙巳年神輿新造。従此時六月十八日祭例之日神輿渡御于神宮寺境内社輿中柴村諏訪社。
氏子、新銭町下町甫抱六町。」

 

……ふむふむ(何が?)。
続いて、

 

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豊橋市市制施行二十年誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『豊橋市市制施行二十年誌』を。
200コマです。

 

「村社白山比咩神社
新銭町にあり。保延二年の創建にして伊弉冉尊外一柱を祀る。初め札木ありしが、天正十八年池田侯の城地拡張の際移転したるものなり。社殿、拝殿神楽殿等あり。境域約四百坪、例祭は七月十七、十八日両日行はれ、花祭と称して頗る殷盛を極む。」

 

ふもふも……(も?)。
続いては、

 

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東三河道中記 : 豊橋市及其附近案内 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『東三河道中記』です。
18コマ。

 

「次は今来た道を四ツ角まで戻りまして、南へ入りますと、左側に 白山比咩神社 があります。創立は保延貮年の六月、祭神は伊弉諾尊外一柱であります。もと札木町に魚町の安海熊野神社と一所にあつたのを天正十八年城主の池田輝政が城を拡張するに当つてここへ遷したものと云ひます。この社では寛文五年に神輿が出来てから七月十七、八日に花祭りと云ふのが行はれましたが今は廃絶致しました。この附近は新銭町といつて、寛永十四年に幕府の命を受けて新銭を鋳造した事から起きた名だと申します。吉田駒曳銭といふのは其時数取りに造られた絵銭です。
(略)」

 

なるほど、前掲2冊の内容をすっかり解説してくれていますありがとうございます。
何故「銭座」に「白山比咩命」かと思いましたが、順番的には「白山比咩神社」のあったところに「銭座」ができた、ということでしたか。
池田輝政」によって遷座を余儀なくされたと……「安海熊野神社」ごと遷せばよかったような気もします。

 

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寛永銭記 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

今ではいろいろ研究が進んでいるでしょうが、「銭座」を検索したら『寛永銭記』というのが引っかかりました。
5コマです。

 

寛永通宝銭は寛永二年より明治二年まで二百四十五年間の内百三十五年に亘り諸国(府県)に銭座を設置して鋳造したるものなり
銭座は金座又は銀座の支配に属せし役所にして文政以後は一に鋳銭定座或は鋳銭役所と称せしことあり
銭座構内細工場の内重なる名称は大吹所、種銭場、型場、小吹所、仕上場等なり
大吹所は銭貨となすべき地金を溶解し型場に配付する所にしてその棟梁を吹屋大工と称す
銭貨は砂型式の鋳方にて造りたりされど古寛永に於けると新寛永の時代とは其の製法を異にせり
寛永の時代は幕府より樣銭を銭座に下附せられこれに據りて彫母銭を造り直ちに種銭を鋳造す
寛永の時代は種銭場にて彫母銭を造りこれに據りて錫母銭を製し又これを基本として銅母銭即ち種銭を鋳造し幕府に稟請して発行の免許を受く
型場は一の銭座に十数箇所を構へ一箇所毎に銭頭一人を置く
種銭は約二百文づつ銭頭に交附す銭頭はこれを型枠の砂上に印寫し小吹所に於て鋳造すれば銭貨は木葉の如く出来すこの枝銭を切り離して一枚づつとなし床焼を行ひて仕上場に出す
仕上場にては郭内を磨り耳を研ぎ且面背に平研をなし改所に出す
改所にては役人監視の下に銭量を秤検し緡に挿し二緡宛結附け五貫匁を一括とし封印して御用蔵に納む
斯く御用蔵に保管せられし銭貨は座主より両替屋を始め一般士民に売出されしが明和以降は両替屋のみに売下げられたり(以下略)」

 

というわけで、こんな感じで作られていたようです……よ。
続いて、銭座の場所を記した表が掲載されているのですが、確かに「三河国渥美郡吉田」にあった、とされています。
寛永十四年八月から寛永十七年八月までの稼動のようです。
時代劇なんかでも、なかなか銭場なんて再現してくれませんからね……陰謀ものならともかく、あまり庶民的な題材にはなりません……いやいや、鋳造の配合を変えたり、という悪巧みは庶民に直結している……そういえば、役所だから所謂公務員扱いだったんでしょうか、銭座の職人さんは……。
神社と全然関係ないですが、面白いものに遭遇できたので良しとします。

 

というわけで、豊橋の旅はこれにて終了。
次は……身近です、多分。