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続いても「八幡」様、「羽田八幡宮」です。
◯こちら===>>>
鳥居と社標。
朱の鳥居……あまり意味はないかな。
いきなりですが本殿です。
ちらっと。
狛犬さん。
目が良い。
本殿右手の摂社。
なんだったっけな……。
菓祖の「中嶋神社」。
由緒書がない……。
と思ったらあったけど……。
「昭和二十六年当協会開設を記念して但馬国中島神社より菓祖神田道間守命を勧請し分社を創建して永く豊橋菓子業界の守護神と崇敬す。同三十六年四月主催県下の業者として参画したる名古屋開催の第十五回全国菓子大博覧会の盛事を記念し神殿神域を改修するに特志寄進あり。同年六月二十日遷宮祭を斉行せり。以上由来を略記して世に伝えんとす。
昭和三十六年六月七日 豊橋菓子協会」
読めた……(文字を改めた箇所あり)。
「田道間守」という人は、病に臥せった天皇のために「非時香実」を持ち帰ったけど間に合わなかった、という話で有名なかたですね。
そうか、「中島神社」というのがあるのか……知っていたような、忘れているような。
狛犬さんその2。
拝殿横から。
社標。
かつては郷社だったようです。
古くて新しそうな蔵。
「栄川稲荷神社」。
拝殿。
新しめ。
近代的な造りとしてはオーソドックスな形式です。
階段、緑青の色がグラデになっていてちょっと面白い。
松かな……背がとても高かったので。
「羽田八幡宮の国登録文化財」ということで、先ほどの蔵も文化財だったようです。
もったいない(?)。
この門も文化財。
「松陰学舎蹟」。
「羽田八幡宮文庫は、国学者であった神主羽田野敬雄が資金を募り、嘉永元年(一八四八)境内に創設■■■万余巻を蔵し、「松陰学舎」と名づけた附属の閲覧■■■■た文庫で、近代図書館の先駆をなした。」
ちょっと影になったところが……。
今では文庫といえば本そのものを想定しがちですが、昔は文の庫、ですから(金沢文庫とか蓬左文庫とか……)。
参道入り口の鳥居。
扁額外されていた珍しい。
狛犬さんその3。
参道遠景。
こちらもなかなかに立派な神社でございました。
さて。
◯こちら===>>>
東三河道中記 : 豊橋市及其附近案内 - 国立国会図書館デジタルコレクション
こんなところでいかがかと(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
56コマです。
「羽田八幡社 です。本社は前にも申しました通り天文九年に馬見塚から遷されたもので、数年前郷社に列せられましてから境内を整理して見違へるやうになりました。祭礼は行燈祭といはれ一尺に三尺位の行燈へ俳句、狂歌、地口などを書き、それに俳画を添へたりなどしたものを何百も掛けたものですが、近来は祇園祭のやうに大筒、手筒、打揚煙火などを出すやうになりまして、昔の飄逸な趣ある行燈は見られなくなりました。
此社の裏台地の下に清泉が出まして栄川の泉といひ、松山の呉竹の井と共に代表的二名水でした。これは神主である羽田野家の所有で本社の御手洗だといふてゐました。伝説では昔家康が此近くに休みまして、此清泉を呑みエイ川ぢやと褒められてその名がついたと申しますが、今日では双方共附近が開墾されて湧出しなくなり、ほんの名ばかりとなつたのは惜しい事です。旧藩時代には城主の茶の湯に召され、一時は番人まで附けられた事もあつた程です。
羽田文庫 は参道中程の東側にあります。この小さな門は当時のものですが、文庫は今礎石が残つてゐる許りです。羽田野家は古くから神明、八幡両社の神主で、敬雄は宝飯郡西方に生れ羽田野家に入りまして、名を常陸といひ、晩年になって栄木と改めました。敬雄とは其名乗りです。廿一歳で養子し、廿九歳で養父上総の号をついて神職となりましたが、性来の読書好きで和漢を撰ばず万巻の書を読破したものです。それに就て一挿話は、或時吉田藩で盗賊を捕へ訊問すると、賊のいふに、以前西方の或る家に入らうとしたが毎夜夜半まで熱心に読書する子供があつて遂に目的が達せられなかつたと申立てたので調べて見るとそれが敬雄で、次第に評判が高くなり羽田野家に懇望されたといふ事です。尤も生家である山本家は富豪ではあり、兄が三人あつて中兄の、これも他家へ養子した飯田軍次といふ者が本居大平の門人だつたので敬雄にも入門するやう勧め、廿八歳のとき入門したのです。處が如何なるわけか三十歳のとき更に平田篤胤の門に入りました。これは以前から篤胤の学風を慕つて間接に教を受けてゐたからでもありませう。これを取次しましたのが平田鐡胤で、非常に親密な間柄でありこちらへも度々来て居ります。これから後追々交際が広くなり伴信友や飯田武郷或は神宮神官の御巫清直だの一流の人物と交際するやうになりまして、所謂志士なども窃に翁を訪ねて来た者もありました。大国隆正なども其例ですが、福羽美静なども二三回訪ねて居ります。
文庫は嘉永元年吉田の同志十五人の支持で計画し、安政二年には一千部、文久元年には千六百部に達しましたが満足せず、広く一般からの寄附を仰ぎまして、三條實萬卿から類聚国史三十巻と御註の孝経一巻を、又徳川斉昭卿からは破邪集八巻を寄せられ、藩主大河内信古よりは書籍三十七巻と文庫永続料に毎年米十俵づつを下されました。かくて後には総数壹萬参千六百余巻となりましたが、これは勿論公開されたものでして、中には翁の家に寄宿し勉強した後の男爵大久保春野などもあります。此文庫は翁の歿後散逸の悲運に遭つて、一部は西尾の岩瀬文庫、一部は長篠村信玄の牧野文庫に行つたとも云はれますが、其大部分は石巻村の大木氏方にあつたのを大正二年豊橋市が譲り受け、それを基礎に図書館を経営する事になりました。(略)文庫は御覧の通り跡だけとなりましたが、翁の建てられた皇學四神遥拝碑と、福羽美静の書いた翁の記念碑とがこの中に殘つてゐます。」
知らない名前がいっぱい……それぞれ調べてみましょう。
福羽美静が面白そうな人ですね。
郷土の有名人というと、やはり派手な人(「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」とか)に目がいくのですが、面白い人はきっとたくさんいたんだろうな……と思いつつ、忘れていくんだろうなとも思いつつ。
ネットの海に漂う記録と記憶、ですね(?)。
「栄川」の由来っぽいものがわかって、よかったです。
おっと、忘れていた。
◯こちら===>>>
www.library.toyohashi.aichi.jp
残っています。