3/12。
ちょっと遠出をしようにもいろいろとあれ(?)なので、犬山方面へ。
「継鹿尾山寂光院」です。
○こちら===>>>
「紅葉寺」として名高く、一度来たことがあるはずなのですが、「え? ここ登るんですか?」という鋭角カーブからの坂道を登らされてどきどきしました。
合ってました。
駐車場に入り、とりあえず案内板を。
「継鹿尾山 寂光院 略記
寺号 継鹿尾山(つがおさん) 八葉蓮台寺 寂光院(通称・継鹿尾観音)
宗派 真言宗智山派(総本山・智積院・京都東山七条)
創立 当山は孝徳天皇の勅願寺として白雉五年(六五四年)に南都元興寺道昭和尚により七堂伽藍を創建 本尊千手観音は日本武尊の御神魂の作と伝えられる 県下最古の霊刹である。
由緒 永禄八年(一五六五年)九月十八日織田信長公参詣のみぎり、住職拝面の上、当山を清洲城鬼門除鎮護の霊刹として御黒印五十石並びに山林五十余町歩を霊場として法燈を継承する。」
なかなか読めないですよね「継鹿尾山」。
駐車場の入り口。
登るルートは幾つかあるのですが、今回はこちらから。
牡丹でしょうか。
明和年間の石灯籠。
もう結構登ってますけども……この階段を登りきると、広い空間に出ます。
「笑迎八方来」と彫ってあるような気がします。
「お見送り大師」様。
正面は千体観音堂。
そこから登っていくのが「七福坂」です。
ええそうです、登ります。
登りますよー……。
「小中学生は早めに帰るように 家の人が夕食を待ってますよ」
お寺らしいというか、昭和っぽいというか。
結構登ってるなぁ……。
と其の前に右手に折れまして、「弘法大師」所縁の「金剛水」。
そして、なかなか珍しい「茶筅塚」。
名水、茶の湯に使われるのでしょうか。
振り返ったら、茶釜もありました。
それでは気を取り直して、まず「恵比寿坂」から。
次は「大黒坂」。
途中で石仏。
なるほど、一大霊場。
続いて「毘沙門坂」。
「弁天坂」で二手に分かれます。
左に行くと、「子育子安観音」。
「福徳稲荷」に立ち寄って。
如意宝珠もあります。
仏様ばかり。
「福禄寿坂」。
途中に不動堂。
第一番は、犬山の「成田山」ですね。
お堂の蟇股部分に転法宝輪、というのがなかなか面白いかと。
あ、最後の坂は「寿老人坂」です。
展望台があります。
その前に本堂へ。
といいながら景色をちら。
ちら。
本堂の正面方向ですね。
これは、「随求(ずいぐ)堂」の回廊を右方向に回っている途中です。
展望台。
なんと、「随求堂」の裏側には、スロープカーの乗降場があるのです。
「随求堂」の屋根。
瓦が真新しく、春の光を眩く反射しています。
「随求堂」遠景。
本堂から繋がっています。
本堂を横から。
これが噂の展望台。
「十二支・筆弘法展望台」と言うそうです。
十二支の守り本尊もいらっしゃいます(撮影してないけど)。
ちょっと高いところから、本堂と「随求堂」。
鐘楼には「願いの鐘」。
「音色を楽しむ為に打つのではない 世の幸せを願って打つのだよ!!」
『ガ○ダム』か『少年ジ○ンプ』が好きな住職さんでもいらっしゃるんでしょうか……。
その脇の燈籠は享保年間。
より遠景の本堂。
本堂手前右手には「白龍王」。
手水鉢……?
この辺り、「東海自然歩道」の一部に組み込まれており、トレッキングの方もよくお見かけします。
仏仏仏。
本堂を向かって右手から。
本堂と「随求堂」の架け橋。
本堂後は安産守護尊がお祭りされています。
ちょっと前の案内板。
「随求堂」は「籠堂」となっています。
展望台「絶景」ってのもなかなかすごいです。
本堂裏手もまだまだ見所多く。
こちらは「仏足石」「仏手石」。
そして、養蚕守護の「馬鳴堂(めみょうどう)」と、良縁にご加護があるらしい「弁天堂」。
階段を登りきると、立派な宝塔があります。
裏に回ってみました。
「馬鳴堂」。
「馬鳴菩薩」。
「 馬鳴菩薩:[(梵)※略(阿湿縛窶沙)の訳。種子:ka]大乗仏教の論師馬鳴とは関係なく、蚕の守護神で、貧者に衣服を与える徳行がある。本軌は馬鳴儀軌(金剛智訳・大20・1166)。形像:群像で、白雲に乗る。本尊は白馬の背にある蓮台に左脚を垂れる。身は白肉色、花冠を頂き六臂。籰(いとわく)・火焔・糸・管・与願印・秤を持ち、馬の左右に2童子、広報に3侍者、合掌して頭上の馬首にある尊を蚕、他の2侍者を蚕室・蚕印という。馬前に唐服を着けた弟子が岩上に立って合掌する。文殊渡海図に似た構造で絵画的であるが中国臭が濃く、造像は見当らぬ。」
とのこと。
サンスクリットの名前があるようなので、インドにいらっしゃったのだと思います(中国や日本で生まれた仏様ではない)。
「蚕の守護神で、貧者に衣服を与える徳行」
……が「衣にかかわるすべてを叶えてくださる」上に、「動物愛護・ペット守護」の仏様に爆進化されたようです。
昔のバラモンのみなさまも、こんな世の中は想像できなかったでしょうから。
そういえば、『密教辞典』で、随求堂の御本尊「大随求菩薩」も調べてみました。
「大随求菩薩:[(梵)※略(摩訶鉢羅底薩落)、異名:随求菩薩、随求大明王。胎66(蓮華部院)、密号:与願金剛、三形:梵篋。種子:ab、pra、vam] 原名は法術・護符・僕婢などの意から、それらを求めるに随って自在であると義訳して随求という。この真言には息災。滅罪、特に求子の効能が歓ばれて平安時代以降に盛行したが、単に口で陀羅尼を唱えるばかりで、本尊としての遺作に乏しい。形像(1)胎蔵現図曼荼羅蓮華部院の像は身は黄色で宝冠中に化仏がある。慈悲円満相で八臂像、右手は五鈷杵・剣・鉞斧・三股戟、左手は宝輪を乗せた蓮華・索・宝幢・梵篋と、両側に林立し、蓮華に坐る。その他、持物に多少の相違がある。(2)宋の法賢訳・瑜伽大教主経(大18・890)には四面八臂、各三目で、梵篋の代りに弓箭を持つ姿を説くが、わが国には伝わらず、また一説に無能勝明王をこの尊の教令輪身とするから、その形像かという。(略)」
「この真言には息災。滅罪、特に求子の効能が歓ばれて平安時代以降に盛行した 」……ということで、子授けの守護神となられたようです。
こちらは縁結びの「弁天堂」です。
「馬鳴堂」の参道には、百観音巡礼のお砂が埋められています(多分)。
で、その先に。
「愛の錫杖」。
うん、いいんじゃないでしょうか(お寺や神社に厳粛なものばかり求めたがるのが、現代人の悪いところなのかもしれません、と書いておきます)。
「馬鳴堂」を左に降りていくと、「家畜慰霊碑」と「鎮魂碑」があります。
本堂を裏手から。
こうしてみると、屋根瓦がまばゆく輝いていて、灰色という感じもしません(実際にはもっと光が強かったので、白くさえ見えました)。
かつての宮城や大寺院も、きっと作られた当初は輝いていたんでしょう。
で、帰りは下りますよね、そりゃ登ったんだから……。
なかなかのバランスです。
「布袋坂」は、「弁天坂」との分岐の先にありました。
御朱印は3つ。
「良縁弁財天」のご加護はなさそうです……。
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会
↑『尾張名所図会』から引用してみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
205コマです。
「継鹿尾山八葉蓮臺寺寂光院
継鹿尾村にあり。真言宗、名古屋大須真福寺末。白雉年中道昭和尚の開基なり。和尚は白雉四年夏五月、遣唐使小山上吉士長丹等に随ひて入唐せしより[日本書紀]にしるしたれば、帰朝の後の開肇なり。其後養老年中、天竺の善无畏三蔵当山に詣でて、自刻の阿弥陀の像を安置し、当国鬼門の鎮護とせし霊場なり。抑当寺の由来を尋ぬるに、当郡下野村に山猟を業とする者ありて、常に此山中を狩り歩行きしが、或日朝より鳥さへ得ずしてたたずむ折から、谷間より一つの鹿踊り出でければ、難なく射留め、かけ寄りて見るに、其鹿の尾より光明かくやくと照りかがやけり。彼者ふしぎの思ひをなし、よくよく見れば、千手観音の霊像にてぞ有りける。終に当山に安置し、継鹿尾山と号けたり。今も前坂の岩に、鹿の足跡くぼみて残れり。当寺は古杉老松蒼鬱として、閑寂玄隠の古浄刹なり。中にも座禅石より岐蘇川を見下すの光景、籠堂より西南の眺望、眼界蒼茫として、山水の美、筆端の及ぶ所にあらず。
本尊 千手観音は、当国三十三観音の一所にして、出現の岩窟裏坂の中央にあり。相伝ふ、日本武尊化現して造り給ふ尊像にて、慶雲三年七月十三日示現し給ひぬ。其時の神詠として、『なるみがた鹿のつぐ尾にへだてなく今やなびかん草薙の宮』と、当寺の旧記にしるせり。
寺宝 慈覚大師所持の香炉。大日如来・不動尊・毘沙門天、共に運慶の作。又名古屋の士菅谷氏より寄附の甲冑は、松平右衛門太夫正綱着料の古器なり。其外寺領織田信長公の朱印。国祖君御墨印。丹波五郎座衛門長秀・柴田修理亮勝家・佐々市兵衛等の證文数通。又古縁起書画の類甚多しといへども、これを略す。」
「白雉年中道昭和尚の開基なり。」……というわけで、「道昭」というお坊さんの開基であることは、一番最初の案内板にも書かれていました。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 誰れにも心得べき仏教の趣味と智識
↑『誰れにも心得べき仏教の趣味と智識』というなかなか押し付けがましい本が見つかりました。
この147コマに「道昭」和尚の記事がありました。
「第十五章 道昭伝
法相宗 道昭大僧都
【一】道照の生誕
道昭は法相宗の開祖で欽明天皇の元年に生まれた、河内国丹比郡、船連の恵釋の子である。【二】道照入唐
白雉四年五月遣唐大使の小山上、吉士長丹に従ひて入唐し慈恩寺の玄奘三蔵を訪問して学んだ、玄奘の命により、相州隆化寺の慧満禅師について禅宗を伝へた、数年の間玄奘の門に出入した。【三】道昭の帰朝
天智天皇の元年三月に帰朝して、元興寺の東南隅に禅院を建立して、法相宗を伝へ、その他諸国を巡遊して救済事業をなした宇治の大橋造営にも、頗る盡力した。【四】大僧都
文武天皇二年十一月十五日に薬師寺の繍佛の開眼供養に推され講師となつた同日大僧都に任ぜられた、大僧都の官は茲に始まつた。【五】入寂
同四年三月元興寺の禅院にて入寂した、寿七十二である。【六】火葬
弟子和合し、道昭の遺言によりて、栗原にて火葬とした、我が国の火葬は道昭より始まつたのである。」
なんとなく、どんな方かはわかりましたが、ちょっと物足りないので、
○こちら===>>>
↑というストレートな本でもうちょっと見てみます。
こういったものに載るくらいなので、偉大なお坊さんだったんですねぇ……。
16コマです。
「道昭
行歴
道昭は俗称を船連といひ、舒明天皇元年、(皇紀一二八九)河内丹比郡に生れた。(続日本紀第一、扶桑略記第五、日本霊異記巻上、元享釋書第一、釋家官斑記巻上) 父は有名なる船史恵釋であつて、皇極天皇四年、蘇我臣蝦夷及び馬子等が、中大兄皇子、中臣鎌足に誅せらるる時、国記を火中から取出して中大兄皇子に奉つたことで聞えてゐる。(日本書紀第廿四、続日本紀第一) 道昭は出家して後大和元興寺に住し、戒行に精励して特に忍辱の行を尚んでゐたといふことである。それに就ては一つの逸話がある。或日弟子が道昭の性を知らうとして竊に便器に穴を開けて置いたところ、便が漏れて和尚の褥を汚がした、此時和尚は微笑しながら、「放蕩の小子人の床を汚す」といつて何等咎めるところがなかつたといふことである。その忍辱の行に精励してゐた様子が窺はれる、(続日本紀第一) 後入唐求法の志願を発し、孝徳天皇白雉四年、(皇紀一三一三)二十五歳を以つて遣唐大使小山上吉士長丹、副使小乙上吉士駒、学問僧道嚴、道通、道光、覺勝、辨正、恵照、僧忍、知聡、定恵、安達、道観、学生巨瀬臣薬、氷連老人等百二十一人と倶に一船に乗り、大使大山下高田首根麿、副使小乙上掃守連小麿、学問僧道縣、義尚等百二十人を以て組織する他の一船と共に舳艫相並んで出発した。途中高田根麿等の船は、薩摩の竹島沖(野間の岬)に於て難破したけえrども、道昭等の船は一路彼地に到ることが出来た。道昭は長安に入つて大慈恩寺に玄奘三蔵を訪ひ、此に玄奘の上足窺基等と共に法相の宗義を究めることとなつた(日本書紀第廿五、続日本紀第一、日本霊異記巻上、三國仏法伝通縁起巻中、仏祖統記第丗九、元享釋書第一、本朝仏法最初南都元興寺由来、) 玄奘は是より先貞観十九年正月(皇紀一三〇五に当る)に印度西域より帰り、同二十二年十月(皇紀一三〇八に当る)長安に大慈恩寺を建立し、尋でその西北に翻経院を造つて譯経事業に従事してゐた時である。窺基はまだ二十二歳の青年で、出家して間もない時代であるが、道昭とは殊の外意気相投じ、常に同房に起居して親交を結んだといふことである。(古今譯経圓記第四、大唐西域記第十二、大慈恩寺三蔵法師伝第六、続高僧伝第四、続日本紀第一、三國仏法伝通縁起巻中) 玄奘の道昭に対する態度は、至つて鄭重を極めたものであつた。その門弟に対して「此の子多く人を度す、此等外域の故を以つて之を軽ずることなかれ」といつて誡め、また道昭に向つて「吾れ昔西域に往き路に在つて飢ゆ、村に人家なくして乞ふべきものなく殆ど死地に入る、時に忽ち一沙門あり、手に梨子を持ち来つて吾に與へて食はしむ、吾れ自ら啖ひて後気力復また生じ竺土に達することを得たり、今汝は是れ梨子を持ち来りし沙門なり、故に吾れ汝を憐む。」といつたといふ程であるから(続日本紀第一)、定めて尊敬の念を持つて遇したことであらう。併し乍ら後に到つて玄奘より「経論は文博し、労多くして功少なし、禅を学んで東土に流伝せんには如かず」といはれ、教を捨てて禅に帰すべき所以を訓へられたので、爰に相州隆化寺に往つて慧満禅師に参じ、更に禅法を修習して悟るところがあつたといはれてゐる。(続日本紀第一、元享釋書第一) 斯くして唐に居ること数年を経て、斉明天皇六年(皇紀一三二〇)に遣唐使の回航船に乗つて帰東した。(日本仏家人名辞書第三道昭伝考) 時に道昭の年正に三十三であつた。その出立に際し、玄奘は仏舎利、経論、鐺子等を贈り、特に鐺子に就ては「吾れ西域より自ら将ち来るところなり、物を煎じ病を養ふに神験あらずといふことなし。」といつて訣別を惜み、道昭も亦感謝啼泣して辞したといふことである。(続日本紀第一、本朝仏法最初南都元興寺由来) 其後天智天皇元年三月(皇紀一三二一)に、元興寺の東南隅に禅院を建てて大に禅風を挙揚し、天下所業の徒に禅を学びなしめたといふことである。(続日本紀第一、今昔物語第十一、元享釋書第一、本朝高僧伝第一) 更に諸国を周遊し、禅教を布くこと約十有余年に亙つたが、後勅請によつて再び故の禅院に帰り、只管禅定を修して余生を楽んだといはれてゐる。(続日本紀第一) 後文武天皇二年十月(皇紀一三五八)に薬師寺が建立せられ、其の翌月十五日に繍仏の開眼供養が行はれた時、道昭は推されて講師となり、同日其の賞として大僧都に任ぜられたといふことであるが、大僧都の任官は実に道昭に始まつてゐる。(続日本紀第一、扶桑略記第五、元享釋書第廿一、七大寺年表、僧綱補任第一、釋家官班記巻上) 終に同四年三月、七十二歳の高齢を以つて元興寺の禅院に入寂した。弟子好調等は道昭の遺命に依つて、其の遺身を栗原に於て荼毘に附したといはれてゐるが、我国に於ける火葬は恐らく是れが最初であらう。(続日本紀第一、扶桑略記第五、日本霊異記巻上、水鏡巻中、元享釋書第一)」
ちょっと長いので、ひとまずここまで。
参考文献が()に書いてあるので助かります(『続日本紀』はともかく、『扶桑略記』や『水鏡』などは手元にありませんので)。
「父は有名なる船史恵釋であつて、皇極天皇四年、蘇我臣蝦夷及び馬子等が、中大兄皇子、中臣鎌足に誅せらるる時、国記を火中から取出して中大兄皇子に奉つたことで聞えてゐる。」……基本的な部分に間違いがあります。
「蘇我馬子」と「蘇我蝦夷」ではなく、「蘇我蝦夷」と「蘇我入鹿」ですね。
それはともかく、父の時代に「中大兄皇子」に接近することに成功した、ということでしょうか。
「道昭は長安に入つて大慈恩寺に玄奘三蔵を訪ひ、此に玄奘の上足窺基等と共に法相の宗義を究めることとなつた」……なんと「玄奘三蔵」と同時代の方でした。
「玄奘三蔵」とか『大唐西域記』とかは、世界史の授業でさらっと流されてしまいます。
思い浮かぶのは『西遊記』のほうですものね。
『西遊記』の妖怪達、発生年代はともかく、活躍したのは唐の時代と考えると、「そんなに古くもない」んだな、とちょっと不思議な感じです(「卑弥呼」より新しい)。
まあ、お話ですが。
で、「道昭」和尚、どうやら「法相宗」のようで……「南都六宗」の一つ、というやつですね(よくわからず書いています)。
↑より、
「南都六宗
「宗」の実態と概念
南都六宗といえば、倶舎・成実・律・三論・法相・華厳の六宗であることは、歴史の本を開けば必ず出てくる。しかし、その内実は、という点になると、大陸輸入の学問仏教にすぎないというような記述で、十把一絡げならぬ六宗一言で片付けられることが多い。奈良時代の学問仏教とは、いったいどんなものだったのであろうか。」(p50)
インドでは、龍樹以後さらに仏教の哲学化が進み、四ー五世紀には弥勒(マイトレーヤ)・無著(アサンガ)・世親らによって唯識派の思想が確立される。この派の思想はとくに玄奘(六〇二〜六六四)によって世親系の思想が翻訳紹介され、弟子の基(六三二ー六八二)によって確立される。それが法相の教学であり、日本へも七世紀半ばにさっそく導入されている。ただし、最初期に伝来したのは、玄奘に承けたとしてもまだ法相教学として確立以前のものだったともいわれる。
元来、唯識思想は独自の心の分析などに特徴があるが、日本ではむしろ、人間の能力には五種類の別があり、仏となることのできない人もいると説く五性各別説や、菩薩の修行には永遠に近い年月、輪廻を繰り返して修行することが必要だと説くところが他宗との論争点になる。
法相宗は、中国でも新しい動向であったこと、中心となる興福寺が藤原氏の氏寺であったこと、などのために奈良時代後期には南都の教学の最大勢力となり、善珠(生没年未詳)のような学者が出た。そして、三論宗と争い、あるいは平安初期には新興の天台や真言に対する最大の批判勢力となって、論陣を張ることになった。なお、華厳宗や法相宗では、当時の教学が、のちに正統派とされるものだけでなく、新羅系の教学など、異端や傍系の思想をも受け入れた自由な学風をもっていたことも忘れてはならない。」(p56)
……ええ、何が書いてあるのかよくわかりません。
とにかく仏教は分裂し、伝承の過程で変質し、それを元に戻そう(原語の経典を求める)という揺り戻しがあり、いつの間にかインドからはほとんどなくなって、今やその変化というか進化の末端の国々で生き残っている、というもので、世界宗教になっていく間に哲学として先鋭化する部分がもちろん増えてくるので、昔の日本人には「論理的」な思考を身につける上で(儒学などの漢学とともに)非常に役に立ったのだと思います。
が、我々にはもう……いえ、私にはもう難しすぎて、と言うべきでしょうか。
日本の仏教の歴史ですら、「崇仏論争」云々で争っていた牧歌的な蘇我・物部の時代から、200年も経てばこの有様ですから、全仏教の歴史なんてとてもじゃないが追いきれません。
世界宗教はどれもそうですけれどね……。
『日本宗教者列伝』に戻りまして、
「玄奘より「経論は文博し、労多くして功少なし、禅を学んで東土に流伝せんには如かず」といはれ、教を捨てて禅に帰すべき所以を訓へられたので、爰に相州隆化寺に往つて慧満禅師に参じ、更に禅法を修習して悟るところがあつたといはれてゐる。」……ということで、法相の学風だけでなく禅も学んだようです。
鎌倉仏教が禅を流行らせたのは間違いないですが、昔から仏教には禅がつきものだったのですね(多分)。
「元興寺」に禅院を建てて住持したのちに、「更に諸国を周遊し、禅教を布くこと約十有余年に亙つた」とのことで、このときに「寂光院」にやってきた、と伝えているのだと思います。
さて、その続きには、
「事業
道昭には穽井、渡船、架橋等の幾多の社会的救済事業があるといはれてゐるが、就中最も世間に知られてゐるものは山城宇治の渡橋である。続日本紀第一には道昭が唐より帰つて後、天下を周遊した時に作つたものであると記録せられてゐる。併し乍ら此の道昭架橋のことに関しては議論がある。現に山城宇治常光寺(通常橋寺といふ)に建てられてゐる断碑の銘には、「世有釋子、名曰道登、出自山尻恵満之家、大化二年丙午之歳、構立此橋」と見え、元興寺の沙門であつた道登が、孝徳天皇大化二年(皇紀一三〇六)に造つたことになつてゐる。此の説に同ずるものには扶桑略記第四、日本霊異記巻上、水鏡巻中等があつて、狩谷掖齋も古京遺文や日本霊異記考證巻上道登の條などに於て此の道登説を主張してゐる。なるほど断碑の銘文に見ゆる紀年からいへば、大化二年は道昭はまだ十八歳の弱齢であつて、造橋の事業を起すには聊か物足りないところがある。これに反して道登は孝徳天皇大化元年(皇紀一三〇五)に衆僧教導十師の一人に選ばれ、同じく白雉元年(皇紀一三一〇)に白雉出現に関して天皇の御下問に奉答した程の人であるから(日本書紀第廿五)、架橋事業の中心人物とするには何等の支障もない。併し乍ら続日本紀を始めとして、歴代編年集成、一代要記などが、道昭若しくは、道登道昭二人共同の架橋説などを出して居ること、また弘安七年二月廿七日の網代禁制の太政官符に「㝡初元興寺道登道昭建之、其後東大寺観理道慶修造之(枝葉抄所収)」と見えてゐることなどを総合して考ふるに、道昭は全然無関係の人ではなかつたと思はれる。殊に宇治橋は、弘安九年までのうちに六回若しくは七回も改修せられてゐるのであるし、(帝王編年記第二十六、枝葉抄) また今の断碑を残してゐる橋寺が、古い建立ではあるけれども、弘安年間にはまだ橋寺堂といはれてゐた位であるから(山城名勝志第十七宇治郡都橋寺) 現存する断碑に絶対的価値を認めることは出来ない、それで矢張り宇治橋は道登道昭等が協力して造つたものであらう。但し道登が表面の人であるのに対して、道昭は其の裏面の人として働いたが爲めにその名が出されなかつたのではあるまいか。道登道昭は共に元興寺の住僧ではあるけれども、道登の方が道昭よりも先輩であるから、道登の名のみを銘記したものと思はれる。(略)」
「道昭」の業績として巷間著名な「宇治橋架橋」の検証がされています。
……なんでしたっけ?
ああそうだ、『尾張名所図会』でした。
『尾張名所図会』には、開基が「道昭」だという続きに、
「其後養老年中、天竺の善无畏三蔵当山に詣でて、自刻の阿弥陀の像を安置し、当国鬼門の鎮護とせし霊場なり。」ということで「善無畏三蔵」がやってきたと書かれています。
『密教辞典』より、
「ぜんむい[善無畏]※略 637〜735(唐・玄宗・開元23・11・7)※略 真言宗伝持八祖の第五祖。インド・マガダ国王の家系で、父は仏手王。生来神の姿で、10歳、軍を統監し、13歳王位を継ぎ臣民の支持を得たが、諸兄らが氾濫し、征伐の際、流矢で頭を傷つく。諸兄に国を別けて仏道に入り、各地を遊歴し名声は全印に響いた。那蘭陀寺で達摩掬多(※梵語/読みはおそらくダールマグプタ)に密教を学び、即時に灌頂を得て人天師と仰がれた。師の命で原典を持って中央アジアから716(開元4)長安に達した。玄宗は国師として迎え、興福寺南塔院に住む。翌年、西明院菩提院で訳経に従い、724(同12)洛陽の大福光寺に移って、帝師一行が筆受して大日経7巻を訳し、また、一行に抗議(大日経疏14巻)した。732(同20)西域帰還の希望も許されず、同23年入寂。弟子が多く、宝思・明思のほか、一行・温古・玄超・義林・智厳と新羅の不可思議、日本の道慈らが著名。(略)」
とありまして、何人かいる中の三蔵の一人ですね。
「玄奘」と違ってこちらは、インドから原典を携えてやってきた方なのです。
ただ、『尾張名所図会』がいうような養老年間(712〜724)の間に日本にきたことがあるのか……というと、その可能性はほぼないですね。
716年に長安に到着、724年には洛陽に移っているわけですから、そんな暇なかろう、と。
寺の伝承ですので、箔をつけたくなるのも人情です。
「抑当寺の由来を尋ぬるに、当郡下野村に山猟を業とする者ありて、常に此山中を狩り歩行きしが、或日朝より鳥さへ得ずしてたたずむ折から、谷間より一つの鹿踊り出でければ、難なく射留め、かけ寄りて見るに、其鹿の尾より光明かくやくと照りかがやけり。彼者ふしぎの思ひをなし、よくよく見れば、千手観音の霊像にてぞ有りける。」……ところが、由来はといえばこのように、土着の伝承という印象。
うーん……「鹿」と「春日大社」を絡めると、何か妄想ができそうな気がしますが……。
かと思えば、
「本尊 千手観音は、当国三十三観音の一所にして、出現の岩窟裏坂の中央にあり。相伝ふ、日本武尊化現して造り給ふ尊像にて、慶雲三年七月十三日示現し給ひぬ。其時の神詠として、『なるみがた鹿のつぐ尾にへだてなく今やなびかん草薙の宮』と、当寺の旧記にしるせり。」……「日本武尊」がでてきます。
「日本武尊」が彫った「千手観音」が、鹿の尾から出てきて安置していたところに、「道昭」和尚がやってきて伽藍を建て、「善無畏」がやってきて「阿弥陀如来」を安置した……。
設定としては盛り込みすぎ。
ですが、仏舎利を集めたら身長数メートルの大男になると言いますし、よろしいのではないかと。
実は公式HPに、
○こちら===>>>
↑こんなページがあり、『尾張名所図会』の図絵と、現在の風景を比べたりされていますので、よかったらこちらも〜。
最近は、
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 7 羽栗郡
↑も確認するようにしています(『尾張名所図会』とほぼ同じ内容なんですが)。
38コマです。
「寂光院
継鹿尾村にあり継鹿尾山八葉蓮臺寺と号し名古屋真福寺の末也 天萬豊日天皇の白雉年中道昭和尚の開基のよしを伝にいへり 和尚諸国を遊離して人を化導しければ国民尊崇せしよし続日本紀元享釋書等に見えたれば其頃学問僧道嚴道昭定恵等十三人入唐せしよし記したれば帰朝の後開創なるべくさあらばしばらく後にて白雉年中の建立にてはあるべからず 当寺古録記ありて開基等のゆゑよしくはしけれどあやしく信じがたき事のみ多ければここには省く 其内本尊は日本武尊の霊魂にて 文武天皇の慶雲三年丙午当山に示現ましまししよし 又養老年中善無畏三蔵当山に詣で 自阿弥陀の像を彫刻して安置し 一国鬼門の鎮護とせしよし等は府志にしるせり
本堂 千手観音は熱田大神の霊告にて慶雲三年七月十日示現神詠曰鳴海潟鹿乃継尾爾隔奈久今也靡牟草薙乃宮 この国三十三所の一所として順拝するもの此歌を誦す 寺宝 麻間形香爐 慈眼大師所持 舎利堂三尊佛大日不動毘沙門 運慶の作 甲 松平右衛門大夫源正綱十六歳初陣に着せしよしいへり 烏帽子形冑朱頬 名古屋の世臣菅谷氏寄附の品也其外猶多し(略)」
書かれていることは『尾張名所図会』と近いことがおわかりかと思いますが、
「当寺古録記ありて開基等のゆゑよしくはしけれどあやしく信じがたき事のみ多ければここには省く 」
↑ばっさり。
「日本武尊」と結びつけられているのには、何かありそうな気がしますけれども……いずれ考えてみようかと思います。
尾張最古刹、と誇るだけあって、仏様の種類といい、なかなかなワンダーランドでした。
で、昔来たときも思ったんですけれど、二宮尊徳さんが埋まっているんですよ……気になって気になって。
荒俣先生だったら、
「そんなことをしたら、要石の封印が!!」
とかおっしゃるかもしれませんよ(by『帝都物語』)。
紅葉の季節には……ちょっと覚悟しないとこられません(人手がすごいんです)。
それ以外の季節なら、比較的のんびり参拝できますので、是非とも〜。
※ちょいちょい、「はてなブログ」がいうことを聞かなくなるのですが、今週はそれもあってなかなか更新できませんでした。※