10/31。
「平等院鳳凰堂」を堪能し、さてどうしようかとしばらく思案して、京都駅まで電車で行ってお土産を買うことに。
そこで、駐車場から「宇治橋西詰」という交差点に向かって歩いておりましたら、発見しました。
「橋姫神社」です。
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↑よくまとまっているサイトです(つまり、私の書くことがない)。
どうも当日は、
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↑「源氏ろまん宇治十帖スタンプラリー」が行われていたようで、私のような明らかに遠方からの観光客に混じって、地元の親子連れがたくさんいらっしゃっており、なかなかの混雑でした。
神社の境内というよりも、民家の庭先に鎮座している、といった風情でした。
『源氏物語』を通して読んだことは(もちろん)ありませんが、「宇治十帖」という呼び方くらいは知っています。
巻名に「橋姫」があることは、残念ながら知りませんでしたけれども……(苦)。
「橋姫神社
古代より、水辺、特に橋は心霊が宿るところとされており、橋姫はその守り神です。
瀬織津比咩を祭神とする橋姫神社は、明治3年の洪水で消失するまでは宇治橋の西詰にありました。境内には橋姫神社とならんで、同じく水の神である住吉神社が祀られています。
交通の要衝として発展してきた宇治にとって、宇治橋はとりわけ大きな意味を持っており、橋姫神社を巡って数々の伝承を生み出しています。また、宇治が主要な舞台となっている、源氏物語宇治十帖の第一帖は、「橋姫」と名付けられており、橋姫神社はその古跡となっています。」
なるほどなるほど。
私が思い浮かべる橋姫は、
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↑に登場する、「まだ生きてやがったか、橋姫のババァ!」と言われてしまう鬼女なのですが。
文献的には、
↑……あれ、どっかいっちゃったな『古今和歌集』……とりあえず、
「さむしろに衣かたしき今宵もや我をまつらむ宇治の橋姫」
という歌が採用されています。
この「宇治の橋姫」は、「宇治の玉姫」ではないか、という注がついているそうです。
また、
「千早ふる宇治の橋守なれをしぞあはれと思ふ年のへぬれば」
という歌もあるようです。
この「橋守」を「橋姫」としているものもあるとかなんとか。
これを踏まえて、
「山城国風土記にいう、ーー宇治の橋姫は(懐妊して)つわりになり、七尋の和布(わかめ/海藻)をたべたいと願ったので、おとこ(夫)は海辺に(若藻を)とりに行って、笛を吹いていると、龍神がそれを感じて聟にとった。橋姫は夫を尋ねて海のはたに行くと、そこに老女の家があったので行って(夫の行方を)問うと、「その人ならば、龍神の聟となっていらっしゃるが、龍神の火で煮たきした食べ物を忌み嫌って、ここに来て食事をしている。だから、そのときに見てごらん」といったので、隠れてこれを見ていると、夫は龍神の玉の輿に乗って来て、御召しあがり物を食べていた。女はこれと物語して泣く泣く別れた。しかし、ついには帰って来て、この女と一緒になった。(毘沙門堂本『古今集註』)」(p325)
という説話が載っています。
この『古今集註』という文献は、『古今和歌集』の注釈書でしょうから、果たしてこの説話が『風土記』成立当時のものとは思いづらく、↑で紹介した「宇治の橋姫」が登場する和歌に注釈を加える際に、いろいろと混ざり合って出来上がった感じがします。
「浦島太郎」っぽいですし、また記紀神話の「海幸・山幸」っぽくもありますしね。
ストーリー自体も、「宇治の橋姫」が懐妊していたことはすっかり忘れられて(つわりはどうした?)しまっていて、あんまり面白くないです。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第1編都名所図会
↑から引用してみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
307コマです。
「橋姫社 は宇治橋の西づめにあり。 はじめは二社なり。一社は洪水のとき漂流す。今■存ぜり。
古今 狭筵に衣かたしきこよひもや我をまつらんうぢの橋姫
此歌の評説をもつて祭る神をしるなり。[袖中抄]に、住吉大明神、橋姫の神に通ひ、詠み給ふ歌なりとぞ。清輔の説には、山には山の神あり、橋には橋の神あり。姫とは佐保姫、龍田姫などに同じ。舊妻を橋姫になぞらふとなり。一條禅閤の御説には、離宮の神夜毎通ひ給ふとて、暁毎におびただしく浪のたつ音のするとなん。玄恵法印の曰く、むかし嵯峨天皇の御時、をとこにねたみある温な、貴船のやしろに七夜丑の時参して、此河瀬に髪をひたし、悪鬼と化す。これを橋姫といふなり。宗祇の説には、おもひかはしたる妻、立ちわかれて戀ひしきままに、なれも我をまつらんと、はし姫を妻によそへてかこちいへる義なるべし。又[源氏物語]に橋姫の巻あり。これはなぞらへて書けるのみなり。此歌に付きてさまざまの義侍れども、其詮なきよし、定家卿も宣ひけるとぞ。又道遥院殿の御説も、清輔、宗祇のいふ所に同じ。佐保姫、龍田姫、橋姫、これを三姫というて、深き口授あるよし、歌道の師によりて明らむべし。」
↑いろいろな説がある、ということは、江戸時代末期にはすでに知られていたようで。
・『袖中抄』では、住吉大明神が宇治の橋姫のところに通って読んだ歌だ、と書かれている。
・藤原清輔は、山には山の神があるように、橋には橋の神がある。「佐保姫(春の女神)・龍田姫(秋の女神)」と同じようなもの(どちらも季語になっており、和歌と関係が深い)。旧妻(これは、前妻のことなのか、あるいは「古女房」のことなのか)を「橋姫」になぞらえている(※『古今集』の↑の歌の解釈として)。
・一條禅閣の説では、離宮(※宇治の離宮八幡≒宇治神社)の神が毎夜通い、暁には波の立つ音がするという。
・玄恵法印の説では、「嵯峨天皇」の頃、嫉妬深い女が「貴船神社」に「丑の刻参り」をして、宇治川に髪を浸したところ悪鬼となった。これを橋姫といった。
・宗祇の説では、愛した妻と別れてしまったので、男が橋姫を妻になぞらえて祀ったのだという。
だいたいこんなところでしょうか。
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↑こちらの159コマには、
「宇治橋姫
山城国宇治橋の下に棲みたまふ神を宇治橋姫といふ。また宇治玉姫といふ。むかし妬深き婦あり。貴船神に祈りて、生きながら鬼神とならんことを乞ひ、頭に鐡の輪を戴き、口に炬火を含みて、夜毎に夜更けて祈りしかば、遂に鬼となれり。此橋の北に離宮神あり。此神は藤原忠文なり。将門を討ちて功績ありしかど、朝廷恩賞を賜はらざりしかば、恨みて死にて後に祟る神となりたり。此離宮神夜毎に橋姫に通ひたまふ。暁に帰りたまふときに、河の波高く起ちて聲あり。
かの宇治橋姫となりし鬼は羅生門に出でし鬼とおなじ鬼なりとも、また宇治橋姫の許に通ひたまふ神は、摂津国住吉の大神なりとも語伝へたり。」
……「離宮八幡宮」は、↑のほうでも少し書きましたが、今の「宇治神社」ではないか、と考えられています。
「藤原忠文」は、
○こちら===>>>
↑によれば、「宇治民部卿」と呼ばれ、「老齢を押して平将門鎮圧のために東国へ向かったものの、到着の前に将門が討伐されてしま」い、大納言「藤原実頼」に「嘉賞に反対」されて「恩賞を得られ」ませんでした。
「天暦元年(947年)6月に忠文が没すると、同年10月に実頼の娘・述子(村上天皇の女御)が、11月には実頼の長男・敦敏が相次いで死去した」ことで、「忠文の怨霊が実頼の子孫に祟ったと噂され」、「悪霊民部卿」とも呼ばれたそうです。
「悪霊民部卿」……かっこいい……。
この「藤原忠文」が、「離宮八幡宮」の神だとしているのですが、「その霊を慰めるため宇治に「末多武利神社(みたふりじんじゃ)」が創建され」たとも伝わっているようなので、とりあえず?にしておきます。
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↑の38コマに、「橋姫社の信仰、伝説」という論考がありますので、ちょっと長いですが引用してみます。
「橋姫社の信仰、伝説
宇治橋西詰牛町許り南、東西六間南北六間半、面積三十九坪の境内地に小社二座ある。紫式部の筆に成る宇治十帖中の橋姫の巻にあるは即ちこれである。一は住吉明神と云ひ水運全体を主宰する底筒男、中筒男、上筒男、大綿津見の四座を祀つたものだが、神像は合掌せる赤色夜叉の座像であり。他は橋姫で、その神像は鬼女の裸形に緋袴を着け、左手に蛇を握り右手に釣を持つた座像である。即ち橋姫は伊弉諾尊が禊し給ふ時に生りませる瀬織津比賣命のことであるが、世の中の罪穢を浄め凶事を除き去り給ふ大神にしては余りに形相物凄い神体であるを思はしめる。」
↑『宇治誌』の初版がわかりませんが、この本は昭和13年に発行されたものですので、今見る「橋姫神社」とあまり違わない描写です。
「住吉明神と云ひ水運全体を主宰する底筒男、中筒男、上筒男、大綿津見の四座を祀つたものだが、神像は合掌せる赤色夜叉の座像」……「住吉大神」を「赤色夜叉」で表現する、ということが通常とはあまり思えませんね。
「橋姫で、その神像は鬼女の裸形に緋袴を着け、左手に蛇を握り右手に釣を持つた座像」……こちらはなんとなくわかるような気がしますが。
うーん、なんとなく、「十王」信仰に見られる、「奪衣婆」と「懸衣翁」の組み合わせっぽく見えます。
「欽明帝の御宇三年、洪水の節宇治川上流なる櫻谷に鎮座せる神像が流れて宇治橋に止まつた處から、此橋を守護する神として橋姫社と称して、以来宇治橋の欄干に奉祀し、次で三の間に移し、更に宇治橋西詰北側なる住吉神社の所に造営し、爾来橋普請毎に必ず修繕したのであつたが、明治三年の洪水で橋及び社殿共に流失し、同三十九年十月橋が旧観に復した時、社殿を現位置に建営し、昔川岸櫻馬場にあつた住吉神社と合祀せられたのである。」
おっと、社伝としては↑のような感じなのですね。
ただまあ、「宇治橋」がいつの頃からあったのか、というのが問題になりますのでね……「宇治橋」がなければ、神像も流れ出て止まらないわけです。
「橋姫社に就ては古来種々の伝説あり、袖中抄に
さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらん宇治の橋ひめーーの歌は、住吉大明神橋姫の神に通ひ読みたまふ歌なり。
とあり。更に顕住密勘に
宇治の橋姫とは姫大明神とて、宇治の橋の下におはする神也。その御許へ宇治橋の北におはする離宮と申す神、夜毎にかよひ給ふとて、暁毎に夥しく浪の立つ音するとなん云々
今古爲家抄に
宇治の橋姫といふ事嵯峨天皇の御時、有女依妬嫉夫被棄ける、其後あまりねたさに百夜の間かの河邉に行て髪を水に浸して願くは我成鬼神我夫の今の妻をとらむと契ひて水を叩き水神に誓ひければ、百夜に満する時、すなはち鬼となり女を取りけり。
尚ほ、隆源阿闍梨の説あれど袖中抄と同じく、逍遥院の説は清輔宗祇のいふ所と同じく、いづれも大同小異、余りに文学的に潤色された根拠の乏しい伝説である。
宇治地方の伝説では、橋姫は嫉妬深い神様で、嫁入の際この社前を通ると神の嫉みから夫婦が円満に行かぬ、とある。白河法皇の「梁塵秘抄」に「神も昔は人ぞかし」とある如く、地方の土俗に就て深く考察を進むれば、嫉妬深い神様は随分多い筈だ。即ち伊勢参宮も夫婦連れでは御利益が薄いとの俚諺があり、厳島の市杵島姫大神さへ新婚旅行の方面としては大禁物とされて居る。然し斯うした俗信は平家物語の「剣の巻」の流布に端を発したらしく、その剣の巻は京都に居た嫉妬深い女が、自分の愛人に心を寄する凡ての女を取殺さうとて貴船明神に祈請し、宇治川に於て生きながら鬼と化したてふ凄惨な物語である。」
↑のほうでもちらっと並べた、「宇治の橋姫」伝説が並んでいます。
「宇治地方の伝説では、橋姫は嫉妬深い神様で、嫁入の際この社前を通ると神の嫉みから夫婦が円満に行かぬ、とある。白河法皇の「梁塵秘抄」に「神も昔は人ぞかし」とある如く、地方の土俗に就て深く考察を進むれば、嫉妬深い神様は随分多い筈だ。即ち伊勢参宮も夫婦連れでは御利益が薄いとの俚諺があり、厳島の市杵島姫大神さへ新婚旅行の方面としては大禁物とされて居る。」……このあたりの考察は、記紀神話の神をギリシャ神話っぽく見ているような気がして面白いですね。
こうした俗信は今でも有効だったりします。
「剣の巻は京都に居た嫉妬深い女が、自分の愛人に心を寄する凡ての女を取殺さうとて貴船明神に祈請し、宇治川に於て生きながら鬼と化したてふ凄惨な物語である。」……この、『平家物語』「剣」巻の書かれているのが、一般的な「宇治の橋姫」のイメージですね。
手元の『平家物語』は途中までしかないもので……ただ、だいたいご存知かと思います。
「頭に鉄輪、ろうそく立てて、口には松明、人に見られないように「貴船神社」で七夜の丑の刻参り」。
謡曲「鉄輪」の源泉でもあります。
「古今集巻十四、読人不知の「さむしろに衣かたしき今宵もやーー」の歌に現はれた橋姫は、何等嫉妬の心を有たず、途絶えがちな男の来るを只管に待つ可憐な、優しい女性であり。平安朝から鎌倉へかけて出来た文学に現はれた橋姫は何れも「さむしろにーー」の歌から脱化したものである。假へば源氏物語の橋姫の巻に、薫中将が宇治八官の大君に「橋姫の心を汲みて高瀬さす棹のしつくに袖ぞ濡れける」といふ歌を送つて居る、大君を橋姫に准へて詠んだもので、勿論嫉妬をする橋姫といふやうな意は含まれてゐない。同じく源氏物語に、匂宮が宇治の八官の中君に「中絶えむものならなくに橋姫の片しく袖や夜半に濡らさむ」というふ歌を送つてゐる。之れは中君を橋姫に託してゐる男をひたすらに待つて居る橋姫の意に用ゐてゐるのである。更に勅撰歌集に見える橋姫に関する歌も数首あるが、その平安朝、鎌倉時代に於ての橋姫は決して嫉妬の心を有つ者ではなかつた事が明らかである。
それが平家物語の流布によつて、嫉妬深い女神に一変し、謡曲では、「鉄輪」「橋姫」の内容を培ひ、後世俗信の源流をなすに至つたのである、然らば平安朝に於ける宇治の橋姫の正体は何であらう。古今集の「さむしろに」の歌が最古の文献となつて、可憐な女性となり嫉妬深い鬼女と化し、伝説自体は例の説話と混同して発展したものであるが、筆者は左様したものが橋姫の本体だとは信ぜられない。」
なかなかロマンチックな考察です。
何でもかんでもドロドロの怨念に仕立てたい私とは大違いで(?)。
「茲に於てか橋姫は橋守りの神と結合されねばならぬ。屡々宇治橋の流失せるを乱獲せる魚霊の祟りと観じて供養塔を建てた時代であるから、長橋に神を勧請し加護を祈ることは、平安朝人の思想として当然な筋道であつたと考へられる。殊に我国では民間土俗の間に「水の精」なるものがある事を認めて居り、各都市の上水道水源地には殆んどきまつて栄井神、津長井神を祀り、井祭を行つて居り、航運業者は鳥之石楠船神若くは住吉大神を祀つて船霊祭りを行ひ、沼や河畔には弁財天の類が祀られ、宇治川流域では淀姫神社すらあり、その橋姫と云ひ淀姫と云ひ又は弁財天にしても、先つ気付くことは水と女性の関係であつて、水の生成力が女性の生む神秘と結合される處に、水と女の原始的関係が生じ、夜の長い橋に付物の妖怪変化、鬼の類も通行者の悩みの一つであつたらうから橋姫を勧請して加護を祈つたものであらう。」
結論は微妙ですが。
「橋」は、「境界」である「河川」を渡ることができる、すごい力をもった建造物なんですね。
特に、大きな「河川」に「橋」をかける技術ができるまでは、「渡し船」が当たり前でしたから(何もそれは平安朝に限らず、江戸の近代まで同じでした)。
宇治川も当然、ある時期までは「渡し船」だったんだと思います。
そこに「橋」がかかる。
当然、様々なものが行き交って便利になるんですが、強固な「橋」でなければ洪水で流されます。
また、「橋」は様々なものが往来する、ということは「怨霊」や「祟り神」、「疫病」も往来するんですね。
「河川」が境界になっているのは、それが容易に越えられない「呪術的な空間」としてで、「三途の川」もギリシャ神話の「アケローン」も、「橋」はかかっていないのです。
「河川」が境界として塞いでいたものを、「橋」は容易に渡してしまう。
その恐ろしさから、「塞の神」として将来されたのが「橋の女神」だったのでしょう。
「怨霊」「悪霊」の正体を看破し、遠ざけるだけの力を持っていたのは、記紀神話でいうところの「アメノウズメノミコト」です。
「サルタヒコ」とともに「塞の神」としての資格は十分……のはずなんですけれど、あんまりそっち方面では取り上げられないですよね……。
後々、インドの川の女神である「サラスヴァティ」が「弁財天」として輸入され、「市杵島姫命」と集合していきますが、日本で芸事の神様といえば「アメノウズメノミコト」なのですから、ここにイメージが重ねられていても不思議ではありません。
ところが「市杵島姫命」、「橋の神」ではなく、「島に閉じ込められる神」になってしまうんですよね……ほら、神社で「弁天社」や「厳島神社」を見ていただければ分かる通り、ほぼ「池」の中の「島」で、橋で渡れるならまだしも、渡れないことだってあります。
「弁財天」との習合で「川」そのものの神となってしまったことがまずかったのではないかと思いますが、そもそも「市杵島姫命」が「島に閉じ込められている神」なのかもしれず、そうすると「橋を守る神」になってもらっては困るんですね(だって、自由に出てきちゃうので)。
そして、「宇治の橋姫」のイメージが作られた……妬みから「貴船神社」の神の力を借りて鬼女となった……ああそういえば、「貴船神社」のご祭神は「闇龗神」でしたね。
「水」の「蛇神」です。
本来、「橋の守り神」だった女神を、「橋を破壊する(洪)水の化身」に変貌させてしまったのは、一体何だったんでしょう……。
「源氏物語 宇治十帖(一)
橋姫
「その頃、世に数まへられ給はぬふる宮おはしけり。」と「宇治十帖」は書き始められる。
光源氏の異母弟の八宮は、北方亡き後、宇治の地で、失意と不遇の中に、二人の姫君をたいせつに育てながら、俗聖として過ごしておられた。世の無情を感じていた薫君は、宮を慕って、仏道修行に通い、三年の月日がながれた。
晩秋の月の夜、薫君は琵琶と琴を弾かれる姫君たちの美しい姿を垣間見て、
「あはれになつかしう」思い、
橋姫の心をくみて高瀬さす 棹のしづくに袖ぞぬれぬる
と詠んで大君に贈った。
出家を望まれる八宮は、薫君を信じ、姫君たちの将来をたのまれる。その後、薫君は、自分が源氏の実子ではないという出生の秘密を知ることになる。」
なるほど、『源氏物語』ってこういう話でしたっけ……共感しうるには、おそらく身近でそういったことがたくさん起こっていたんでしょうね……平安といえども心は安からず、というやつですか。
それより隣の、
「ここ橋姫神社は、
高浜原発から 75KM
大飯原発から 74KM
美浜原発から 91KM
こちらに激しい呪詛を感じます……。