9/12。
「慈眼寺」の参拝を終え、振り返るとそこは、
「針名神社」なのでした。
○こちら===>>>
こちらはまたしても、裏口といいますか……今日は裏口ばっかりだな。
しばらく進んでいきますと、ずいぶん新しい感じの垣が見えてきます。
これまた、思っていたより広い境内の神社です。
すっかり森の中、という雰囲気で、現代でもそうなのですから、かつては静謐とした空間だったことが思い起こされます。
「式内針名神社由緒記
(略)
御祭神は本社に尾治針名根連命を主神とし大己貴命大国主命少彦名命の三神と別に八幡社を合祀せらる。
神明社には山神社(大山祇神)、稲荷社(宇賀能美多麻神)御鍬社(豊受毘売神)知立社(鵜茅葺不合命)金刀比羅社(大物主命)の七神を合祀する。別の末社として天王社(建速須佐之男命)あり
当針名神社は慶長年間部落と共の約八百米北の元郷より現在地に移ったとされている。
創建については延喜年間作成の国内神名帳に従三位針名天神と記載されていることによりその時代前から鎮座されているものである以後今日に至るまで氏子の厚い崇敬を受けている」
ぐっと近づいて拝殿前。
「御本殿
御祭神 尾治針名根連命 御利益 開拓・開墾・開運
(略)
針名神社の歴史
針名神社の創建は古く、延喜式神名帳の”従三位針名天神”の記載により、今から約千百年以上前と推察できます。
「延喜式」とは、延喜五年(905年)に醍醐天皇の命により編纂が開始された「養老律令」の施行細則を集大成した全五十巻に及ぶ古代法典であって、この「延喜式」の第九巻・第十巻に記載されている神社のことを式内社と呼び、針名神社も式内と冠しているのはこの史実によるものであります。
社地の元々は現在地より約八〇〇メートル北、天白川左岸の元郷に祀られておりましたが、慶長年間(1612年頃)に徳川家康の命により平針宿が成立したと同時期に現在の社地に遷し祀られたとされています。
主祭神の尾治針名根連命(おわりはりなねのむらじのみこと)は、尾張氏の祖先神で尾張国一宮の真清田神社の御祭神でもある天火明命(あめのほあかりのみこと)の十四世孫にあたり、父の尻調根命(尾綱根命)とともに犬山市の針綱神社にも祀られていて、古代豪族尾張氏の氏神と考えられております。
(略)」
いいですね、なかなか『延喜式』の説明まで載っている案内板はありません。
犬山市の「針綱神社」のことも書かれています。
○こちら===>>>
「針綱神社」 - べにーのGinger Booker Club
ちょっと戻りまして、
青銅の灯篭。
拝殿。
午後も遅い時間でしたので、日が傾きはじめております。
対で。
末社の「天王社」「針名天神社」。
こちら「神明社」。
……やっぱ六柱しかいない……あれ、さっきは「洲崎社」なんて書いてありましたっけ。
「金毘羅大権現」。
どんと撫で牛。
「針名稲荷社」。
こちらもしっかりお稲荷さんしています。
御縁木。
さて、こちらも裏から入ってしまったので、社殿正面の参道を戻ってみようと思います。
……正面にしては、こじんまり。
どうも、ここも正面入り口ではなさそうです。
拝殿を横から。
社務所の前からです。
本当に、緑深い。
というわけで、今度こそ正面入り口に戻ります。
神社豆知識や、見られる野鳥などのパネルがありました。
啓発啓発。
真新しい参道は、常若という言葉が頭をよぎります。
駐車場もある大鳥居に出ました。
うーん、広い。
一山まるごと神域、ですね。
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
↑より引用(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
290コマです。
「針名神社
同村にあり。[延喜式]に愛智郡針名神社、[本國帳]に従三位針名天神とある是なり。[旧事紀]に見えたる、天香語山命十三世尾張尻調根命男尾張針名根命にて、[新撰姓氏録]の波利那連公等が祖神なり。」
……うーん淡白。
○こちら===>>>
↑はどうかといいますと、408コマです、
「針名神社
(略)○祭神檜前舎人連祖歟○鳴海庄平針村に在す、今天神と称す、 集説、府誌、○旧事紀、天孫本紀 天香語山命十四世孫尾治針名根連、 姓氏録、 左京神別下、 檜前舎人連、火明命十四世孫波利那乃連公之後也、
神位
国内神名帳云、従三位針名天神、」
こちらも淡白……「檜前舎人連」という、『新撰姓氏録』に出てくる人の名前が登場します。
こちら===>>>
↑169コマ。
「針名神社
祭神 尾張針名根命
祭日 二月午日十月二十八日
社格 村社
所在 鳴海庄平針村 平子山字一本木(愛知郡愛知町大字平針)」
……こらこら。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 5 愛知郡
↑の3コマ。
「針名神社
平針村にまして今は天神社と申す神名式に愛智郡針名神社本國帳に同郡従三位針名天神とある是なり祭神は尾治ノ針名連と神祇宝典に書せ給へるがことし針名ノ連は天孫本紀に天火明ノ命十四世ノ孫尾治ノ弟彦ノ連次尾治ノ針名根ノ連次意乎巳ノ連此連ハ大雀朝ノ御世爲大臣供奉と見え姓氏録左京神別下檜前舎人ノ連の條に火明命十四世ノ孫波刹那乃連公の後也とも見え尻調根ノ命の二男也神名式に備前ノ國御野ノ郡尾治ノ針名ノ眞若比女ノ神社といふある眞若比女ノ命ハ天孫本紀尾治氏ノ世系をかける條にはもらせれとこの針名連公の御妹か又は御女なとにもやあらむさて針名はもとこの尾張國の地名にてそこによれる御名なるへし今は此名廃れて考ふへきよしなし延喜神名式に見えたる上野國群馬ノ郡榛名ノ神社に同例の地名なから祭神は此所と異なるにかあらむ此平針村今の民家及神社寺院ともにもとは郷の北の方元郷といふ所にありしを後にここにうつしたれは古代よりの坐地にはあらす旧址は今世に元大神と呼來れり神主を村瀬右近と云」
ちょっと詳しくてほっとしてます。
『先代旧事本紀』が手元にないのでなんともかんともなのですが、
「神名式に備前ノ國御野ノ郡尾治ノ針名ノ眞若比女ノ神社といふある眞若比女ノ命ハ天孫本紀尾治氏ノ世系をかける條にはもらせれとこの針名連公の御妹か又は御女なとにもやあらむ」
『延喜式』の「神名帳」には、確かに備前国に「尾治針名真若比女神社」という神社があると書かれています。
↑にあげた『特選神名帳』の「尾治針名真若比女神社」の項によれば(403コマ)、
「尾治針名真若比女神社
祭神 尾治針名真若比女神
(略)
今按岡山藩神社書上に此社北方村の四日市御崎宮地に建たるは寛永四年の事にて一宮の社務大森氏の本社の廃地を歎きてかりにものせし也平賀元義が雑録に此祭神尾張連にて伊福氏祖神なり備前邑久郡に尾張郷あり尾張氏伊福氏も本国にありて其祖神を祭れるなり尾張国山田郡尾張神社愛智郡針名神社伊福神社ありて尾張に尾張氏伊福氏あり備前御野郡にも尾治針名真若比女神社ありて共に同じと云りさて本郡の北方金山笠井山より引続きて東西に斜なる山を半田山と云は針田山の音便にくつれたるにて針田神社ましし故なりさればこの半田山に清地を擇で宮地を定むべきにや又考るに津島天神社福井天神社ありもしくは津島天神ならんかと疑へる注進状に津島村と定めたるは武断に近し彼針田山の地いとよしありて聞ゆれば猶よく尋ねまほし」
とあり、備前にも尾張氏系の一族が勢力を張っていたのではないか、と推察されています。
尾張氏については……勉強が進んでおりません……。
尾張といえば『尾張国神社考』(津田正生著、ブックショップ「マイタウン」発行)です(?)。
「従三位針名天神 [正生考]一揚荘烏森村禅養寺 禅宗 門前にある氏神天神是なるべし [瀧川弘美曰]集説に平針村といへるは非言なるべし。平針は往昔山田郡の地理にて愛智郡にあらず。いま平針を鳴海荘といふも戦国以後の誤なるべし [正生考]一揚荘野田、厨郷 今中郷と書は非也 荒子、高畑、万町、治田 去聲いま八田と書は非也 烏森の七村は延喜の頃の新開の地にて、一円に伊勢大神宮の神戸御厨の地也とかや。針名治田みな開墾の謂也。後世鎌倉以来村にわかれて独立してより、いまは烏森の氏神と成たまへり。爲をもて愛智郡針名神社は治田天神にて、今烏森に座事を世俗はしらざる也。」
津田正生が唱える説によれば、「針名神社」は、今の中村区〜中川区の烏森、八田辺りの氏神である、とのことです。
なかなかな豪快説ですが、あんまり見向きもされていないところを見ると、現在では否定されているものと思われます。
確かなところはわかりませんが、「針名治田みな開墾の謂也。」ということであれば、「平針」は「平墾(ひらはり)」のことではないかと言われているので、現在地でも適用できる気がします。
尾張氏が一時期本拠地を置いていたと思われるところ、「氷上姉子神社」のある辺りからは地続きですし……距離的にはあまり変わらないのですが。
山田郡と愛智郡の式内社と、現在の比定地を比べてみても、「平針」を山田郡、と言い張るのはちょっと厳しいような気がします。
うーん……。
尾張を知るのであれば、尾張氏を知るべし、というのを痛切に感じていますが、ひとまずそれには目をつぶりまして。
前回の「慈眼寺」の遠景です。
この向こう側に「針名神社」があります。
今でも周囲には高い建物がないので、こんもりとしたお山の様子が伺えます。
「慈眼寺」といい、名古屋市にあってはかなり緑多い場所でした。
神域として残っているのはさもありなん、という感じです。
できれば今後も、残していってほしいと思います。
まだまだ勉強が足らないなぁ……それに、今ひとつ妄想に火をつけることができませんでした。
ああ、未熟。