9/19。
シルバーウィーク、どこかに行かねば……しかしそう遠くに行くこともあるまい、と思いまして、そういえば「六善光寺」制覇(?)してなかったな……ということで、「元善光寺」へ。
○こちら===>>>
意気揚々と中央道を走り、飯田に入った頃でふと、財布を忘れたことに気づきました。
高速はETCでなんとかなるのでいい。
ガソリンは満タンなので、余裕で帰れる。
腹が減ったら、チャージされたコンビニの電子マネーカードがあるのでなんとでもなる。
しかし、
御朱印をいただけるのか?
財布と別に持っている小銭入れに、約1000円。
こんなに天気がいいのに、ちょっと遠出していっそ「甲斐善光寺」までも行ってみようか……なんて思っていた計画ががらがらと崩れ。
失意の中、なんとか「元善光寺」にたどり着きました……。
これはまた、堂々たる……なんというか……看板?
階段。
境内図。
日差しが強く、影が濃い。
なんていい天気なんだ……そしてなぜ財布を忘れたんだ……。
山門を入ります。
参拝される方が結構多かったように思います。
シルバーウィーク初日ですしね……財布忘れましたけど(しつこい)。
「六善光寺」同時御開帳の年ですので、回向柱が。
……。
「元善光寺の由来
元善光寺は、今から約一千四百年前第三十三代推古天皇十年に、本多善光卿によって開かれたという。
善光卿は麻績の里の出で、国司に随って都に上り、ある時難波の堀江で一光三尊の如来にめぐりあい、これを背に負って故里に帰り臼を浄めて安置し奉った。これがこの寺の創りである。
臼はかくしゃくとして輝き、御座光の臼とよばれて今もこの寺の霊宝となっている。里を座光寺と称するのもこの縁によるものであろう。
四十一年を過ぎ、第三十五代皇極天皇二年、勅命によって本尊は芋井の里に遷された。今の長野善光寺がそこに始まる。この時同じ一光三尊仏を造ってこの地に留められ、寺は元善光寺とよばれるようになった。
善光寺の名は本多善光卿の名に基き、元善光寺の元は本元の意で、古来善光寺に参詣するだけでは片詣りになると言い伝えられた。
この寺の由緒の深さをもの語るものといえよう。」
「善光寺」に関しては、
○こちら===>>>
「定額山善光寺」 - べにーのGinger Booker Club
「善光寺」(2) - べにーのGinger Booker Club
「善光寺」(3) - べにーのGinger Booker Club
善光寺(4) - べにーのGinger Booker Club
↑の記事でも書いています。
「本元」という言葉に込められた本家元祖争い……というのはなかったのかもしれませんが、「片詣り」を喧伝することで参詣者を呼び込むというのはあちこちでありますね。
本堂。
すごいな、空が本当に綺麗です。
宝物殿もあります。
無料だったのかな……財布を忘れたせいで、御朱印をもらわなければと思っていたので、入れませんでした……。
再び正面。
「摩尼燈」と書かれた提灯……マニトウ?
『マニトウ』といったら……
↑ホラー映画です。
あ、もちろん見てません。
「摩尼燈」とも、関係ありません(多分)。
何の花だったか……。
絵馬殿か休憩所かと思ったら、矢場でした。
明治、大正期のものもあり、貴重な民俗資料となっていくことでしょう(朽ちなければ)。
……戻ってきました。
ちらっとスマートフォンの地図をチェックしたら、近くに神社があったので、フラフラと誘われるように歩いて行ってきました。
「元善光寺」から、10分くらいでしょうか。
「麻績(おみ)神社」。
村社です。
期待できる雰囲気……。
明治神宮宮司で海軍大将だった有馬良橘氏によるもののようです。
銅製の扁額は三条実美公爵によるもの……「七卿落ち」の三条実美ですか?
大物出現……。
「石の大鳥居
明治二十一年(1888)に建立された飯田・下伊那地方では最大の石の鳥居である。
総高5.6m、笠石9m余、柱石高さ4.8m、径は0.8mであり、石材は上郷姫宮と高森町大島山から運ばれたものである。
どうやら近辺は「元善光寺公園」として整備されているようで、中には古墳も……古墳も?……見逃していた……それもこれも財布を忘れるから……。
立派な石垣です。
↑の階段を上り、ほぼ正面に、
「麻績神社」があります。
新しく整備されている感じがいいですね。
鳥居をくぐって右手。
同じく左手。
まだ石段。
狛犬さんは苔むしています。
正面の……拝殿?
ちょっと違いますね。
左手にあるのが「麻績諏訪社」、右手が「麻績八幡宮」。
昔からこうだったのか、ある時期に近在の神社が集められたのか……この辺りは郷土史研究家のみなさまにお願いするしかありません。
その向かって左にある、……「島三社」、でしょうか。
格子の奥を写真に撮る勇気がなかったので……「嶋明神」とのことです。
蜘蛛の巣。
案内板もないもので、何の神社なのかわからないのが残念ですが、ワンダーランド。
境内を散策してみると、
左手奥に進むと小さなお社、そして、
さらに奥に覆い屋と集められた諸社が。
「浅間社」。
「疱瘡神社」。
「子安社」。
「社宮司社」。
を、「ミシャグチ」さまです、やっと長野っぽい。
「秋葉社」。
「伊雑皇社」。
読み方がわかりませんが……「いざわすめらぎ」か。
長野には「伊雑社」「伊雑宮」という社が多いような気がしますが、どうも「豊受大神」(伊勢の「外宮」の神)をお祀りしているようです。
三重県の「伊雑宮」との関係が何かあるのでしょうか……わかりません。
「受持社」。
「保食神(うけもちのかみ)」といえば、穀物起源神話で登場する方で、『日本書紀』に登場します。
「月読命」に斬られちゃった方で、その後から五穀が芽生えた、という。
その後、食物信仰の神は、「倉稲魂神」つまりお稲荷さんや、「豊受大神」などに移っていったので、「保食神」を祀っているのはなかなか珍しいのではないでしょうか。
小さい社もあります。
その手前には、もうちょっと大きな社も。
森の中には、庚申塚や金神塚が点在。
これは、何の花なんでしょうね……。
木の根元に祠。
これは、最初の階段を登ってきて、左手に向かったところにあります。
摂社が集められていたところの入り口に当たるのかな。
「秋葉大神」と「琴平大神」。
と思いきや、「日隅宮」と彫られた石が。
↑の国譲りの場面の一書に、
「今、汝が所言を聞くに、深く其の理有り。故、更に条にして勅したまふ。夫れ汝が治す顕露の事は、是吾孫治すべし。汝は以て神事を治すべし。又汝が住むべき天日隅宮は、今供造りまつらむこと、即ち千尋の𣑥縄を以て、結ひて百八十紐にせむ。其の宮を造る制は、柱は高く太し。板は広く厚くせむ。又田供佃らむ。又汝が往来ひて海に遊ぶ具の為には、高橋・浮橋及び天鳥船、亦供造りまつらむ。又天安河に、又打橋造らむ。亦百八十縫の白楯供造らむ。又汝が祭祀を主らむは、天穂日命、是なり」とのたまふ。」
という、「高御産霊尊」から「大己貴神」への勅命が掲載されています。
「今後、地上のことは私の子孫が治めるから、お前は神のこと(祭祀あるいは死後の世界)を治めろ。お前が住むべき宮は今から造るが、とにかくでかい。橋も船も造る。楯も造る。お前を祭祀するのは、天穂日命だ」といった意味でしょうか。
つまり、「天日隅宮」というのは、今の「出雲大社」のことです。
うーん、何か意味のある碑なのか、そうでもないのか……。
神社から見たこの建物は、
○こちら===>>>
↑によれば、
「・麻績神社前の大石垣の上には「麻績学校校舎」と呼ばれる大きな木造の建物があります。建物の前の舞台桜が見ごろの時期には、人形芝居の舞台として使われています。
・校舎は、1875年(明治6年)の建築で、幅約18m(10間)、奥行き約13m(7間)、高さ12mの木造2階建て。現在残っている校舎としては長野県で一番古いもので、長野県宝に指定されています。
・江戸時代の終わりころから飯田下伊那の各村々では人形芝居や歌舞伎の舞台を造ることが流行しました。テレビや映画のない時代の娯楽であったため、60以上の農村舞台がありました。一方、明治になると学校建設が求められました。学校も舞台も大きな建物が必要ですが、当時の座光寺では2つとも造ることはできませんでした。そこで、2つの機能を合わせて、普段は校舎として使い、必要な時に歌舞伎舞台として使える、とても珍しい複合建物が完成しました。
・学校として使うためには、窓や壁で仕切られたいくつかの教室が必要です。逆に舞台として使うには、仕切りのない広いステージと大きな開口部が必要です。この相反する条件を満たすために、正面の大きな梁を支える7本の柱や窓を舞台として使うときにはステージを見ることができるよう取り外せるようにしました。また役者が降りたり背景を引き上げたりするため、二階の床板と床を支える根太という材料も取り外せるようになっています。現在は、人形芝居などの舞台として使えるように正面の柱は取り外され、二階の床板も一部取り外されています。今の姿からは、校舎だったことは想像つかないかもしれません。
・1984年(昭和59年)小学校が移転するまで麻績校舎は100年以上も使用されてきました。増改築が繰り返され正面には玄関が付いていましたが、1997年(平成9年)建築当時の舞台校舎の姿に復元修理されました。」
「旧座光寺麻績学校校舎
この校舎は、明治六年に歌舞伎舞台と学校とを兼用するように建てられたもので、学校建物としては県下で最も古いものです。
大屋根の棟には建設当時の校名「麻績小校」が記されており、昭和五十九年までの百十一年間、学校として活用されていた貴重な建物です。また、農村の歌舞伎舞台としては県下最大級で、全国的に珍しいものです。
建物の構造は、木造二階建、一部三階建、桟瓦葺入母屋造で、正面一階は歌舞伎舞台、二階は教室として計画されました。一階正面には長さ八間の梁を渡し、その左右の太夫座・下座部分には二段の格子窓があります。舞台裏は一階が土間床、二・三階は畳敷きの部屋となっています。
平成九年三月に復元整備工事が完了し、建設当初の姿が甦りました。」
……何て素敵な構造物……。
どうやら中の見学もできるようなのですが、何しろほら、財布を……。
ああ……。
失意の中、「元善光寺」を後にしたのでした……。
さて。
○こちら===>>>
↑こんなところから引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
51コマです。
「元善光寺(座光寺村)
不捨山如来寺は俗に元善光寺と称ぶ、推古天皇の御代、此の里の住人本多善光、難波の堀江を通ると、後の方で『善光や善光や』と呼ぶ、振り返へると堀江の中から燦然と御光が射して居るのに善光大に驚き、よく見れば勿体なやそれは紛れもない一光三尊の阿弥陀如来だつたので、早速背負つて我が家に帰り、此處に安置し奉つて日夜礼拝した、後に至り、今の長野に遷座したので此處を元善光寺と称ぶ。『お腰かけ石』と云ふものが現在善光の裔と称する今村氏(当主善香氏)の庭内に在る。又その当時如来を安置したと称する臼が寺宝の中に遣つて居る。春秋二回の彼岸会には近郷の老幼悉く集まつて非常な賑を呈する、近来は又桜の名所として特に有名になつた。」
「不捨山如来寺」という名前だったんでしょうか……どこにも書いてなかったですが。
書かれているのは、「善光寺」の縁起として有名な話ですね。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 日本伝説叢書. 信濃の巻
↑の251コマ。
「今、長野の善光寺の本尊となつてゐる閻浮檀金の阿弥陀如来は、本田善光に背負はれて、難波の堀江から信濃に来た時、始めて麻績郷宇沼村に安置せられた。今の、座光寺村不捨山如来寺のあるところ、其旧跡であるといふことである。(「大日本風土記・信濃」)」
……うん、やはり「不捨山如来寺」と呼ばれていた時期があったようです。
○こちら===>>>
↑の18コマ。
「元善光寺(略)
推古天皇の御宇此の里の住人本田善光が国司に従つて上洛、難波の堀江から三國伝来の一光三尊弥陀如来像をここに迎へて創立したが、尊像はそののち、皇極天皇の勅願により長野へ遷座せられたので此處を元善光寺と云ふ。寺は高丘を背後にし、天龍川を臨み、市田、上郷等の村落を一眸に収められるところにあり、春は又櫻の名所として知られ、常に参詣者が多い。」
昭和15年の旅行案内ですので、現在と近い様子が伺えます。
○こちら===>>>
↑は「善光寺」の由来を書いたものです。
10コマ。
「善光寺の草創
善光寺の草創は、人皇三十四代、推古天皇の十年と申す歳、信濃国伊奈郡麻績郷、宇沼村に建てられたるを始とす、其の後、人皇三十七代、孝徳天皇の御時、白雉五年と申すに、大檀那若麻績諸身、宝龕を造りて、錦の帷を垂れたり、則ち、御題を賜はりて、東門を本願主善光の名に因りて、信額山善光寺といひ、南門を、南命山無量寿寺といひ、西門を、不捨山浄土寺といひ、北門を、北空山雲上寺といふ、然るに、人皇五十二代、平城天皇の御代、大同四年と申すに、本堂の炎上あり、其の後、また、人皇八十一代、高倉天皇の治承三年と申すに、炎上あり、また人皇九十代、亀山天皇の文永五年、人皇九十七代、後村上天皇の建徳元年、人皇百一代、称光天皇の寛永十九年、人皇百十三代、東山天皇の元禄十三年と申すにも炎上ありて、古来再建に再建を重ねし事は、十五六度にも及びしなるべし、 信濃奇勝録には、治承以来十三度の炎上なりと記せり、 最初の建立は、塵添埃嚢抄に、善光、杣人を召具し、杣に入るに、山口にして、童子に行き逢ひぬ、童子いはく、御堂の具足の寸尺、我れに許し給へと、善光、化人なるを知りて、則ち許す、時に、童子、定めて曰く、柱は、口三尺五寸、長さ二丈五尺、間の敷、七十二間の具足なりと、程なく、十一本切り終りしかは、東八箇国の大名、我れも我れもと、築垣の中に、願所を建つれば、昔は、四十六堂ありき、伊那郡には、如来、地獄に入り給ひし時、座光ばかり残りし故に、其の跡の堂をば、座光寺と号す、(略)」
「伊那郡には、如来、地獄に入り給ひし時、座光ばかり残りし故に、其の跡の堂をば、座光寺と号す」……「座光寺」のことが、ほんのちらっと書いてありました。
それにしても、「不捨山」というのは、「善光寺」の山号の一つだったんですね。
何か関係あるのか……。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 三国伝来善光寺如来絵詞伝
↑こちらも「善光寺」の由来について、かなり衒学的に書かれています。
127コマ。
「しかるに三尊仏伊奈郡にましますこと既に四十一年におよび頃は 皇極天皇の即位元年壬寅のとし善光に告たまふやうは水内郡芋井郷にわれを遷すべし今より後はこの地に利生の縁ひらくべしとしめしたまうゆゑ乃ちその所に寺をたてて如来を遷し奉る今の善光寺の地これなり伊奈郡の舊宅はのちに寺をたてて座光寺と號せり」
もともと「元善光寺」の場所は、本多善光の家(庵を編んだ、という話もあります)で、そこにあった石臼の上に、「一光三尊阿弥陀如来像」を置いた、と。
水内郡の芋井郷に如来を遷すと、その如来のあった場所に光だけが残ったので「座光寺」と言うようになった……うーん、伝承自体は古そうなんですが、寺としての体をなしたのは結構新しいんじゃないでしょうか。
少なくとも、「善光寺」が隆盛を迎えたあとではないか、と思ったりします。
超素敵サイト「信州デジくら」でも探ってみたのですが、これという文献がなく。
『善光寺道名所図会』には、「座光寺」も「元善光寺」も「如来寺」も出てこないのでした……途中で麻績郡は出てくるんですけれどね……だから、『善光寺道名所図会』が書かれた当時、「片詣り」なんて発想はなかったのではないかと思います。
ううむ、よくわからない……。
あ、「麻績神社」についても探ってみました。
○こちら===>>>
↑132コマです。
……以上です。
まぁ……そうですね、とりあえずかつては八幡様だっただろうことはわかります。
なんか虚しいので、座光寺村についての記述も。
「座光寺郷の旧記
此地応永の頃は上野領主座光寺河内守之を領し天正の頃座光寺左近頼近に至りて知久の大和守幕下に属す子越後守甲斐の武田氏に属して三百貫を領し其子三郎左衛門尉に至りて飯田城代秋山直義の麾下に附せられ濃州岩村に織田勢の防備に当り織田氏滅後徳川氏に属し其後を詳かにせず
座光寺領の外に宮崎村あり木曾氏勃興の当時既に宮崎周防、同子彌五郎ありて義仲の催促に応じ樋口兼光の手に属して上方へ発向せしことあり、彌五郎の子彌兵衛相伝へて応永の頃宮崎孫次郎同子孫蔵を経て宮崎八郎に至り天正中武田勝頼に属し長篠の陣に従て功あり子小三郎孫十太夫を経て熊蔵忠政に至り家康に召出され関の駒場向関等にて領地を賜はり爾来新領に移りたり」
応永年間(1394〜1427)には、「座光寺」と名乗る領主がいたようなので、その頃には「座光寺」はあったのか、あるいは地名化していた、と考えられます。
となると、「不捨山如来寺」ってなんなんでしょうね……。
いつから「元善光寺」になったのでしょう……。
もやもや……。
「善光寺」については、以前の記事で考証していますが、そういえば、
○こちら===>>>
↑関裕二氏が、信濃について語っていますので、興味のあるかたはどうぞ手に取ってみてください。
うん、申し訳ないですが、「元善光寺」よりも、「麻績神社」のほうがワンダーランドでしたね。
それと舞台学校……中を見てみたいです、是非とも。
しかし、年内の制覇はちょっと難しくなりましたので、来年に……春に……。
みなさん、旅にでるときは、
財布のありか
を確認しましょうね(泣)。