7/29。
暑かった、のかなぁ……記憶はうっすらしか残っていないもので……ともかく、何度も素通りしていた北区の「多奈波太神社」へ行ってきました。
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一応公式ブログがありましたので(更新されてるのかな……)。
社標。
参道入口。
「多奈波太神社
平安時代に編纂された「延喜式」に「山田郡多奈波太神社」と記される格式の高い神社で、主祭神は天之多奈波太命(天之棚機姫命)である。
「尾張名所図会」にも、「田端村にあり、七夕の森といひて、例祭七月七日、燈をかかげて諸人参詣す」とある。昔からの祭礼風景が七夕祭りとして現在も続いている。
社殿は、昭和二十年五月の空襲で焼失、昭和三十九年に現在の木造銅板葺きに復興再建された。」
式内社です(論社はなさそう)。
扁額。
蟇股。
境内にある「乳イチョウ」。
社殿向かって左側。
拝殿。
狛犬さん……なんだろうこのすっとぼけ感は……。
拝殿向かって右側。
正面遠景。
東側の鳥居には「八幡社」の社標。
おや。
さて。
すでに案内板でも引用されていましたが、まずはいつも通り『尾張名所図会』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会
↑80ページです。
「多奈波太神社 田端村にあり。[延喜神名式]に山田郡多奈波太神社、[本国帳]に正四位下多奈波太天神としるしたる官社なり。今七夕の森といひて、例祭七月七日、燈をかかげて諸人参詣す。」
田端村に「多奈波太神社」で七夕の森……どっかで何かねじれた感じがします(?)。
『尾張志』はいかがでしょう。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 6 春日郡
↑52ページです。
「多奈波太神社
田端村にありて今七夕の森といへり 田端はタナバタともよむべけれはしかとなへけんも知へからず 祭神は天棚機姫命なるべしといへり 延喜神名式に山田郡多奈波太神社本国帳に正四位下多奈波太天神としるしたる官社也例祭七月七日燈をかかけて諸人参詣す」
……ほぼ同じやないかい。
やれやれ……『神社覈録』を見ておきましょうかね。
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↑784ページです。
「多奈波太神社
多奈波太は仮字也◯祭神明か也◯山田庄田端村に在す、集説◯旧事紀、神祇本紀 復令天棚機姫神織神衣、所謂和衣者、(以下略)」
『先代旧事本紀』を引用して、御祭神を紹介している、と……。
では『特選神名牒』はいかがでしょうか。
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↑259ページです。
……ん、『特選神名牒』は、『尾張志』より新しい文書なんですよね……『神社覈録』よりも新しいですので、それが御祭神が「大穴牟遅神」なんて書いているのは、調査が足らないと言うべきなのか、何かの勘違いなのか……。
では、『名古屋市史』にかろうじて掲載されているのでいってみましょうか。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編
↑329ページです。
「五 多奈波太神社
多奈波太神社は西春日井郡金城村大字田端(略)、延喜式神名帳山田郡の部に小社多奈波太神社あり、国内神名帳山田郡の條に、従三位折旗(をはた)天神あり、参考本国帳、尾陽神名帳集説、参考本国神名帳集説に「正四位下多奈波太神社、天神 一本作桁幡、桁欅字誤歟」と見え、尾張国式社考に「本国帳貞治本に、従三位上桁幡天神、元亀本に正四位下桁幡天神」と見えたる、是れなり、寛延三年、明治二十一年旧七月、大正二年十月修造遷宮あり、明治初年村社に列す、祭神は天棚機姫命なり、尾陽神名帳集説、参考本国神名帳集説に、「按天棚機姫神也、此神裔八千々姫命、太神宮機殿始也 神名秘書」と見え、尾張国式社考草稿に「本居宣長云、棚機といふは機の事にて、機物は則棚の構あれば也、夫をおる神なる故に、棚機姫と名にも負玉へる也」とし、尾張国式社考には、「又古は凡て機織女を棚機津女とも、ただに棚機ともいひし例也、さるを牽牛織女といふ二の星に充ていふは、後のひが事也、今此神を俗に星の宮といふも、彼織女星に混へたる号也」とせり、尾張国式社座地目録、尾張国明治神名帳に祭神大穴牟遅命とあり、」
(略)境内神社は金刀比羅社(略)、八幡社(略)、津島社(略)、山神社(略)の四所あり 例祭は旧七月七日、田端村は天王坊の百姓なりしかば、毎年此日同坊より和歌の短冊を献する例なりき、此日熱田獅子(熱田神宮より教へられたる故に名く)と称する獅子遊戯の状を舞ひ、藩主は庭の亭に出でて之を台覧あり(略)
尾張国地名考に、田端の地名を考証して、「地名神名に出る歟、多婆多とは棚機の約る成べし、瀧川弘美曰、むかしは田端と書て、多南婆多と呼しを、今は多婆多と呼有、田の端をたなばたといふは、渡の邊をわたなべといふに等しく、皆音便なり、此説によるときは、田之端といふ地名ありて、而後、神社を此處に斎祀りたるやうに聞ゆ、猶考ふべし」と見え、尾張国式社考に「多奈波多は棚機にて、神の号なり、うつりて地名ともなれり、今奈字を省略て、多波太といふ」と見えたり。」
と。
『特選神名牒』が御祭神を「大穴牟遅神」にしていた理由がわかりましたね。
あ、写真に「八幡社」の社標がありましたが、(省略してますが)『名古屋市史』の記事によれば、本殿以外、もともと村の東部にあったものを御遷座いただいて、拝殿に関してはよっこいしょとそのまま持ってきたようです(「津島社」「山神社」も、元々はその「八幡社」の境内社だった、と)。
さて、ロマンティックな「多奈波太神社」ですが、妄想がなぁ……ちょっと浮かんでこないので、また改めて〜。