11/1。
大阪の中心地までやってきました。
雨は小降りに、やがて止み。
とりあえず行っておかねば、ということで訪れたのは「生國魂神社」。
○こちら===>>>
公式HPが見つからないので、↑で。
地下鉄の谷町九丁目駅からすぐ。
街中に、突然出てくる感じです。
読みは「いくくにたまじんじゃ」、地元では「いくたまさん」と呼ばれているそうです。
案内図。
拝殿。
なんというか、サイズ的には、三間じゃないですね。
六間くらいはありそう。
↑のHPによれば、
「本殿は幣殿とひとつの屋根で葺きおろし、その上に3つの破風を据えた他に類例のない「生國魂造」という建築様式」
だそうです。
見えませんけども。
拝殿の向かって右手脇を通っていくと摂社末社が並んでいます(↑の案内図参照)。
「天満宮」。
学問の神様らしく、算額が掲げられていました。
江戸時代より大阪は商売の町、水運の町だったそうです。
米売買には先物取引さえ実施されていたと聞きます。
今もまだ商都と称されるのは故なしにあらず、です。
「住吉社」。
「住吉大社」は摂津國一宮ですし、海運の神様でもあります。
あちこちに勧請されていたことでしょう。
「皇大神宮」。
ここから階段を下っていきます。
再び鳥居。
「精鎮社
祭日 四月七日 十月一日
御神徳 商売繁昌 豊漁満足 海上安全
往古、表参道蓮池に祀られていた弁財天社(明治初年精鎮社と改称)で、特に鮮魚を取り扱う商人、漁師や釣り人の信仰が篤い。」
もともとは「弁財天社」だったのに、明治初年に改称しているということは、神仏分離に対応してのことなのでしょう。
「比咩大神」も、本来は「市杵島姫命」とするべきだったんではないでしょうか。
弁天様ですから、「池」があって「島」っぽいのです。
本殿がちらりと。
池から奥に進むと、向かって左手にお社が三つ。
一番奥が「鴫野神社」。
(略)
御由緒 女性として栄華を極めた淀姫(淀君)ゆかりの神社である。鴫野神社はその昔「鴫野の弁天さん」として大阪城東側(現在の大阪市城東区)に祀られていた。淀姫が大阪城からこの弁天社に足繁く通ったことから、後の世には淀姫自身も弁天社に併せ祀られた。爾来、女性の守護神と仰がれ、心願成就と縁(縁むすび・悪縁切り)の神様として霊験あらたかとの評判が広まり、お参りする人が群れをなしたと伝わる。」
「淀殿(茶々)」が栄華を極めたのかどうかは評価の分かれるところでしょうが、すでに御霊信仰の薄い時代にも、それをベースにお祀りされることがあったとわかります(あの時代では当たり前ですが、縁に翻弄された方ですから)。
二枚目の写真、占い所の看板の「崖 縁」という文字が気になる、というか恐ろしいです。
「源九郎稲荷神社」。
(略)
御神徳 源九郎稲荷大明神
五穀豊穣・商売繁昌の神
八兵衛大明神
芸道の神
道頓堀中座の閉館に伴い、劇場に祀られていた八兵衛大明神を当社に合祀しました。歌舞伎役者や松竹新喜劇の方々の崇敬が篤かった事が知られています。」
「源九郎稲荷」は、あちこちでお見かけするのですが、いまひとつどんな方かわかりません。
吉野に本社があるっぽいので、いつか行けたらいいです。
「八兵衛大明神」は……
○こちら===>>>
芸の神様になった芝右衛門狸 [大阪ロマン紀行] - 大阪日日新聞
↑の新聞記事が参考になるかと。
妖怪好きには有名な「芝右衛門狸」のことなんですね。
「日本の三大狸(タヌキ)といえば、佐渡の団三郎狸、香川屋島の禿(はげ)狸、淡路洲本の芝右衛門狸である。
この芝右衛門狸は無類の芝居好き。江戸時代の初め頃、淡路から芝居でにぎわう道頓堀へとやってきた。芝居小屋の「中座」へ通うようになったが、係の者が毎日の売上金に木の葉が交じっているのを不審に思い、犬を入り口に置いてみた。いつものように芝右衛門が小屋へやって来ると、狸の苦手な犬がいる。なんとか通り過ぎようとしたが、隙をついて芝右衛門に犬がガブリ。狸の正体を現して、さんざん追い回され、ついには殴り殺された。
この話は淡路島にも届き、最近、芝右衛門の腹鼓が聞こえないのはそのためかと、仲の良かった人々は芝右衛門の死を悼んだ。それから奇怪なことに、中座の興行成績がガタリと落ちた。これは狸の祟(たた)りに違いないと、初代の片岡仁左衛門が中座の奈落に芝右衛門狸を八兵衛大明神として祀(まつ)ったところ、客がまた来るようになった。以来、八兵衛大明神の祠(ほこら)は芸道の神様として、役者たちがお参りするようになったのである。」
↑の記事より引用しました。
何か事件があったのか、たまたま中座の興行成績が落ちたのかはともかく、初代片岡仁左衛門がうまいこと「芝右衛門狸」を利用したキャンペーンで評判をあげたようです。
例えば、「座敷童」という妖怪が登場する民話があります。
その話の構造が、「金持ちの家がある→座敷童がいるらしい→その座敷童が出ていったのを見た人がいる→没落する」というものなのですが。
これは、「同じことをしているのに、なぜかあの家だけ金持ちになる」→「何か秘密があるに違いない」→「没落したのはその秘密を失ったからだ」という周囲の人たちによって作り出された「解釈」に、金持ちの家が巻き込まれ、最終的にひとつの形になった、という見方ができると思います。
要するに、羨ましいとか、嫉妬とかの感情が、金持ちの家に対する認識を歪めてしまったわけですね。
真っ当に努力したのかもしれませんし、何かあくどいことをやったのかもしれませんが、「座敷童」がいるから、という理由ではないでしょう。
ひょっとすると、金持ちになった人たちも、その理由がわからなかったのかもしれません。
そこで「座敷童」という妖怪の登場です(昔なら神様でしょう)。
金持ちになった秘密を「座敷童」に仮託することで、当時としてはすっきりした「解釈」になったのです。
初代片岡仁左衛門の仕掛けはこの逆です。
「興行成績が落ちた」ことを「芝右衛門狸の祟り」のせいにしてしまい、その妖怪を祀り上げることで、「興行成績が落ちた原因」をなくしてしまったのですね。
重要なのは、そのことを認識するのは、劇場の関係者ではなく、客のほうだ、ということです。
客がその「解釈」を受け入れることで、「これでまた興行成績が戻るだろう」という雰囲気が醸成されます。
また一方で怪談めいた話に興味を持って劇場に足を運ぶこともあるでしょう。
お見事、片岡仁左衛門、といったところでしょうか。
でも、本当に祟りかもしれませんから。
もう一つ「稲荷神社」があります。
こちらは、「佐賀県の祐徳稲荷の御分霊で、鍋島藩とその蔵屋敷出入りの商家が篤く崇敬した」そうです。
ちらりと本殿。
「鴫野神社」の裏に御神木があります。
「巳さんの御神木」と案内板に書かれています(由緒がわかりません)。
多分、蛇さんが住んでいたのだと思います。
続いて、先ほどの石鳥居の正面にもお社があります。
「城方向(きたむき)八幡宮」
例祭日 九月十五日
御神徳 大阪城鬼門の守護神として鎮祭されたから城方向(北向)と称します。
方除・厄除・勝運の神として、篤く崇敬されています。」
「鞴神社」。
例祭日 十一月八日
御神徳 鞴とは非起こしの道具のこと、鍛治の神で、製鉄、製鋼、鋳金また機械工具等を商う金物業界の守護神として篤く崇敬されています。」
金属精製に関する神々ですが、「香具土神」は、「火迦具土神」とも考えられますが、どちらかといえば「天香具山」の「土」のことだと思います(「天の岩戸神話」では、「天香具山」のものを使っていろいろ作ることがありますので……でも「土」は甍を焼くとか、そういうときに使われるものだから、違うのかも)。
鍛治を行う神事もあるようです。
「家造祖(やづくりみおや)神社」。
「御祭神 手置帆負神 彦狭知神
例祭日 四月十一日
御神徳 家造りの祖神で土木建築の守護神とされています。特に建築業界に篤く崇敬されております。」
ちょくちょく出てきますお二柱の神様。
○こちら===>>>
「石浜神社」(浅草名所七福神) - べにーのGinger Booker Club
↑でも引用しています。
「浄瑠璃神社」
御由緒 御鎮座の年は不詳であるが、記録によれば明治九年に竹本春太夫・鶴沢清七等と共に、三業(太夫・三味線・人形)の先師三十八柱の御霊を生國魂神社の境内に社殿を整え合祀したのが始まりである。
爾来、この浄瑠璃神社で毎年春秋の二季に例祭を斎行し、物故された方々を合祀する。
文楽の道の御祖神として文楽関係者はもとより、広く日本舞踊や琴など諸芸上達の守護神として篤い信仰がある。
因みに「曾根崎心中-生玉社の段-」は、生國魂神社境内が舞台である。」
をを、なんとも大阪らしい神社がありました(文楽の補助金を云々している、という意味ではないです)。
『曾根崎心中』くらいは読んでいないとね、と思った時期がありまして、読んだはずなんですが、内容がさっぱり思い出せないという……そんなこと言ったら『南総里見八犬伝』も原文で半分以上読んだんですが、ほぼ覚えていません。
芸事の神様として「弁天様」や「天鈿女」を祀っていないのは、比較的新しい芸術だからなのでしょう(文楽にしろ歌舞伎にしろ)。
先ほどの石鳥居を裏側から(左下は、カメラレンズカバーですのでお気になさらず)。
案内板再び。
「上方落語発祥の地 米澤彦八の碑」。
「遠く寳永、正徳の砌、生國魂神社には太平記読み、芝能、萬歳、人形操りなど諸々の芸能者が蝟集し、就中米澤彦八の芝居物真似、軽口咄はよく人の頣を解かしめ、世に彦八咄の称を弘むるに至つたと云ふ。享保年中初代彦八没して後も、幸にしてその滑稽諧謔の精神は絶ゆることなく多くの名人上手輩出してよくその衣鉢を伝へ、遂に今日の上方落語の隆盛を将来した。所謂、彦八咄の誕生より数へて凡そ三百年、茲に上方落語家相集ひ更めてその遺業を偲びその伝統を継承し、以て益々の芸道精進を誓ふべくこの碑を建立したる次第を略叙し、撰文に代ふると云爾。
平成二年九月五日
三田純市記」
(※旧字を改めた箇所あり)
またしても芸事の碑。
しかし、神社にならなかったのが、時代なのかなんなのか……芸として軽んじられているのでしょうか。
文楽、歌舞伎などは今でこそ伝統芸能ですが、江戸時代には当然庶民の楽しみでした。
余裕があろうとなかろうと、日銭を携え芝居を楽しむ、という素地があったからこその伝統芸能なわけです。
落語もそういったところまで来ています。
それ以降の芸事はどうでしょうか。
演目が多様になり、ネタが受け継がれていくことのない現代の芸能は、伝統にはなりえないのかもしれません。
その点、物が残るという意味では、漫画や小説(ライトノベル含)、音楽の方が伝統というものを形成しやすいのでしょうか。
現代の芸人さん達は大変ですが、まぁ別に伝統になるためにやっているわけでもないでしょうから、いいのではないでしょうか。
お上の検閲も発禁処分もほぼない時代ですから……だからこそ、残さねば、という意識に欠けるのかもしれないですね。
うーんワンダーランドでした。
考察やらはまた次回に〜。