さて。
今回は活字ばかりです(いつもですが)。
まずは、
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第5編摂津名所図会
↑から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
150コマより。
「難波坐生國國魂神社
高津の南にあり。祭神生魂命、大國玉命なり。[延喜式]に曰く、生國魂二座、名神大、月次・相嘗・新嘗、[三代実録]に曰く、貞観元年春正月。奉授従四位下。秋九月奉幣。爲祈雨祈焉。大坂上町市中の生土神とす。例祭六月二十八日、御祓と称す。九月九日を秋祭といふ。御朱印三百石を西生郡下難波村にて賜ふ。
当社は、神武天皇紀戊午九月難波に鎮座す。社頭は今の御城の地なりしが、明応五年本願寺蓮如上人御堂創建の時、やしろを側に移す。其後、天正年中平信長と本願寺顕如上人と数箇年合戦の時、兵燹に罹りて灰燼となり、纔にに神璽を鎮めて小祠を営む。慶長のはじめ、豊太閤金城を修補し給ふ時、今の社地に遷さる。奉行は片桐東市正且元とぞ聞えし。
末社 北の方、天照皇大神宮・豊受皇大神宮・大己貴命・事代主命・少彦名命、南の方、八幡宮・住吉社・厳島社・金毘羅権現。
本地堂 本尊薬師如来を安ず。聖徳太子御作。
大師堂 石像。弘法大師自作の影なりとぞ。
太子堂 聖徳王十六歳の尊影を安ず。
聖天祠 境内南向にあり。
神宝霊玉 宝輿に鎮め奉る。社僧の説に曰く、これ生魂命化現の霊玉にて、即出現の地を玉造といふとぞ。然れどもいまだ神伝聞えず。宝輿は官家より賜ふ。
南坊 社頭の北にあり。社僧貫主とす。真言宗、志宜山法案寺と号す。
稲荷祠 南坊庭中にあり。いにしへは御城中に有りて榎稲荷と称す。
石灯籠 南坊庭中にあり。豊臣秀頼公の御寄附。
(略)
夫当社は、祈雨祭式に、難波大社と称して生土広く、常に詣人多く、道頓堀より天王寺までの中間なれば、繁花の地にして社頭の賑ひ、西の方を遥に見渡せば、市中の萬戸・河口の帆檣、さながら雲をつんざくに似たり。殊に社壇近年再営ありて壮麗にして、きねが鼓の音・鈴の音玲瓏たり。境内の田楽茶屋は、手拍子に赤藪膝飄り、門前の池には、夏日蓮の花紅白を交へて咲き乱れ、池邊に眺む庄凡には、荷葉の匂芳しく、『池は湯と成りて涼しき蓮』などと興じ、馬場前の麗情、唐わたりの観物・歯磨売の居合・女祭文・浮世物まね・売卜・法印軒端をつらね、切艾屋・作り花店日々に新にして、社頭の賑ひ・市店の繁昌は、みな是神徳の霊験とぞしられける。
弁財天祠 生玉社境内、門前北側にあり、伝に云ふ、むかし海中出現の霊像なりとぞ。毎年正月七日富会あり。
妙見祠 同所西向にあり、諺に云ふ、聖徳太子天より感得し給ふなりとぞ。此二祠南坊支配なり。
北向八幡宮 生玉門前南の方、蓮池の側にあり。生玉の社司松下氏守護す。勧請の初めは、慶長年中城中の諸士、此地に於て射御の稽古場によつて、八幡宮を勧請しけるなり。今五月五日の流鏑馬は此遺風なり。地名も今において馬場前といふ。北向は御城守護の謂なり。」
「神武天皇紀戊午九月難波に鎮座す。社頭は今の御城の地なりしが、明応五年本願寺蓮如上人御堂創建の時、やしろを側に移す。其後、天正年中平信長と本願寺顕如上人と数箇年合戦の時、兵燹に罹りて灰燼となり、纔にに神璽を鎮めて小祠を営む。慶長のはじめ、豊太閤金城を修補し給ふ時、今の社地に遷さる。」……というわけで、昔は今の大阪城のあたりにあったようですが、まず「本願寺」に取られ、「織田信長」と「本願寺」のバトルのときに焼かれ、「豊臣秀吉」が再建した、という流れが書かれています。
末社やお堂などが様々あったようです。
奈良が近いだけに「聖徳太子」がらみも多いみたいです。
「神宝霊玉」は「これ生魂命化現の霊玉にて、即出現の地を玉造といふとぞ。然れどもいまだ神伝聞えず。」ということで、多分後世に作られたものでしょう。
そもそも、「魂」とか「玉」がついているからといって、「宝玉」とは限らないので。
前回の記事、
○こちら===>>>
「生國魂神社」〜大阪めぐり - べにーのGinger Booker Club
↑で「米澤彦八」の碑を紹介しましたが、「繁花の地にして社頭の賑ひ、西の方を遥に見渡せば、市中の萬戸・河口の帆檣、さながら雲をつんざくに似たり。殊に社壇近年再営ありて壮麗にして、きねが鼓の音・鈴の音玲瓏たり。境内の田楽茶屋は、手拍子に赤藪膝飄り、門前の池には、夏日蓮の花紅白を交へて咲き乱れ、池邊に眺む庄凡には、荷葉の匂芳しく、『池は湯と成りて涼しき蓮』などと興じ、馬場前の麗情、唐わたりの観物・歯磨売の居合・女祭文・浮世物まね・売卜・法印軒端をつらね、切艾屋・作り花店日々に新にして、社頭の賑ひ・市店の繁昌は、みな是神徳の霊験」というのを読むと、大層な賑わいだったのがわかります。
特に、『〜名所図会』というのは観光案内の側面が強いものですので、力の入る部分ですね。
図絵も見開き4ページにわたっており、「一押し」だったことがわかります。
もうちょっといろいろ文献をみてみましょうか、ということで、
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 古事類苑. 神祇部25
↑の157コマより。
「生國魂神社
生國魂神社は、摂津国東成郡生魂に在り、亦難波大社と称し、後世専ら生玉社と称す、現今官幣大社に列する
[延喜式 二 四時祭]相嘗祭神七十一座 ○中略 難波大社二座 已上八箇社坐摂津国
[和爾雅 二 神祇]生玉社 在東生郡玉造生玉庄、今在天王寺邊、延喜式云、生國魂神社二座
[神名帳考證 摂津]難波坐生國魂神社二座 今云生玉土霊生國魂足國魂、
[神名帳考證土代 九之六 摂津]難波坐生國咲國魂神社二座 并名神大、月次相嘗新嘗、信友云、生國魂、咲國魂の二座也、そを常に生國魂社とのみ称せる也、孝徳紀、三代実録にもしかり、今は生玉と称す
[神社覈録 十 摂津]難波坐生國魂神社二座 並名神大、月次相嘗新嘗
祭神天活玉命 社説、今按るに、神祇官に坐す生嶋神足嶋神にもやあらん、
(略)
[祝詞考 上]式の摂津国東生郡に、難波坐生國國魂神社二社 并名神大、月次相嘗新嘗、 と有、貞観元年紀にも、難波生國魂神、坐摩神など出たり、然れば本この御名に依て、所を生島といひしを、二郡に分て、東生西生とのみいひ、又その生をも後には奈利と唱へ誤りつ、今も生魂神社の難波に坐すにて知るべし、かかれば、既にいふ如く、是も高津宮にて齋給ひしを、都ごとに遷されけむ、」
……ま、もっとたくさん文献から引用されているんですが(又引きです)、その中からざっと選んでみました。
『延喜式』における式内社で、歴史の途中で燃やされ遷されしながらも、生き残ってきたわけです。
それだけ重要視されてきた、ということでしょうか。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 官幣大社生国魂神社誌
↑なんと世の中には、こんなナイスな書物もあるわけで。
入門編としてはありがたいので、こちらからいろいろ引用してみようと思います。
まずは、
「諸国に祀られ給へる國魂大神いと多かるが中にも、わきて歴史の古くして由緒の尊きは、我が生國魂神社に静まります生島神、足島神二柱の大神にぞある。(略)そのかみ神武天皇の大御代に当り、いとも尊き鎮魂八柱神々とともに、祭祀を享け給ひしをその初めとなす。即ち古語拾遺に記して、
爰仰従皇天二組之詔建樹神籬、所謂高皇産霊、神皇産霊、魂留産霊、生産霊、足産霊、大宮賣神、事代主神、御膳神、已上、今御巫所奉齋也、櫛磐間戸神、豊磐間戸神、已上今御門巫所奉斎也、生島、是大八洲之霊、今生島巫所奉斎也、坐摩、是大宮地之霊、今坐摩巫所奉斎也、
といひ、之をこの御代に於ける重なる神事の一に数へたり。この後第十代崇神天皇の大御代にも宮中を出で給ふことなく永く内裏に鎮座して朝廷の篤き崇敬をうけ給ひしが、王朝の盛時には、神祇官西院坐御巫等祭神廿三座の一として、延喜式神名帳には、
生島巫祭神二座 並大、月次、新嘗、
生島神 足島神と記され(略)かかる神徳のましますにより、時には國にかけて生國神、足國神とも、生國魂神、咲國魂神とも、又併せて大八洲の御霊とも大八洲の守護神とも頌へ申すになん。猶ほ之を詳かにせむに、生といひ足といひ、将た咲といふ、何れに従ふも、御魂に生成化育の神徳のましませるを表せるものにして、恩頼の到らぬ隈なく、之を崇め奉らぬ人なき中にも、古くよりものに見えたるには、和泉國大島郡に生國神社あり、信濃國小縣郡に生島足島神社あり、何れもそれぞれの故ありて祀られ給ひし神社なるべく、この外広く全国に亘りては、その数限りもなかるべし。
(略)
かくて二柱の大神を難波の高津丘の底津磐根に鎮め齋ひまつりしは、いつの世の頃なりけむ、御社の伝にては、皇祖神武天皇の大御代のこととしも語伝へ、賀茂真淵は祝詞考に、
古へ仁徳天皇諸の國魂大神を一所に難波にて祭給ひつらむ、
とも、
是も高津宮にて齋給ひしを、都ごとに遷されけむ、
ともいへり。この真淵の説はさせる根拠のあるに非ざれども、坐摩大神とともに東生、西成の二郡を占めて大宮柱の永久に動きなきは、実におぼろげのことにあらじとぞおもほゆる。
(略)
神武天皇 皇天二祖の詔により鎮魂八神、櫛磐門戸、豊磐門戸、坐摩等の神々とともに神籬を建てて宮中に祀られ給ふ、之を大神達の祭祀せられ給ひし最初とす。
孝徳天皇 天皇本社の樹を■(※昔+斤)り給ふといふ。
平城天皇 大同元年の牒摂津國に於て神封二戸を寄せられ給ふ
文徳天皇 嘉祥二年八十島神祭行はる、この後御代初毎の恒例とせられき。(略)」
「生國魂社」の名が『日本書紀』に見えるのは、孝徳天皇即位前期に、
「仏法(ほとけのみのり)を尊び、神道(かみのみち)を軽りたまふ。生国魂社の樹を■(※昔+斤)りたまふ類、是なり。
とある部分ですので、昔からその存在は認識されていたものと思います。
同じ神を祀った社として、「信濃國小縣郡に生島足島神社あり」と、「生島足島神社」のことが挙げられています。
○こちら===>>>
「生島足島神社」(補) - べにーのGinger Booker Club
↑の記事で、『古語拾遺』や『神社覈録』からの引用をしております。
『古語拾遺』の方は、『官幣大社生国魂神社誌』でも引用されていますね。
○こちら===>>>
↑『神社覈録』からの引用を再び掲載しておきますと、
「生島神 足島神
(略)祝詞式新年祭祝詞には、生國足國と書り、◯祭神生國神、足國神、◯旧事紀、天皇本紀神武天皇元年、中略復生島是大八洲之霊、今生島御巫斎祀矣、古語拾遺亦同祝詞考同上に、生島は地の名、此生國足國は、國を知ます神の、御功を称へ申なり、といへり、
(略)
前件二柱の神を祭れる事は、当時すら明かなるを、旧事紀に大八洲之霊とのみありて、此神號を載せざるは、坐摩神と同じく故ある者なるべし、大八洲の霊は、即ち國魂をいふべし、此神は摂津國東生郡難波坐生國國魂神社二座並名神大、月次、相嘗、新嘗とあるが本社也といふ、また和泉國大島郡生國神社、■靭信濃國小縣群生島足島神社二座、並名神大 も同神なるべし、抑此二神は、前なる御巫坐摩御門巫等の祭神と、同じき御あしらへなれば、神嘗祭の外は別祭には預り給はざる也、(略)」
第二 社名
本社の社名は祭神の御名によつて難波坐生國咲國玉神社といひ、又単に、生國魂神社といふ、別に難波大神の称あり、(略)
……あ、こんだけです。
御祭神は結局、「生島神、足島神」なのか、「生國神、足國神」なのか、「生國魂神、咲國魂神」なのか、よくわかりませんが、とにかく「生」「足」二柱いらっしゃると。
↑という本では、「生国魂神社」の項に、
「生国魂神・咲国魂神なる神は国魂(クニタマ)の神、つまり特定の土地の守護神であり、社の冠称に難波が付せられていることに注目すれば、古代難波の地主神という性格を持つ神で、難波の開発に伴って新たに祭られるようになった神であろう。難波地域の開発は五世紀後半以降、主に六世紀に入ってから王権の主導によって推し進められたようなので、王権神・国家神としての本質をこの神が帯びている可能性が強く……(略)……『古事記』仁徳段に、次のような歌謡が記されている。
おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島自凝島 檳榔(あじまさ)の 島も見ゆ 放つ島見ゆ
この歌は「我が国見れば」と高らかに宣言することができる難波の王者が、「難波の崎」という高所から沖合の島々を「見ゆ」を確認する行為を讃美した歌である。難波の海浜では新しい島が続々と生成を繰り返しているのが観察されるのである。……(略)……ところで、『延喜式』の祈年祭・月次祭祝詞などには生嶋御巫の関係する「生国足国」「皇神の敷坐す嶋の八十嶋」という言葉が出てくる。これらは祝詞の文意からして天皇の統治する国土全体を意味するが……(略)……生嶋・足嶋=八十嶋の神霊は「大八洲」すなわち日本の国土の総霊と見なされていたことを示す。(略)」
↑と書かれています。
「國魂神」というのはどの土地にもいる神で、別の言い方をすれば「國主神」でしょうか、地主神のことだ、ということのようです。
「仁徳天皇」は、難波高津宮をおいた方ですので、難波の「國魂神」をもちろん祀ったのでしょうが。
それがやがて、「生嶋・足嶋=八十嶋の神霊は「大八洲」すなわち日本の国土の総霊」になったのではないだろうか、という説ですね。
『官幣大社生国魂神社誌』の中で引用されている、賀茂真淵の「古へ仁徳天皇諸の國魂大神を一所に難波にて祭給ひつらむ」というのが、この説の元祖ということになるのでしょうか。
(※ところで、「おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島自凝島 檳榔(あじまさ)の 島も見ゆ 放つ島見ゆ」という仁徳天皇の読んだ歌ですが、「淡道島」で読んだって書いてあるんですよね……「難波の崎」で読んだわけではなさそうなんですが……)
というわけで、『官幣大社生国魂神社誌』にある、「文徳天皇 嘉祥二年八十島神祭行はる、この後御代初毎の恒例とせられき。」……「八十島祭」について、同じく『官幣大社生国魂神社誌』より、
第十一 八十島神祭
八十島神祭は難波海に行はれ、我か大神を祭りて国土の生成を祈請し其の神恩に奉賽するものにして、実に国家の重典なりとす、後其の本義を誤りて御一代一度の祓禊の式とせらる、この祭祀は、世に其の事を記せる書甚だ多きを以てここには要項を挙ぐるに止む
(略)
【神祇志料 五】
八十島祭、蓋住吉神、大依羅神 各四座 海神、垂水神、住道神 各二座 を祭て、狭國は広く峻國は平けく、島の八十島墜る事なく依し奉る事を祈る、故之八十島祭と云、延喜式 文徳天皇嘉祥三年宮主占部雄貞、神琴師菅生朝臣未繼、典侍藤原朝臣泉子、御巫榎本連浄子を摂津國八十島に向はしむ、八十島祭蓋此に始まる、
文徳実録 延喜の制、御巫、生島巫、及史、御琴師 一人 神部 二人 内侍、内蔵属 一人 舎 二人 を難波津に遣して此祭を行ふ、住吉神祝、大依羅、垂水、海、住道祝等又之に預る、中宮、東宮共に此祭あり、
延喜式○中略 朱雀天皇承平三年、典侍滋野朝臣縄子 (略) 難波津に至て八十島祭を行ふ、
日本紀略 此後天皇即位の後一度此祭を行はるるを恒例とす、日本紀略、左経記、西宮記、江家次第、
○按日本紀略冷泉帝安和二年の後、此祭みえざるは絶たるにはあらず、恒例なればなるべし、
かなり飛ばしましたが、「八十島祭」のことが書かれている部分です。
『延喜式』を引用すればいいのですが、めんどくさいので(をい)、分かりやすい感じに書かれている部分を引用してみました。
ええと……あれ、「生国魂神」も「咲国魂神」も出てきませんけれども……。
前出『八百万神をめぐる 古代王権の謎』では、
「さて、『江家次第』などの記述によると八十嶋祭の祭儀は二つの別々の神事から成っており、最初に執行されるのは「神祇官御琴を弾き、女官御衣筥を披き之を振る」という招魂の神事、もう一つは「宮主膝突に着き、御麻を捧げ禊を修め、禊了らば祭物を以て海に投ず」という禊祓の儀礼である。
(略)
九世紀の後半頃には住吉・大依羅(おおよさみ)・大海・垂水など住吉大神の眷属神・部類神が八十嶋祭に参画し始める。(略)」
とありました。
これは、天皇が即位したのちに行われる祭ですが、天皇が現地(難波の八十島)にはいかないんですね。
なので、「御衣」=「天皇の衣服」に八十島の神を招き、「御麻」=「天皇が「一撫一息」した形代」を禊祓する、というものになっています。
「難波の生島神(八十島の神)」が、「大八洲の霊」に拡張され、その神威を自らに降ろすことで天皇は天皇足りえる、ということのようです。
ただ、『官幣大社生国魂神社誌』では、「後其の本義を誤りて御一代一度の祓禊の式とせらる」と指摘されていますので、本来はそういった神事ではないという説もあるんですね。
ところで。
『八百万神をめぐる 古代王権の謎』で書かれていましたが、「難波の海浜では新しい島が続々と生成を繰り返しているのが観察されるのである。」……って、どういうことなんでしょう?
日本沖合の火山活動で新しい島ができる、というのは最近でもあったことですが、「難波の海浜」ってことは、ようは瀬戸内海ですよね?
そこで「新しい島が続々と生成を繰り返しているのが観察される」って状況が、なんだかぴんときません。
うーむ……と思っていると、ディアゴスティーニからタイミングよく『日本の神社』68号「生国魂神社/大阪天満宮/今宮戎神社」が届きました(奇遇)。
こちらで仕入れたネタを、次回書いてみようと思います〜(あ、続いてしまった)。