べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「坐摩神社」(補)〜大阪めぐり

さて。

まずはこちらから(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第5編摂津名所図会

 

230コマです。

 

坐摩神社ざまかみのやしろ
船場の中央にあり。[延喜式神名帳に云く、座摩神社、大、月次、相嘗・新嘗、勅願所にて伏見院勅額に難波大社座摩神社とあり、又菅公奉納の真筆にも、難波大社とあり、右の勅額は今幣殿に掛る。西成郡の惣社にして、往古は一郡一社の神社なれば、元来西成一郡の生土神なり。例祭六月二十二日・九月二十二日、鳥掛神事十一月十六日。
祭神 生井神・福井神・綱長井神、此三津井神に竃神二座を加へ祭る。神名は波比祇(はびき)神・阿須婆神これを併て五座なり。宮中神三十六座の中なり。
摂社 田蓑神社 俗に斎宮と称す。神功皇后神社
末社 多賀祠・霊符祠・大國玉祠・八幡祠・人丸祠・高良祠・稲荷祠・猿田彦祠・天神祠。
神楽殿 本社の前、北の方にあり。
絵馬舎 神楽殿の東にあり。
抑当社の鎮座は神功皇后十年也。三韓より御凱陣し給ふ時、神武天皇の吉例によつて、御船を浪速の岸浄見石の上によせて、神璽を鎮めて斎ひ給ふ時、賤女醤を献じければ祭らせ給ふ神社なり。旧地は大江岸田蓑島、今の御旅所なり。 已上社説 [三代実録]に云く、貞観元年正月、従四位下を授く、同年九月八日、摂津国難波大社神等、遣使奉幣、爲風雨祈之云云。[延喜式]に云く、凡坐摩御巫取都下國造氏童女七歳已上者充之、若及嫁時充替云云。其外綸旨・諸大将御教書・祈願諸・寄附状等神庫に蔵む。又難波大社の御鎮座あるがゆゑに、社の南を難波町と云ひ伝へ、社務の住所の北を渡邊町といふなり。夏祓の神事に、神輿を御旅所へ渡して、本居の市民おもひおもひ■物(ねりもの)を出して、壮麗たる祭式なり。特に此御社は難波市街繁華の中なれば常に詣人多く、志店社前に連り、芝居観物ありて賑しく、これ皆神徳の餘光なるべし。
御旅所 石町北弥兵衛町にあり。其邊石町石濱の名あり。これ皆むかしの御鎮座石あるのよつての名なり。毎歳六月二十二日神輿を社内の神石に安坐し、神事執行有。往古の遺風なり。」

 

「ざまかみのやしろ」……のっけから。

「いかすり」は難読で、地元では「ざま」と呼ばれているそうですので、いたしかたないかと。

前回の「生國魂神社」も「難波大社」と呼ばれていたのですが、さてどちらがふさわしいでしょうか。

 

続いて、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑より232コマ、

 

坐摩神社 大月次新嘗

(略)祭神坐摩巫祭神五座之内歟、 摂陽群談に、社家記云、祭神神功皇后、凱旋之日於此所飲食也、誉田天皇三年十一月百済辰斯王叛遣紀角宿禰、羽田矢代宿禰令伐之、即日於難波沼中祀之、仍為住吉第一摂神云々、といへり一説なるべし、 ○大阪南渡邊町に在す

摂津志云、旧在八軒屋南石町、今尚有鎮座石方五丈許、俗呼神功皇后憩息石、因爲神幸地、其北曰樓岸、旧有数十小祠皆属域内、天正中遷置圓江側」

 

祭神神功皇后也」という説を紹介していますが、どうなんでしょう。

だったら、そのままお祭りしたところで問題はないと思います。

『摂津名所図会』では、摂社になっていますし(現在は境内摂社からなくなっていますが)。

 

うーん、何か面白くない……。

 

ここはやはり「坐摩大神」について探ってみないといけないでしょうか。

延喜式』は面倒なので、『神社覈録』より(45コマ)

 

坐摩巫祭神五座 並大月次新嘗

坐摩は爲加須里(いかすり)と訓べし○職員令集解に、巫右京居摩一口、給盧守一人、又免戸調役、臨時祭式に、凡坐摩巫取部下國造氏童女七歳以下者、充之、若及嫁時、申弁官充替、四時祭式に、四月御川水祭坐摩巫、行事、
祝詞考 新年祭祝詞注に、座摩は、本摂津國、西成郡の所の名にて、式にも、同郡に同神の社あり、此次に皇神の敷坐云々ちふ文にも依に、いにしへより、この大神の敷坐し所に、仁徳天皇、宮造りし給ひて、宮中に斎ましし故に、其後大和、山城と、京を遷されても、同じくうつし斎はれて、そこを即座摩といひしなるべし、といへり、猶考ふべし、又云、是をゐがすりといふ言は、令集解に、居とも書しかば、ゐとよむ事は定かなり、然れども、居も座も借字并之後ちふ、所の名にや有けん、志を、すといふは、音便なり、さてこは御井の神の祭也、又式に、御川水の祭にも、此座摩御巫を、用ゐらるるをおもふに、そのはじめ、井の辺に坐す神を、御井の神と祭られしにや、と云り。

生井神
福井(さくい)神
綱長井神
(略)祝詞式 新年祭祝詞 には、栄井津長井と書り、(略)○旧事紀 天皇本紀 に、神武天皇元年、 中略 坐摩是大宮地之霊、今坐摩御巫斎祭矣、 古語拾遺亦同 前件三柱は、いかにも井の辺に坐せる水神なるべし、さて摂津國西成郡坐摩神社に在す神ぞかし、
(略)
波比祇神(はひきのかみ)
(略)
阿須波神(あすはのかみ)
(略)古事記 神代段 大年神、又娶天知迦流美豆比賣生子、 中略 阿須波神、次波比岐神、旧事紀亦同
前件二柱は、大嘗会悠紀主基の斎郡にても、八神の中に祭れり、万葉集廿、上総國防人歌に、爾波奈加能、阿須波乃加美爾、古志波佐之、阿例波伊波々牟、加倍利久麻但爾、とよめるにても、阿須波神の庭中を護り給ふことは明か也、 連胤 按るに、坐摩以下の御巫の祭れる神、悉く本社あり、阿須波神は越前國足羽郡足羽神社也、然るに波比岐神を重に祭れる所を知らず、故つらつら考るに、伯耆國河村郡波々伎神社は、即ち國名神号ともに波比伎の転訛にて、 調度の箒といふ物の名も、此神号によれるにや、宣長が波比岐ちふ名義の、強■は従ひがたけれど、伯耆の名義は、箒より出たる由などあるにや、といへるはいと近きここちす、 此神も庭中を掃清むる事を、もはらとせるより、阿須波神と等しく祭るにぞ有べき、猶考ふべし、
(略)
前件五柱の神を祭れる事は、当時すら明かなるを、旧事紀に、大宮地之霊とのみありて、此神号を載せざるは、故ある事なるべし、大宮地之霊とは、即ち水土をいふなるべし、此神は摂津國西成郡坐摩神社 大、月次、新嘗、 が本社也といふ、されど五座とはなければ、恐らくは井の神を祭れるが初にて、阿須波神波比伎神は、後に合せたるにもやあらむ、また和泉國和泉郡積川神社五座 も、此五柱の神也とぞ。
(略)

 

「この大神の敷坐し所に、仁徳天皇、宮造りし給ひて、宮中に斎ましし故に、其後大和、山城と、京を遷されても、同じくうつし斎はれて、そこを即座摩といひしなるべし、といへり、猶考ふべし」

……ざっくりいうと、この神様のいらっしゃるところに仁徳天皇が宮を造って、宮中に祀った。後、都を大和、山城とうつしても、同様にうつして祀り、その場所を「座摩」と言った」、ということでしょうか(「まだまだ考えないといけないよ」とあります)。

「いかすり」は固有の地名ではなく、なんらかの(「神の仕業」的な)現象が生じる場所を「いかすり」と呼んでいて、これを宮中でも祀ることにした、と考えられるのかもしれません。

「式に、御川水の祭にも、此座摩御巫を、用ゐらるるをおもふに、そのはじめ、井の辺に坐す神を、御井の神と祭られしにや」ということもあって、「井の神」と考えられたのではないかと。

もっともこれらは『祝詞考』の説です。

生井神 福井(さくい)神 綱長井神

と、「御井の神」三柱が書かれていますが、それぞれ、

 

「井戸が生まれる(=湧く?)

「井戸が溢れるほど湧く(「栄」という字をあてることもあったようですので。むしろ「幸」で、幸運なほど湧いているかも)

「垂らす綱がとても長い(=深い)井戸」

 

という意味でしょうか。

どう考えても、井戸の素晴らしさを称えたようにしか見えません。

こうした三位一体(あるモノをその状態によって分割する)は、「住吉三神」や「宗像三女神」などにも見られますので、ある時期の流行あるいは特徴なのかもしれません。

やっぱり「坐摩大神」は、「井戸の神様」だったのでしょうか。

では、波比祇神(はひきのかみ) 阿須波神(あすはのかみ)」と二柱くっついているのはなぜなんでしょうね。

古事記』では、「大年神」の系譜で出てくるこの二柱、

 

日本の神様読み解き事典

日本の神様読み解き事典

 

 

↑では、「阿須波神」は足場、足元の意味、『万葉集』の歌に書かれている通り、庭に祀られている神だとしています(旅の神とも考えられるようです)。

波比岐神」は「這入者」でよく意味はわかりませんが、『神社覈録』では「箒」の意味で、こちらも庭に関係していると。

どちらも「屋敷」に関係する神だと解釈する説があるようです。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 日本建国神話

 

↑の53コマに、

 

阿須波神波比岐神二柱の神は、大宮地の霊として天皇の大宮地を守りたまふ神に坐ます、後の世に座摩の御巫の祭りたてまつる神なり。祈年祭に此神にも幣帛たてまつりたまふ。
祈年祭祝詞
座摩の御巫の称辞竟へたてまつる。
皇神等の前に白さく、生井栄井長津井、阿須波婆比支と御名は申して称辞竟へたてまつらば、皇神等の敷きます下津磐根に宮柱太知立て、高天原に千木高知りて皇御孫命の瑞乃御舎を仕へたてまつりて、天乃御蔭日乃御蔭と隠りまして、四方國を安國と平らけく知しめすがゆえに、皇御孫命の宇豆の幣帛を称辞竟へたてまつらまくと宣る。」

 

と、祈年祭の祝詞が掲載されていました。

「皇御孫命の瑞乃御舎を仕へたてまつりて」というところにも「屋敷神」としての性格が出ています。

『神社覈録』の、「前件五柱の神を祭れる事は、当時すら明かなるを、旧事紀に、大宮地之霊とのみありて、此神号を載せざるは、故ある事なるべし」という指摘、また、これは「坐摩神社」に祀られている神であろうとしながらも「されど五座とはなければ、恐らくは井の神を祭れるが初にて、阿須波神波比伎神は、後に合せたるにもやあらむ、」という指摘には、鋭いものがあるのだと思います。

ともかく、「生國魂神社」の御祭神大八洲之霊」、「坐摩神社」の御祭神「大宮地之霊」、というように『古語拾遺』(『先代旧事本紀』も)で書かれているのは、「生國魂神社」が国全体を、「坐摩神社」が宮城の守護神だった、ということを意味しているのでしょう。

さて、

 

○こちら===>>>

難波之古図

 

↑「生國魂神社」でも引用した古地図ですが、「生玉社」を西に行った岸に「座摩社」が見えると思います。

Wikipediaの「坐摩神社」の項で、

 

○こちら===>>>

坐摩神社 - Wikipedia

 

「『延喜式』によれば、坐摩巫には、都下国造(つげのくにのみやつこ)の7歳以上の童女を充てるとされ、西から来る穢れを祓う儀式を行うといわれる。」

 

と書かれています。

こちらの記述が正しいとすれば、「生國魂神社」と「坐摩神社」の位置関係の意味が多少見えてくる気がします。

「西から来る穢れ」がなんだったのか、当時の人にしかわからないでしょうが、それをひとまず祓う必要があった、と。

「島が生まれては消える」ほどの勢いのある川では禊にならないでしょうから、清浄な水域として「井戸」が必要だった。

また、「井戸」を守るための神として「阿須波神」と「波比岐神」が祀られた。

ところで、「坐摩巫」が「7歳以上の童女」を充てていた、という条件が、ちょっと引っかかります。

なんといいますか……「人柱」の気配がしませんか?

普通はしませんね……だいぶ脳みそをやられているようです。

「穢れ」に対抗するには、大きな「穢れ」が必要です。

特に、境界(川)の向こう側からやってくるのであればなおさらです(境界を越えてくるほど強いので)。

「人柱」の童女をですね、川に突き落としていたんじゃないかと。

そこで発生する怨念を以て、「穢れ」を制していたのではないかと(なだめていた、ともいいますが)。

これ、「八岐大蛇」と同じ構図です。

 

 

あるいは、「生井神」「福井神」「綱長井神」という名前からすると、川の影響でたまたま「井戸」が生まれていた、としたらどうでしょう。

「福井(さくい)」が、「幸いの井戸」ではなく、文字通り「裂けた井戸」だとしたら。

そしてとても深い井戸だったとしたら。

「人柱」をそこに突き落としますよね、多分(?)。

 

 

 

 

 

坐摩神社」の起源は、そんなところにあったんじゃないか、と妄想してみました。

「いかすり」の語源には立ち入りませんが、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 座摩神の新研究 : 兼実公真筆本神名式の訓に基く「座摩神」の名義に関する一考察

 

こんな本もあります。

 

 

それから「陶器神社」ですが、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 府社現行特殊慣行神事

 

↑の9コマに祭礼の様子が書かれていましたので、引用しておきます。

 

「陶器神社祭(七月廿三・四日)
一、起源及沿革
この神社は今坐摩神社の境内神社となってゐるが、元は西区靭南通一丁目(今市電信濃橋交差点)に鎮座せられた独立の神社であつたが、明治四十年市電敷設のため、他に移転の必要に迫られ、陶器商たる同神社信徒の懇望によつて、当時坐摩神社の境内に移御して以来、その境内神社となつたのである。
今その御祭神は、迦具突智大神、大陶祇大神であるが、昔は地蔵尊をもお祀りしたと云ふことである。伝説によると、その尊像は、今を去る百七十餘年前に、阿波堀の中から出られたものであつて、その初めに当つては、靭の濱納屋に安置せられてあつたが、其の後上記、靭南通一丁目にお祀りして、其の像を安置したと云ふことである。元来この地蔵尊は、防火の神として崇められ、徳川時代に於ては毎年七月二十四日に地蔵会が行はれて、その前後には旧瀬戸物町即ち西横堀川に沿へる西側の町々は(南は新町橋西詰辺から北は京町橋西詰辺迄)瀬戸物の商家櫛比し、是等の商家にては、思ひ思ひに、陶器を以て歴史に因めるもの、芝居に因める物など、色々造物をして店頭を飾り、一般市民に見せたものである。市民の之を見物に出かくるもの堵をなし、殷賑雑踏名状し難い。この間商買にては世に所謂誓文払を思はしむるが如き商買振りをなして、多くの商品を捌くのである。その人形の構造頗る巧妙を極む。今尚ほ其の遺風を守り浪花名物の一として著名である。

二、神事執行の模様
神事執行の模様は、現今は普通の祭礼と別に変つた事は何も無い。唯数拾年以前から、陶器神社の境内にも瀬戸物の遺物を必ず一つ造つて一般に縦覧せしめ、祭典の後に、笹につけた陶器の瓢を一般に授典する。之は迦具突智神の故事によつたものである。昔の所謂地蔵会と称した時代の祭礼の賑ひについては、『摂津名所図会大成』に於て、幕末に於ける浪花の文人、暁鐘成は次の如くいつてゐる。
『横堀陶器地蔵会……例年七月廿三・廿四両日を以て祀る。当尊は洛西愛宕山権現の本地将軍地蔵の霊像同体にして甲冑を帯し馬に乗給ふ。往昔より火災の難を除かせ給ふこと掲焉く萬一過ちの出火ありとも其家を限りて隣家に火の移ることなく、朝暮安堵の思ひをなすこと偏に此尊の利生なりとぞ、然れども平日は小堂に祭るといふにもあらず、町内の在家に秘蔵し唯七月地蔵会の両日のみ取出し浜辺の明地に仮堂を修理仏前の荘厳美を盡し、張抜の鳥居紙細工の石灯籠等を建て、提灯は街に充満し、其上瀬戸物一式の造物等許多ありて、賑しきこと言語に絶す。俗に瀬戸物町の地蔵と称す。凡そ浪花中に於て地蔵尊の魁たる者にて寺社の法会にも劣ざる群衆なり。実に一奇観といふべし』」

 

 

 

大阪にきたのはよんどころない行事のためなのですが、そのよんどころない行事が催されるすぐ隣に、

 

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坐摩神社」の行宮を見つけてしまい、なんとも不思議な気持ちになりました。

 

 

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「鷺丸」は、当神社の神紋、だそうです。

由来は、公式HPをご確認ください。

 

 

さて、さすがに足がパンパンになってきましたが、もう少しだけ時間があるので、せめてもう一ヶ所くらい……とスマートフォンの地図を格闘しておりました。

雨はもう上がっております。