べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「生島足島神社」(補)

さて。

長野県には、残念ながら『信濃名所図会』というものはありませんので、国会図書館デジタルコレクションをあさってみて、

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 信濃史蹟. 下

 

がヒットしました。

1912年発行、ということで100年くらい前の本です。

本当は江戸時代以前の姿が知りたいのですが、とりあえず、41コマからの記事を(引用にあたって旧字をあらためた箇所有り/判読不能文字は■に置き換える)。

 

生島足島神社 建御名方命の遺址

小縣郡上田町を距ること、西南一里半にして、東鹽田村下之郷の小部落あり。国弊中社生島足島神社のある所。人烟稠密なる小縣平原の一隅に位する、其の約四千坪の社域は、敢て崇巌神秘の霊境と云ふを得ずと雖も、延喜式名神大の二座として、口碑旧慣、神代の古を語り、史乗屢々其の名を伝ふ。社格国弊中社に列し、一郡の崇拝する所となる、亦宜なりと云ふべし。

社殿は、南を本殿となし、生島大神足島大神の二座を合祀し、周らすに池苑を以てし、水を隔てて北方の摂社諏訪神社に対す。域内の建造物は、今を距ること六百三十餘年前、即ち建治年間、北條義時の孫北條義正入道道祐の、来りて居館を隣郷前山に営みたる際、郷民に命じて大修繕を施さしめたるもの。爾来、幾多の戦乱を経たるも、倖にして兵■の災を免がれて今日に及ぶ。即ち、本殿は古来改築せしことなく、大破に及ぶと雖も、唯屋上及び外部の修繕を施すのみ、改造は其の厳禁する所たり。而して、腐蝕多年、終に修繕し得べからさるに至れば、上覆を施して、本殿を其儘包囲し、以て旧観の維持に努むと云ふ。

抑も生島足島の二神は、古語拾遺に『生島是大八洲之霊』とあるが如く、一に生国魂神、足国魂神とも称し、我が国建国の理想神なり。蓋し、生島は国家の生々発展を意味し、足島は国土の肥沃豊穣を語る。始め、神武天皇中国平定の業了り、神籬を建てて諸神を祀り給ふに当り、生島大神の名亦其の中に存す。後世に至りて、之を宮中に祀り、神祇官内に生島御巫を置く。延喜式新年祭の詞に曰く、

生島御巫辞竟奉皇神等生国足国御名者白辞竟奉者皇神敷坐島十島者谷蟆狭度極■沫留限狭国者廣峻国者平十島墜事無皇神等依左志奉故皇御孫宇豆幣帛乎稱辞竟奉久登

即ち、二神の理想を以て、皇風を六合に洽からしめんとする者に外ならず。

本社の縁起として、口碑の伝ふる所によれば、神代の昔、建御名方命、軍敗れて東に奔り、越の国より科野に入るに当り、暫く居を此の地に営む。二神は即ち命が当時奉祀せる者なりと。現今、御移(みわたり)の神事とて、毎年十一月三日の夜、摂社諏訪神社の神霊を南本殿に移し、其の夜より翌年四月十三日まで、御籠の神事と称して、毎夜粥を本社神前に供する神事あり(中世以降七日目毎の夜に献供のことに改む)。蓋し、建御名方神命駐■の故事を遺伝せるものか。

崇仏の風上下に浸潤して、本地垂迹の説興るに及び、此處にも亦神寺の創建あり。明治維新に至るまで、工藤、宮下、清水、小山等の神官以外神宮、長福、龍泉の三寺相並びて奉仕せしが、維新の際、神宮寺は復飾して松島氏と称し、龍泉寺亦伊藤氏と改め、而して、長福寺は退去したれば、現今は、唯三寺の遺址を存するのみ。

本社の最初の授位の年代は明らかならざるも、文徳実録文徳天皇の嘉祥四年正月庚子詔天下諸神不論有位無位叙正六位とあるによりて考ふれば、式内名神大の本社亦其の中に列したること疑ふべからず。次は、清和天皇の貞観元年二月十一日にして、正四位下を授けらる。古来二月十一日を以て本社の神位進階の日と称して、神位祭を執行するもの、其の因並に存す。而して、明治六年県社に列し、同丗三年七月十九日、勅使参向、国弊中社に昇進し、以て今日に及ぶ。」

 

長いので、ちょっと中断。

「腐蝕多年、終に修繕し得べからさるに至れば、上覆を施して、本殿を其儘包囲し、以て旧観の維持に努むと云ふ。」……この本では、覆屋を作ったのは、こうした(即物的な)理由だったとしています。

実際はどうなのかわかりません。

「生島足島の二神は、古語拾遺に『生島是大八洲之霊』とあるが如く」とあるので、『古語拾遺』をひっぱり出してみました。

 

古語拾遺 (岩波文庫 黄 35-1)

古語拾遺 (岩波文庫 黄 35-1)

 

 

↑の「神籬を建て神々を祭る」の条の、

 

「爰に、皇天二はしらの祖の詔に仰従ひて、神籬を建樹つ。所謂、高皇産霊・神産霊・魂留産霊(たまつめむすひ)・生産霊・足産霊・大宮売神事代主神・御膳神(みけつかみ)。[已上、今御巫の斎ひ奉れるなり。]櫛磐間戸神・豊岩間戸神。[已上、今御門の巫の斎ひ奉れるなり。]生嶋。[是、大八洲の霊なり。今生嶋の巫の斎ひ奉れるなり。]坐摩(ゐかすり)。[是、大宮地の霊なり。今坐摩の巫の斎ひ奉れるなり。]」

 

「生嶋。[是、大八洲の霊なり。今生嶋の巫の斎ひ奉れるなり。]」という部分を指しているものと思われます。

神武天皇」が大和に入って即位するにあたって、これらの神々を祭ったということですが、それが本当かどうかはよくわかりません。

記紀神話には、ここまで詳しく神の名前が出てこないので、祖先神を奉ることはもちろんあったでしょうが、さてどこまでなのか……。

 

「後世に至りて、之を宮中に祀り、神祇官内に生島御巫を置く。」とあります。

延喜式』の中に出てくるのですが、何しろ手元にないので……、

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑の48コマから記事がありました。

なお、『神社覈録(じんじゃかくろく)』という書物については、

 

神社覈録 - Wikipedia

 

↑を参考にしてください。

 

「生島神 足島神

(略)祝詞新年祭祝詞には、生國足國と書り、◯祭神生國神、足國神、◯旧事紀、天皇本紀神武天皇元年、中略復生島是大八洲之霊、今生島御巫斎祀矣、古語拾遺亦同祝詞同上に、生島は地の名、此生國足國は、國を知ます神の、御功を称へ申なり、といへり、

(略)

前件二柱の神を祭れる事は、当時すら明かなるを、旧事紀に大八洲之霊とのみありて、此神號を載せざるは、坐摩神と同じく故ある者なるべし、大八洲の霊は、即ち國魂をいふべし、此神は摂津國東生郡難波坐生國國魂神社二座名神大、月次、相嘗、新嘗とあるが本社也といふ、また和泉國大島郡生國神社■靭信濃國小縣群生島足島神社二座、名神大 も同神なるべし、抑此二神は、前なる御巫坐摩御門巫等の祭神と、同じき御あしらへなれば、神嘗祭の外は別祭には預り給はざる也、(略)」

 

「前件二柱の神を祭れる事は、当時すら明かなるを、旧事紀に大八洲之霊とのみありて、此神號を載せざるは、坐摩神と同じく故ある者なるべし」……この二柱の神が、宮中で奉られていることは知られているのに、『先代旧事本紀』(また、『古語拾遺』もですが)がこの神の名を載せなかったのは、何か理由があるんだろう……ということです。

この神の本社としては、摂津國東生郡難波坐生國國魂神社」で、和泉國大島郡生國神社」、「信濃國小縣群生島足島神社も同じ神だろうと言われています。

 『古語拾遺』の註には、

 

「(略)この神は八十島祭りに登場する神で、天皇即位の後、摂津国難波に使いを遣わし、海に臨んで、生嶋神・足嶋神と、他の神々を祭り、島国日本の安泰を祈る儀式が行われた。(略)」(p88)

 

 とあります。

どうも、難波にある「生国国魂神社」が本社であることは、この祭りからも有力っぽいですが。

そして、摂津国和泉国は海に面しており(瀬戸内海)、そこで↑のような「八十島祭り」が行われることは十分に理解できるのですが。

 

 

海なし国の信濃で「島の神様」祀ってどうするんだろう。

 

 

もやもやします。

もちろん、こちらの神社が主張しているように、「日本の真中」(付近)なのだし、そもそも「日本」が島なんだからどこで「島の神様」をお祭りしたっていいじゃないかと言われればそれまでですし。

うーん……。

で、『信濃史跡』に戻りますが、

 

「本社の縁起として、口碑の伝ふる所によれば、神代の昔、建御名方命、軍敗れて東に奔り、越の国より科野に入るに当り、暫く居を此の地に営む。二神は即ち命が当時奉祀せる者なりと。」……と、縁起としては「建御名方神」が諏訪に行く途中で立ち寄って二神を奉斎した、ということに尽きるようです。

古代の天皇や皇子、天孫と同時期ですらなく、それ以前の縁起を説く、というのはなかなか珍しいのではないかと思います(それだけ古いのか、「古く作った」のか)。

 

「下

後世、本社が武家の尊崇する所となりしは、既記北條義政の居を隣郷前山に営みし以後のこととなす。

北條義政は、北條義時の三男重時の六男(或は三男)なり。建治三年五月二日、薙髪して道祐と号し、信濃国小縣郡鹽田庄前山に閑居す。時に年三十七。時人之を鹽田殿と称す。前山は現今西鹽田村の一部落にして、今猶、本町、横町、上の馬場等の地名を存す。蓋し、北條氏時代の遺跡多かるべし。

後、大永天文の頃に至りて、前山の北條氏漸く散じて、前山村に福澤氏、石神村に吉澤氏、松本村に工藤氏、五加村に宮澤氏、本郷に甲田氏の五族に分る。而して石上の宮澤家には、現今猶義政入道道祐の木像を伝ふと云ふ。義政入道は、生島足島神社の大修繕を施し、大鐘を寄進する等尊崇浅からず、蓋し、後世本社の神官工藤氏の如き、或は北條氏の末孫に非ざる無きか。

北條氏に次ぎての崇拝者は、武田信玄なり。武田氏が武神として、諏訪神社を尊崇したることは、既記諏訪神社の章に於て之を盡せり。本社亦下之郷諏訪法性大明神として、信玄の帰依浅からざりしものあり。即ち、川中島大戦前、信玄が本社に奉りて、勝利を祈念したる願状、今猶存す。(略)」

 

以降は、現在「歌舞伎舞台」で展示されている「願状」、「起請文」、「真田の朱印状」が書かれています。

 

さてさて。

本神社の縁起を考えると、

 

1)「建御名方神」が諏訪に向かう途中で立ち寄って、生島足島二神をお祀りした。

↓  <荒廃

2)北条義政が再興

3)武田信玄が崇拝

4)以後、上田藩により崇敬される

 

という感じで、古代〜北条義政までの間がよくわかりません(神社の縁起を読めば、もう少し書いてあるのかもしれませんが)。

で、『古事記』の上では、「建御名方神」は、「出雲から諏訪」へ移動しています(この「出雲」がどこにあったのか、というのはさておいて)。

まずこれが、そもそも「「建御雷神」にボコられて逃げてきた」のかどうか、というのが疑問です。

が、ともかく、「武神」の属性を持つ神(を信仰する集団)が、「出雲」から「諏訪」にやってきたのは、事実っぽいです。

中央からすれば、「建御名方神」は「敗軍の将」なのですが、諏訪(信濃)の人達からすると、「征服者」です(「建御名方神」が来る前から、信濃に人は住んでいたはすですから)。

今現在、「諏訪大社」にいるんですから、そりゃ「征服」に成功したんでしょう。

古事記』を拠り所にすれば「武神なのに負けた神」も、信濃を中心として見れば「征服に成功した神」ですから、立派に「武神」です。

だから、「建御雷神」も「建御名方神」も、どっちも「武神」として崇められたのです。

となると、この勝負自体が疑問に思えてきます(『日本書紀』にも、『出雲国風土記』にも載っていない辺りからしても)。

一つの妄想ですが、

 

1)「建御名方神」、出雲を裏切り、天津神の傘下に

2)天津神の軍勢として、信濃へ進軍、征服

3)「建御名方神」、天津神を裏切る

4)天津神むかついたので、ボコられて諏訪に閉じ込めたことにする(『古事記』)

 ↓

5)天津神、『日本書紀』では、そもそもそんな奴(「建御名方神」)いなかったことにする

 

なんてのはいかがでしょうか。

 

 

……いやいや、「建御名方神」じゃなくて、「生島足島」の神のことを書かないと。

 

 

 

 

 

よくわかんないんですって。

 

 

 

 

少なくとも「御柱」は関係ないとして。

建御名方神」が祭った、ということからすると、「出雲」の神なのかもしれないのですが、それにしては「一般名詞」過ぎますし。

「生〜」「足〜」という表現は、例えば「十種神宝」の「生玉」「足玉」や、「出雲国造神賀詞」の冒頭で「八十日日はあれども、今日の生く日の足る日に〜」と出てきたりしますので(平凡社風土記』より)、古代ではよく使われた対の概念なのだと思います。

「出雲」系の神にはそんなお方はどうにも見あたらない。

ということは、地元の神様なのか、と思うと、島もないのに祭られているのがどうにも解せない。

似たような神だというのなら、「生魂足魂神社」でもよかったでしょうに、「島」。

延喜式』の頃から、「島」。

 

 

 

 

もう「諏訪湖にあった島」ってことにしときますか(<をい)。

 

 

 

 

と思って、改めてGoogleマップで「生島足島神社」を見てみたら……何だか周囲に池が多い。

どうやら溜池のようですが……(!!)

 

 

 

「溜池がたくさんある様子が、「八十島」のように見えた」ってことでどうでしょうかお客さん!!

 

 

 

……いやそもそもですね、神社の歴史だけではなく、上田市の歴史を当たらないことには推察もできません。

少なくとも、伝説でも構わないので、鎮座の年代がわかっていてくれないと、宮中で祭られている「生島神・足島神」との関係が整理できません。

というわけで、あとは、上田市郷土史家のみなさまにお任せします……。

 

 

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 境内には、こんな歌碑もありました。

 

 

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 味のある墨書です。

 

 

ここからは、時間との勝負で、ゴールはあのお寺、その間にいくつかお寺を回りたいと思います。