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神社仏閣ラブ(弛め)

「宇治神社」「宇治上神社」(考)

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第1編都名所図会

 

↑『都名所図会』から引用してみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

306コマです。

 

離宮八幡宮 は橋寺の南にあり。祭る神三座にして、上の社は応神天皇仁徳天皇、下の社は菟道の尊を崇め奉る。 これ平等院の鎮守なり。宇治郷の産沙神とす。神輿三基、例祭は五月八日。

杈(またぶり)社は当社の北にあり。離宮摂社なり。 離宮と號することは、此地に宇治宮ありしゆゑ、自然の称号なり。又一説には、当社の神は、民部卿平忠文が霊を祭るともいへり。則此地忠文が別荘にて、朱雀院の御宇、承平三年三月、平将門征伐のとき、秀郷、貞盛、忠文等将軍として、ことゆゑなく将門を追討せしにより、勅賞のさたありけるに、小野宮左大臣清慎公、うたがはしきを行はずと申されければ、九條右大臣実頼公宣ふやうは、刑のうたがはしきをば行はず、賞のうたがはしきをば行へとこそ承り候へと申されけれども、遂に忠文には其沙汰なかりけり。忠文本意なき事に思ひ、手を握りて立ちたりけるが、八つの爪手の甲まで通りて、血は紅をしぼり、断食して死にけり。其まま悪霊となり、さまざまな祟をなしければ、小野の家は絶えにけり。かくて此霊を宥めんため、神にいはひて宇治に離宮明神と崇め、御冷泉院の御宇、治暦三年十月七日、正三位をさづけ給へり。


朝日山 は離宮の後山をいふ。菟道尊陵、朝日観音此山腹にあり。」

 

305コマには図絵もありますので、江戸の頃の様子がわかりますが、現在もある「興聖寺」というお寺が大々的に取り上げられておりまして、記事も図絵もちらっと、です。

それはともかく、↑『都名所図会』が書かれた当時の認識ですと、

 

離宮八幡宮=「宇治上神社」+「宇治神社」

 

のようです(あ、前回の由緒にも書いてありましたかね)。

 

「祭る神三座にして、上の社は応神天皇仁徳天皇、下の社は菟道の尊を崇め奉る。」

 

という御祭神からすると、現在の「宇治神社」である「下の社」は「菟道稚郎子」、現在の「宇治上神社」である「上の社」には「応神天皇」「仁徳天皇」を祀っていた。

しかし、何かの事情で「下の社」から「上の社」に、「菟道稚郎子」をお遷しした、ということなんでしょうか。

 

「当社の神は、民部卿平忠文が霊を祭るともいへり。則此地忠文が別荘にて、朱雀院の御宇、承平三年三月、平将門征伐のとき、秀郷、貞盛、忠文等将軍として、ことゆゑなく将門を追討せしにより、勅賞のさたありけるに、小野宮左大臣清慎公、うたがはしきを行はずと申されければ、九條右大臣実頼公宣ふやうは、刑のうたがはしきをば行はず、賞のうたがはしきをば行へとこそ承り候へと申されけれども、遂に忠文には其沙汰なかりけり。忠文本意なき事に思ひ、手を握りて立ちたりけるが、八つの爪手の甲まで通りて、血は紅をしぼり、断食して死にけり。其まま悪霊となり、さまざまな祟をなしければ、小野の家は絶えにけり。かくて此霊を宥めんため、神にいはひて宇治に離宮明神と崇め、御冷泉院の御宇、治暦三年十月七日、正三位をさづけ給へり。」

 

↑こちらは、

 

○こちら===>>>

「橋姫神社」〜奈良・京都めぐり〜 - べにーのGinger Booker Club

 

↑「橋姫神社」の記事でも紹介した「悪霊民部卿」こと「藤原忠文」が祀られていたのが、摂社「杈(またぶり)社」だということですね。

wikipediaによれば、今は「末多武利神社(またふりじんじゃ)」と書くようです。

地図見たら、明らかに「宇治神社」に行くまでに通り過ぎてるんですよね……(がっくり)。

これもスマートフォンのバッテリーが少なかったのがいけないのです(ええそうですとも)。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑でとりあえず、式内社としての「宇治神社」を見てみましょう。

134コマです。

 

「宇治神社二座 鍫靱
(略)○祭神菟道稚郎子、 風土記一座は詳ならず。 ○今離宮末社 三室戸村二座是乎、 名勝志 ○日本紀仁徳天皇巻云、四十一年春二月、譽田天皇崩、時皇太子菟道稚郎子、譲位于大鷦鷯尊、 中略 既而興宮室於菟道而居之、 中略 乃且伏棺而薨、 中略 仍葬於菟道山上、 式廿一、 諸陵 宇治墓、菟道稚郎子、在山城国宇治郡 下略 ○惣国風土記残缺云、宇治神社、圭田三十九束三字田、所祭菟道稚郎子也、推古三年乙卯五月、始奉圭田加神体、有神家巫戸等、世称宇治八幡、
山城志云、宇治馬場町、称離宮有上下二座、 速胤 按るに、当社と離宮は別社なるべし、故に名勝志に従ふ、なほ式外離宮の條下考へ合すべし」

 

ここで言う「宇治神社」は、『都名所図会』のいう「離宮八幡宮」とは別だ、と最後に書いてありますね。

155コマを見てみますと、

 

「宇治離宮
祭神詳ならず○宇治郡宇治橋北に在す、 名勝志○諸社根元記曰、旧記云、此神者廃太子、云云、又文民部卿二人爲彼地主
盛衰記云、 民部卿忠文ヲ神ト祝奉、宇治ニ離宮明神ト申ハ是也 名勝志云、按皇極天皇宇治離宮之地祭此神乎、故称離宮明神乎、」

 

うーん……こちらは「此神者廃太子(おそらく「菟道稚郎子」のこと)と「忠文民部卿」が御祭神の「離宮明神」というのがあるのではないか、と。

 

もともと、式内社の「宇治神社」の二座というのは「菟道稚郎子」と不詳の御祭神だった(場所は、「菟道稚郎子」の御墓のあるあたりか?)。

→そこに、(おそらく)父である「応神天皇」が合わせて祀られ、「宇治八幡」となった。

→その「宇治八幡」を、かつて「菟道稚郎子」の離宮があった辺りに遷した。

→いつのまにやら「離宮八幡」と呼ばれるようになった。

→「離宮」つながりで、「宇治民部卿」と言われた「藤原忠文」の怨霊話が混ざってきた。

 

といったところでしょうか……うーん。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑一応こちらも見ておきましょうか。

54コマです。

 

「宇治神社二座 ○称宇治離宮又宇治八幡
祭神 宇遅和紀郎子 大鷦鷯命
今按社伝に下社ハ応神仁徳の二天皇を祭り今一社の方は菟道稚郎子尊を祭り神祭の時神輿を渡し奉るの式あり輿中には三座をまさせ奉る由云るによる時は稚郎子一座を祭れるが式の宇治神社の一座にて下社は二座の内一座を分ち祭れる社ならん其一座は仁徳天皇にますべきを御父応神天皇を配せ祭りしにやあらん此社の主神の稚郎子にますことは社伝にて著く又疑はしき書なれど惣国風土記にも所祭菟道稚郎子也とあるも傍証とはすべきなりさて書紀 仁徳巻 に四十一年春譽田天皇崩時皇太子菟道稚郎子譲位于大鷦鷯尊云云既而興宮室於菟道而居之猶由譲位於大鷦鷯尊以久不即皇位云云太子曰我知不可奪兄王之志豈久生之煩天下乎乃自死焉時大鷦鷯尊聞太子薨去以驚之従難波馳之到菟道宮云云仍葬於菟道山上とある故実によりて其一座は仁徳天皇を祭りしを分座の後に応神天皇を配享し終に宇治八幡と云称も起こりしものなるべければ今は祭神を定めて記せり
(略)
所在 (略)
今按山城名勝志離宮明神 宇治橋北二座五月八日祭之 また宇治神社土人云今離宮ノ祭日辰ノ刻警蹕神輿渡也三室戸古道彼方三郷ノ民役之離宮末社三室戸村二座大鳳寺村一座祭之是云宇治神社二座彼方神社一座乎とみえて離宮明神と宇治神社とは異なる社とせり然るを山城志に宇治馬場町離宮有上下二宮とあれど神社覈録に当社と離宮は別社なるべし故に名勝志に従ふとあり明細帳に宇治郡惣社菟道宮離宮鎮座下社祭神応神天皇仁徳天皇離宮鎮座菟道宮祭神菟道稚郎子尊とみえ両社ともに神祭四月八日神幸ありて五月八日帰座す神輿三座中聖化天皇 稚郎子尊也 左応神天皇仁徳天皇と云ふによる時は此離宮は宇治稚郎子尊を主とし二座を合せ祭れるにて式の宇治神社なるべし附て考に備ふ」

 

うーん、社伝では「上」の御祭神が「菟道稚郎子」で、「下」が「応神天皇」「仁徳天皇」、となっているようです(『都名所図会』とは逆ですね)。

「上」を今の「宇治上神社」だとすると、もとはそちらに「菟道稚郎子」が一柱で祀られ、「下」に「応神天皇」「仁徳天皇」が祀られていた。

それも、もともとは「仁徳天皇」をお祀りして、そこに「応神天皇」を合わせて祀った、と。

さらには、「宇治神社」と「離宮明神」は別なのだ〜、いや別じゃないのだ〜、とかもうよくわかりません。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 宇治誌

 

↑から「宇治神社」の記事を(105コマ)。

 

「府社 宇治神社
祭神菟道稚郎子尊。ーー宇治の急湍に臨み、杉樹鬱蒼たる處、朱の鳥居あり、町の産土神である。此地もとは宇治郡に属し、延喜式同郡宇治神社二座の中で、その下の社であり。仁徳天皇元年五月に創祀され、桐原日桁宮居を神殿に改めたもので、延喜年中朝廷より国司に修造せしめられたが、後ち荒廃し。永承年中藤原頼通平等院建立に際し、先づ本宮を造営し平等院の鎮守とされ、幣帛、神馬を献じ、郷民は競馬、田楽等を行うて祭祀を盛んにし、藤原忠実も田楽、散楽を行はしめたことなど諸記に見え之れを離宮祭と称した。神宝には垣内の雪を除いて出たとの伝説ある所謂「雪掻の翁面」、修理職竹田道清作の雌雄獅子頭、慶長十六年徳川氏の寄贈せられた三十六歌仙絵、永禄四年の刻ある直径三尺の鳥居の鐡銅輪等がある。
宇治神社の昇格運動を熱心に提唱した人に熊本県人松雨磯田正敬がある。氏は当時東京に居住した国学者で、菟道稚郎子尊と、長慶天皇と官祭にすべく、これを畢生の事業とし。偶然東京で相識つた上林松壽と携へて帰宇し、有志を糾合し、明治十八年五月二十九日宮内、内務両卿に建言書を提出し、次で翌年二月祭祀願書を内務大臣に提出したが、いづれも徒労に帰したのであつた。後ち明治二十九年頃、第二回の昇格運動を起した時は、長者彦介の親族に代議士石原半右衛門があつて、石原代議士を介し神鞭知常と知り、昇格運動に一膂の力を請ふたのである。
恰かも縦し、神鞭代議士の法制局長官たりし時代に下僚であつた季家隆介が、当時神社局長であつたので、神鞭より神社局長へ接衝の途が開かれたが、神鞭の高圧的な交渉に反感を抱いた季家局長は、食卓荻野仲三郎を派遣して事実を歪曲した報告書を提出せしめたのであつた。それに依ると宇治神社の祭神菟道稚郎子尊にあらずして宇治宿禰であると云ふにあつた。されば郷民の熱心な昇格運動は遂に長上官に侫ねる歪められた考證に災ひされて沙汰止みとなり、官祭の望みを失ふに至つたが。後ち明治四十四年十二月十二日府社に昇格したのである。(宇治神社に就ては、別稿桐原日桁宮と其所在ーーに詳説したので重複を避け省略する)
境内八社ーー春日神社(建甕槌命、齋主命、天兒屋根命)。日吉神社大山咋命)。住吉神社(表筒男、中筒男、底筒男、神功皇后)。以上三社上屋、桁行四間。広田社(蛭子命)。松尾社(市杵島姫命)。高良社(武内宿禰)。稲荷社(倉稲魂命)。伊勢両宮(天照大神国常立尊)以上四社上屋、桁行四間、梁行二間。」

 

延喜式同郡宇治神社二座の中で、その下の社であり。仁徳天皇元年五月に創祀され、桐原日桁宮居を神殿に改めたもので、延喜年中朝廷より国司に修造せしめられたが、後ち荒廃し。永承年中藤原頼通平等院建立に際し、先づ本宮を造営し平等院の鎮守とされ、幣帛、神馬を献じ、郷民は競馬、田楽等を行うて祭祀を盛んにし、藤原忠実も田楽、散楽を行はしめたことなど諸記に見え之れを離宮祭と称した。」

 

↑という説もあるようです。

あれ、この話どこかでも引用した気がするな……気のせいかな……。

 

108コマには「宇治上神社」の記事があります。

 

宇治上神社
祭神応神天皇菟道稚郎子命仁徳天皇の三柱で、宇治下神社の奥にある。詳しくは別稿「桐原日桁宮と其所在」に説いた。例祭五月八日。
宇治上神社の本殿は、我が国に現存する神社建築中最古に位するもので有名である。間口の広い切妻造の覆屋の中にあり、一間社流造が三殿並んでゐる。その中央の一殿は独立してゐるが、左右両殿は外屋に接触し、一方の側柱を共有してゐる。社伝に延喜年中の建立といふが、それほどでなくとも、少くとも鳳凰堂と同時代と考へられる。尤も外屋は更に時代が降るであらう。拝殿はもと宇治離宮の遺構と伝へ、五間三面の切妻造であるが、左右に廂を出してゐるので、一見入母屋造に見える。全体に軽快明朗な住宅気風が漂ひ、宇治離宮の遺構であるか否は別として、鎌倉時代の住宅建築の参考として貴重な資料である。春日社は一間社流造の小社であるが、正面昇勾欄の擬宝珠はよく鎌倉時代の特色を表はしてゐる。」

 

↑の両記事で取り上げられている「桐原日桁宮と其所在」もいっちゃいましょう。

14コマです。

あ、思ったより長いですね……分割しましょうか。

 

「桐原日桁宮と其所在
日本書紀応神帝巻によると。十五年秋八月、百済王は阿直岐(アジキ)を遣はされ、良馬二匹を朝貢されたので、馬は軽坂上の厩舎に繋ぎ、阿直岐をして掌り飼はしめられた。この阿直岐はまた能く経典を読むので、稚郎子皇子は師とせられたが、天皇阿直岐に「百済には汝に勝る博士ありや」と問はせられたので「王仁こそ秀れたり」と対へまつれば、然らは王仁を召さんと、上毛野君祖荒國別巫別を百済に遣はされた。
王仁は翌年春二月来朝し、皇子は、就いて諸典籍を学ばれたが通達せざるなく。後ち、二十八年秋9月、高麗朝貢の上表文に「高麗王日本国に教ふーー」の文字あるを、皇子は読まれ、怒つてその無礼を王使に責むると共に、上表を破棄された、とある。
かく聡明博識であらせられたから、父帝はその賢を択び、儲貮となし給ふたもので、皇子の仁孝は、父帝在位の間、黙して献慮に副ひ奉つたが、父帝薨御の後は、宗廟社稷を守る器量に於て、兄大雀皇子の優れたるを思ひ遂に自刃譲位せられたのである。」

 

↑まずは、「菟道稚郎子」の解説です。

ほぼ『日本書紀』によっていますので、改めて引用しなくてもよさそうです。

百済からきた「阿直岐」、また「王仁」に師事して文献をよく読まれたそうで、であれば仏教のみならず儒教にも通じていたのではないか、と推測されています。

阿直岐」はともかく、「王仁」が半島の人間なのかには疑問が残ります(もし「王仁」という名前だとすると、その時代の半島人の名前のつけかたとは結構違っているので、半島にいた大陸の知識人ではないか、とか言われています)。

それはおいておいて、「菟道稚郎子」、高麗高句麗)からの上表文を破棄して、その使いを譴責しているとは結構過激です。

その内容が高麗王が日本国に教えてあげる〜」だったからブチ切れたようですが、これは後の「隋」の「煬帝」が、「聖徳太子」からの手紙に激怒した話と被ります。

一種の「華夷秩序」の表れですね。

菟道稚郎子」の実在はともかく、大陸から輸入した 知識で武装した日本の皇子が、高句麗の無礼に憤慨する、というエピソードが欲しかったのかな、という気がします。

 それを伝えてきたのが百済、というところもポイントでしょうか。

日本と百済は親密、高句麗は敵対関係にあったようですから。


「稚郎子皇子薨じ給ひて後ち即位せられた兄大雀皇子には、その遺言に因り、皇妹八田皇子を召して皇后とせられ、又其妹菟道稚郎女を召して皇妃とせられた事は記紀に昭々たるもので、その稚郎子皇子御在位の時に於ける離宮に就ては筆者の旧友、文学士亡川島元次郎氏は左の如く論ぜられてゐる。
日本書紀に、既而興宮室於菟道而居之ーーといひ又、時大鷦鷯尊聞太子薨、以駕之従難波馳之到菟道宮ーーといふ。この菟道宮の遺跡の何処なるかを考ふるに、山城風土記逸文に、宇道治者軽島明宮御宮天皇之子若郎子造桐原日桁宮以爲宮室、因御名号宇治本名曰許之國矣ーーとあるによりて菟道宮即ち桐原日桁宮なることを知るべし。但し山城風土記の、曰御名号宇治、とあるは信ずべからず。小川氏曰く之より先、垂仁紀神功紀に、既に菟道の名著はる、皇子の御名に因みて地名となすといふは非なりと。蓋し地名に因みて皇子の御名となししなり。(中略)山州名跡志に曰く離宮は上古菟道稚郎子の御所にして「りくう」と称すと(山崎の離宮社を、りきうと云ふにむかへて)吉田東伍氏曰く応神帝の時より此に離宮と置かれ皇太子の時に修造ありしならん。今の離宮社は蓋し其宮址なりと。菟道離宮記略に曰く、往昔菟道離宮の地東は朝日山の東麓志津川御室戸の路を限り、西南は宇治川に沿ひ志津川村山脈を境とし、北は彼方町御幸路を境とし、域内東西十五町南北二十町許りなりと。今上の社後山を称して桐原山といひ、境内の清泉を名つけて桐原水といふ。桐原日桁宮の名彷彿として存するを見るべし。其他後ろに山を負ひ、前に河水を控え、東北遥かに宇治郡の平野に連なる形勝の雄多く見ざる處なり。」

 

「山城風土記逸文に、宇道治者軽島明宮御宮天皇之子若郎子造桐原日桁宮以爲宮室、因御名号宇治本名曰許之國矣ーーとあるによりて菟道宮即ち桐原日桁宮なることを知るべし。」

 

風土記 (平凡社ライブラリー)

風土記 (平凡社ライブラリー)

 

 

↑によれば、

 

「山城の風土記にいう、ーー宇治というのは、軽島の豊明の宮に天の下をお治めにになった天皇応神天皇)の子の宇治の若郎子は、桐原の日桁の宮を造って宮室(おほみや)となされた。それでその[皇子の]御名によって宇治と名づけた。もとの名は許乃国(このくに)といふ。(『詞林采葉抄』)(p324)

 

とあります。

また「播磨国風土記」の「揖保の郡」には、

 

「上の筥岡・下の筥岡・魚戸津・朸田(あふこだ) 宇治天皇菟道稚郎子)のみ世にーー(略)」(p92)

 

というように、「菟道稚郎子」と思われる「宇治天皇(うぢのすめらみこと)」という呼称が登場します。

↑の平凡社版『風土記』の注(p141)によれば、「(菟道稚郎子を)天皇とよぶのは『書紀』成立以前の称呼で、その子が皇位についたので追尊していった。」とあります。

他の例としては、「倭武天皇」「市辺天皇があります。

平凡社版『風土記』の説をそのまま受け取るには、私の知識がなさすぎますので、なんともいえません。

ただ、「応神天皇」の死後、「菟道稚郎子」と「大鷦鷯尊(仁徳天皇)」の間で権力が分断されていたとして、先帝の宮に皇太子である「菟道稚郎子」がおらず、「大鷦鷯尊」がいたらしいのがどうにも不思議な感じがします。

もともと、「菟道稚郎子」の立太子が正当なものだったのかどうか。

「大鷦鷯尊」は、皇太子に反旗を翻したのではないか。

いろいろと妄想が浮かんできますが、ひとまずここで。

 

「(略)吉田東伍氏曰くこれに依りて源融源雅信等の造営したる宇治院は離宮の故地にあるべく、即ち宇治神社の地は上古菟道離宮の遺跡にして又中古宇治院の故地なりといふ。万葉集巻九挽歌に、宇治若郎子宮所歌一首妹等許、今木乃嶺茂立、嬬待木者、古人見邸乎。釈に曰く「いもらがり、いまきのみねに、しげりたつ、つままつのきは、ふるぞとみけむ」茂立一本に並立に作る、さらばんみたてると読むも可なり。木村博士の校訂に成れる万葉集代匠記に曰く。今歌に今木の嶺と詠めるを以て按ずるに、応神天皇軽島豊明宮にして御世を知らせ給へる時この宇治の若郎子のましましける宮今木の邊にありけるが荒れて後、その宮所とて跡の残れるを見て詠めるなるべし。発句は妹が許へ今来るといふ意におけり、今木の嶺は大和國高市郡なり。斉明紀云、四年五月畠孫建王薨、今城谷上起嬪而収(中略)輙作歌曰「伊麻紀那屢、乎武例我禹杯爾、倶謨娜尼母、旨屢倶之多々婆、那爾柯那皚柯武」又云、十月幸紀温湯、天皇憶皇孫建王、愴爾悲泣、乃號曰「耶黄古曳底、于瀰倭■留騰母、於母之樓枳、伊磨紀能禹知播、倭須羅庚麻自珥」欽明紀云、七年秋七月倭國今来郡云々、此の外雄畧紀、皇極紀、孝徳紀等に見ゑたり。新の一字をも「いまき」と讀める。昔三韓の人の徳化を慕ひて渡り来りけるをおかせ給へる故に此名あり。一説に紀伊國といふ説ある故に今慥に和州なる證を出せり。茂立はしげりたつと読むべし。嬬待木とは松の木のみ云つては語の足らぬ故に斯く云へり。石上袖振りと云ふ類ひなり。ふるびと見けむとは稚郎子皇子の宮所は唯跡をのみ申伝ふるに今木の嶺の松は昔の人もかくこそ見けむを今も替らずして茂りて立てるよと感慨を起すなり。又は皇子の宮の中より御覧せられけむといふ意にや云々。今按ずるに此歌は代匠記解説の如く、皇子の宮所を偲びて詠める歌なり。而して柿本人麿の歌集に出るよし萬葉集に明らかに附記せられたり。扨て代匠記に、今木乃嶺は大和高市郡なる由考へ定めんため斉明記を引きて殊更に考證を挙げられたれば、後の人皆此説を信じ彼是あげつらふものなきは遺憾なり。余惟へらく、斉明記其他にいまきと云ふ地名ありたればとて、■は此歌の今木乃嶺とは関係なし。同一の地名は其他にもあり得べければなり。新撰姓氏録に、山城皇別今木、道守同祖、建豊羽頰別命之後也、又山城神別今木連、神魂命五世孫阿麻乃西孚乃命之後也とあれば、山城國にも今木と称する地なくては叶はず。況んや稚郎子皇子の宮所は山背菟道の地にありしこと紀の文に明瞭にして、大和國高市郡は皇子の御事跡と何ら関連する所なきに於てをや。山城志に曰く、今来嶺在宇治彼方町東南今曰離宮山、朝日山在今来嶺東、山不高而靈、清流廻麗、望之舟霞翠靄早迎朝㬢、仍名と、是れ最後の鐵案たらずんばあらず。

而して今木乃嶺は即ち離宮山を指すものなるを解せば此の妹等許一首の歌意は自ら分明にして、亦如上の宮址を宇治神社境域の地と考定する有力なる証左たるべき也。又同集巻一、明日香川原宮御宇天皇額田王の歌に「あきの野の、みくさかりふき、やどれりし、菟道の都の、かりいほしおもほゆ」此歌は斉明天皇行幸ありし時、宇治に行在所を設けて宿らせ給ひしことを詠ずれど、菟道乃宮子能といへるを見れば、亦稚郎子皇子の御遺跡を懐しみてのすさびなるべし。云々。」

 

歌の解説を通して、「桐原日桁宮」の所在が宇治である、ということを説明しているようです(ちゃんと読んでない)。

「あきの野の、みくさかりふき、やどれりし、菟道の都の、かりいほしおもほゆ」

という、『万葉集』所載の「額田王」の歌を元に、

 

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「菟道稚郎皇子御墓」「彼方神社」〜奈良・京都めぐり〜 - べにーのGinger Booker Club

 

↑でも紹介した喜撰法師「我が庵は宮この辰巳 しかぞすむ 世をうぢ山と人はいふなり」は詠まれていたのですねぇ……。

この「額田王」の歌を状況証拠として、「宇治の都の仮の庵(行宮?)」があった、と万葉びとは認識していたのだから、「宇治」には都(あるいは離宮)があったはずだ、ということのようですね。

 

「以上、川島氏が離宮の所在に就ての考証は、筆者も兌当と信じ何等疑点を挟まぬ處であるが、その宮址に造営せる宇治神社下の宮の御祭神に就ては、二三の異説あり。尚ほ一言解るる必要がある。即ち吉田東伍氏は、


宇治郷の東朝日山(古名今来嶺)の麓に在り後世専ら離宮八幡と称す。延喜式宇治神社二座とある者是也。本宮若宮の二社に分つ。蓋し菟道宮主矢河枝媛の祖神並びに稚郎子尊を祀れるものなり。初め応神帝の時此處に造営あり以て離宮となし皇太子仍て之に居給ふ。而も皇位を仁徳帝に譲り給はんとして薨去あり。後世之を悲しみ、その応神帝を八幡神と称するを以て之を配して若宮と號す。


と云つて居り。醍醐雑抄には

 

「宇治離宮下の宮、忍熊皇子を祀る。」

 

とあり。荻野由之博士は、

 

「忍熊鹿餌坂二王を所々に祀れるは後人二王の志を悲みてにやあらん」

 

と云つて居る。而して宮主矢河枝比賣の裔と称する下の宮神主たりし長者家の定紀に拠れば


上の宮は始め二棟二座なりしを中央にたてつぎ一棟となし、元禄十年九月傍らなる石清水の神を遷祀して三座とせり。


とあり。同じく長者家の先祖由緒書を見るに


ーー即ち菟道稚郎子尊の宮室たりしを以て離宮と唱へ、稚郎子尊の神霊を崇祀して応神、仁徳両帝を併せ祀り上下二社となし候は即ち今の宇治神社なり。右元来祖先の所有地たりし理由に依り自然と自分屋敷鎮守の心得になり、社殿造営修繕並びに祭礼献供に至る迄一切先祖代々私辨にて致来り候由申伝へ候。尤数代の孫長者光一の代、永承年中宇治関白頼通の執奏にて宇治神社々家政所総長者となり、散位酒波長者と称したるより以来姓氏同様になり累世酒波長者と唱へ候云


以上長者氏の先祖由緒書に依つて、吉田東伍博士が宮主矢河枝媛の祖神を祀ると断ずる根拠を知ることが出来、併せて後世宇治神社を離宮八幡と称する所以も知ることが出来やう。而も醍醐雑抄記す所の忍熊皇子を祀るとの説は、その拠つて出づる處を詳にせず深く疑ふべきである。
既に長者家の先祖由来書に「稚郎子尊の神霊を崇祀し応神、仁徳両帝を併祀し上下二座となし」とある限り、下の宮の祭神は稚郎子尊に相違なく、其また御神体たる木像に就ても真偽を論ずる必要もないわけだが、是れ又異説のある限り一言辨ずる處なければならぬ。
惟ふに其神体として刻像あるものは、假へ甲の宮より乙の社に遷移さるることあつても、夫れを偽り其銘を誣ふる事は出来ぬものである。即ち天神宮の神体は刻像として一定の形式を備ふるが故に、何處へ遷座するも依然天神宮である。其他薬師は薬師、不動は不動各々形式を備ふるものだ。今下の社に祀る處の木像を拜するに、殆んど等身の座像にして、衣冠古制に據り相貌端厳真に欽仰すべきである。初め模写せられた図像や写真版等に見て皇子の御像としては相貌甚険阻に過ぐるを思はしめたが、親しく御像を拜するに及んでは、図像の臨模の稚拙写真の透光不完全であるを知つたのである。
像は何の時代、誰人の創作に出づるかを知らぬが、筆者の見る所を以てすれば遅くも平安朝初期を下らざる彫刻である。假りに一歩を譲り下の宮の祭神が忍熊皇子とせんか、御木像を以て忍熊皇子と認証すること到底不可能なるを思はしむるのである。殊に忍熊皇子であれば鹿餌坂皇子の御木像も併祀さるべきであつたと信ずる。荻野博士は忍熊皇子の志を悲みてにやあらんーーと断ぜられて居るが、後世、忍熊王の心事を悲み深く同情を表する人はあらう。然し王の像を刻して之れを崇祀する人あるべしとは信ぜられぬ。
実に稚郎子皇子は経典の纔かに渡来せる時に当つて文徳を盡し、■に父帝に孝順なりしのみならず、克く兄弟に友愛を、克く蒼生には慈仁にその父帝崩ぜらるるや断然位を大雀皇子に譲り溘然として薨去し給ひし如き、躬を以て聖賢の道を実践せられし方である。されば皇子に対する崇敬欽仰の年は平安朝以前に於て凝つて此木像となつたものと見るを妥当と信ずる。而して其初めより下の宮の神体なりとし、或は後世上の宮より遷移せられたとする如きは神像の尊厳、價値を寸毫も上下するものではない。」

 

次は御祭神論議です。

 

「宇治郷の東朝日山(古名今来嶺)の麓に在り後世専ら離宮八幡と称す。延喜式宇治神社二座とある者是也。本宮若宮の二社に分つ。蓋し菟道宮主矢河枝媛の祖神並びに稚郎子尊を祀れるものなり。初め応神帝の時此處に造営あり以て離宮となし皇太子仍て之に居給ふ。而も皇位を仁徳帝に譲り給はんとして薨去あり。後世之を悲しみ、その応神帝を八幡神と称するを以て之を配して若宮と號す。」

 

この説では、「延喜式」の式内社としての「宇治神社」を、「離宮八幡」と同一視しており、それは現在の「宇治神社」「宇治上神社」です。

「菟道宮主矢河枝媛」

というのは、

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 

古事記』では「丸邇(わに)の比布禮能意富美(ひふれのおほみ)の女、名は宮主矢河枝比賣」

 

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

 

 

日本書紀』では「和珥(わに)臣の祖日触使主(ひふれのおみ)の女宮主宅媛(みやぬしやかひめ)」と呼ばれている「応神天皇」の妃の一人で、「菟道稚郎子」の母です。

もともとは「宮主矢河枝媛の祖神」と「菟道稚郎子」を祀っていた神社に、「八幡神」と同一視された「応神天皇」を祀り、「菟道稚郎子」の祀られたほうを「若宮」と呼んだ、と。

面白いですね、「八幡宮」の若宮といえば、普通は当たり前ですが「仁徳天皇」を祀っているものですが。

 

「宇治離宮下の宮、忍熊皇子を祀る。」

「忍熊鹿餌坂二王を所々に祀れるは後人二王の志を悲みてにやあらん」

 

この二つの説にでてくる「忍熊王(おしくまのみこ)」「麛坂王(かごさかのみこ)」というのは、「応神天皇」の父「仲哀天皇」が、「大中姫(おほなかつひめ)」との間にもうけた皇子です。

仲哀天皇」の正妃は「神功皇后」ということになっており、その子が「応神天皇」です。

仲哀天皇」と「神功皇后」は、(事実かどうかはともかく)「三韓征伐」に出かけます。

その帰途で「応神天皇」は生まれています。

その間、「忍熊王」「麛坂王」の兄弟は畿内に残っていたようなのですが、『日本書紀』によれば、「吾等何ぞ兄(このかみ)を以て弟に従はむ」といって反乱を企てたようです。

古事記』には↑のセリフは載っていません。

これは、儒教思想を反映していると考えられているようです。

つまり、「応神天皇」は、二人の皇子から見れば「弟」ですが、立太子して次代の天皇である、どうして「兄」である我々がそれに従えようか、ということですね。

末子相続というのは、日本では古くから見られます。

それが、どのあたりからかはわかりませんが、儒教の影響なのか、その時に力を持っているものが位を継ぐという一つの合理性からなのか(末子相続にも合理性はあります)、長子相続の体制に変化していきました。

応神天皇」「仁徳天皇」の時代にそれがあったのだ、と記紀神話では伝えたいようですね。

応神天皇」は「弟」ですが天皇位につき、「仁徳天皇」は「弟」の「菟道稚郎子」が自害したために天皇位につくことができました。

菟道稚郎子」が、大陸の儒教思想を学んでいたために、「兄」を重んじて自害したのだ、と言いたいと。

う〜ん、怪しいですねぇ……いろいろと。

ともかく、「忍熊王」「麛坂王」の二人の皇子が「宇治」に祀られているとしたら、その理由は二人の軍勢が河内から「宇治」に退き(その前に「麛坂王」は赤いイノシシに食べられちゃってますが)、さらに近江(瀬田)に退いたのですがその地で敗北し、最終的に「忍熊王」の屍が「宇治川」に浮かんだから、という理由でしょう(『日本書紀』による)。

 

「上の宮は始め二棟二座なりしを中央にたてつぎ一棟となし、元禄十年九月傍らなる石清水の神を遷祀して三座とせり。」

「即ち菟道稚郎子尊の宮室たりしを以て離宮と唱へ、稚郎子尊の神霊を崇祀して応神、仁徳両帝を併せ祀り上下二社となし候は即ち今の宇治神社なり。」

 

それ以外にも、↑といった説がありますよ、と。

元禄十年九月傍らなる石清水の神を遷祀して三座とせり。」

……これが本当なら、「八幡神」がくっついたのはずいぶん最近の話みたいですよねぇ……(「元禄」は1688〜1704年)。

残りの部分は、書かれた時代が時代なもので(戦前)、皇室称揚の匂いが強すぎてなんともかんともです。

 

もうちょっと続きます〜。