11/1。
そぼ降る雨は強まり弱まり。
近鉄に乗って目指すのは枚岡駅。
そう、「枚岡神社」です。
○こちら===>>>
駅から出たらすぐ参道。
石柱には「元春日平岡大社」の文字が。
とりあえず登ります。
なにやら、ジャージ姿の学生さんたちがいました。
御祭神 第一殿 天児屋根大神
第二殿 比売神
第三殿 経津主大神
第四殿 武甕槌大神
摂社 若宮社
御祭神 天忍雲根大神
御由緒
社伝によれば、神武天皇御東征の砌、紀元前三年国土平定祈願のため、天種子命勅命を奉じて現社地の東方山上の霊地神津嶽に、天児屋根大神、比売神の二柱の神霊を奉祀せられた、その後孝徳天皇白雉元年(650)平岡連等が、現社地に神殿を造営、山上より二柱の神霊を奉遷し、次いで光仁天皇宝亀九年(778)香取鹿島より、経津主大神、武甕槌大神を勧請奉斎して以来、四柱の神霊が四殿に御鎮座になっている。悠久限りなき上代に勅旨にて創祀せられた故を以って、古来朝廷の尊崇最も厚く大同元年には封戸六十戸を有し、貞観年中に神階正一位を授けられ、同時に春秋の勅祭に預り奉幣を受け、之を以って永例と定められ、更に延喜の制成るや大社として三大祭に案上の官幣に預り、名神祭、相嘗祭の鄭重なる祭祀を受け、殊に春秋の二回勅使を遣わされて厳粛なる枚岡祭を行わせらるる外、随時祈雨祈病大祓等の祈願奉幣に預る等、最高の優遇を受けた。
中世より河内の国一の宮として御社運益々繁栄し河内一円の諸衆を氏子とし、武家、公家、庶民に至るまで根強き信仰を集め、明治四年神社制度が確立されるや、官幣大社に列格され御神威は益々高揚しその後幾多の変遷を経たが、創祀以来二千六百有余年の由緒を誇る大社としての格式と尊厳を保持し、今日に至っている。
尚摂末社として若宮社、天神地祇社が御鎮座になり、その南方の神苑には数百株の梅樹が植栽され、季節には参拝者の目を楽しませている。
(略)」
……こう言ってはなんですが、悪文ですね。
いや、美辞麗句を並べ立てたプロパガンダくさいから、というのではなくて、一文が長すぎる、というだけです。
「紀元前三年」は、当然ながら皇紀です(じゃないと、「創祀以来二千六百有余年の由緒」と計算があいませんから)。
「天種子命勅命を奉じて現社地の東方山上の霊地神津嶽に、天児屋根大神、比売神の二柱の神霊を奉祀せられた」……「天種子命」は『日本書紀』の神武天皇即位前記に登場します。
中臣氏の祖と書かれており、「天押雲命」(「天児屋根命」の御子神)の子と考えられているようです。
いずれにしろ、社伝としては、中臣氏の祖先崇拝が始まりだった、ということが言いたいようです。
「その後幾多の変遷を経たが」……どんな変遷を経たかが重要なんですけどね(案内板ではそこまで書きませんか)。
雨脚が強くなってきました(画面ではわかりませんが)。
広くて長い参道です。
若干、登っています(昨日の疲れで足がもう……)。
案内板。
鳥居はなく、注連縄と矛。
なぜでしょう。
「なで鹿(神鹿)
御祭神武甕槌命様が神鹿に乗って旅立たれた故事(鹿島立)にちなみます。
弘化三年(1846)名工日下の小平次作で左右の親鹿が仔鹿を優しく育んでいます。
健康と家族の平安、子どもの幸せ、旅行の安全等を念じて撫でてください。」
「撫でると何かを授かる」、という接触呪術は汎世界的なものです。
「撫でて肩代わりしてもらう」、というパターンもありますね。
根元には、伝染病の接触感染があるのではないかと思います。
「天児屋根命」の神使が鹿、というわけではなかったはずなのですが、「春日大社」があの通りですので、逆輸入という感じでしょうか。
鹿。
よく登ります。
拝殿。
がんばって本殿。
うーん、うまくいかず……公式HPなどで確認していただいたほうがいいと思います。
その公式HPの本殿の解説では、
「現在の御本殿は、文政9年(1826)に、近郡の氏子の奉納により造営されました。それより以前、『御神徳記』によりますと、天喜4年(1056)と宝治元年(1247)に焼亡し、其の都度造営され、文明9年(1477)にも近郡の氏子により造営されたと記されています。また、天正7年(1579)年9月、織田信長の兵火により類焼をうけ、本殿以下諸建物が焼失しましたが、慶長7年(1602)豊臣秀頼公が社殿の造営をし立派に復旧しました。その後、徳川の時代にはいり、当社に対する崇敬は薄れて衰退を余儀なくされましたが文政9年に造営がなされ、その後屋根の葺き替えや塗替え修理がおこなわれ、最近では平成の大修造(平成元年から3年)を経て現在に至っております。
建築様式は、枚岡造(王子造)と呼ばれ四殿並列極彩色の美しい神社建築です。(市指定文化財)」
「枚岡造(王子造)と呼ばれ四殿並列極彩色の美しい神社建築」……御祭神が「春日大社」と同じですが、社殿の作りは少々違っています(よく似ていますけど)。
これも、逆輸入でしょうね。
いつから「枚岡造」なのかがよくわからないので、なんとも言えませんが。
参道の突き当たりが本殿なのですが、ここで右を向くと、そちらに続いています。
遥拝所。
宮中、「伊勢神宮」、本宮のあった神津嶽などを遥拝するところ、のようです(公式HPより)。
「若宮社」。
雨のため薄暗く、電灯が妙な味を出しています。
雨にもかかわらず、参拝客が多かったです。
案内の前半はいいのですが、後半を見てみますと、
「[境内各所に鎮座していた左記の末社もお祀りしています]
椿本社 一言主社 青賢木社 坂本社 太刀辛雄社 素戔嗚命社 勝手社 八王子社 地主社 戸隠社 笠社 大山彦宮 住吉社 門守社 飛来天神 角振社 岩本社 官社殿社 佐気奈邊社」
とあり、「春日大社」と見比べてみると面白いかもしれません。
○こちら===>>>
「春日大社」(2)〜奈良めぐり - べにーのGinger Booker Club
井戸。
「白水井」だそうです。
もう一つ、「出雲井」という井戸があるはずなのですが、写真を撮り忘れるという……「出雲井」は、「枚岡神社」のある地名と関係があるといわれています。
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 河内名所図会 6巻. [5]
↑から「枚岡神社」の記事を引用しようかな、と思ったんですが、全く読めませんでした。
古文書読解、習っておけばよかった……(古文書っても、せいぜい200年くらい前なんですが)。
26コマに図絵があり、現在とほぼ変わりない境内の様子が偲ばれます。
あちこちにある小さな祠が、「天神地祇社」にまとめられてしまったんですね……ワンダーランドだったのに(残念)。
というわけで、
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 古事類苑. 神祇部25
↑こういうときに大活躍の『古事類苑』からの引用です(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
122コマより。
「枚岡神社
枚岡神社ハ、河内国河内郡出雲井村ニ在リ、祭神大和ノ春日神社ニ同ジ、初メ平岡連等、其祖天児屋根命及ビ比賣神ヲ祀リ、地名ニ依リテ枚岡神社ト称セシヲ、後ニ鹿島香取ノ二神ヲ配祀シテ四座トス、清和天皇貞観中、春日大原野二社ニ準ジテ、春冬ノ二祭、恒例ノ幣帛ヲ奉ラシメ給フ、現今官幣大社ニ列ス
[伊呂波字類抄比諸社]平岡大神 日本紀云、正一位勲三等天児屋根命是也、今河内国河内郡、大中臣氏■祖也、
[延喜式 八祝詞]春日祭
天皇 我 大命 爾 坐 世 、恐 岐 鹿島坐健御賀豆智命、香取坐伊波比主命、枚岡坐天之子八根命、比賣神四柱 能 皇神等 能 廣前 仁 白久下、○略
[元要記 十六]河内国平岡社
社記曰、○略 光仁天皇依宣下宝亀九年戌午十二月九日、四所宮柱太敷立、春日一宮○健御賀豆知命、二宮○伊波比主命、被祝副畢、
[諸国神名帳 三河内]枚岡神四社 当国一宮 與春日社同体也 ○中略 按姓氏録、河内国神別六十三氏之内、平岡連者、津速魂命十四世孫鯛身臣之後也云々、鯛身臣者、即天児屋根命之後裔、蓋平岡連等所拝祭其祖神者也 ○又見神名帳考証
[河内志 八河内郡]枚岡神社四座 在出雲井村北、今尚国民敬信、称本国一宮、勤時祭踏歌占穀等祭事、神幸之地在豊浦村
[元要記 十六]河内国平岡社
社記曰、皇孫尊降臨以来、紹運仁王十代崇神帝廿九年 至、世積年一百七十九萬三千九百三十四有、餘歳也、摂津国島下郡篠久山降臨云々、天照大神五十鈴宮降臨 自 三年後也、崇神帝廿九年 自 天武帝六年 至、七百四十五有餘歳、河内国平岡降臨云々、天武帝六年 自 称徳帝四年 至、其間百十九年経、大和国添上郡三笠山降臨云々、
大化六年六月廿一日、不比等平岡山御参向、同九月十六日、二所宮柱建立御遷宮、清麻呂勧請、不比等聖臣御本願也、
(略)
[公事根源 二月]春日祭
また此月、かしまの祭、平岡のまつり有、是も上の申の日使を発遣せらる、縁起春日におなじ、
[和漢三才図会 七十五河内]平岡大明神
正月十五日卜田祭 ○中略 同十六日踏歌祭
二月朔日平国祭、及暮入山採木、叩拝殿楼閣各趨帰、
[河内名所図会 五河内郡]枚岡神社四座 例祭九月九日、近村十四ケ村の本居として、祭祀を倶にす、 ○中略
当社に毎歳正月十五日、占穀の祭事とて、神前にて粥を焼、五穀を其中へ入れて、竹の管を編みて一一に名を書付て熟る中へ入れ、神人これを取出し、管の中へ五穀の入様の次第を考へ、其年の豊凶を、生土子の諸人に告しらしむ、これを粥卜といふ、
(略)
[和漢三才図会 七十五河内]平岡大明神
若宮一座 天押雲命 天児屋根命之子
摂社 青榊社 岩本社 一言主社 大山彦社 戸隠社
[河内名所図会 五河内郡]枚岡神社四座
若宮、天押雲命を祭る、本社南にあり、末社、豊磐間戸命、櫛磐間戸命、石階の下に鎮座、其外摂社多し、猿田彦祠、若宮の南にあり、榊祠神主宅にあり、天磐立命を祭る、」
一気に引用してみましたが、あまり面白い内容ではないかな、と。
後半で、末社の一部が挙げられていますので、↑↑の案内板と見比べてみましょう。
「元春日」といわれるだけに、様々なものが「春日大社」と似ていますね(本殿と若宮の配置なんかも)。
まぁ、「春日大社」に似せて「枚岡神社」を整備したのでしょうから、当たり前なんですが。
それにしても、どうして中臣氏(藤原氏)は、「春日大社」の「一御殿」「二御殿」に、自分たちの氏神であるはずの「天児屋根命」「比売神」をお祀りせずに、「武甕槌神」「経津主神」をお祀りしたのでしょうか。
普通氏神、祖神を最初にお祀りするものではないでしょうか。
こういった疑問から、
「中臣氏≠藤原氏」
という妄想が湧いて出るわけですね。
妄想を説に昇華されているのは、関裕二氏です。
↑これなんかを読んでいただくと簡潔かつ感銘を受けます。
ところで、「春日大社」が、もともと春日氏の祭祀の場所だった、それを藤原氏が奪い取った、という話なんですが。
これ、「枚岡神社」であったことを真似したんじゃないかな、と妄想します。
そもそも「枚岡神社」を創祀したのは「天種子命」で、「神武天皇」の臣下です。
それが近畿地方にやってきて、地元の勢力から土地を奪い取った、と(一番抵抗したのが「長髄彦」です)。
「枚岡神社」の本宮のあった神津嶽は、土着の人々の神域だったことでしょう。
そこを、あとからやってきた「天孫」系の軍団が奪い取った。
で、御祭神も、自分の祖神にした。
ひょっとすると、「比売神」は、土着の人々の姫、だったのかもしれないですね。
それが、我々の考える「征服」だったのか、あるいは土着の人々との「融和」だったのかはわかりません。
この流れをですね、藤原氏がパクって、「春日大社」を作ったのではないかな、と。
「中臣氏=藤原氏」なら、「昔取った杵柄」だったのかもしれないですし、「中臣氏≠藤原氏」であれば、「あのやり方使えるな。ついでに系譜もいただくか」てなものです。
「春日大社」と違って、「枚岡神社」の神津嶽をいただいちゃった時代に、どんな神が祀られていたのかはわからないのが残念です(「春日大社」もわからんのですが、春日氏の土地だったことはわかっていますので)。
ああ、妄想。
このままあまり雨が強くならなければいいな、と思いながら、大阪中心部を目指します〜。