11/1。
名残惜しや、奈良を離れて近鉄奈良線で大阪へ向かいます。
よんどころない事情まで時間があるので、その途中でいくつか寄り道を。
というわけで、石切駅でおりまして、向かったのは「石切劔箭神社」。
○こちら===>>>
そぼ降る雨の中、駅から結構な坂を下りていきます。
予備知識なしに出かけたのですが(毎度毎度)、
結構盛況で驚きました。
私のような旅行者は少なく、地元の方が多く参拝されていた感じ。
というのも、みなさん「お百度」を踏んでおられたので。
○こちら===>>>
↑こちらで「お百度詣り」についてのQ&Aが書かれています。
さすが関西なのかなんなのか、「お百度詣り」をされているみなさん、めっちゃ速い。
巻き込まれそうでした。
拝殿と本殿(……?)。
御祭神は「饒速日尊」と「可美真手命(うましまでのみこと)」。
物部氏の祖神ですね。
「神武社」と「五社明神社」。
「神武天皇が蹴り上げた「石」を御霊代としてお祀りしています この石は御東征のみぎり高天原の神々に武運を祈り蹴り上げたと伝わるものです 日本一運勢の強い開運の神であり延命長寿の神として信仰されています」
石でした。
磐座信仰の名残、でしょうか。
左隣は、「遥拝所」だったと思います。
どちらの遥拝所だったか失念しました。
朱の鳥居のあるほうが「五社明神社」。
御祭神は「恵比須大神」「大国主大神」「住吉大神」「稲荷大神」「八幡大神」。
「御五柱の神々を合わせてお祀り申し上げているところから「五社明神社」の社名をいただいております 商売繁盛はもとより大漁成就 五穀豊穣 産業隆盛など様々なご商売を営まれる方々から篤い信仰を集めています」
こちらはまあ、ぎゅっとまとめた感じです。
本殿裏手に回ると、「穂積神霊社」があります。
公式hPによると、
「御本社北側にあった穂積堂は、明治初期に先々代宮司木積一路翁が郷学校(現石切小学校の前身)を開き、子弟教育に尽力されところでした。しかしながら、この穂積堂は昭和45年に焼失してしまい、後に穂積堂に祀られていた御神霊を穂積神霊社として再びお祀りしたのがこの社です。病魔災難除け、学問向上の神様として篤い信仰を集めております。」
だそうです。
……そもそも学校だったのに、どんな御神霊がお祀りされていたんでしょうか。
写真にはありませんが、左手「一願成霊尊」と「穂積地蔵尊」があります。
公式HPによるとそれぞれ、
「一生に一度だけの願いごとを叶えてくださるといわれている神様をお祀りしております。」
「室町時代に兵火にかかるまで、石切劔箭神社の神宮寺として神社と共に栄えていた、天台宗の法通寺。その法通寺にあって、多くの信仰を集めたと伝えられる地蔵尊四体をここに安置いたしました。さらに、法通寺の跡地にあった穂積堂に祀られていた霊神像三体を合わせてお祀りし、穂積地蔵七神と呼ばれております。」
だそうです。
↑の「穂積神霊社」の前身穂積堂にあったのは霊神像なんですね。
……どんな神様だったのでしょう。
そのまま左手に進むと「乾明神社」があります。
御祭神は「應■(よう/案内板では「雍」の下に「手」≒「擁」、神社でいただいた参詣のしおりでは「雍」の下に「月」≒「臃」?)乾幸護大明神」だそうです。
「江戸朝中期の方で、この地の信望厚い庄屋で飢饉と重税にあえぐ人人の代表となり直訴したかどで極刑に処せられた方です。後代官小堀家により建立された宮です。此神様は頭脳がすぐれ人々の難問を解決されましたので、其の徳をたたえ御礼参りの方が多く、明治時代に入ってから学問の神、智慧の神とし其の徳を受けんと入学試験時には受験者の参拝多い宮です。」
日本に根付いている「御霊信仰」ですが、いつからか「非業の死を遂げた人」や「人知外れた功績を挙げた人」を祀る、ということになっていきました。
前者は「御霊信仰」に近いですが、後者はどちらかといえば「自然崇拝」、「畏れ」も相まってのものなのだろうと思います。
にしても、「江戸朝中期」なんて表現初めて見ました。
「江戸時代」は便宜的には仕方ないですが、朝堂はずっと京都にあったんですけれどね。
なんとなく、石灯籠の連続を。
正面に戻りまして、最初の鳥居から向かって左手には、
「水神社」が。
水を司どられる神で、祈雨祈祷の神様でもあります。水に関係のある商売を営まれる方又は転じて水商売の方々を護って下さる神様です。」
ええと、よく見なくてもわかると思いますが、島です。
島ということは、もともとは「弁天様」だった可能性がありますね。
「転じて水商売の方々」……こういう発想は日本中にもちろんあると思います。
でも、さすが関西、と思ってしまうのはなぜでしょう(偏見)。
商魂たくましいというか(超・偏見)。
境内からでますと、その先には「絵馬殿」があります。
……まあ、ほぼ完全に門ですが。
門番もいらっしゃいます。
弓矢を持っているのが「饒速日尊」で、剣を持っているのが「可美真手命」……だったかもしれません(参拝者が多くて、なかなか写真が撮れませんでしたので、いろいろと失念しています)。
絵馬殿から鳥居の方を。
あちらが本来の入り口でしょうか。
境内外には、「神武社」がもともとあった場所も示されています。
ここに「石」があったんでしょうか。
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 河内名所図会 6巻. [5]
↑に「石切劔箭神社」の記事があります(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
41コマ。
「石切劔箭神社二座
神並村にあり 延喜式出三代実録之貞観七年授従五位下 社説云上ノ社■哮嵜にあり 下ノ社■■社■ 例祭六月十四日 神並芝槙付額田日下等五ケ村生■■■■祭祀を倶ふに」
すみません活字じゃないものでほとんど読めていません……。
40コマには図絵もあり、現在の境内と重ね合わせることができます。
どうも「水神社」のあるべき池には、祠もありませんので、比較的新しいのかもしれないです。
小さな祠がいくつかありますが、何も書かれていないので、なんなのかがわかりません……。
神社でいただいたしおりによれば、
「石切劔箭神社御鎮座の御由緒につきましては、今からおよそ七百年前、足利時代の末に兵火にかかり、社殿及び宝庫が悉く消失したため詳らかではありません。しかしながら、延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』の中には、既に「石切劔箭神社二座」と記載されており、また延喜元年(901)に成立した『日本三代実録』には貞観七年九月に、本社の社格が正六位から従五位に昇格されたことが記されております。また、天文五年(1536年)に当神社社家の祖先藤原行春大人が社家に伝わる口伝をまとめた『遺書伝来記』によれば、神武天皇紀元二年、現生駒山中の宮山に饒速日尊を奉斎申し上げたのをもって神社の起源とし、崇神天皇の御代になって「下之社(現本社)」に可美真手命が祀られたとあります。(以下略)」
とあります。
国会図書館デジタルコレクションを検索していたら、そのものずばりな、
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 河内石切剣箭命神社由来
↑が引っかかりました(発行は1926年)。
ちょっと長めに引用してみようと思います。
「当神社は大阪市玉造を距る東の方三里中河内郡大戸村大字石切にあり、社号を石切劔箭命神社と称へ饒速日尊及び可美眞手命を祀る。延喜式内の御社である。
この地もと神並と称へて居たのを 今上帝御即位の大典を行はせたまうふに当り、その御盛儀を記念すべく石切と改称したのであるが神並は神嘗で遠く 神武天皇御東征の時に初まつてゐる。……(略)……天皇は浪速から淀河を遡つて河内国草香邑青雲の楯津(今の枚方あたりか)から御上陸になり大和の龍田山を志して 皇師を御進めになつたが道路極めて悪しく且つ峻嶺峻山相重つて進軍に不便であつたから、転じて謄駒山を踰えて大和の中央部に進入すべく御計画を立てさせられた。此の時当地附近に於て神祇を祀り神嘗祭を行はせられ、進軍についての加護を乞はせられたのが神嘗の地名を遺す本となり、それを訛つて神並と呼ぶに至つたのだといふのである。
謄駒山を踰えるには孔舎衙阪を経ねばならぬ。その坂は河内大和の境界でそこを突破すると、迹見の地になる。迹見は長髄彦の根拠地である、長髄彦は又の名を迹見彦と呼ばれて可なりな勢力を持てゐる。
……(略)……
当社の祭神は前にも記した如く饒速日尊と可美眞手命とであるが其の創は古く 神武天皇紀元二年に起つて居ることは当社の由来を物語る唯一の史料「遺書伝来記」に載せられてゐる。遺書伝来記は天文五年に記述されたもので筆者は当時の神主(累代の祖木積)藤原行春大人である。悉く信を置くには足りなくてもおぼろげに当社の由来と夫に伴なふ伝説とを知ることが出来る 神武天皇紀元二年といへば今を距る二千五百八十三年以前の事である。当時已に神社の基礎が立つて二柱の神を祀られてゐたといふには何か根拠がなくてはならない。然し由緒記録は足利時代幾度かの兵燹に罹つて悉皆焼失してゐるから何等徴すべき文書がないでも 天皇が長髄彦の分営とも云ふべき兄磯城を磯城郡迹見に誅戮されてから皇軍の士気は旭日昇天の勢で進展する。……(略)……可美眞手命の壮挙を嘉みせられて、長髄彦が私領してゐた大和河内の土地を賜ひ、神異の霊剣を下されて偉功を賞せられた。当社の神霊はやがてこの霊剣であらねばならぬ。命が賜つた霊剣が何であるかは明瞭しないが命と宝剣とには深い因縁関係がある。旧事本紀に「天皇橿原に都するに及んで物部連の遠祖宇麻志麻治命其天瑞宝を献り神楯を立て五十櫛を布都主剣大神に刺繞らして殿内に齋き奉りき」とある。天皇二年に当神社の基礎が成つたといふ遺書伝来記の記事がこの事実に関連してゐるのだつたら、命は布都御魂の宝剣を石上神宮へ祀ると共に自己の領地であり且つ 天皇とは最も御縁故の深い神嘗の旧地に分霊を祀らせられたのが当社の最初であると信じる。
石上神宮は古代の兵器廠で布都御魂を首めさまざまの宝剣が収められてゐる。此の意味から稽へると当社は石上神宮へ収め切れぬ宝剣や神異ある弓箭を収めて同じ兵器廠となされたのであらうと思ふ。石上神宮は古くから可美眞手命の子孫たる物部氏が奉祀してゐた関係から云つても、その根拠地たる神嘗の地に神異ある兵器を祀られたのは当然だらう。同時に領主たる可美眞手命と其の御父たる饒速日命を祭神とされたのも自然の結果でなくてはならない。
……(略)……石切とは石をも切り得る利剣であるのを語つたものであらうと思ふ。多神宮注進状裏書にも「石切剣は猶蠅斫剣と謂ふが如き耶」と記してある。即ち其処に霊剣の徳が堅実に顕はれてゐるのである。
……(略)……
神武天皇の二年に基礎を立てられてから三百七十餘年を経た 孝霊天皇の御宇一座を合祀して磐切劔箭神社と号し、束間に 神日本磐余彦尊を勧請し、西間に 稲田媛命を勧請したのであるが 垂仁天皇の御宇更に全部を重修されたので社殿宝庫彩然として諸民の尊崇を集めて居たが、前にも記した如く数度の兵燹に焼かれて遂に荒頽の止むなきに至つた。されど神徳は社殿にのみ留まつてゐらせられない。星移り物変つて五百年の歳月は閲したが霊徳は謄駒の山と高くおはし、霊験は其の山の頂を出る太陽と共に輝いて、参詣の群衆は引きも切らず。」
「可美眞手命の壮挙を嘉みせられて、長髄彦が私領してゐた大和河内の土地を賜ひ、神異の霊剣を下されて偉功を賞せられた。当社の神霊はやがてこの霊剣であらねばならぬ。」に関しては、『先代旧事本紀』の「天皇本紀」の神武天皇二年条には、
「……宇摩志麻治命に詔して曰はく、「汝の勲功、念惟へば、大功なり。公の忠節は覆惟へば至れる忠なり。斯に因りて、先に神霊しき剣をば授けて、不世き勲に崇め酬ゆ。」
とあります。
これを「石切劔箭神社」の御神体だとする説のようです。
同じ物部氏系の神社である「石上神宮」との関係にも触れられており、なかなか妄想を喚起する説だといえると思います。
以前、「諏訪大社」の記事で、
○こちら===>>>
「諏訪大社」考(9) - べにーのGinger Booker Club
↑「饒速日命」は「建御名方神」だった(になった)のではないか、と妄想したことがありました。
「乃ち霊畤(まつりのには)を鳥見山の中に立てて、其地を号けて、上小野の榛原・下小野の榛原と曰ふ。用て皇祖天神を祭りたまふ。」
とあります。
この「鳥見山」は、「長髄彦」の根拠地だった「登美」とは違っているようですが、同じ名前の場所で「皇祖天神を祭りたまふ」というのはなかなか象徴的ではないかと。
つまり、この「天神」には、「饒速日命」が含まれているわけです。
「饒速日命」は「長髄彦」を裏切って「神武天皇」についたのですが、その「饒速日命」も「神武天皇」に追いやられてしまった(そして流れに流れて諏訪に辿り着いた)。
同じ「天孫」系の王がいては困るわけですね(「可美真手尊」は幼かったのか、「神武天皇」側に取り込まれてしまった、と)。
土着の神である「長髄彦」ではなく、「天神」である「饒速日命」の祟りを鎮めるために、「鳥見山」で祭祀を行ったのではないでしょうか。
そして、軍勢を司る「物部氏」ですが、本当は「可美真手尊」を監視するために、兵器をたくさん収めたところに配置したのではないか、と。
こんばんは、妄想です。
さてさて、公式HPでは、
「……神武天皇紀元二年、宮山に「上之社」が建てられ、崇神天皇の御代に「下之社」に可美真手命が祀られたとあります。本社の祭祀は代々木積氏が司ってきましたが、「木積」という姓は本来「穂積」といい、饒速日尊の第七代目に当たる伊香色雄命(いかがしこをのみこと)が、この穂積姓を初めて名のられ、それ以来物部氏の一統として一氏族をつくり、大和を中心として八方に部族を増大させてゆきました。その御祖先である饒速日尊、可美真手命を御祭神と仰ぎ……(以下略)」
とあります。
「神武天皇」の思惑はともかく、「物部氏」は勢力を拡大していったようですが、最終的な凋落がいつなのかといえばやはり「物部守屋」のころなのでしょう。
駅に戻る途中の道です。
やたらと占いの館が多いのが面白かったです。
途中大仏があったり。
○こちら参照===>>>
『日本の旅 関西を歩く 東大阪市の石切大仏(いしきりだいぶつ)、東大阪ジャンクション周辺』 [東大阪]のブログ・旅行記 by さすらいおじさんさん
立ち寄りたいお寺もあったりしたのですが、先を急ぐ旅だったもので……。
時間さえ許せば、「上之宮」もお参りしたかったです……。
ところで、当社は「でんぼ(腫れ物)の神様」としても有名だそうで、
○こちら===>>>
↑公式HPではこのように書かれています。
↑の「でんぼの神」の項では「石切劔箭神社」のことが紹介されるとともに、
「「でんぼ」とは「でんぼう」のことで、『上方語源辞典』によれば「でんぼうを短呼して、でんぼということが多い。腫物、できもの。[語源]動詞『出る』の連用形『で』に『坊』を添えた擬人名詞『出坊』の撥音化」とある。
また『河内名所図会』には「でんぼの村」として記されているので、江戸時代中期ごろには、でんぼの神の信仰があったらしい。現在では「万病の神」として多くの信者が集まり、それゆえ駅前から神社に至る参道に、漢方薬の店や占い師が集まることになったのであろう。」
という記述があります。
腫物、できものといえば「疱瘡」を真っ先に想像する私は何かにやられているのかもしれないですが、「でんぼ」もかつては「疱瘡」だったとするなら、「疱瘡」の神は基本的に「祟り神」です(伝染病は、祟りですから)。
とすると、「でんぼ」に効験がある、ということは、本来「祟り神」であったのではないかとも考えられるわけで……あまり妄想に偏るといけませんので、この辺りで。
ちなみに現在の「石切劔箭神社」は、神社本庁からわかれて、「神道石切教」という宗教法人の神社となっています。
※神社仏閣に油を……という件、未だに続いているようです。模倣犯も多いのでしょうが、一方では香油をかけているのではないかという説も出ています(「大聖歓喜天」や「双身毘沙門天」の修法に「浴油供」というものがあります)。仮にそうだとしても、手続きも踏まずに行うことではないでしょう。
○こちら===>>>
寺社・文化財への「油」撒き事件、全ての被害場所・油の特徴・犯行日時情報まとめ - NAVER まとめ
↑最近起きたものではない可能性もあります(事件が報道されたので気づいた)が、理由がなければ器物損壊に近いですし、理由があってもその行いは正当とはいえないと思います。
本当に、やめていただきたい。