べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「諏訪大社」考(6)

さてさてさてさてさて、さて。

ここまで長くなると、さすがに飽きてきます。

いやいや、そんなことは……ないとは言えませんが。

終わりが見えない(そもそも、結論を思いついていない)、それでも書きます。

というわけで、謎の「ミシャグチ神」は、おそらく古い信仰の対象、蛇体の神、という認識から、ひとまず「上社」の御神体である「守屋山」か、その分身としての小さな「何か」、ということにしておきましょう。

「ミシャグチ神」を祀ることができるのは、「現人神」である大祝を筆頭とした神職達。

「上社」の大祝は「建御名方神」の末裔、その他の神職は神長官の守矢氏をはじめとして土着の神の末裔、ということにしておきましょう。

「下社」でも同様だと思いますが、科野国造の末裔である金刺氏が大祝になっていて、武居祝以下の神職はやはり土着の神の末裔。

科野国造と「建御名方神」の末裔がぶつかりあった、という記録が残っていないのですが(「信濃国風土記」がほとんど残っていないんですよね、残念)。

そもそも、科野国造が本拠地としていたのはどの辺なのか。

多分、諏訪ではなかったのだと思います。

例えば国分寺跡のある現在の上田市あたり、または「善光寺」もある現在の長野市あたり。

地理的にいえば、北陸方面・上越市あたりから南下してたどり着く場所でしょうか。

諏訪は、それより奥まった場所です。

甲府あたりから北上するか、岐阜から飯田、伊那を経て北上するか。

建御名方神」がもし出雲神だとしたら、北陸経由で南下してきたと考えられます。

母神である「高志沼河姫」の祖国である「越国」経由、ということですね。

 

○こちら===>>>

「生島足島神社」(補) - べにーのGinger Booker Club

 

↑でも引用しましたが、『信濃史跡』(下)の「生島足島神社」の記事でも、「越の国経由で南下してきたのではないか」と書かれていました。

生島足島神社」には、その途中で立ち寄った、ということは「建御名方神」よりも古い神を祀っていたということになります(伝説ですが)。

 

○こちら===>>>

善光寺(4) - べにーのGinger Booker Club

 

↑で触れましたが、長野市の「善光寺」の地は、もともとは「健御名方富命彦神別神社」でした。

「彦神別命」は、「建御名方神」の御子神(諏訪の摂社と同じように、「建御名方神」の支配下に入ったか、一族と婚姻関係を結んだか、でしょう)ですので、このあたりまでは、「建御名方神」の威光が届いていたことになります。

しかもこちらは、『延喜式神名帳』で名神大社とされ、『日本書紀』によれば、「持統天皇」によって「須波の神」である「建御名方神」とともに「水内の神」として使者が遣わされたほどに神威あふれる神社でした。

 

 

日本書紀〈5〉 (岩波文庫)

日本書紀〈5〉 (岩波文庫)

 

 

※実はこの記事は、須波水内の神等」と書かれているので、他にも使者が遣わされた可能性はありますが、名前が取り上げるくらい重要だった、と考えましょう。※

 

一方で、「建御名方神」が、「伊勢国風土記逸文」に出てきたように、「伊勢津彦」が信濃に流れてきたとしたら、その北上ルートは木曽路になるのかもしれません。

途中で上田市に立ち寄るのは難しそうですが。

いずれにしろ、諏訪市から長野市にかけての広範囲が、「建御名方神」の勢力圏でした。

 

ところで、「建御名方神」の登場する『古事記』では、「建御名方神」が諏訪に押し込められて以降、科野国が登場するところがあります。

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 

日本武尊」の東征の記事です。

 

「……その國(※甲斐)より科野國に越えて、すなはち科野の坂の神を言向けて……」

(※はブログ筆者追記)

 

「言向けて」というのは「説得して」ということですが、日本武尊」が「説得」なんかするはずがないので、「武力を用いて」ということだと思います。

ただ、このとき、「日本武尊」が征伐したかったのは、もっと東国の蝦夷たちで、科野には都への帰り道に寄っただけだったようです。

「科野の坂の神」、倒されたわけではなさそうですが、「日本武尊」を通してしまったようです。

この「科野の坂の神」、「建御名方神」の末裔なのでしょうか。

 

一方、「建御名方神」の登場しない『日本書紀』ではどうなっているかというと、

 

 

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

 

 

「是に、日本武尊の曰はく、「蝦夷の凶しき首、咸に其の辜に伏ひぬ。信濃国・越国のみ、頗未だ化に従はず」とのたまふ。(中略)則ち日本武尊信濃に進入しぬ。是の国は、山高く谷幽し。翠き嶽万重れり。人杖倚ひて升り難し。厳嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず。然るに日本武尊、烟を披け、霧を凌ぎて、遥に大山を■りたまふ。既に峯に逮りて、飢れたまふ。山の中に食す。山の神、王を苦びしめむとして、白き鹿(かせき)と化りて王の前に立つ。王異びたまひて、一箇蒜を以て白き鹿に弾けつ。則ち眼に中りて殺しつ。爰に王、忽に道を失ひて、出づる所を知らず。時に白い狗、自づからに来て、王を導きまつる状あり。狗に随ひて行でまして、美濃に出づること得つ。吉備武彦、越より出でて遇ひぬ。是より先に、信濃を度る者、多に神の気を得て瘼え臥せり。但白き鹿を殺したまひしより後に、是の山を踰ゆる者は、蒜を噛みて人及び牛馬に塗る。自づからに神の気に中らず。」

 

とあります。

実はこの話、『古事記』では足柄山でのことだと言われています。

信濃は、『日本書紀』(岩波書店)の註によれば、信濃と美濃の境にある坂のようです。

建御名方神」の勢力圏からは外れているようですので、どうもこの「科野の坂の神」は、「建御名方神」ではなさそうです。

しかし、地形上、甲斐から科野に入って北上すると、諏訪湖に達するはずなんですが。

古事記』には「建御名方神」が登場するのに、諏訪湖は登場せず。

日本書紀』は「建御名方神」が登場しませんので、こちらも諏訪湖はスルー。

「唯信濃国・越国のみ、頗未だ化に従はず」、つまり「朝廷の王化政策に従わない」とまで言っているのに、諏訪湖の実力者「建御名方神」が出てこない、ということは、よほど出てきてもらっては都合が悪いのでしょうか。

 

また、「日本武尊」の二世代前、「崇神天皇」の時代、いわゆる「四道将軍」というものが派遣されました。

日本書紀』の「崇神紀」九年の記事に、

 

「九月の丙戌の朔甲午に、大彦命を以て北陸に遣す。武渟川別を以て東海に遣す。吉備津彦を以て西道に遣す。丹波道主命を以て丹波に遣す。」

 

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 

 

古事記』では、

 

「またこの御世に、大毘古命をば高志道に遣はし、その子建沼河別命をば、東の方十二道に遣はして、その伏はぬ人等を和平さしめたまひき。」

 

とあります。

「大毘古命」は「越国」に派遣され、その子供の「建沼河別命」は「東の十二道」に派遣され、それぞれ制覇しながら、最終的に「会津」で落ち合った、とされています(二人が出会ったので、「会津」と呼ばれるようになったそうです)。

で、『古事記』(岩波書店)の註によれば、「東の十二道」というのは、「伊勢、尾張、参河、遠江駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総、常陸、陸奥」なのだそうです。

旧国名の載った地図を見ていただくとわかりますが、

 

○例えば===>>>

神社史料集成・神社が鎮座する国を選択

 

二人の命のルートからは、東山道美濃、信濃、上野、下野)がすっぽりと抜けています。

にもかかわらず、「崇神天皇」の記事には「機内の外の国々が治った」という記述がみられます。

崇神天皇」の二世代後の「景行天皇」の時代には、再び「日本武尊」が東征に出かける羽目になるというのに。

とはいえ、この頃に朝廷の勢力がある程度安定したのは間違いないようです。

景行天皇」以後の世代では、急激に半島関係の記事が増えてくるからです。

内憂を抱えていては、外患に意識を向けることは難しいでしょう。

建御名方神」の存在感が、国譲り以降希薄になる『古事記』と、そもそも最初から無視している『日本書紀』は、どちらも信濃について多くを語っていません。

見方としては、

 

(1)既に信濃は朝廷の影響下にあった

(2)信濃は依然朝廷の力があまり及ばない土地だった

 

のどちらかになるでしょうか。

(1)だとすれば、「記紀神話」が信濃に言及しない理由がわかります。

しかし、それなら「日本武尊」が「唯信濃国・越国のみ、頗未だ化に従はず」とは言わないでしょう(「越国」なんて、「大毘古命」が派遣されて鎮まったはずなのに、この言われようですから)。

 つまり、(2)信濃は依然朝廷の力があまり及ばない土地だった、と考えるのが自然ではないかと。

 

さて、「諏訪大社」の「上社」「下社」の成立の順番を考えてみたいと思います。

 

諏訪大社 (1978年)

諏訪大社 (1978年)

 

 

↑に、「諏訪の七石」というのが紹介されています(P29)。

 

「(1)御座石 茅野市ちの。建御名方神の母神奴奈川比売がはじめて諏訪入りしたときに座したという。

(2)御沓石 上社境内。上古の貴人の沓の形に似ていることから御沓石と称したと思われるが、大神が御馬に騎してこの石を乗り越えたときに、その御馬の跡が石面に留まった石であるともいわれる。

(3)蟇石 神社境内。蛙石とも言う。

(4)小袋石 茅野市宮川高部。舟つなぎ石ともいい杖突峠の右側にある。

(5)小玉石 諏訪市湯の脇。上社摂社児玉石神社境内にあり、御神楽歌に「諏訪の海水底照らす小玉石手には取りても袖は濡らさじ」とある。

(6)御硯石 上社境内。上社本宮の脇片拝殿のすぐ上にある巨石で古くから諏訪明神が降臨した石として社中第一の霊石にあげられている。上部表面がくぼんていて、常に水を湛えているので硯石とよばれている。

(7)亀石 茅野市宮川。宮川の河中にあったと伝えられ、その左岸の丘の上に千野川神社の石祠があり、昔から亀石明神と称している。古老の話では、亀石はどんな大洪水にも流失しない霊石であったと伝えられている。」

 

この中で、(6)御硯石 上社境内。上社本宮の脇片拝殿のすぐ上にある巨石で古くから諏訪明神が降臨した石として社中第一の霊石にあげられている。上部表面がくぼんていて、常に水を湛えているので硯石とよばれている。」というのが気になります。

諏訪明神」は「建御名方神」のことですから、ここに最初に「建御名方神」がやってきた、ということになります。

しかし、どうやら「御硯石」のある「本宮」より「前宮」の方が古いらしいです。

「上社」の大祝が行う神事は、古来「前宮」で行われていた、といわれていますので、「本宮」の成立より「前宮」の成立の方が古い、と。

しかも、「諏訪明神」が最初に居を構えたのが「前宮」あたりだったのではないか、とも考えられています。

「最初に降臨した」のが「本宮」の「御硯石」で、「最初に居を構えた」のが「前宮」周辺。

うーん……どういうことなんでしょう。

ここで、「最初に降臨した」というのがどんな意味なのか、考えてみますと。

建御名方神」は外来の神だったが、「御硯石」において「諏訪明神」に「成った」、という意味ではないか、と思えてきました。

「ミシャグチ神」に対する祭祀権が、「ミシャグチ神」を信仰していた「洩矢神」他土着の神々から、「建御名方神」に移った。

そこで、神聖な場所だった「御硯石」で、建御名方神」が新しい「現人神」=「諏訪の神」に「なった」

それ以前に「本宮」周辺で神事が行われていたかどうかはわかりませんが、以降神事の中心は、「建御名方神」が居を構えた「前宮」周辺に移ったとしても不思議ではありません。

「前宮」後方に古墳があるらしいので、「ミシャグチ神」の鎮座する守屋山を拝むと同時に、祖先(「建御名方神」かどうかは不明)も拝むようになったのではないでしょうか。

一方で、「洩矢神」他土着の神々は、やはり「御硯石」周辺の神聖な場所で、「現人神」になることはできないまでも、「ミシャグチ神」を祀り続けた。

 

○こちら===>>>

「諏訪大社」考(5) - べにーのGinger Booker Club

 

↑前回の記事で、「ミシャグチ神」の語源をちらりと妄想してみましたが。

「磐裂神」「根裂神」の「サク」は、「岩に凹凸がある状態」を指している、との説があるらしく。

「ミシャグチ」がもともと「ミサクチ」だと考えると、「御硯石」のような「窪みのある石」が「サクチ」と言われていたのかもしれません(本体は山ですので、その顕現というか化身というか、麓に下りてきたというか、そういったものだったのかも)。

もっとも重要な「現人神」は奪われてしまいましたが、そのことへの危機感からか、それまでは結構ばらばらに祀っていた(と思われる)「ミシャグチ神」への信仰が、「本宮」付近に集中したのではないでしょうか。

摂社末社遥拝所」というのは、その「集中」を後々に形にしたものではないか、とも思えます。

段階的には、

 

(1)「本宮」周辺に、「ミシャグチ神」 を祀る場所があった(「御硯石」など)。土着の神々は、それぞれに「ミシャグチ神」を祀っていた。

(2)「前宮」周辺に「建御名方神」がやってくる。土着の神々との間に確執が生じる(戦いになった可能性あり)。しかし、最終的に「建御名方神」を「ミシャグチ神」を祀る「神」とすることで決着。「前宮」周辺に、「ミシャグチ神」を祭祀する場が形成される。

(3)土着の神々は「建御名方神」の元で神官等を務めるが、それぞれが「ミシャグチ神」を祀ることも行っていた(「本宮」周辺で)。

(4)何らかの理由があって、「前宮」とは別に「本宮」が成立する。

 

だと思うんですが……この(4)がね、よくわからないんですよね。

「本宮」が成立して、「前宮」は「本宮」の摂社の一つになるんですが、大祝以下、重要な神事は「前宮」で行っている、というのが腑に落ちない。

 

「本宮」造る意味がないんでは?

 

それに、「前宮」も「本宮」も、守屋山を拝んでいるとすると、「本宮」を造った理由はどこに?

(3)から(4)に至る過程で、「本宮」を作らざるを得ない「事件」が起こった……ではその「事件」というのはなんなのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

わかりません。

 

 

 

 

とても重大な事件だったと思うんですけれど……。

 

というわけで、まだまだ続きます。