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神社仏閣ラブ(弛め)

「諏訪大社」考(4)

さてさてさてさて。

 

諏訪大社 (1978年)

諏訪大社 (1978年)

 

 

↑『諏訪大社』によれば、「諏訪大社」関係の文献として欠かせないのは、古事記』『先代旧事本紀』、『神皇正統記』、そして『諏方大明神絵詞』だということです。

 

○こちら===>>>

信州デジくら | 諏訪大明神畫詞 写

 

↑素敵サイト「信州デジくら」で、『諏訪大明神畫詞』が見られるのですが、活字ではないのでなかなかやっかいです。

ということで、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 信濃史蹟. 上

 

↑1912年発行のこちらにご登場いただきます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■で置き換える)。

20コマより。

 

「……上諏訪町を南に距ること一里半守矢山の北麓、中洲村神宮寺の地、千年の老樹枝を交へて、蒼鬱として昼猶暗き森林の間に、廊腰縵く回り、■牙高く■み、殿堂神寂びて、森厳の気自ら人を厭するもの、実に信州一の宮の稱ある、官幣中社諏訪神社上社の本祠にして、地は即ち、建御名方命の■域たり。而して此處を距る東方十八町宮川村小町屋には、命の配神八坂刀賣命を祀りたる諏訪神社前宮の一社あり。

更に踵を囲らして、諏訪湖の北方下諏訪町に至れば、此處にも建御名方命及び八坂刀賣命を合祀したる一社あり。上社に対して諏訪神社下社と稱し、社格亦上社と相並び、神殿春宮秋宮の二宇に分れ、毎年一月一日及び八月一日の両度、遷座の式あり。」

 

この筆者は、この時期の祭神の公式見解—「上社本宮」は「建御名方神」、「上社前宮」は「八坂刀売命」、「下社」は両神の合祀、と考えていたようです。

 

「建御名方命、別に又、南方富命、御穂須々美命兵主神、出雲建子命、出雲建雄命、伊勢津彦等の稱あり。古事記及び旧事紀の伝ふる所に依れば太古、出雲国大国主神、高志国の沼河比賣に幸して生む所たり。」

 

ここでは、「建御名方神」の別称が挙げられています。

「御穂須々美命」は、前回取り上げた、「出雲風土記」に出てくる、「大国主神」と「沼河比賣」の間に生まれた御子神です。

「出雲建子命、出雲建雄命、」は、「御穂須々美命」と通じている名前と考えられているようです。

日本武尊」の出雲征伐で出てくるのは「出雲建(いずもたける)」で、字義的にはそれと同義あるいはその子供ですので、「建御名方神」が「大国主神」の子供であるところから引っ張ってきた名前ではないかと思います(時代がかなり違っていますが)。

 

「御名方は蓋し南縣(みなかた)にして、命の南方経営を言ひ現はしたるもの。延喜式神名帳阿波国名方郡多祁御奈刀彌(たけみなとみ)神社あり。祭神は建御名方命にして、現今名西郡浦荘村大字諏訪の地にあるもの即ちこれ。」

 

↑続きにはこのようにありますので、「建御名方神」の「御名方」をこのように解釈することもできるようです。

とすると、「建御名方神」の諏訪での名前は別にある、ということになってしまわないでしょうか。

兵主神はですね……深く隠れているので、触れないことにします。

ただ、全国には、この神を祀っている神社がかなり多いです(「延喜式神名帳」だけで16社を数えるそうです)。

伊勢津彦神」は、「伊勢国風土記逸文」に登場する神で、

 

天御中主尊十二世孫の天日別命(あめのひわけのみこと)が、神武天皇の命を受けて、伊勢津彦に国を譲れと迫った。伊勢津彦は、大風を起こし海水を吹き上げ波に乗って東に向かう、と告げその通りになった(「夜ふけになって大風が四方に起こり、大波をうちあげ、太陽のように光りかがやいて陸も海も昼のようにあかるくなり」)。伊勢津彦は、近くの信濃の国に住まわせた。天皇は、伊勢津彦の名をとって、この地を「伊勢」と名付けた」

「伊賀の安志(あなし)の社の神は出雲建子命、または伊勢津彦の神、またの名は天櫛玉命である。阿部志彦の神が来襲したが、勝てずに帰り去った。それで国の名とした。」

 

といった話が伝わっています。

 

風土記 (平凡社ライブラリー)

風土記 (平凡社ライブラリー)

 

 

(※↑こちらから要約)

 

逸文」というのは、後世の文献に引用されたりして伝わっているものなので、実際の「風土記」にそう書かれていたかどうかはわかりません。

しかし、ここでは、「出雲建子命」が登場しています。

また、「天櫛玉命」は、近い名前の神を探せば、「櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやびのみこと)」、天孫より先に降臨した天神で、物部氏の祖先とされている神です。

「天日別命(あめのひわけのみこと)」は、記紀神話には登場しませんが、『新撰姓氏録』では伊勢朝臣の祖先とされ、『旧事紀』「国造本紀」では、近い名前の天日鷲命(あめのひわしのみこと)」伊勢国造に定めたと考えているようです。

天日鷲命」は、『日本書紀』の天の岩戸の部分の一書に、「粟国の忌部の遠祖」として登場し、「木綿(ゆう)」を作ったとされています。

また、国譲りの部分の一書にも「作木綿者(ゆうつくり)」として登場します。

 

 

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 

 

古語拾遺』では、

 

天日鷲神と津咋見神とをして穀の木を種殖ゑて、白和幣(しらにきて)[是は木綿なり。巳上の二つの物は、一夜に蕃茂れり。]を作らしむ。」

 

と書かれています。

 

 

古語拾遺 (岩波文庫 黄 35-1)

古語拾遺 (岩波文庫 黄 35-1)

 

 

「安志(あなし)」というのは伊賀国の地名のようですが、同じ読みの「穴師」には、穴師坐兵主神社という有名(?)な神社があります。

 

○こちら===>>>

穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)/桜井市ホームページ

 

おっと、これで↑で挙げた名前が総登場な感じです。

 

「出雲建子命」=「天櫛玉命(≒饒速日命」=「伊勢津彦(≒「兵主神」)が、「天日別命(≒天日鷲命」との争いに敗れて、信濃に逃れ、そこで「建御名方神」になって、ついでに阿波の国を経営した……という話にしたいんでしょうか。

阿波の国は、「天日鷲命」の末裔である忌部氏のお膝元ですがね……。

どうやら筆者は『風土記』からごっそり話を持ってきたようです。

 

関係ないですが、「夜ふけになって大風が四方に起こり、大波をうちあげ、太陽のように光りかがやいて陸も海も昼のようにあかるくなり」という部分は、伊勢での太陽神の交代を描いているのではないか、と考えられます(ということは、「伊勢津彦」は太陽神なわけで……「建御名方神」も?)。

 

信濃史跡』の続きですが、

 

「而して、命の配神八坂刀賣命は、伊勢国の南部多気郡麻績(おみ)郷の豪族天八坂彦命なれば、命が伊勢に滞留したる時娶れるものか。麻績郷は、現今上御糸村、下御糸村、大淀村の三村に分れ、附近に機殿の村名あり。即ち附近一帯の地、太古夙に機織の業を以て名あり。」

 

↑とあって、「八坂刀賣命」を伊勢の出身にしています。

伊勢国風土記逸文」には、

 

「麻績の郷と名づけるのは、郡の北に神がいる。この神は大神の宮に荒妙(目の荒い布・麻布)の衣物を奉る。神麻績の氏人たちがこの村に別れて住んでいた。それで名とするのである。」

 

とあります(↑『風土記』より引用)。

古語拾遺』では、「天日鷲神」も出てくる天の岩戸の部分で、

 

長白羽神(ながしらはのかみ)[伊勢国の麻績が祖なり。今の俗に、衣服を白羽と謂ふは、此の縁なり]をして麻を種ゑて、青和幣と為さしむ」

 

↑と書かれています。

信濃史跡』の筆者が、何を参考文献としているのかがよくわかります。

と同時に、「諏訪大社」の祭神の正体にはなかなか迫れないんですが……まぁ、このあたりまではとりあえずの引用ということで。

23コマより。

 

「当時、科野の地、建御名方命の入るに先立ちて、土豪の雄なるもの二人あり。一を守宅神(もりやのかみ)と称し、一を武居大伴主神(たけゐおおともぬしのかみ)と称す。共に命に敵して一敗地に塗れ、降を乞ひて永く臣下の列に伍す。後世上社の神長官の守矢氏は即ち守宅神の子孫にして、下社の武居祝亦武居大伴主神の裔なりと云う人あり。一説として茲に記し置くものなり。

諏訪神社上社の南に守矢山あり。頂上の小祠守宅神を祀る。山の東南麓、上伊那郡藤沢村に華表あり、題して物部守屋大神と云ひ、土人風雨の神として尊崇浅からず、毎年夏期に至れば、山麓の部落より、毎朝敷名宛交代にて山頂に至り、風雨の和順を祈りて未だ曾て怠らず。怠れば必ず暴風雨ありと云ひ伝ふ。其の物部守屋といふが如きは、たまたま訓の相似たるより混同したるに過ぎず。

猶又、諏訪湖の西方川岸村橋原にも洩矢神社あり。相殿に藤島明神を祀る。神代の昔より鎮座する所たり。諏訪大明神縁起絵詞によれば、此の地即ち建御名方命と守宅神とが、雌雄を決したる所にして、当時、守宅神は鉄輪を以て武器となし、命は之に対するに藤樹の一枝を以てせしが、守宅神の降伏するに及び、命其の藤枝を地上に投げ捨てたるに、夫れより枝葉栄えて二神の争址を明らかにす。藤島明神即ち之なりと云ふ。

延喜式内に信濃国佐久郡大伴神社あり。現今望月駅にある者其れならむか。或る人説をなして、此の大伴神社こそは、武居大伴主神を祀りたるものなれと云へど、果して如何にや。著者未だ考ふる所あらず。識者の考証を望むものなり。」

 

諏訪の土着の神として、「一を守宅神(もりやのかみ)と称し、一を武居大伴主神(たけゐおおともぬしのかみ)と称す。」と紹介しています。

「後世上社の神長官の守矢氏は即ち守宅神の子孫にして、下社の武居祝亦武居大伴主神の裔なりと云う人あり。」ともあり、「諏訪大社」の神事に関わる神官は、いずれも諏訪の土着の神の末裔と認識されていることがわかります。

 手元に現物がないので又引きになりますが、

 

古代の地形から『記紀』の謎をとく

古代の地形から『記紀』の謎をとく

 

 

↑という本で、「神長官・守矢資料館のしおり」からの引用が紹介されています(p199)。

 

大和朝廷の統一以前、出雲系の稲作民族を率いたタケミナカタがこの盆地に侵入し、この地に以前から暮らしていた漏矢神を長とする先住民族が天竜川河口に陣取って迎え撃った。タケミナカタは手に藤の蔓を、モリヤ神は手に鉄の輪を掲げて戦ったが、モリヤ神が負けてしまった。その時のタケミナカタの陣の跡には藤島明神(岡谷市川岸三沢)が、モリヤ神の陣の跡には漏矢大明神(岡谷市川岸橋原)が天竜川を挟んで対岸に祀られており、この漏矢神が守矢家の祖先神であると伝えられている。

この、出雲から侵入したタケミナカタ諏訪大明神となり、諏訪大社の始まりとなった。こうして諏訪の地は中央とつながり、稲作以後の新しい時代を生きていくことになったが、先住民モリヤの人々は侵入者・出雲系の人々に虐げられていたわけではなかった。タケミナカタの子孫・諏訪氏が大祝(おおほうり)という生神の位に就き、漏矢神の子孫の守矢氏が神長という筆頭神官の位に就き、この地の信仰と政治の実権は守矢氏が持ち続けたと考えられる。こうして大祝と神長による新しい体制が固まり、この信仰と政治の一体化した諏訪祭政体は古代から中世へと続いた。」

 

タケミナカタの子孫・諏訪氏が大祝(おおほうり)という生神の位に就き、漏矢神の子孫の守矢氏が神長という筆頭神官の位に就き、この地の信仰と政治の実権は守矢氏が持ち続けたと考えられる。」という伝説を、神長官・守矢氏は代々継承してきた、ということです。

 

我らがWikipediaによれば、

 

「当社には、神体と同視される「大祝(おおほうり)」(= 現人神)のもと、五官の祝(ほうり)神職)が置かれた。」

「(上社)

大祝(おおほうり):諏訪氏(神氏)

神長官(じんちょうかん)(古くは神長(かんのおさ)):守矢氏

禰宜大夫(ねぎだゆう):小出氏(上社五官の1つ。祭神の御子・八杵命の後裔。)

権祝(ごんのほうり):矢島氏(上社五官の1つ。祭神の御子・池生神の後裔。)

擬祝(ぎのほうり)(まがいの-とも):小出氏のち伊藤氏

副祝(そいのほうり)(そえの-・ふく-とも):守矢氏(上社五官の1つ。祭神の御子・方倉辺命の後裔。)

(下社)

大祝:金刺(かなさし)氏のち武居氏(科野国造の後裔。中世には大祝を中心として武士団化した。室町時代に金刺氏は上社との争いに敗れ他国へ去り、以後は武居祝から大祝が立てられた。)

武居祝(たけいほうり)(竹居祝)(下社五官の1つで筆頭。)

禰宜太夫

権祝

擬祝

副祝

 

↑とあります。

 

○こちら===>>>

諏訪大社 - Wikipedia

 

また、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 諏訪神社誌. 第1巻

 

↑では、いくつかの文献を引用して、「諏訪大社」の祀官について説明しています。

122コマより。

 

「[信府統記二]

諏訪大祝部は、代々諏訪氏なり、(近年守護の名字は諏訪と書き神職には下の字偏を除きて諏方と書るとかや)、後嵯峨院の皇子、有員親王を此社の神職に下し給ひて、御衣の祝部とす、是大祝の祖なりとも云へり (略) 中頃諏訪の家断絶の後、他姓の人此郡を領知せし時は屢々怪異の事多かりし故、又諏訪氏の末葉をして守護職を命ぜられしとかや (略) 俗に大祝を明神と称へり、此所謂は明神の神託に、吾に神體とすと云々 (略) 古より大祝は、京江戸へも出勤する事なくして、名代を以て礼を述べ神代よりの古例として、他郡に出る事なしと云へり。(中略)

五官衆(此五人も宮司なり)第一長官(是を俗に長殿と云ふ、先祖は古へ守屋大臣の子孫此國に来り、諏訪明神神職となりしものにて、今に絶えず相続して、即ち守屋氏と名乗り、五官の長とす、高島城の南に当り、守屋ケ嶽とて高山あり、神宮寺山の峰なり、此峰に守屋の大臣を祀りし小社あり) 次禰宜 太夫 (略) 権祝部、副祝部、儀祝部(擬祝部) (略) 当社(下諏訪)にも五官の祝部あり、武居祝(上の諏訪の長官と同格なれども、下の諏訪には大祝なき故、武居祝の格式少し勝れり、但し近世は大祝を立つ (略) ) 禰宜太夫、権祝、副祝、儀祝 (後略)

 

「[信濃奇勝録]

諏訪上下神社、上諏訪社大祝諏方氏は、当社の神胤なり、(略) 平城天皇の御宅女子有て男子なし、於茲桓武の皇胤有員下向有て、大祝の婿養子となり、社務職たり、是を御表衣祝といふ、大明神有員に託て宣、吾に體なし、祝を以て體とす云々 (略) 大祝職の内は、常に夏鹿皮の褥に坐し、死穢の服を受く、(略) 又諏訪郡の外に出ず (略)

守屋氏は、物部の守屋の一男、弟君と號る者、森山に忍び居て、後神長の養子となる、永禄年中より、官の一字を添て神長官と云、森山に守屋の霊を祀り、今守屋が岳といふ、弟君より当神長官まで四十八代と云。(中略)下諏訪大祝金刺氏は、神姓なりしが欽明天皇の皇子金刺王、社務職たりしより金刺を姓とす。後醍醐天皇の御宇中絶し、今は(武居祝氏族の内十五歳以下の)童男を大祝とす、十五歳の後は替るなり。(後略)

 

「[日本國誌資料叢書信濃の巻]

○金刺氏と多氏。信濃国造族、欽明天皇の御名代となり金刺舎人と云ふ。貞観五年九月紀に信濃諏訪郡人右近衛将監正六位上金刺舎人貞長、賜大朝臣、並是神八井耳命之苗裔也とりて大の朝臣姓を賜ふ。(後略)」

 

ちょっと整理してみますと、

 

(上社)

大祝 諏訪氏……「建御名方神」の末裔

神長官 守矢氏……「洩矢神」の末裔

 

(下社)

大祝 金刺氏……科野国造の末裔

武居祝 ……「武居大伴主神」の末裔

 

と考えられているようです。

「下社」の大祝に関しては、「建御名方神」と、「洩矢神」・「武居大伴主神」が争った頃から存在したのかどうかが微妙です。

それに、「上社」と「下社」の祭礼構造が一致しているとしたら、「下社」の祭神は金刺氏の祖先(神八井耳命)でなければいけませんが、そんな感じが全くないので、「上社」の祭礼構造を後に「下社」でも採用した、と考えるのが自然でしょうか。

もちろん、金刺氏が本当に科野国造の末裔だったとしたら、その祖先神が祀られていてもおかしくないのですが。

というか

 

その神様が信濃の國一宮にいることのほうが自然なのですが。

 

どうもそういう話にならないのは、後付けだったからなのでしょうか。

それだけ、諏訪氏と守矢氏の勢力が強かったのだ、とも考えられます。

 

「上社」の「五官の祝」のいくつかは、「建御名方神」の御子神の末裔、ということになっています。

前出の『古代の地形から『記紀』の謎を解く』という本では、

 

「その頃(※「建御名方神」と「洩矢神」・「武居大伴主神」が争った頃)諏訪湖周辺には、 漏矢の長者の他に、蟹河原の長者、佐久良の長者、須賀の長者、五十集(いさり)の長者、武居の長者、武居会美酒、武居大友主などが住んでいたと伝えられているそうです。」

(※はブログ筆者による)

 

という話が書かれています。

「武居会美酒」は、「上中下十三所」にも書かれる摂社末社の一つの名前でもあります。

建御名方神」がやってくる前の有力者達の名前です。

これらの中で特に強力だったのが、「武居大伴主神」と「洩矢神」だったので、「上社」「下社」の「五官の祝」のトップとなり、他の有力者達は、それまで通りに自分たちの領地を治めていたのでしょうか。

時代が下れば、「建御名方神」の子孫と姻戚関係を結ぶこともあったでしょうから、そうした一族は「建御名方神」の御子神という扱いになり、その系譜に取り込まれていった。

今に伝わる摂社末社の状況などは、そんな感じではないかと思います。

 

 

 

で。

諏訪大明神」が「建御名方神」であるのはとりあえずいいとして。

土着の有力者たちの神は誰だったのか……というと、それが、

 

「ミシャグチ神」

 

だと考えられています。

この方については、次回以降に……なかなか書き終わらないな……。