べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「諏訪大社」考(8)

さてっ八。

もういいんじゃないでしょうか。

そんな心の声が聞こえます(自分の)。

諏訪にそこまでの思い入れがあるのか……と言われると正直答えに窮します。

ただ、「よくわかっていない」のは「妄想する余地がある」ということですので、普段抱え込んで押し殺している妄想を炸裂させる場としては非常にありがたいのです。

 

 

 

……そんなに深い闇を抱えているのか?

 

 

 

大丈夫です(?)。

 

諏訪のお祭りとして世間に名高い「御柱際」。

七年ごとの寅と申の年に、「上社」「下社」それぞれの周囲に立つ柱を建て替える(また、「宝殿」の建て替えも行われる)行事です。

現代では、YOUTUBE等の動画サイトで、その様子が見られるので、ご存知の方も多いかと思います(検索してください)。

 

諏訪大社 (1978年)

諏訪大社 (1978年)

 

 

↑には概要が書かれていますが、その中に「諏方大明神絵詞」からの引用が掲載されていますので、又引きします(P140)。

 

「寅申ノ干支ニ当社造営アリ、一国ノ貢税、永代ノ課役、桓武ノ御宇ニ始レリ(中略)サレハ彼年暦ニ当レハ初春ヨリ国司ノ目代巡役ノ官人ヲ大行事ニ差シ定メ御符ヲキリ、国中ノ要路ニ関ヲスエテ神用ヲ分配ス。一国ノ人民、諸道ノ工匠ヲ集メテ経営ス、氏人並国中貴賤、人屋ノ営作ヲナサズ、材料ヲ他国ヘ出サズ、数十本ノ御柱上下ノ大木一本別一二千人ノ力ニテ採用ス、加之元服婚嫁ノ礼共以是ヲトトム、違犯ノ者ハ必ス神罰ヲカウムル云々」

 

桓武天皇」が出てくるのは、「諏方大明神絵詞」に、「坂上田村麻呂」の蝦夷討伐(801年)に際して「諏訪大社」の神威があったことと関係があります(『諏訪大社』P42)。

要約すると、

 

「将軍坂上田村麻呂は、「諏訪大明神は東の第一の軍神なので、蝦夷を討つために力を貸してほしい」と祈願した。伊那郡と諏訪郡の境の太田切というところまで進軍すると、穀(かじ)の葉の紋をつけた水干を着て、鷹羽の矢を背負い、葦毛の馬に乗った人物が現れた。訊ねると、「この国の住人です。朝廷に仕えたいという志があり参上しました」と言った。ただものではないと思い、彼に先陣させて奥州まで赴くと、その間間の山川に眷属と思われる者たちがたくさん現れて、官軍は不思議に思った。」

 

という感じです。

結果、「坂上田村麻呂」は無事蝦夷討伐を成し遂げ、その神威は「桓武天皇」の耳まで届き、以後「諏訪大社」は軍神として重宝された、ということです。

持統天皇」の頃、初めて使いが遣わされたときの「諏訪の神」は、軍神としての側面は薄いものでした。

 

日本書紀〈5〉 (岩波文庫)

日本書紀〈5〉 (岩波文庫)

 

 

持統天皇」五年の六月には、季節外れの長雨があり、収穫に影響があると考えられたのか、大赦が発せられたり、「廣瀬の神」「竜田の神」が祀られました(どちらも風雨・水の神)。

天候によって収穫が左右されることと、天候によって疫病が流行ることが、この時代には恐ろしかったのです。

この文脈で、八月に「諏訪の神」「水内の神」が、「竜田の神」とともに使者が派遣されていますから、この頃の「諏訪の神」は「風雨の神」「水の神」、あるいは「祟りに対抗する神」=「自らも祟りの強い神」、と認識されていたようです。

それが、「桓武天皇」の頃(100年ほど後)には、「東の第一の軍神」と言われるようになった、と。

でも、「東の第一の軍神」は、どう考えたって鹿島神宮」「香取神宮ですよね。

この辺りの認識のすり替えには、何かあるような気がします。

で、例えばですね、この「坂上田村麻呂」の東征に従ったのは、前回妄想した、「諏訪の裏切り者」だったんじゃないでしょうか。

しかも、結構な立場の……「下社」(分断前)の大祝だったりしたらどうでしょう。

「穀(かじ)の葉」の紋をつけているのだから、「諏訪の神」を祀る氏族としては上位だと思います。

あるいは、「坂上田村麻呂」は、「諏訪の神」を祀る誰かをですね、「人質にとった」とも考えられます。

そんな重要人物が、官軍を先導する(させられる)わけですから、「諏訪の神」の支配地の人々は、彼らを素通りさせるか、従うしかなかった。

日本武尊」をして、まつろわぬ者たちと言わしめた勇猛な「信濃」は、ここで完全に、朝廷の影響下に入ったのでしょう。

とすると、「諏訪大明神絵詞」の伝承自体が、朝廷側の目線で書かれているかもしれません。

さらに伝承では、「上社」大祝の起源を、桓武天皇」第五子有員(ありかず)としています。

露骨というか、なんというか。

桓武天皇」の時代に、諏訪の力を大きく削ぐことができるようになった、ということだと思われます。

そのあと、神階がどんどん上がっていくのですが、朝廷はかなり「後ろめたいことがあった」んじゃないでしょうかね。

だから、(表面上は)きちんと遇さなければいけなくなった、と。

 

で、「御柱祭」ですが。

 

「国中ノ要路ニ関ヲスエテ神用ヲ分配ス。一国ノ人民、諸道ノ工匠ヲ集メテ経営ス、氏人並国中貴賤、人屋ノ営作ヲナサズ、材料ヲ他国ヘ出サズ、数十本ノ御柱上下ノ大木一本別一二千人ノ力ニテ採用ス、加之元服婚嫁ノ礼共以是ヲトトム、違犯ノ者ハ必ス神罰ヲカウムル」

 

↑は要するに信濃国の要路に関所を作って、人々を集めて行う。家を作っちゃだめ、ものを外に持ち出すのもだめ、御柱は1〜2000人の力でそれぞれ運びなさい、その間は元服もしちゃだめ、結婚もしちゃだめ、背いたら神罰てきめん」という意味です。

祭りをやるのに関所作って、人の出入りから物の持ち出しまで禁止しますか?

御柱は人の力で運べ」ってわざわざ書いてあるということは、例えば牛馬や車を使って運ぶのもだめってことです。

元服も結婚もだめ」は、多分「冠婚葬祭全部だめ」ってことですよね?

つまり、

 

「七年ごとに、この祭りを国を挙げてやんなさい、ていうか国だけでやんなさい、他から力借りちゃだめ」

 

と。

江戸幕府は、「天下普請」や「参覲交代」で、大名(それも遠国ほど大変)の力を削ぎましたが、それと似たような発想でしょうか。

 

桓武天皇」時代にこうした「制度」としての「御柱祭」は確立したようですが、その実、この祭りは昔から行われていたのではないか、というのが定説です。

祭りの概要として、

 

(1)薙鎌の打ち込み・御柱の見立て

「上社」の「御柱」とされる樹木に薙鎌を打ち込む。

「下社」は、樹木の見立てはするが、薙鎌は打ち込まない。

昔は、薙鎌を信濃国中の末社に贈っていたらしい。

 

※薙鎌というのは、

 

○こちら===>>>

http://www15.plala.or.jp/sizen/suhama24/omoide/omoide/omoideindex.htm

 

↑のサイトで写真がみられます。

 

(2)御柱曳行・建御柱

<山出し>

「上社」は、御小屋山から「御柱」を曳き出す。地面を引きずり、木落の崖から落とし、宮川を渡る(橋は渡らず、川に落として渡る)。「本宮」一之柱が特別扱いされて、最初に運ばれる。

「下社」も基本的には同様。

<里曳>

大人数で「御柱」を曳行する。人がぶら下がり、ときに大きく揺すったりする。御幣がふられ、大声ではげます。

<建御柱

境内に入ると、「御柱」の頭が三角錐に切り落とされる(冠落とし)。人々がしがみつく柱を、綱と滑車で建てる。「上社」では冠に御幣がつけられる。

(※『諏訪大社』より抜粋・要約) 

 

様々な先達が、この祭りの謎についてせまっておられます。

 

諏訪神社 謎の古代史―隠された神々の源流

諏訪神社 謎の古代史―隠された神々の源流

 

 

↑こちらでは、ネパールの柱立祭「インドラ・ジャトラ」との関係が書かれています。

 

諏訪の神: 封印された縄文の血祭り

諏訪の神: 封印された縄文の血祭り

 

 

QED 諏訪の神霊 (講談社ノベルス)

QED 諏訪の神霊 (講談社ノベルス)

 

 

↑こちらは、結論こそ違いますが、「御柱」の意味についてはほぼ同じです。

 

で、私はといえば。

意味なんて大層なことは考えられませんので、『諏訪の神』、『諏訪の神霊』で取り上げられている説が、ある程度の説得力を持っているのではないか、と思います。

 

・「御柱祭」を大事にしているのに、「御柱」自体は大事にされていない。

 

まず、神聖なものを、「地面を引きずり、崖から突き落とし、川に投げ入れて、引き立ててそのあと六年放置する」、なんてことはそうそうないと思います。

しかも、「御幣」をふって、運ぶ人たちを「はげます」、というのも何だかよくわかりません。

現代では野蛮とされる祭りには、共同体のガス抜きという側面がありました。

西洋でも、「貴族や聖職者と、庶民の役割を逆転させる」というような祭りが行われていたりします。

規制が強いほど、必要になってくるわけです。

御柱祭」にはもちろん、そうした側面があると思います。

それにしたってやりすぎでは?

我々が目にする「御柱祭」は、「桓武天皇」時代のものが原型となっているようですので、それ以前はどうだったのかについては妄想することしかできません。

 

御柱」は「人柱」だったのではないか、という説があります。

 

○こちら===>>>

「諏訪大社・上社本宮」(1) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「上社本宮」にある「大欅」の案内板に、

 

「古くは贄・獲物を掛けて祈願したことから「贄掛けの欅」

 

とさらっと書かれていたことを思い出しました。

御柱」もこれに近いものだったのではないでしょうか。

もともとは、「樹木」に「人柱」をかけて祈願する、諏訪の神である「ミシャグチ神」に対して行われていた祭事だったのではないでしょうか。

この「人柱」がいつから「木の柱」に変わったのかはわかりません。

 しかし、「上社」「下社」それぞれ二社が成立すると、合計で十六人もの「人柱」が必要になってきます。

御柱」の木は、「上社」「下社」でそれぞれ違うところから運ばれます。

「上社」「下社」が成立して、それぞれの氏子の中から「人柱」が立てられた、とすると、諏訪に対しては相当なプレッシャーになります。

昔は一人でよかった(いや、いいわけではないですが)ものを、十六人になってしまうと、共同体の危機に繋がりかねません。

どこかの段階で「木の柱」で代用することになったのですが、現在でも「木落」などでは人死にが出ることがあるそうですので、これが「人柱」の代わりにもなったのではないでしょうか。

人を引きずってくるだけであれば、周囲の人が「死ぬ」ようなことはないでしょうから。

その一方で、「国内だけで祭りを維持しなければならない」ので、「御柱祭」は国力を削ぐに十分な役割を果たすことになったのだと思います。

 

「下社」に「遷座祭」という神事があったように、「上社」にも独自の「御頭祭」という神事があります。

 

「この祭儀は上社年中諸祭礼中、もっとも重んじられるもので、その昔には廊内(※「上社前宮」の「十間廊」)上段に百余個の燈籠を掲げ、鹿の頭七十五個を神前に供え、神饌は贅を尽くし、美を尽くし、禽獣魚介等数十台に及んだという。

(略)

この神事で特筆すべきことは、右の鹿頭を神供として供える他に、高さ七尺三寸(二メートルあまり)の檜柱に檜枝、柳枝、デシャの小枝、コブシの枝花、柏葉を取りつけ、矢一手を加えて蔓で結び、その結びの上に長さ五尺の五色絹を掛けた御杖柱を、禰宜以下が神饌をお供えした後に、宮司がこれを奏奠したことである。」

 (『諏訪大社』P98/※部分はブログ筆者による)

 

この祭事、鹿の頭を七十五個も並べてみせるところからかなり血生臭いのですが、中心となっている「御杖柱」というもの、別名を「御贄柱」と呼んでいるそうです。

『諏訪の神霊』の中で、菅江真澄という江戸時代の人が書いた「御頭祭」に関する著述が引用されています(P147)。

 

「『……やがて(神長が)篠の束の縄をほどき、篠をばらばらにしてその上に敷き、花を添える。長殿(神長)はそのままじっとしている。その時、長さ五尺あまり幅は五寸ほどで、先のとがった柱を押し立てる。これを御杖とも御贄柱ともいう……御神(おこう)といって、八歳ぐらいの子供が紅の着物を着て、この御柱にその手を添えさせられ、柱ごと人々が力を合わせてかの竹の筵の上に押し上げて置いた。……長殿からは、四人目の下位の神官であろうか、山吹色の袂の神官が木綿襷をかけて持つ。そこへ上下を着た男が藤刀というものを小さな錦の袋から取出し、抜き放って長殿に渡す。長殿がこの刀を受け取り、山吹色の衣を着た神官に渡す。その藤刀を柱の上に置く。また長い縄を渡す。木綿襷をした例の神官が、刀を柱のてっぺんに当て、刻みつけ、さわらの枝・柳の枝・象の小枝などを例の縄で結いつける。さらに、矢も一本結びつける。そして、もう一本の柱も刀で同じように刻みつけ、二カ所を結ぶ。……その後、神官たちが家の中程の所に立ち、祝詞を読み上げる頃には御神楽の声が聞こえ出す。そして、柏手を打つ音が三つ聞こえて後、神楽が止んだ。例の神の子供達を桑の木の皮を縒り合わせた縄で縛り上げる。その縄で縛る時、人々はただ「まず、まず」と声をかける。火を点す。再び祝詞を読み上げた後、大紋を着た男が子供を追いかけて神前に出てくる。一方、長殿は藤つるが茂っている木の下に行き。家を造った時屋根に差した小さな刀物を八本投げられた。

いよいよ祭は最高潮となる。諏訪の国の司から使者の乗った馬が登場する。その馬の頭めがけて人々は物を投げ掛ける。しかし、この馬はとても速く走る。その馬を今度は子供達が大勢で追いかける。その後ろから例の御贄柱を肩にかついだ神官が「御宝だ、御宝だ」と言いながら、長い鈴のようなものを五個、錦の袋に入れて木の枝にかけ、そろりそろりと走り出し、神の前庭を大きく七回回って姿を消す。そして、長殿の前庭で先に桑の木の皮で縛られてきた子供達が解き放たれ、祭りは終わった』」

 (※ブログ筆者により適宜略)

 

今ひとつ情景がはっきりしない部分がありますが。

「その時、長さ五尺あまり幅は五寸ほどで、先のとがった柱を押し立てる。これを御杖とも御贄柱ともいう……御神(おこう)といって、八歳ぐらいの子供が紅の着物を着て、この御柱にその手を添えさせられ、柱ごと人々が力を合わせてかの竹の筵の上に押し上げて置いた。」……「御神」と呼ばれる子供が紅の着物を着て柱に手を添える、と筵の上に押し上げられる、と。

「もう一本の柱も刀で同じように刻みつけ、二カ所を結ぶ。」……どうやらその柱は二本あるらしい、と。

「例の神の子供達を桑の木の皮を縒り合わせた縄で縛り上げる。」……これが「ただ縛っただけ」なのか、「「御贄柱」に縛りつけた」のか、多分「御贄柱」に縛りつけたのではないかと思います。

「長殿の前庭で先に桑の木の皮で縛られてきた子供達が解き放たれ、祭りは終わった」……最終的には「御神」の子供達は解放されています。

が、これらは江戸時代の記述です。

かつては、「実際に子供を人柱として捧げていたのではないか」と思わせる祭事です。

子供に「紅の着物を着せて」という辺りで、かつての「血」のメタファーでしょう。

そして、「上社」の「現人神」である大祝がまったく登場していないように見えます(引用の前後で出てきている可能性はありますが)。

あるいは、この「御神」が、大祝ではないのか。

となると、この神事は毎年一回ですので、毎年一人の子供が「人柱」として捧げられていたことになります。

この祭りがどの程度古いのか、というのもなかなか見えてきません。

 

○こちら===>>>

「諏訪大社」考(7) - べにーのGinger Booker Club

 

↑前回の妄想に、付け足しをしてみます。

 

(1)「ミシャグチ神」を崇拝する、「洩矢神」等土着の神々(氏族)がいた。御神体の守屋山を崇拝していた。「前宮」から「本宮」に至る辺りを中心として祭祀を行っていた。また、それぞれ「ミシャグチ神」を祀っていた。※「ミシャグチ神」への「人柱」祭祀。「御頭祭」あるいは「御柱祭」の原型?

(2)「建御名方神」(系氏族)、「前宮」周辺にやってきて、「洩矢神」を中心とした土着の神々(氏族)と軋轢が起こる(戦いが起こった可能性あり)。最終的には、「建御名方神」を「ミシャグチ神」を祀る「神」とすることで決着。※「建御名方神」(系氏族)が、現在の大祝とされる神職につく。

(3)土着の神々(氏族)は「建御名方神」(系氏族)の下で神官などを務めるが、それぞれが「ミシャグチ神」を祀っていた(「本宮」付近か?)。

(4)何らかの事件が起こって、「前宮」とは別に「本宮」が成立する。

(5)この頃、「下社」周辺に勢力を持つ人々(「青塚古墳」を祀った人々)が外からやってきて、諏訪の共同体に加わる(?)。

(6)諏訪が朝廷の影響下に入る。※「坂上田村麻呂」の東征に際して、人質をとられる?この頃、「御柱祭」の制度が成立する(諏訪の力を削ぐため)。

(7)「下社」が成立する。※「桓武天皇」朝以降。諏訪の力を削ぐため。

 

ここである問題が発生しまして。

建御名方神」(系氏族)が諏訪に侵入して、何らかの戦いやらがあって、結果大祝の地位に就いたとして、ですね。

自分の一族から毎年「人柱」を捧げるようなことに同意するんでしょうか?

いえ、古代のことですし、それが当時としては高貴な人間の勤めだったから、という説明で理解もできるんですが。

そんなの部下に押し付ければいいんじゃないでしょうか?

 

「上司の失敗は部下の責任、部下の手柄は上司の手柄!」(BY『半沢直樹』うろおぼえ)

 

後世、「東国一の軍神」と呼ばれ、武力でも圧倒的だった「建御名方神」(系氏族)が、唯々諾々とそれに従ったというのがどうも解せません。

生殺与奪は支配者の特権。

事実、朝廷はそれを仕掛けてきているわけですし。

古事記』の記述を信頼するなら、「建御名方神」は出雲で似たような目にあっているわけですから、今度は自分が諏訪でそれを行ってもよかったんじゃないかと思うのです。

大祝は、職にあるうちは郡内から出ることも禁じられていました。

体のいい「監禁」、あるいは「封印」です。

でも、誰が「出るな」と言っているのでしょうか。

諏訪の人々?

朝廷?

うーん……。

 

「上社」の大祝が「建御名方神」の末裔だとされていながら、一方で「桓武天皇」の皇子とも伝えられているのも、よくわかりません。

桓武天皇」の皇子に「有員」はいないので、後世の創作だと思われますが、そう称したことにどんな意味があったのか。

桓武天皇」の皇子を「人質」にしている、とでも言いたかったのでしょうか。

それとも、「桓武天皇」の頃に、本来の大祝の血筋は断絶したので、別の人物を持ってきた、という意味なのか。

うーん……。

桓武天皇」朝が、諏訪の祭政に大きな役割を果たしたのは間違いなさそうですが。

 

一説に、「「上社」は神別、「下社」は皇別」という言い方があるそうです。

神別というのは、神の末裔。

皇別というのは、皇室の末裔。

「上社」の大祝は神の末裔、「下社」の大祝は皇室の末裔、という意味でしょう。

「上社」の大祝が「桓武天皇」の皇子ということをさっぱり否定しています。

あるいは、「有員」以前の大祝が「神別」だった、ということを言いたいのでしょうか。

この表現も、いつからあるものなのかがわかりません。

 

御柱」が「人柱」だとして、それを立てることは、当初は「贄を捧げる」という意味だったのだと思われます。

捧げる相手は「ミシャグチ神」でしょう。

それが、「桓武天皇」の頃には制度化され、さらに「上社」と「下社」が分かれることで、より巨大な祭りになっていった。

ご丁寧に、「上社」と「下社」、それぞれの勢力下から「御柱」=「人柱」を出させることで、さらに弱体化を狙っている。

さらに、「下社」の神は分断され、「遷座祭」という神事で貶められ、「祟り神」となっていった。

「上社」の神は相当な力を持った「祟り神」で、朝廷もその力を恐れていたがために、「下社」の仕掛けを作り出し、「祟り神」化させたんだと思います。

それだけでは足らないから、「御柱祭」で「人柱」を四方に立て、結界を作って、「上社」の神だけでなく「下社」の神も諏訪に封じ込んだ。

かつて、「ミシャグチ神」に捧げられた「人柱」は、高貴な存在であり、「現人神」だった。

「祟らない」ように、最初から「神」として扱ったのです。

しかし、「御柱」は、その扱い方をみればわかりますが、到底「高貴」な「神」として崇めているとは思えません。

引きずり回し、崖から突き落とし、川に投げ捨て、最後には頭を切って、磔にする。

「下社」の「遷座祭」のときと同じように、「祟られる」ためにわざと乱暴に扱っている節があります。

本来の「ミシャグチ神」ではなく、「祟るミシャグチ神」を作り出し、諏訪の神に対抗させて封印しようとしたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……そこまでしますかね?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いえ、「祟り」や「呪い」が現実だった時代のことです、どんな方法がとられていたとしても不思議ではありません。

そして、そこまでしないといけなかったのが「上社」の神、「建御名方神」……なんですか?

 

 

 

結局、「建御名方神」ってなんなんだろう、というところに戻ってきてしまいます。