さて×7。
お読みいただいている方々も(いらっしゃったら)、そろそろ結論のない考察に飽きてこられたことでしょう。
大丈夫です、私も同じ気持ちです。
めげません(?)。
○こちら===>>>
「諏訪大社」考(3) - べにーのGinger Booker Club
↑で、「上社」「下社」の祭神について探ってみましたが。
「下社」の起源はよくわからない、というのが実際のところです。
「上社」よりも後だったのではないか、ということくらいで。
それは、諏訪の御神体が、現在の守屋山だったと仮定しているからです(「ミシャグチ神」への祭祀が、「上社」中心で行われていたらしいので)。
そして、「上社」「下社」という呼称も、それに拍車をかけているかもしれません。
ついつい我々は、「上社」「下社」と書かれると、「ああ、「上社」の方が上位なんだな」と思いがちですが。
ひょっとしたら、「上」「下」というのは、単なる土地の呼称かもしれないのです。
たとえば、「総の国」が「上総」「下総」に別れたように、守屋山との位置関係から「近い=上」「遠い=下」という呼称が起こっただけだとしたらどうでしょう。
「上諏訪の社」「下諏訪の社」が、いつの間にか「上諏訪社」「下諏訪社」となった、それで何となく「上がつくくらいだから、「上諏訪社」の方が先にあったんじゃないのか」と勘違いしませんか?
現に、「下社」のある土地は、今も「下諏訪」という地名です。
いや、「下社」があったから「下諏訪」だったという可能性ももちろんありますが。
いずれにしろ、「下社」が「上社」より格が下だったとか、新しいとか、そう断言するのはなかなか難しいのではないか、と思うのです。
というわけで、結論として「下社」の成立年代はよくわからないんですが。
↑の中で、出典明らかならずではありますが、登場人物が「下社」について語っているシーンがあります(P203)。
「……最初は諏訪大社は前宮だけだった。しかしそれが—何らかの理由で—本宮も造られた。前宮の辺りで大量の血が流されたから云々という話だね。そして二社で諏訪明神を祀っていたんだ。しかしそんなある日、
『朝廷の主導の下で、諏訪湖の北に、現在同様に、二社を造営する』
というとんでもない命令が下され、平穏だった諏訪大社は上を下への大騒ぎとなったんだ。そしてここからは資料を読むと—」
翔一はパサリとコピーを広げた。そして歩きながら読み上げる。
「『計画の概要が次第に明らかになり、諏訪を二分して氏子の半分を下社側に割譲せよという要求もついている。こんな計画を上社が受け入れられる道理はない。第一、諏訪には既に上社前宮と本宮の二社が鎮座し、何の不都合もないではないか。そこへ何故、更に二社の下社が必要なのか、その真意が皆目わからない。当然、守矢神長官から造営中止の建議書が朝廷に発せられた。しかし朝廷側からは強引に造営の意思が伝達され、それは有無を言わせぬ命令に近いものであった』—というんだ」
小説をソースにしてもしかたがないのですが、なかなか面白い話です。
○こちら===>>>
↑1356年に書かれたこちらでは、「下之宮」という呼称で「下社」が出てきます。
『日本三代実録』(901年成立)から『諏訪大明神畫詞』まで400年近くありますが。
仮に、
○こちら===>>>
「諏訪大社」考(3) - べにーのGinger Booker Club
↑で妄想した通り、『日本三代実録』が書かれた頃や、『延喜式神名帳』に書かれている「二座」が「上社」の「前宮」と「本宮」だとすれば。
その400年の間に「下社」が造営された、というのはありそうな話です。
ただ、単に造営されたというのも面白くありませんので、ひょっとすると元々あった何らかの「神社」が、「下社」に造り替えられてしまったとしたらどうでしょう。
○===>>>
↑「下社」の「春宮」と「秋宮」の間には「青塚古墳」という、この辺りで「唯一の」前方後円墳があるそうです。
これが、「下社」の大祝だった「金刺氏」のものであるかどうかはわかりません。
しかし、古墳がある、ということは「祖先崇拝」が行われていたということです。
地元でも有力な一族がいたことは確かでしょう。
それが、「洩矢神」等の土着の神々系統だったのか、「建御名方神」の系統だったのか、あるいは朝廷からやってきた別の一族だったのか、はさっぱりです。
ただ、ある時期(「下社」が造営されるまで)は、「上社」の大祝・神長官を中心とした共同体に加わっており、何らかの役割が与えられていたのではないかと思います。
なぜかと聞かれると困るのですが、諏訪の土地柄とでもいうのか、恐らく「侵入者」だった「建御名方神」系氏族を、圧倒的な武力を持っていたとはいえ、「諏訪という土地に包み込んでしまった」のですから。
同じような立場のものを受け入れる土壌はできていたのではないでしょうか。
より妄想すれば、出雲→越からの侵入者が「建御名方神」だとすれば、「下社」に陣取ったのは、「伊勢国風土記逸文」に語られた「伊勢津彦」かもしれません。
「日本武尊」が語ったように、信濃の国は、しぶとく朝廷に刃向かうだけの勢力があったのです。
それでも、『日本書紀』に書かれる持統天皇の頃には、朝廷からの使者が来てしまう、つまり朝廷の影響下に入ってしまっていたのでしょう。
(1)「ミシャグチ神」を崇拝する、「洩矢神」等土着の神々(氏族)がいた。御神体の守屋山を崇拝していた。「前宮」から「本宮」に至る辺りを中心として祭祀を行っていた。また、それぞれ「ミシャグチ神」を祀っていた。
↓
(2)「建御名方神」(系氏族)、「前宮」周辺にやってきて、「洩矢神」を中心とした土着の神々(氏族)と軋轢が起こる(戦いが起こった可能性あり)。最終的には、「建御名方神」を「ミシャグチ神」を祀る「神」とすることで決着。
↓
(3)土着の神々(氏族)は「建御名方神」(系氏族)の下で神官などを務めるが、それぞれが「ミシャグチ神」を祀っていた(「本宮」付近か?)。
↓
(4)何らかの事件が起こって、「前宮」とは別に「本宮」が成立する。
↓
(5)この頃、「下社」周辺に勢力を持つ人々(「青塚古墳」を祀った人々)が外からやってきて、諏訪の共同体に加わる(?)。
↓
(6)諏訪が朝廷の影響下に入る。
↓
(7)「下社」が成立する。
高田崇史氏の『諏訪の神霊』の中では、「朝廷が、信濃の力を削ぐために、また反目させるために、強引に「下社」を作らせたのではないか」と推理されています。
平安後期から鎌倉時代にかけて、実際に「上社」と「下社」は勢力争いを繰り広げています。
「下社」の史料などは、この争いで焼かれてしまったため、「下社」の歴史があまりわからないと言われています。
朝廷にとって、諏訪は仲違いをさせなければならないほどに、危険を秘めた地域だった、ということでしょうか。
ここで、「下社」が何故二社から成立しているのか、について考えてみたいと思います。
「上社」が二社なんだから、「下社」も二社でいいじゃないか、そうだそうしよう、それで対抗しようぜ、という単純な話だったのかもしれないのですが。
何となくしっくりこないんですね。
そして、「下社」独特の「遷座祭」という祭事がそれに輪をかけています。
↑によれば(P101)、
「遷座祭(年二度、二月一日、八月一日)
下社には春宮と秋宮があって、二月一日は秋宮から春宮へ、八月一日には春宮から秋宮へ御霊代を遷座するのが恒例である。とくに八月一日の遷座祭は俗に「御舟祭」といい、行列を組んで御霊代をお遷しする。年に二度神居を移すことは当社特有の神事である。
八月一日午後一時、お迎えの行列をしたてて秋宮を出発、春宮に至り御扉を開いて遷御の祝詞を奏して御霊代を神輿に移す。御矛、御旗、薙鎌を携えた百人余の行列は、神輿を守りながら春宮から秋宮へ向かう。遷座祭の行列の道順は決まっていて、ほぼ正三角形の道を使う。(略)
行列が秋宮に至ると、神輿だけはまっすぐに神楽殿を進み、拝殿の殿内を通過して斎庭(ゆにわ)に入る。絹垣でおおわれた神輿から、御霊代が宝殿に移され、楊柳の玉串が献ぜられる。ついで鎮座の祝詞を奏上し、宮司以下関係者が玉串を捧げ拝礼して遷座祭が終わる。(略)
春宮から神輿が出立するのにつづいて、柴舟が曳行される。八月一日の遷座祭をお舟祭とも称するのは、これによる。長さ五尺、一尺角の棒の柱六本を使い、横板で幅五尺縦一丈の長方形の枠を組み、枠の前後にナルを扇形に六尺程度差出し、青柴で形を整え、五色の幔幕を張り、舟の舳と艫のように作り、枠の両側に径七寸長さ七間余の棒(胴棒)を、下にはソリをつけ、曳綱で曳行する。柴舟の上にほぼ等身大の翁と嫗の人形を乗せ、翁は釣竿を肩に、嫗は籠を持っている。この一対の人形は御祭神建御名方神と八坂刀売神を表しているともいわれるが定説はない。
(略)
かつては、柴舟を転倒させたりして威勢を示し、諏訪の裸祭の異名をとっていたものである。いまも御柱祭とこのお舟祭のときだけは氏子が写真のような御幣(おんべ)をふって人々をはげましている。さて御手洗川の橋を渡り、秋宮境内に曳きつけると、神楽殿を三周し、神事相撲を三番とって終わる。一方、人形は摂社内御玉戸社前で焼却されるが、神楽殿の三周と人形焼却は神帰しの作法であり、神事相撲は農作物の豊凶を占う儀式であったのだろう。
八月一日の炎天下、諏訪郡をあげての夏祭も夜半には終わりを告げ、境内に集まった人々は曳き付けられたお舟から争って柴をぬいていく。古くから厄除けのお守りと信じられているからである。
これから一月末までの半年間、祭事は秋宮で執行される。そして、二月一日、秋宮から再び春宮へ御遷座の儀が行なわれるが、柴舟曳行はなく、うってかわって静かなお祭に終始する。」
ちょっと長めに引用してみました。
これ、「上社」にはない神事です。
『諏訪大社』では、「上社」は狩猟的、「下社」は農耕的な祭事が行われている、と書かれています。
とすると、元来「下社」の辺りにやってきた氏族は、狩猟的だった諏訪に農耕的なものをもたらした、のかもしれません。
だから、「建御名方神」(系氏族)や土着の神々(氏族)にも重宝された可能性があります。
確かに、この「遷座祭」、春と秋に分かれていることから、農耕的な要素がもちろんあると思われます。
「春」は「ハレ」の季節、農耕神にとっては「実り栄えよ」とその神威を発現しなければいけない時期です。
「秋」は冬の入り口、「ハレ」の気が枯れ「殖ゆ」に入る、神威を充填しなければいけない時期です。
「山の神」が里に下りてきて「田の神」になり、収穫が終わると山に戻って「山の神」になる、という農耕神の状態を再現したもの、とも思えます。
十分に説得力があるのですが。
それって、社二つでやらなきゃいけないの?
だって、「山の神」を麓に下ろすのはわかるのですが、収穫が終われば山に帰すわけですから、社は一つで十分。
春から秋にかけて、神の座す場所があればそれでいいのです。
それを、わざわざ社を二つ用意して行うって、無駄な気がしませんか?
ここから妄想なんですが。
仮に朝廷が、諏訪の勢力を二分しようとした、とします。
で、二分して、対立をあおることができれば最良なんですが。
そうならない場合もありますよね。
より結束しちゃう、という。
そうなったときのために、二つ社が必要だったんじゃないでしょうか。
社が二つあれば、それだけ維持管理が大変になります。
「上社本宮」の「宝殿」にあった案内板ですが、
「宝殿
御神輿及び御神宝を奉安する神聖な御殿であり一般の神社の御本殿に相当する 寅年と申年毎に一殿新しく造り替え遷座祭を行っている
宝殿が二殿あるため仮殿に御遷座の必要がなく新造の宝殿に直ぐ御遷座になるのである
最も古い記録に拠れば新造して六年経った宝殿に御遷座になり旧殿を新造してまた六年を置くのが本義で今も新旧二殿が平素共存している」
↑これは「御柱祭」の際に、「宝殿」も造営することの説明です。
「下社」もこれに倣うとして、「上社」では「宝殿」があるのが「本宮」だけなんですが、「下社」は「春宮」と「秋宮」で基本的に同じ構造なので、「宝殿」も倍あります。
で、「宝殿が二殿あるため仮殿に御遷座の必要がなく新造の宝殿に直ぐ御遷座になるのである」って、要するに「最初に造営した年は、「宝殿」を二つ作らなきゃいけなかった」って意味ですよね?
「伊勢神宮」の造営当時がどうだったかはわかりませんが、最初から二つの正宮は建ててないはずです(遷宮する意味がない)。
それが「下社」では最初から二つ作らされた。
それも「春宮」「秋宮」があるので、都合四つ。
そして、「春」と「秋」で御霊代が遷るということは、半年の間は「春宮」「秋宮」どちらかの「宝殿」は空っぽで、しかも御霊代がある社でも片方は空っぽ。
何か意味ありますかね、これ?
ついでに言えば、「最も古い記録に拠れば新造して六年経った宝殿に御遷座になり旧殿を新造してまた六年を置くのが本義」ということは、使い古しならともかく、空っぽのまま六年放置した「宝殿」に押し込められるんですから。
「新品」なのにすでに「中古物件」。
ずいぶんと貶められているものです。
また、『諏訪大社』の「遷座祭の行列の道順は決まっていて、ほぼ正三角形の道を使う。」という記述ですが、「遷座祭」のルートが書かれた地図も掲載されていまして。
それを見ると、「青塚古墳」は、この「正三角形の道」の内側に位置しています。
「下社」周辺、「青塚古墳」を中心として祭祀を行っていたとしたら、これはおかしくないでしょうか。
まるで、わざわざ祭祀の中心を避けているかのように思えます。
そして、
「かつては、柴舟を転倒させたりして威勢を示し、諏訪の裸祭の異名をとっていたものである。いまも御柱祭とこのお舟祭のときだけは氏子が写真のような御幣(おんべ)をふって人々をはげましている。さて御手洗川の橋を渡り、秋宮境内に曳きつけると、神楽殿を三周し、神事相撲を三番とって終わる。一方、人形は摂社内御玉戸社前で焼却されるが、神楽殿の三周と人形焼却は神帰しの作法であり、神事相撲は農作物の豊凶を占う儀式であったのだろう。」
という記述。
夏のくそ暑い時期に、これだけの大変な祭に人々を駆り出すのです、そりゃ荒っぽくもなります。
しかも、「春宮」から「秋宮」へ移動する、ということは、「ハレ」から「ケガレ」への移行、農耕神としては「一度役目を終えて死んで、再び蘇るために力を蓄える時期に入る」ことを意味するのです。
つまり、「葬列」です。
そのために、「舟」で流すのです。
それなのに、「柴舟を転倒させたりして威勢を示し」、「このお舟祭のときだけは氏子が写真のような御幣(おんべ)をふって人々をはげましている」なんて、「葬列」ぶち壊しじゃないですか。
明らかに、祭神に対する畏敬の念はないです。
そして、「神楽殿を三周し、神事相撲を三番とって終わる。一方、人形は摂社内御玉戸社前で焼却される」。
「神楽殿を三周」はよくわかりませんが、「神事相撲」を取るのは農作物の吉凶を占うのではなく、「醜を踏む」つまり魔除け・降伏でしょうし、「人形を焼却する」のは穢れ祓いです。
贔屓目にみても、「祟り神」を相手にしているようにしか思えません。
最後に「二月一日、秋宮から再び春宮へ御遷座の儀が行なわれるが、柴舟曳行はなく、うってかわって静かなお祭に終始する。」って、こちらの方が「葬列」です。
つまり、「下社」は、本来「青塚古墳」周辺で祀られていた、農耕的な神格を「貶める」ために作られたのです。
それは、諏訪の人々を「上社」と「下社」の勢力に分断するための仕掛けでした。
そして、「下社」勢力の力をさらに削ぐために、「春宮」「秋宮」が作られたのです。造営や祭りの大変さで疲弊させる目的であり。
もっとシンプルに。
「青塚古墳」周辺で祀られていたであろう農耕的な神格の社を二つにすることで、
文字通り「神を二つに引き裂く」
という呪いをかけたのです。
遷座祭では、本来の神域である「青塚古墳」周辺に近づかないばかりか、正三角形のルートで「結界」を描く。
「葬列」を荒っぽく破壊し、穢れ祓いを演出し、「ハレ」に遷すときに「葬列」めかした祭事を行う。
これでは、もともとの神は怒って当たり前でしょう。
そしてまた、それがこの仕掛けを考えたものの狙いだったりします。
これだけのことをすれば、「神は祟る」わけです。
つまり、「怨霊化」します。
「下社」を「怨霊化」させて、「上社」に対峙させる。
「上社」の神威に対抗するために、あえて「下社」の神を「怨霊」に仕立て上げているのです。
あるいは、実は「下社」に陣取った勢力は、実は朝廷のスパイだったのです(ばばーん!!)。
そして、スパイですから、諏訪に溶け込んだあたりで、朝廷の連中を手引きしてですね、諏訪を朝廷の影響下においてしまったのです。
つまり、諏訪にとっては裏切り者です。
「下社」の扱いはひょっとしたら、この裏切りに対する「報復」だったのかもしれません。
「下社」の大祝の「金刺氏」は、この後に諏訪に入り込み、(まだ分断されていない)「下社」の大祝になった。
しかし、「上社」の人々は、「下社」側を許さなかった。
そこで、「下社」を分断し、元来の祭祀が行えないようにしてしまった。
この場合、「下社」の神は、「上社」の人々には祟りません。
非は「下社」側にあるのです。
そうすると、これを主導したのは「上社」側の人々、ということになります。
さて、どちらがお好みでしょうか?
という、『諏訪の神霊』にインスピレーションを受けた、「下社」の謎解きでした。
何度もいいますが、妄想です(てへっ)。
ああ疲れた……。
さてあとは、「御柱祭」か……。