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「諏訪大社」巡りもいよいよラスト、「上社前宮」です。
◯こちら===>>>
とその前に、「上社前宮」の駐車場近くで発見。
「荒玉社
「新御魂社」とも書き、原始農耕の神事として田の神を降し、稲の御霊をまつる社で上社の重要な摂社である。
古書によれば正月元日にはまず大祝以下の神官氏人が参詣し、旧暦二月晦日の春祭の最初にあたり神使(こうのと)が出仕して「野出の神事」が行なわれたとあり現在も続いているが簡素な神事だけになっている。
なおこの社の造営は、古来より山浦の中村郷の役であった。」
前々回紹介した「上中下十三所」の中にありましたね、確か。
信濃は木の国山の国、ですね(そんな言葉聞いたことないですが)。
……あ、何でこの案内図を、ちゃんと参拝したときに見なかったんだろう……。
摂社末社の、かなりの名前が搔き込まれているではないですか(もちろん、そのときはそんな知識がなかったからですが)。
本当に、下調べが……大事です、みなさん。
神紋になっている「梶」の木。
「穀」とも書くようです。
「楮(こうぞ)」のことでもあるそうです。
「内御玉殿
諏訪明神の祖霊がやどるといわれる御神宝が安置されていた御殿である 「諏訪明神に神体なく大祝をもって神体となす」といわれたように 諸神事にあたってこの内御玉殿の扉をひらかせ弥栄の鈴をもち真澄の鏡をかけ馬具をたづさえて現われる大祝はまさに神格をそなえた現身の諏訪明神そのものであった。
現在の社殿は昭和七年改築されたものであるが以前の社殿は天正十三年に造営された上社関係では最古の建造物であった。」
「諏訪明神に神体なく大祝をもって神体となす」というわけで、こういうものを何というのかというと、
「現人神(あらひとがみ)」
です。
こちらも「上中下十三所」に入っていました。
「御室社
中世までは諏訪郡内の諸郷の奉仕によって半地下式の土室が造られ、現人神の大祝や神長官以下の神官が参篭し、蛇形の御体と称する大小のミシャグジ神とともに「穴巣始」といって、冬ごもりをした遺跡地である。
旧暦十二月二二日に「御室入り」をして、翌年三月中旬寅日に御室が撤去されるまで、土室の中で神秘な祭祀が続行されたという。
諏訪信仰の中では特殊神事として重要視されていたが、中世以降は惜しくも廃絶した。」
「穴」から出てくるのは、地域によっては「狐」だったり「狸」だったりします。
こちらでは、出てきはしませんが、「穴」にいるのは「蛇」です。
「ミシャグジ神」という、珍しくも有名な(?)神が、蛇体だったといわれています。
この神事は、いわゆる「甲賀三郎伝説」に通じるものがありますね。
こちらも「上中下十三所」の中に名前が見えます。
拝殿に向う前に、ちょっと寄り道しまして。
「諏訪照雲頼重の供養塔
この地は、もと「大祝様御屋敷地」といわれた神殿に近く、明治初年に五輪塔及び多宝塔等の石造物残欠が多数出土し、付近住民によって私有地の一角に保存されてきた。
当時は五輪塔火部に「照雲」との銘が判読できたという伝承があり、中世前期の形式をそなえた貴重な歴史的遺物である。
照雲とは神社大祝をつとめた三河入道頼重のことで、『太平記』にも名をとどめ、建武二年(1335)七月十四日に北條氏再興をはかってこの地に決起し、北條時行(高時の遺児亀寿丸)を擁立して「中先代の乱」を戦い鎌倉を占拠した信濃勢の総大将であった。
しかし、足利勢の大軍に敗退し、八月十九日、ついに勝長寿院大御堂にて壮絶な自害をし果てたと記録されている。
近年これら石造物も風化損傷がひどくなり地元保存会が補修整備を行ったものである。」
軍神「建御名方神」のお膝元の名に恥じず、信濃武士は勇猛果敢だったようです。
「※(土へんに郭)の跡
土を盛りあげて築いた土塁を諏訪では「くね」と称した。この 「くね」をめぐらすのは中世の豪族邸宅に多く見られここ大祝の居住する神殿もまたこのくねを周囲にめぐらしていた かつてはもっと高く大きなものであったと思われるが現在は崩れたり道路敷となって断続した小丘になってしまった
明治時代までは松の大樹がそびえて往時の面影を残していたという」
最近のPCでは見つからない漢字のほうが少ないのですが、「くね」は出てきませんでしたね……。
さて、「上社前宮」、実はけっこう登ります。
距離にして……200メートルくらい?
神社も七ヶ所目ですから、結構脚にきていますよ……。
息を切らせて到着。
「上社前宮本殿
前宮とは上社本宮に対し、それ以前にあった宮の意味とも考えられている。前宮の祭神は、建御名方命と、その妃八坂刀売命と古くから信じられ、ここ前宮の奥に鎮まるところが墳墓と伝えられる。古来より立入ることが固く禁じられ侵すときは神罰があるといわれた。四方には千数百年の歴史を有する御柱が七年目毎に建てられ、現在の拝殿は昭和七年に伊勢神宮から下賜された材で造営されたものである。」
「諏訪大社」の中では、唯一「本殿」がありますが、後世に付け加えられたものかと思います。
「前宮とは上社本宮に対し、それ以前にあった宮の意味とも考えられている。」……「本宮」の前にあるわけではないので、そういった意味でしょうね。
確かに「本殿」があります。
こちら「本殿」周囲の「御柱」。
山懐に開けた土地を、遮るものなく広く使っていると、何故か近づき難い雰囲気があります。
背後は陵(古墳)のようなのですが、それと確認はできず(近づけなかったです……)。
「一之御柱」。
「前宮」から少し下ったところです。
「小町屋の中小路
小町屋集落は前宮を中心として大まかに三本の道筋が通っている。
その真ん中を上っていく道を中小路と呼んで、戦前までは一般の人々の前宮本殿への参詣道路であった。
中世の古文書史料等から想定されるところでは、この中小路の両側には、水眼(すいが)の清流をはさんで、前宮神殿に居館を構えた現人神の上社大祝に直属する家臣たちの屋敷地が建ち並んでいたと思われる。
また精進潔斎し、穢れをとって前宮の、神事や祭礼に奉仕する人たちの精進小屋なども設けられたところで、景観は大事に保存したい。」
さて、鳥居の方へ下りて行きます。
「十間廊
古くは「神原廊」と呼ばれ、中世まで諏訪祭政の行われた政庁の場で、すべての貢物はこの廊上で大祝の実見に供された。毎年四月十五日の「酉の祭」には鹿の頭七十五がそなえられたが、これらの鹿の中には必ず耳の裂けた鹿が入っていることから諏訪の七不思議の一つにかぞえられた。
上段に大祝の座、つぎに家老、奉行、五官の座があり、下座に御頭郷役人などの座も定められ、左手の「高神子屋」で演ぜられる舞いを見ながら宴をはった。」
当時から、こんな風通しのいい感じだった……わけではないですよねきっと。
冬なんて寒くて死んじゃいそうだし。
「鹿の頭七十五がそなえられた」というのは、いわゆる「御頭祭」です。
今回、見事にスルーしましたが、「前宮」近くの「神長官守矢史料館」に、その模様が展示されています。
◯こちら===>>>
行かなきゃ行かなきゃ、と思っていながら、タイミングを逃しまして(なかなかの奇景ですので、「諏訪大社」に行かれたら、是非一度ご覧になってください)。
なかなかの大きさの構造物で、かつてはここに「血もしたたっていた鹿の首やら何やらがずらりと並べられた」と思うと……ちょっとぶるっときます。
この背後に神楽殿がある……はずなんですが写真はないです。
社務所近くにある「若御子社」。
「諏訪明神とあがめられる建御名方命の御子達を合祀しているといわれる。
諏訪大社関係には、きわめて優れた古記録、文書が多いが、その中でもっとも名高い文書に「諏方大明神画詞(えことば)」がある。
室町時代にあらわされたこの文書の中に、正月一日、大祝以下の神官氏人はみな衣服をただしてまずこの若宮すなわち若御子社を荒玉社と共に参詣したとある。
こちらも「上中下十三所」にありました(「若宮」)。
御朱印をいただき、駐車場に戻る途中、
「溝上社
祭神は高志奴奈河比賣命といわれ御射山へ出発する際にまず参詣された社であった。水眼の清流をたたえた「みそぎ池」の中にあり、西の方に「神の足跡石」があった。
この社は武田支配時代には山浦の南大塩郷によって造営奉仕がされていた。」
これもまた「上中下十三所」に名前の見える摂社です……が、周りを探しても……
……ひょっとしてあれかな……でも池の中じゃないしな……。
駐車場からの遠景。
↑の案内板を見ていただければわかりますが、他にも「上中下十三所」に名前のある摂社があったんです……廻ってこれれば……悔しい。
他の三ヶ所と異なり参拝客も少なく(単に昼時だっただけでは?)。
時代を経て「本宮」の方へ様々な機能がうつされていったようなので、多少寂れているといえばいいのか。
しかし、むしろこの静かな佇まいこそ、地元の氏神様に相応しい荘厳さではないか、と思います。
いろいろと余人を寄せ付けないものが漂っていました。
背後が「陵」だということにも関係しているのかもしれません。
案内板には、「常坊主古墳」「山の神古墳」というものがある、と書かれています。
神社の源泉をどこに求めるのか、というのには諸説ありますが、その中に「祖先祭祀」のためのものだったのではないか、という説があります。
「自然崇拝」は「アニミズム」、「祖先祭祀」は「氏神様」というやつです。
共同体の有力者を葬った場所、その真上や前や、すぐ近くに「祠」や「廟」を設けて、今でいえば「お墓参り」をする。
人間は、様々な事象に解釈を与えようとする生き物です。
それが自然に向えば、「神様が何かをしているのではないか」、あるいは「神様が宿っているのではないか」、と「アニミズム」になります。
一方でそれが自身に向い、「ひょっとして祖先は人間ではなかったのではないか」「動物だったのではないか「植物だったのではないか」と考えれば、「トーテミズム」になります。
「アニミズム」と「トーテミズム」は同じ方向性にありますが、ここから進むと、「トーテム(祖先の動物/植物霊)」に対する崇拝が、「祖先そのもの」に変化するポイントがあるのでしょう。
これは、ある程度「自然に対する畏敬の念が薄れた」といえるのか、「人間が自然とはどこか異質な存在ではないか、という懐疑心の目覚め」といえるのか。
または、「とても優れたリーダー的な存在の記憶」がそうさせるのか。
そして、これらとは別の位相で、「亡骸を弔う」という行為があります(これは、「祖先」を崇拝する、ということとはまた異なるお話です)。
「祖先崇拝」と「弔い」が合致したときに、「墓所」で「祭祀」を行う、という発想が生まれたのではないでしょうか。
そういう意味で、「古墳」の上や近くに神社があることは、何ら不思議ではないのです(御祭神は、様々に変化してきていると思いますけれど)。
今思いついて書いてますので、真に受けないように。
他にも古墳や社、「蛇塚跡」とか、まさにワンダーランド。
今回の旅ほど、下調べの必要性を感じたことはありませんでしたよ……(ヨヨヨ……)。
妄想考察の駄文は次回から〜。