べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「諏訪大社」考(3)

さてさてさて。

現在の「諏訪大社」の公式な御祭神は、建御名方神」「八坂刀売神」「八重事代主神(合祀)」です。

「上社」「下社」の区別なく、そう定めているようです。

昭和53年発行の、

 

諏訪大社 (1978年)

諏訪大社 (1978年)

 

 

↑では、

 

上社本宮 建御名方神

上社前宮 八坂刀売神

下社春宮・秋宮 建御名方神 八坂刀売神 配祀 八重事代主神

 

となっています。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 諏訪神社誌. 第1巻

 

↑比較的古い(大正15年発行)の本で、「諏訪大社」関係の書物からの引用も多い便利文献を発見。

基本、戦前の国家神道に染まっているので、そのあたりは差し引いて考えなければいけませんが。

例えば、42コマから「祭神異説一覧」が書かれています(引用に当たって旧字を改めた箇所あり/判読不能文字は■に置き換える)。

 

祭神異説一覧

上社 建御名方神

上社 建御名方尊、八坂刀賣命説

上社 事代主命

上社相殿 事代主命

上社相殿 八坂刀賣命説

下社 建南方命説(健御名方命

下社 八坂刀賣命説

下社 片倉邊命説

下社 事代主命

下社 高志沼河姫説

下社 八坂入姫命

下社 下照姫

下社 神功皇后

下社 健御名方神 八坂刀賣命

下社相殿 事代主命

下社相殿 健御名方神」

 

↑それぞれの説の後ろには、文献名が書かれていますがここでは割愛。

 

前提として。

もし、「諏訪大社」が本当に、古来からの神社の形式通り、神体山や神木を祀っているのであれば、「相殿」という発想自体が馴染まないような気がします。

なので、「相殿」説は、個人的に無し。

 

まず「上社」から。

事代主命は、「大国主命」の御子神で、「建御名方神」の兄神です。

国譲り神話では、父神に従って、抵抗することなく御隠れになった(≒死んだ、殺された?)とされています。

この方もよくわからない方なんですが、「神功皇后」の三韓征伐などでは、重要な託宣を行っている神としても登場します。

さらにいえば、『日本書紀』には、「事代主命」の娘である「ヒメタタライスズヒメ」が、「神武天皇」の正后となった、と書かれています(「ヒメタタライスズヒメ」は、『古事記』では、「大神神社」の「大物主神」の子とされています)。

「隠れた」を「死んだ、殺された」と解釈すると、この辺りの神話と矛盾しますが、まぁ神話ですから。

どうも、この方も「大国主命」と同様に、いろいろな神様が一つの神名で呼ばれている感じがします。

「事をよく知る神」、という比較的一般名詞に近いので、様々な「事代主命」がいたんじゃないか、とも思われます。

で、諏訪で祀られている必然性がよくわかりません。

もともと、諏訪にいた「事代主命」みたいな神格のことを想定して、祭神候補に挙げられているとすれば、まあいいかなと思います。

が、そうすると、「諏訪大社」の古い名前である「南方刀美神社」(『延喜式』)との関係がほとんど見受けられません。

ということで、「事代主命」には、やはり横に退いていていただきましょう。

「上社」では、「建御名方神」が主流、プラスして妻である「八坂刀賣命」も一緒に祀られているかもしれない、と(『諏訪大社』に書かれているように、「本宮」に「建御名方神」、「前宮」に「八坂刀売神」という可能性もあるかもしれません)。

 

一方「下社」ですが。

「片倉邊命」は、「建御名方神」の御子神のお一方です。

が、『諏訪神社誌』の中では、「天手力雄命」の子と書かれた文献を引用しています(『延喜式神名帳頭註』『神社考評節』)。

うーん……なんだかインパクトに欠けます

「片倉辺」というのは、そのまま「片倉の辺り」で、「片倉」という地名近辺を治めていた人なのだと思います。

その意味では、「建御名方神」の御子神、というのはわかりやすいです。

建御名方神」が諏訪を支配していたとすれば、その子供が諏訪の各地を統治していた、と(子供がかなり多いので、実際には、各地の実力者が「建御名方神」の支配下に入った、という話かもしれません)。

 

そのわかりやすさが罠なのかも。

 

「片倉邊命」が祭神なら、資料が乏しすぎて考察のしようがありません。

そうですね……「天手力雄命」の御子神でありながら、「建御名方神」の御子神でもあるなら、「建御名方神」の養子になった、といったところでしょうか。

で、その実、養子を装ったスパイだった……という三流ドラマのシナリオしか浮かんできません。

他の説では「女神」を推していることからも、「片倉邊命」だけは違うんじゃないかな……という気がしてきます。

「高志沼河姫命」は「建御名方神」の母神。

「八坂入姫命」は、多分「八坂刀賣命」の書き間違いか読み間違いでしょう(「八坂之入日売命」という方はいらっしゃいますが、「景行天皇」の后です)。

「下照姫」は、「記紀神話」的には「天稚彦」の妻であり、「大国主命」の娘でもあります。

「下社」が「女神を祀っている」というのは、

 

○こちら===>>>

「諏訪大社・下社秋宮」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑でも取り上げた「売神祝ノ印(めがみはふりのいん)」の影響もあるようです。

さて、どの女神なのかはわかりませんが……ともかく女神ということにしておきましょう。

「八坂刀賣命」という方も出自がよくわかりませんが、『諏訪神社誌』には(15コマ)、

 

「[古事記伝]八坂刀賣神は、諏訪社二座の内の一座にして、御名方富神の后神にして、今下諏訪と云是なり、前とは諏訪御名方富神社の前の神と申すことなり。(略)

[古史伝]八坂刀賣命、こは建御名方命の后神なること。下に引く御紀の文にて知なるが、誰神の御女と云こと知がたし。(略)

 

姫神の御親神は不明なれど、海神の御娘と伝ふるを見れば、信濃北方の大豪族安曇氏の出なるが如し(略)

 

[川會神社社伝]祀海神綿津見建御名方命妃、蓋海神之女也、太古海水、氾濫國中建御名方與其妃治水、鑿水内山洪水、注之越海、始得平地居之、神胤蕃殖、因祀焉(以下略」

 

 とあります。

古事記伝』は本居宣長、『古史伝』は平田篤胤の著書なので、要するによくわかりません、と(『古史伝』は違うかもしれません)。

「川会神社」は、諏訪の北にある神社です(現在もあります)。

延喜式神名帳』に見えますので、古い神社だと思われます。

その社伝も古いかどうかはわかりませんが、海神と関係があるのではないか、と。

そう考えれば、諏訪湖畔に鎮座する神としてはふさわしい属性なのかもしれません。

というわけで、「下社」は女神ではないか、というところで落ち着きそうです。

 

ここで、「諏訪大社」の四つの神社は、どれが一番古いのか、というのがポイントになるかと思います。

「上社」の「本宮」と「前宮」の関係は、

 

「前宮」は「本宮」より(時間的に)前にあった、という意味、

 

とされています。

一方の「下社」は、起源がよくわからないんですね。

延喜式神名帳』には、

 

「南方刀美神社二座」

 

とあります。

続日本後紀』では、

 

「奉授信濃国諏方郡無位勲八等南方刀美神従五位下。」(承和9年5月丁未条)

信濃国無位健御名方富命八坂刀売神。」(承和9年10月壬戌条)

 

 

文徳天皇実録』では、

 

信濃国御名方富命神健御名方富命前八坂刀売命神並加従五位上。」(嘉祥3年10月己未条)

「進信濃国建御名方富命前八坂刀売命等両大神階。加従三位。」(仁寿元年10月乙丑条)

従三位建御名方富命神前八坂刀売命神祝。預於把笏。」(仁寿3年8月庚辰条)

 

日本三代実録』では、

 

信濃国正三位勲八等建御名方富命神従二位。従三位建御名方富命前八坂刀売命神正三位。」(貞観元年正月27日甲申条)

 

となっています。

(※引用はこちらから===>>>神社史料集成・南方刀美神社

 

Wikipediaによれば、『日本三代実録』成立から『延喜式』成立まで、少なくとも30年近くはあります。

 

※各文献の成立年代

続日本後紀』  869年

文徳天皇実録』 879年

日本三代実録』 901年

延喜式』    927年

 

続日本後紀』の記述から、「南方刀美神」と、「健御名方富命前八坂刀売神が別の神(神社)を指していることがわかります。

そして、それはその後の資料でも(多少表記の揺れはありますが)変わりません。

延喜式神名帳』で言われている「南方刀美神社二座」が、この二つの神社らしい、ということです。

神階のいただき方から、「南方刀美神」の方が、「健御名方富命前八坂刀売神より社格が上だと考えられていたようです。

本居宣長が『古事記伝』の中で、

 

八坂刀賣神は、諏訪社二座の内の一座にして、御名方富神の后神にして、今下諏訪と云是なり、前とは諏訪御名方富神社の前の神と申すことなり。」

 

↑と指摘しているのは、下諏訪にある「下社」が「健御名方富命前八坂刀売神であり、ということは当然「上社」が「南方刀美神」ということでしょう。

で、私のような浅学には、前とは諏訪御名方富神社の前の神と申すことなり」という文章が何を言っているのかよくわかりません。

空間的な「前」、という意味であれば、確かに「上社」の前に「下社」がある、という見方ができます。

つまり、「健御名方富命の前にいる八坂刀売神という意味だよ、と。

 

 

 

……なんでわざわざそんな書き方をしたのか。

 

 

なんだか腑に落ちませんが。

諏訪大社』に、「本宮」は「建御名方神」、「前宮」は「八坂刀売神」と書かれていました。

ということは、この「健御名方富命の前にいる八坂刀売神は、「前宮」のことを指している可能性があります。

さらに、「前宮」が「本宮」より時間的に「前」だとしたら、八坂刀売神」がもともとの諏訪の神、ということになる……んですか?

うーん……祭神は移動しますからね……そうすると「下社」はどこいっちゃったんだ、という話にもなります。

 

「この頃にはまだ「下社」はなかったのかもしれない」説、登場です。

 

 

 

ただ、一般的に解釈すれば、

 

「下社」(「春宮」と「秋宮」にわかれていたかどうかはともかく)には「八坂刀売神」が、

 

「上社」には「南方富神」が、

 

鎮座していた、と当時の中央は認識していたようです。

以前、「前宮」は、長い間「本宮」の摂社と認識されていたと書きましたが、ひょっとするとこの頃にはすでにそうだったのかもしれません。

だから、「前宮」のことは、中央の文献には出てこないんですね。

さあ、見事にごちゃごちゃしてきました……。

 

 

 

 

ところでこの「南方富神」、「建御名方神」のことなんでしょうか?

古事記』では、「国譲り神話」で、諏訪に追いやられるためだけに登場したようにしか見えない「建御名方神」が、順調に神階を上っていく、なんてことがあるんでしょうか?

 

 

ああ、まとまらないので、続きます……。