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「瑜伽神社」をお参りし、今回の裏メインの神社に。
「崇道天皇社」です。
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「崇道天皇社本殿
この神社は、早良親王(崇道天皇)の御霊を鎮めるために八〇六(大同元)年に創祀されたと伝えられています。
本殿は一間社春日造・桧皮葺です。一六二三(元和九)年の棟札があることなどから、一五八六(天正十四)年に春日大社若宮神社の本殿として建立されたものを、一六二三年に移築したと考えられます。春日旧社殿の古い遺構として貴重です。」
ちらと見えます本殿(奥の社殿)。
確かに、「春日大社」の諸殿と同様の造をしているようです。
手前に「祓戸社」。
御祭神は「瀬織津姫神」「速開都姫神」「気吹戸主神」「速佐須良姫神」。
「大祓祝詞」に登場する、罪を祓う神々です。
だいたい字面を見ていただいてもわかりますが、「水」「海」「風」に関係があり、罪を最終的には黄泉国まで流してしまおう、という役割を持つ神々です。
多く神社には、入り口に「祓戸社」があり、そこに「祓戸大神」として「瀬織津姫神」がお祀りされています。
「大祓祝詞」によれば、まず早瀬にいる「瀬織津姫神」が、祓い始めの神だからです。
他三柱も含めての「祓戸社」は珍しいように思いますが、本殿の御祭神と関係があるように思います。
「由緒 崇道天皇社
一、当社は平城天皇大道元年(1180年前)の創立にして、桓武天皇の皇弟早良太子(光仁天皇高野夫人第二皇子)の霊を鎮め祀る 天応元年桓武天皇の皇太子となる 延暦三年都を平城京より長岡京に移し天皇政事を太子に任せらる 同四年故ありて乙訓寺に幽閉され後淡路島に配流 途に崩御あらせらる 遺骸を仁井の里に埋葬された
国内に凶事続出 親王の怨霊との声高まり同十七年天皇遺骨を大和八嶋陵に迎え同十九年陵に於て追尊の儀敢行せらる
平城天皇大同元年社を建立 霊を慰められたのが当社の創立である(以下略)」
「早良親王」、といえば、「日本の歴史」的な漫画で登場していたような気がする超有名人です。
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↑我らがWikipediaさんではよくまとめられています。
「桓武天皇」の弟であり、立太子までしていたのに、「藤原種継」暗殺に連座したとされ、配流の途中で憤死したお方ですね。
ときは延暦ですから、十数年前は「道鏡」が「称徳天皇」に取り入った頃、十数年後は「坂上田村麻呂」を征夷大将軍として東北へ派遣した頃。
大極殿に雷をぶち落として藤原氏を祟り殺したとされる「菅原道真」、日本最大の怨霊「平将門」、「日本の大魔縁とならん」と言い残した「崇徳上皇」ら、いわゆる「三大怨霊」よりも前に「怨霊」と認識されたお方です。
当時の政治情勢は、日本史の教科書を紐解けばわかりますが、「平城京」から「長岡京」への遷都を計画した「藤原種継」を、南都仏教とのつながりが深かった「早良親王」が疎ましく思っていたとしても不思議ではないでしょう。
結局、遷都は行われます(「藤原種継」殺害は遷都後)。
しかも、「長岡京」は短期間で打ち捨てられて、「平安京」へ遷都します(「長岡京」には10年ほどしか都が置かれなかったことになります)。
こうして「平城京」は南都と呼ばれる過去の都になったのですが。
「藤原種継」を暗殺する時期が違っているんじゃないか、と思いますよね。
遷都前に殺してしまわないと。
こういうとき、ミステリでは「誰が一番得をしたのか?」という点に注目するのですが……。
誰が得を?
うーん、謎。
ともかく、「長岡京」から「平安京」への遷都は、「早良親王」の祟りがあったと囁かれ(様々な凶事、というやつですね)、結果その慰撫鎮魂のために「崇道天皇」の諡が追号される、ということになりました(歴代天皇には含まれていません)。
明治時代になって、「天智天皇」の皇子である「大友皇子」に「弘文天皇」の追号がされていますが、一応こちらは「天皇」として振舞った時期があったのではないか、という推測からなされています。
対して「早良親王」は皇太弟のままでしたし、大帝と呼んでもいいくらいの「桓武天皇」の時代でしたから、「崇道天皇」の追号は異例中の異例だったのでしょう。
ここまでの厚遇こそが、「早良親王」無罪の状況証拠と考えられます。
「怨霊」というのはいつでも、「祟る側」でなく「祟られる側」の意識の問題なのです。
何ら瑕疵のない、正当な懲罰であれば、恨まれたところで恐ろしくはないのですから。
境内社の「お稲荷さん」と「天満さま」。
さて。
なぜか『大和名所図会』に「崇道天皇社」の記述がなかったのですが、
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↑1890年発行(らしい)こちらには(48コマ/(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える))、
「崇道天皇社 紀寺町東側にあり
所祭 崇道天皇 鎮座不詳
当社は璉城寺鎮守なり
当座早良太子光仁帝之太子延暦十四年廃移淡路国於途中薨同十七年追称崇道天皇墓称山陵同廿四年改装於大和國八島陵在添上郡八島
祭礼八月廿一日廿二日維新後十月十五日祭祀す
当社坊目考に記載あり」
とあります。
これだけか……と思い、『坊目考』を検索してみました。
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↑の「紀寺町」の項に「崇道天皇神社」の記事がありました(58コマ)。
「崇道天皇神社 当郷東側に在り往古璉城寺鎮守社なり毎年八月廿一日廿二日祭礼
当座は早良太子八所御霊の其一神なり
だそうです。
「璉城寺」は、今でいう「紀寺」のことのようです(正確には、もともとは「紀寺」だったけれど、後に子院の「璉城寺」が残った、らしいです)。
「八所御霊」は、「コトバンク」によれば、
○こちら===>>>
「御霊会の初見は清和天皇の時代,863年(貞観5)5月20日に平安京(京都)の神泉苑で執行されたもので,そのとき御霊神とされたのは崇道(すどう)天皇(早良(さわら)親王),伊予親王(桓武天皇皇子),藤原夫人(伊予親王母),橘逸勢(たちばなのはやなり),文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)らであったが,やがてこれに藤原広嗣が加えられるなどして〈六所御霊(ろくしよごりよう)〉と総称された。さらにのちには吉備大臣(吉備真備(きびのまきび)),火雷神(火雷天神)が加わって〈八所御霊〉となり,京都の上御霊・下御霊の両社に祭神としてまつられるにいたった。この両社は全国各地に散在する御霊神社の中でもとくに名高く,京都御所の産土神(うぶすながみ)として重要視された。」
ということです。
どうしてこういう選ばれ方なのか、についてはいつか勉強したいと思います。
「崇道天皇社」、参道を直進しても本殿はなく、突き当たりで左を向かなければいけません。
土地の大きさなどが関係しているとは思えないので、これも「高田崇史式怨霊の見分け方」の一つ、「参道が直角に曲がっていると、怨霊を祀っている」ということではないかと。