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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

善光寺(4)

さてさて。

もう少しだけ続きます(『DB』風)。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 信濃史蹟. 下

 

↑の35コマから(引用にあたって旧字を改めた箇所有り/判読不能文字は■で置き換える)。

 

善光寺別当伝略に曰く、上世の大寺、寺主あり、寺司あり、而して未だ別当の稱有らざるなり。按ずるに別当の稱、其の起る所を詳らかにするなし、天平以後に至りて始めて見はる。蓋し、別当は別に監察せしむる者、猶勾当専当と言ふが如し、並に謂ふ所の職、正官に非ざるなりと。又曰く、高野山及び東大寺検校と稱し、比叡山及び諸寺座首と稱し、東寺長者と稱し、勧修寺園城寺長吏と稱し、法性寺執行と稱し、真言の諸寺勾当又は専当と稱す。其の稱異なりと雖も、要するに貫首の稱、其の職は我が寺及び諸寺の別当と別あるなし。並に上世の所謂寺主の職なりと。又曰く、我が寺の別当ある、亦其の始めを詳らかにする能はず。上世に大檀越と稱する者は、即ち寺司又は寺主なり。後世の所謂檀越には非ざるなり。大檀越の稱は、皇極天皇の時に始まり、天慶の末に終る。其の更に別当と稱するは、蓋し、天慶以後なり。後、権別当検校、学頭、主事等の稱あり。権別当検校は権別当にして寺務を検校するなり。学頭は猶大学頭と云ふ如し、主事は蓋し供養の事を主どる。又大勧進の稱あり。勧進の事を主どる。上世は勧進の事あれば即ち大檀越之を攝す。中世以来は其の任に当る者之に補す。東大寺大勧進の如し。後世に至ては則ち別当之を兼ぬ。上世の大檀越は其の職重し、我が別当と云ふ者は大檀越と同じ云々と。

大檀越の始祖は則ち若麻績東人にして、二世を其の子作留となす。後世東人を本多善光と云ひ、作留を本次善佐と稱するは、蓋し、其の法名にして、若麻績氏が別に本多本次の姓あるに非ざる事は、既に先輩の考證に詳らかなり。東人は舒明天皇四年職を辞し、作留代つて大檀越となり、皇極天皇元年、父と共に勅を奉じ、地を水内郡芋井の郷に和して、金堂、四門、一塔、五百仏舎、八百神社を創建し、東人は甲斐の国司に、作留は信濃の国司に任ぜられたりとは縁起の伝ふる所なり。作留の子諸身大檀越となるに及び、諸建築略其の工を竣る。乃ち、白雉五年■龕を作りて本尊を安置し、供養落慶する所あり。皇極天皇御額を賜ひて、始めて善光寺と云ふ。(略)

天慶より治承に至る凡そ二百三十年、其の間、天延天仁の二災あり、又北海の漁人釈迦像を献じ、龍女一洪鐘を供へ、性空上人僧六十六名を請じて経を誦し、重源上人来り礼拝する事凡そ四十八回等、旧記記載する事多しと雖も、檀越別当に至りては則ち其の名を欠く。伝略亦其の伝を逸せり。

其の後、安元治承の頃に至りて、権別当検校善海の名始めて見はる。善光寺別当の名稱ある蓋し之を以て嚆矢とす。而して、勧進上人の名は、東鑑文治中に見はれたるものを以て最初となす。後世、粟田氏の滅ぶるに及び、別当は必ず大勧進を兼ぬるに至れり。」 

 

別当」、「檀越」、「勧進」については、それぞれ検索していただければ意味がわかるかと思います。

 

◯こちら===>>>

別当(べっとう)とは - コトバンク

 

◯こちら===>>>

檀越(ダンオチ)とは - コトバンク

 

◯こちら===>>>

勧進(かんじん)とは - コトバンク

 

善光寺」は、「大勧進」「大本願」という、二つの系統の住職(「大本願」の方は尼僧)がいらっしゃる、というなかなか不思議なお寺です。

そのうち「大勧進」についての記録と考察です。

結果よくわからないけれど、いつに間にかできていた、と。

 

善光寺の宗旨は、上世未だ定まりたるものあらず。最澄の来り詣でて、金堂瑠璃壇下に戒壇を設けしより、一山天台宗の風靡する所となる。寛永七年頃、一度真言宗に帰せしが、未だ幾も無くして、再び天台宗となる。然れども、寺中猶浄土宗の一派あり。

現今、善光寺守護職は、大勧進と大本願との二ヶ寺、相並びて之を務む。大勧進は天台宗にして延暦寺の直轄に属す。大本願は其の起原詳らかならざれ共、芋井三宝記によれば、大勧進と同じく中世頃より存せるもの、其の名稱の文書に見はれたるものにして今日保存せらるるは、慶長四年(1599)を以て最古となすべしと云ふ。宗旨は浄土宗にして無本寺なり。(略)」

 

一方の「大本願」の方も、いつの間にやら出現していたようです。

古くからあったのかもしれませんが、浄土宗としての歴史はもちろん浅いことでしょう。

「僧最澄の来り詣でて、金堂瑠璃壇下に戒壇を設けしより、一山天台宗の風靡する所となる。」ってさらっと書いてありますが、そうですか最澄が「お戒壇巡り」の元祖、ということですね。

密教ぽい修法だとは思っていましたが(秘密結社のイニシエーション風、じゃないですか?)。

 

「境内附属の寺院に衆徒、中衆、妻戸の三種あり。之を三寺中又は三山と云ふ。衆徒は金堂草創当時の五百堂舎、一条天皇の御代の六十六僧、後深草亀山の御代の十二院等の如き不断経衆の亜流にして(略)廿一院之に属し、悉く天台宗なり。

中衆は自ら若麻績氏の遠裔にして、如来の御譜代なりと稱す。皆妻帯にして、血統を重じ、古風を継承し又堂童子として、寺内の事を司る(略)十五坊あり、浄土宗に属す。

妻戸は百済より仏像に随ひて渡来せる二人の僧侶、善仲、善算の後裔なりと云ふ。是亦衆徒と同じく、往昔五百堂舎の内ならんか。(略)十坊ありて天台宗に属せり。」

 

大きな寺院だからなのか、「衆徒」「中衆(ちゅうしゅう)」「妻戸」という三つの勢力があって、それぞれが異なる起原を主張していたようです。

見た感じでは、「衆徒」というのが元々の仏教徒としての集団かと思います。

「中衆」は「寺内の事を司る」ということなので、神社でいうところの「神人」(雑務を司った下級神職)のような役割だったのかと。

また、「堂童子」という名称からも、天台宗でもありますので、「延暦寺」に対する「八瀬童子」のような集団だったのか、とも思います。

若麻績氏の遠裔を称しているということから、その土地の集団だった(主張したかった)のかもしれません。

 

◯こちら===>>>

八瀬童子 - Wikipedia

 

「妻戸」の起原は伝説でしょう。

僧侶の名前が「善光寺」っぽいのが、いかにもな感じです。

どこから来たのかがよくわかりませんが、現在も本堂には「妻戸台」という場所が残っているので(入口すぐ近く、外陣と呼ばれる部分ですが、昔の間取りが今ひとつわかりません)、しっかりとした役割があったものと思われます。

 

善光寺の地、始めは健御名方富命彦神別神社の社地なりしことは吾人既に之を述べたり。彦神別神社は、一名水内の神と稱し、延喜式神名帳載する所、信州名神大社の一にして、元健御名方命の長子彦神別命を祀れるものなることは、伝説に徴して知るを得べし。後世、仏成の光被するに従ひ、神仏混淆し、遂に水内の神の旧典は善光寺の年中行事となり、名に負ふ名神大社も、其の所在すら知る人無きに至りぬ。」

 

善光寺の地、始めは健御名方富命彦神別神社の社地なりし」……あれ、そんな大事なことが書かれていたのか。

由来のところをすっとばしたからなぁ……。

 

明治維新に至るまで、善光寺金堂の後方に年神堂と云ふものあり。年中行事中十二月中申の日の夜、如来御年越の式は此の堂に於て行ふを恒例となす。(略)当夜は、金堂を始め、市中の町家に至るまで悉く戸を鎖し、寺中は鐘を鳴らさず、警戒を厳重にして、以て式の了るを俟つ。之を如来の御年越と云ふは俗伝にして、実は、水内の神の祈年祭を継承し来れるもの、祈年(としこひ)やがて年越(としこえ)の義に転化せるに外ならずとは芋井三宝記の著者岩下櫻園氏の道破せる所なり。然らば則ち、年神堂は彦神別神社にして、当に名神大社の列に入るべきものか。明治維新に至り、之を善光寺より分離し、城山の上に遷して、新に健御名方富神彦神別神社と稱し、県社に列したるは、聊か、復古の旨を得たるものと云ふべし。」

 

……やっべ、俄然面白い話になってきましたよ。

 

「当夜は、金堂を始め、市中の町家に至るまで悉く戸を鎖し、寺中は鐘を鳴らさず、警戒を厳重にして、以て式の了るを俟つ。」……『芋井三宝記』の著者が断言したように、これは明らかに仏教の祭りではありませんよね。

 

◯こちら===>>>

信州デジくら | 善光寺道名所図会 巻之3

 

↑の6コマの図会で、「金堂」の後ろの「御年宮」が確認できます。

また、28コマでは、

 

「◯御年宮 本堂の後ろなり 此の宮は昔八幡の社なりしが今は横沢町に遷してその■■毎年極月(しわす)二の申の夜丑の刻儀式■■」

 

と書かれています。

「祈年(としこひ)」の祭りは、本来は春に向う頃に行われるもので、「大年神」や「御年神」といわれる穀物の神へ祈るもの、と考えられています。

春、田植えの始まる前に、「年霊(穀霊)」を祀って、「いい年」に来てもらう、「いい年を乞い願う」から「としこひ」の祭りなのだと思われます。

それこそ、日本中の神社で行われているといっても過言ではないでしょう。

ところで、「善光寺」の「年神堂」の祭りは十二月のようです。

いつの間にか、「祈年」が「年越」になってしまった、という『芋井三宝記』の推察は当っていると思いますので、あくまでこの祭りを「祈年」の祭りだとしましょう。

行われるのは夜。

しかも、金堂を始め、市中の町家に至るまで悉く戸を鎖し、寺中は鐘を鳴らさず、警戒を厳重にして、以て式の了るを俟つ」状態。

どんなお祭りが行われていたのか……。

別の史料を見てみよう、ということで検索してみると、

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 信濃郷土史研究叢書. 第2編

 

↑が引っかかりました。

これを読んでいただければ、このブログを読む必要はないだろう、という感じの論考です(行き当たりばったりで史料を探しているので、こういうぐだぐだなことに……)。

もちろん、現代においても様々な論説があると思いますので、検索してみてください。

『諏訪絵詞』という史料についての考察で(10コマ)、その引用として、

 

「『(前略)抑本国水内郡善光寺別当の事、日本紀第卅には、持統天皇五年、遣勅使祭諏訪水内神等と見へたり。又延喜神祇式には、諏訪郡南方刀美神社二座、水内郡建御名方富命彦神別社と云へり、当社の分座疑なし、是別当善光寺廓内の当社なり、毎夜寅時大明神御入堂ありて、内陣の扉を閉ぢて諸人三業をしづめて法施祈念す、暫くありて本の扉きりきりとなりて開けて御出の勢あり、厳重不思議の事なり(略)』(※『』内『諏訪絵詞』の引用)

 

其史実の虚実は兎に角今から五百六十年前頃は掻く信ぜられて居た事だけは事実である。即ち延喜式名神大健御名方富命彦神別神社と善光寺とが同居して居た事、及此一寺一社は此時に於て既に密接な関係を有して居つた事等も、注目に値する。」

 

ここでは、「毎夜寅時大明神御入堂ありて、内陣の扉を閉ぢて諸人三業をしづめて法施祈念す、暫くありて本の扉きりきりとなりて開けて御出の勢あり、厳重不思議の事なり」……「毎晩、大明神は入堂して、しばらくすると出ていく」 と書かれています。

この記述からはよくわかりませんが、ひょっとすると扉が「勝手に」開いて出ていくので、「不思議」とされているのかもしれません。

この「大明神」が、本堂後方にあった「年神堂」の神だったとすれば、「年越祭」はこの毎晩の事象を町中に拡大した、ということでしょうか。

 

また、『芋井三宝記』からの引用として(33コマ)、

 

「『(略)我寺の中衆十五坊は、年頭或は事ある時の様、白き法衣を着し、白布にて縫ひたる頭巾ようの物を被りて是を冠と稱へ来れり、如何にも古代に見ゆる也。此十五坊のうち堂照坊、堂明坊の二人をはぶきて兄部坊より十三人年番にて、交々堂童子と云ふを勤むる也。堂童子は専ら如来の御越年より、修正会御印文の事を執れる也。按に此十五坊は麻績氏の遠孫なりとも云ひ如来御譜第の家とも稱して血脈相承し、他家より養子せる事なく云ふ。』(※『』内『芋井三宝記』の引用)

(略)

然らば善光寺の堂童子とは如何なるものであるかと云ふに、十二月廿日頃から翌年正月十五日までの間に於ける、如来御年越、朝拝式、御印文頂戴の三大儀式を主宰する為に設けられたようなものである。

今城山に鎮座の県社健御名方富彦神別神社は明治五六年頃までは善光寺本堂の後ろに歳神堂と稱せられて、小さい祠宇であつたが、其歳神堂こそは、所謂如来御年越の宮なるものであつた。而して其所謂御年越の日からして、世間の除夜とは違ひ、十二月の申の日=二度の時は後の申三度の時は中の申=と極まつて居つた。其日は夜に入ると本堂を締切り、堂童子は白衣白冠で歳神堂に詣でて幣を捧げる、而して一定の神事を勤むる事を如来御年越と云つたのである。次に朝拝式とは、如何にも僭越らしい名前であるが、

 

『元朝子刻洪鐘を撞く、御供所の僧、三寺中(衆徒、中衆、妻戸)を順次に「朝拝に上り給へ」と言入れてめぐる。衆徒素絹五條、中衆浄衣(白衣白冠)妻戸猿衣にて金堂に総出仕するを朝拝に上ると云ふ。中衆念仏を称え(善光像前に対し着座)衆徒着座(仏前)の後、本坊へ案内ありて別当御上り、堂童子拝詣、それより開帳常の如く畢る(中略)旧事記に之を朝拝次第と云り、云々。』(三宝記)

(略)

第三の御印文頂戴なる式は、正月の七日から十五日まで行はれて居るが、櫻園翁(※『芋井三宝記』の著者)の説明によれば、真の所御印文なるものは、仏教関係のものでないらしい。善光寺で元日から七日までの修正会に参詣者に授くる處の『本師如来牛王噞印』なる印判は、動もすると堂童子によりて七日から十五日まで授けらるる宝印と混同されて居るようだが、事実は截然たる区別を有して居ると云ふ事である。一説には、式内健御名方彦神別神社の神印だらうとも云ふ(略)仏教関係の印でない事は、仏の方には別に『本師如来牛王噞印』を用ひて居るのでも推知する事が出来るのである。」

 

「其所謂御年越の日からして、世間の除夜とは違ひ、十二月の申の日=二度の時は後の申三度の時は中の申=と極まつて居つた。其日は夜に入ると本堂を締切り、堂童子は白衣白冠で歳神堂に詣でて幣を捧げる、而して一定の神事を勤むる事を如来御年越と云つたのである。」……ということで、「年越の祭」のもう少し詳しい内容がでてきました。

「堂童子」(若麻績氏の末裔を称している人達が務める役目)が神事を執り行うようです。

「衆徒素絹五條、中衆浄衣(白衣白冠)妻戸猿衣にて金堂に総出仕するを朝拝に上ると云ふ。中衆念仏を称え(善光像前に対し着座)衆徒着座(仏前)の後、本坊へ案内ありて別当御上り、堂童子拝詣、それより開帳常の如く畢る」……これは、元日の朝の「朝拝式」の様子です。

「中衆」は「本田善光」像の前で念仏を称える。

「衆徒」は本尊の前。

別当御上り」というのは、「別当大勧進」の貫主が入堂するということかと思います。

「堂童子拝詣」……主語がよくわかりませんが、「別当」に対し「堂童子」が拝詣するのか、この段階で「堂童子」が入堂するのか。

それから、普段の勤行が始まる、と。

……ええと、妻戸」の人達は、「猿衣」(?)を着て、何をしているのでしょう?

天台宗の僧侶なのに、読経もしない、と?

うーん……。

(※なお、『信濃郷土史研究叢書 第2部』に掲載されている本論考の著者は、「本田善光」を、百済の「善光王」ではないか、ということを論証したいと考えているようなので、それに該当する部分は引用していません)

 

 

※注:ここから、妄想を垂れ流します。

 

天台宗には、「後戸の神」といわれるかたがいらっしゃいます。

 

 

闇の摩多羅神

闇の摩多羅神

 

 

↑こちらに詳しく書かれていますが、常行(三昧)堂の後戸と呼ばれる部分に鎮座して、開帳されることもほとんどない秘仏(秘神)とされています。

善光寺」は元々天台宗の寺(あるいは、そうなっていった)ですから、似たような発想があってもおかしくないのではないか。

しかし、「善光寺」の御本尊自体が完全な秘仏なので、その「後戸の神」にまで話が及ぶことはないように思います。

その意味では、御本尊が「後戸の神」と言ってもいいのかも知れません。

ところで、神社仏閣の本殿・本堂の背後に、小さなお社がある場合が散見されます。

折口信夫は、「摩多羅神」も含めて、「土地の精霊であり、地主神とか地主権現、または伽藍神といった、寺院の境内に祀られた地神(=土地神、土地の精霊(であると説いている(「伝承文学論」「唱導文学」など)。」(『闇の摩多羅神』p31)と言っているようです。

本来、その土地で祀られていた神を廃することは、なかなか難しいものでした。

特に日本では、「神」は祟りますので。

ですから、別の形で祀ることで慰撫してきたものだと推察されます。

善光寺」の前身に、「健御名方富命彦神別神社」があり、それが地主神だったとします。

「本田善光」が、この土地の人間だったのかどうかはわかりませんが、この地で仏教を広めようと考えたとします。

宗教を広めるには民衆の帰依が必要ですから、何かしらの力が「本田善光」にあったのでしょう(あるいはそれは、御本尊の魅力かもしれません)。

かといって、地主神への信仰を廃することは得策ではありませんから、懐柔策をとることになると思います。

ハイチにおいて、キリスト教と土着の信仰が融合して、いわゆる「ブードゥ」になったような感じでしょうか。

日本の神仏混淆をみれば、そういった土壌があることは理解できるかと。

ということで、本堂の後ろに地主神を祀るお堂も作られた、と。

で、このお堂の祭事を司っていたのは、後に「堂童子」と言われた一団です。

「本田善光」の遠裔と称しているのは、開祖との関係によって自分たちの正当性を主張したのでしょうか。

最終的に「浄土宗」に帰着したのも、「善光寺」とは異なるという主張に思えます。

この人達の執り行う神事ですが、「毎夜、地主神が入堂し、しばらくしてから帰っていく」際の、「お堂の扉の開け閉め」だったのではないかと思います。

何故、地主神が本堂に入ってくるのかはよくわかりません(夜に、念仏を唱えたいと思ったのでしょうか)。

 

・地主神、お堂から出る→本堂に入る→本堂から出る→お堂に帰る

 

↑この移動を「表現」するのは、恐らく「堂童子」の動きなんだと思うんです。

ところでこの移動、ちょっと見方を変えると、

 

・本堂から「何か」が出る→地主神のお堂に入る→お堂から出る→本堂に帰る

 

↑でもいいんじゃないか、と思うんです(実際の神事の順番が伝わっていないので、単なる妄想ですが)。

で、本堂から出た「何か」、というのは、御本尊ではないと思うんで(秘仏ですので、開帳されないということは、出てこれないです)、公開されている「本田善光、妻の弥生、子の善佐」ではないか、と。

この、毎夜行われた神事というのは、開祖の「本田善光、弥生、善佐」が、地主神へ参拝するためのものだったのではないでしょうか。

つまり、死してなお、地主神を祀っている。

それだけ地主神に感謝しているし、その祟りを畏れている

そう考えると、「本田善光」の遠裔が「堂童子」を務めていることは、別の側面があるのではないかと思われます。

実際に血縁だったかどうかはともかく、「本田善光」の末裔でなければ、地主神が許してくれないのでしょう。

とすると、

 

かなりひどいことをしたんじゃないか

 

と思ってしまいます。

実際に祟りがあったのかもしれません。

極めつけが「年越の祭」です。

このお祭、寺内だけでなく、町中の扉まで全部閉め切って、厳重に行われていたようです。

これって、つまり、「逆隔離」ですよね?

もし、毎夜、地主神が本堂へ詣でるというのであれば、そのときも町中閉め切っていないといけないと思います。

それをしていない、ということは、やはり毎夜の神事は、「本堂→地主神のお堂」という移動ではないでしょうか。

しかし、「年越の祭」は違います。

地主神が出てくるのです。

古来、祟りは「疫病」として現われることが多いです。

その根源たる地主神(=祟り神、になってしまった)が、年に一度だけお堂から出てきます。

恐ろしくて、扉なんて開けていられないでしょう。

それに、「本堂の扉も閉め切る」のです。

寺の祭りでは、全然ないです。

地主神は、普段はお堂に封印されていて、「堂童子」という特別なものにしか奉仕をさせない、「祟り神」だったのです。

で、問題は、地主神は「何をされたのか」ですが。

単純に考えれば、「土地を奪われた」んでしょう。

で、祟りがあった。

その祟りで、「本田善光」の息子の「善佐」が死んだのかもしれません。

 

◯こちら===>>>

「善光寺」(3) - べにーのGinger Booker Club

 

↑前回の記事でも引用した、

 

「命長四年癸卯(即位二年)。天皇瞑目。三日而蘇。善佐亦死。善光夫妻祈請千仏。始得蘇矣。善佐言。拝■顔千冥府。天皇亦有冥府之威。乃召善光父子。」

 

の部分です。

原因不明で死んだ「善佐」ですが、仏に祈ったら蘇生した、と。

その原因が、地主神の祟りだったとしますと、

 

・地主神→祟りの神威を畏れて祀る

・仏→蘇生の仏威に感謝して拝む

 

という「神仏混淆」の元型のようなものが見えてきます。

古い「地主神」と、新しい「仏」の共存が始まったのではないか。

やがて、天台宗の教えが入ってくるようになり、後戸の神という概念がもたらされると、地主神はここに習合したのではないかと思います。

風姿花伝』では、「後戸」の起原として、祇園精舎での供養を邪魔しにきた外道達を、精舎の後戸で御額を奏でて防いだ」ことに求めており(『闇の摩多羅神』p8)、これを「申楽(能楽)」の始まりとしているようです。

後戸の神には、様々な属性が付与されているのですが、『風姿花伝』に書かれている「外道」を根底においているのではないか、と思います。

つまり、「仏の道を妨害する神」なのです。

その神を、「音楽を奏でて踊り歌う」ことで鎮める、という行為で、結果的に「仏の道を守護する」。

「妨害する」力が強ければ強いほど、鎮まった後の効果もまた大きい。

つまり、後戸の神は、実際にはどんな神でもよく、ただ「とんでもなく祟る神」が要請されたのだと思います。

重要なのは「後戸の神を鎮める」ということなのです。

さて、「善光寺」の地主神もまた、後戸の神とすると、この神は「踊り歌う」ことで鎮められているのでしょうか。

残念ながら、「年越の祭」の具体的な神事がわからないので、そこまでは探れません。

町中の扉を閉め切って、一夜が過ぎるのを待っていたのですから、それどころじゃないかもしれません。

ただ、後戸の神としては、その威力は抜群ですので、何らかの方法で鎮めていたのだと思います。

ひょっとして踊っていたのかな、と思うのは、

 

・「年越の祭」が「十二月の申(さる)の日」だったこと

 

ですとか、

 

・本田善光の子の善佐の元々の名前が「佐留/作留(さる)」だったこと

 

ですとか、

 

・「善光寺」の三寺中の「妻戸」の人達が、元日の「朝拝式」では、謎の「猿衣」を着ていて、何をしているのかよくわからないこと

 

ですとか。

思えば、「扉の前で踊り乱れる」のは、「天岩戸神話」からの伝統芸みたいなもので。

そのとき踊った「アメノウズメ」は、「猿女の君」の祖先とされています。

それに、「比叡山延暦寺」の地主神の神使は「猿」ですね。

うーん……何かありそうですが、脳汁が飛び出そうなのでこの辺りで。

現代の論文を探せば、もっと明快な答えが見つかるかもしれませんが。

あ、妄想ですので、基本的に「間違っている」とお考えください。

 

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善光寺」の御朱印。

 

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「大勧進」の「善光寺如来」。

 

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「大勧進」の「不動尊」。

 

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「山門」の「文殊菩薩」。

 

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ご詠歌

 

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これは……「撫仏」だったかな(「賓頭盧尊者」とあるので、多分)。

 

御朱印は、本堂、大勧進、講堂などでいただけます。

 

 

いやぁ、「善光寺」の話は面白いので、もうちょっと続けようと思いますが、ひとまずはこれで。

長野旅行初日は、天気に恵まれ、駆け足ではありましたが充実した一日でした。

これから諏訪に移動して、珍しくちゃんとした宿をとった(しかも安かった)ので、のんびりしようかと思います。