さてさて。
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第2輯 第1編
↑に収録されている『木曽路名所図会』から、「諏訪大社」関係を引用してみようと思います(引用にあたって旧字を改めた箇所有り/判読不能文字は■に置き換える)。
188コマから。
「上諏方神社
下諏方より三里にあり。[延喜式]名神大、月次。二座。下諏方より坤の方に当る。諏方湖(すはのうみ)をめぐる。
(略)
[続後紀]承和九年五月。授无位勲八等南方刀美命神従五位下。同十月。授无位建御名方富命前八坂刀賣神従五位下。[文徳実録]嘉祥三年十月。授両神並従五位上。仁寿元年十月。進両大神階。加従三位。同八月。両大神祝預把笏。[三代実録]貞観元年正月。授正三位勲八等建御名方富命神従二位。従三位八坂刀賣命神正三位。同二月。授両大神正二位従二位。同七年七月。当郡水田三段。為南方刀美神社田。同九年三月。進両神階加従一位正二位。云々。
拝殿 南向。美麗なり。扉のめぐり彫物彩色、内陣神社なり。和州三輪の如し。
御供所 拝殿の東にあり。
文庫 同所にならぶ。
祈祷所 同所の側にならぶ。
絵馬殿 拝殿の南にあり。
護摩堂 絵馬殿の西にとなる。
三十九間廊下に三十九所の末社あり。
所政大明神 前宮社 砥並社 若御子社 柏手社 楠井社 大歳社 荒玉社 千野河社 溝上社 瀬大社 玉尾社 徳謨社 藤島社 内御玉社 鶏冠社 酢蔵社 習焼社 御座石 御飯穀 相本社 若宮社 大西御庵 山御庵 御佐久田 闕庵 八劔社 小坂鎮守 鷺宮明神 荻宮明神 達屋明神 酒室明神 下馬明神 御寶明神 御賀摩明神 砥並山神 義倉會美酒 神殿中部屋 長廊社
以上一棟、廊下之側に鎮座す。
大福殿 廊下の入口にあり。
御柱 鳥居の内にあり。
大黒天社 本社の外にあり。其外末社二前。
勅使殿 社内東方にあり。
六角井 同東の方にあり。
神楽殿 六角井に隣る。
御手洗井 勅使殿の傍にあり。
金堂 神宮寺。西の山上にあり。本尊釈迦・普賢・文殊を安ず。
鐘堂 塔の傍にあり。銘に云く、永仁二年とあり。
釈迦堂 石段の下にあり。
大師堂 釈迦堂の西にあり。弘法大師を安ず。
当社は科野の國一の宮にして、特に上諏方は神領広くして、社美麗なり。例祭は年中七十五度あり。其中に毎歳三月酉日なり。三つあれば中を用ふ。二つなれば初を用ふ。鹿の頭を七十五俎にのせ、神前に供す。又別に鹿の肉を料理しそなふ。社人も其鹿の肉を食す。他人鹿肉並に獣を喰はんとする時は、此神に願ひて、社人より箸を受けて喰へば、穢なしとぞいひ伝ふ。上下共に七年に一度 毎寅申年。 御柱とて大祭あり。遠近四方より詣人多く集り、其祭式厳重たり。爰に古来より申し伝ふる七不思議といふ事あり。所謂御渡・八栄鈴・御作田・浮島・根入杉・御射山・湯口清濁等なり。御渡とは、信濃は日本にて最地高くして、寒気深き國なるゆゑ、諏方の湖の上に、冬はじめて氷はりて、第三日、若薄ければ第四五日の頃、上の諏方より下の諏方の方に、横幅五尺ばかり、大なる木石などの通りたる如く、氷の上にあと付きて見ゆる。これ例年必あり。奇怪の事なり。これを御渡といふ。又神先ともいふ。此御渡ありて後人わたる。御渡なき内は渡らず、氷薄きゆゑなり。年によりて御渡のかはる。上の諏方よりある事はかはりなし。下の諏方の方に御渡ある所はかはるなり。其所によりて年の豊凶をしるといふ。御渡筋一文字につき、或はゆがむ事あり。」
「諏方春宮 北の坂の下口に鎮座す。毎歳正月朔日に遷し奉る。
祭神 上諏方と同神。
拝殿・神楽殿・回廊・御柱・若宮・伊勢両宮・籠所・竃殿・子安社・護摩堂、何れも本社のめぐりにあり。
諏方秋宮 駅中にあり。毎年七月朔日、ここにうつし奉る。毎度神輿に乗せ参らせず。元日には祭礼し。七月朔日には祭礼あり。 春宮にまします時、秋宮空社なり。秋宮にまします時は、春宮空社なり。
[旧事紀]天孫降臨時。大己貴神第二之子。建御名方命。欲拒天孫。於是経津主神遣岐神逐之。建御名刀神命。逃到信濃國諏訪郡。迫甚。而請曰。願得此郡。以為父母之譲不為天神之怨。而作吾居。則吾豈奉背天孫哉。因並経津主神。以諏訪一郡附于建御名刀神。是即諏方明神也。
[神皇正統記]大物主神子。建御名刀美神者。事代主之弟也。今諏方明神是也。一云、神功皇后征三韓時。天照大神託以住吉明神。諏方明神令為輔佐。又云く、信濃諏方。下野宇都宮。専狩猟供鳥獣。」
ふう。
「拝殿 南向。」って、あれって感じです。
「上社本宮」の「幣殿」「拝殿」は、どう考えても南は向いていません。
ということは、当時は南を向いていたのか?
「和州三輪の如し。」……これは、「大神神社」のようだ、といっているのでしょう。
つまり、「本殿」がなく、御神体は山だ、という意味かと。
「三十九間廊下に三十九所の末社あり。」とあり、「遥拝所」であるとは書かれていません。
ということは、当時は、「上社本宮」に末社があった、という解釈になるのでしょうか。
そのほうがわかりやすいのは確かです。
↑は、現代の「諏訪大社」に関する基礎的な知識を得るのにもってこいの本です。
この中に、
写真に撮ってしまったので見づらいが(※問題あれば削除します)、いわゆる「上中下十三社」のほとんどが、実際に茅野〜下諏訪に渡る、「上社」「下社」周辺に存在していることがわかります。
普通、本社に吸収された摂末社というのは、土地から消えるものなのですが(現代で「諏訪大社」の摂社末社がそれほど重用されていない様子は、以前の記事で取り上げた「前宮」付近の「荒玉社」などを見ていただくとわかるかと)。
どっこい生きているわけです。
ということは、『木曽路名所図会』での書かれ方はともかく、実態としては「遥拝所」だった、と考えられます。
結局は最初の疑問、
「どうして『摂末社』の『遥拝所』なんてものがあるのか?」
に戻ってしまいます。
それだけ畏れていたからなのか。
それとも、また何か別の理由があるのか。
「上社本宮」の構造を思い出していただきますと、
(◯と矢印は無視してください)
「神居」という神域には、よくわからない「神」様がいらっしゃるとして。
「摂末社遥拝所」というのは、本来の摂社・末社が存在しているはずの方角とは関係なく、「神居」の方を向いて参拝するようになっています。
その先には、御神体の御山があります。
ということは、この「摂末社遥拝所」に向って参拝すると、同時に「神居」に向って参拝し、なおかつ御神体にも向って参拝している、という三重構造になっているのではないか、と思います。
昔は「十三所遥拝所」とも言われていたので、都合「十三回」は参拝する。
そのくらいのことをしないといけないような「怨霊」がそこにはいらっしゃる……なんて妄想をしています。
なかなかうまくまとまりません。
「大福殿 廊下の入口にあり。」……これ、現代では存在しません。
「出早社」のことなのかもしれないのですが、よくわかりません。
「大黒天社 本社の外にあり。其外末社二前。」……これは、
◯こちら===>>>
「諏訪大社・上社本宮」(2) - べにーのGinger Booker Club
↑こちらの後ろの方で紹介している方だと思われます。
ちょっととばして、
「[旧事紀]天孫降臨時。大己貴神第二之子。建御名方命。欲拒天孫。於是経津主神遣岐神逐之。建御名刀神命。逃到信濃國諏訪郡。迫甚。而請曰。願得此郡。以為父母之譲不為天神之怨。而作吾居。則吾豈奉背天孫哉。因並経津主神。以諏訪一郡附于建御名刀神。是即諏方明神也。
[神皇正統記]大物主神子。建御名刀美神者。事代主之弟也。今諏方明神是也。一云、神功皇后征三韓時。天照大神託以住吉明神。諏方明神令為輔佐。又云く、信濃諏方。下野宇都宮。専狩猟供鳥獣。」
『旧事紀』のほうでは、「建御名方命」は、「天神を恨むことはしない。私のために居を作ってほしい」と言っています。
「国譲り神話」で、父神である「大国主命」が同じようなことを言っています。
「国譲り」は、別の側面からみれば「国取り」です。
そして、↑のような言い訳を考えるのは、「国を譲った(取られた)」方ではなく
「国を譲られた(取った)」
方です。
後ろめたいので、正当化すると(そうでなければ、「あいつら、悪い奴だから根こそぎ奪って墓も立てなかった」と書いたっていいはずなんで)。
「建御名方命」には、「怨霊」の資格十分なようです(しかし、この話は、「大国主命」の「国譲り神話」から引っ張ってきたのではないか、と思います)。
『神皇正統記』のほうでは、「諏訪」と「宇都宮」では、狩猟で得た鳥獣をお供えする、と書いてあります。
「上諏方神社」の引用部分に、「又別に鹿の肉を料理しそなふ。社人も其鹿の肉を食す。他人鹿肉並に獣を喰はんとする時は、此神に願ひて、社人より箸を受けて喰へば、穢なしとぞいひ伝ふ。」とあり、肉食が禁じられていなかった様子もうかがえます。
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↑で紹介されていますが、「諏訪大社上社」では、「鹿食免(かじきめん)」という御符(免罪符?)が頒布されるそうです。
文字通り、「鹿肉食べてもいいよ」というものです。
神仏習合がありながら、狩猟生活の風習を色濃く残してきた諏訪地方なのです。
だから、「信濃武士」は勇猛だったのでしょうか(我々が思っているほど、肉食は禁じられていたわけではない、という説もあるようですが)。
そうすると、「建御名方神」がそうだったのか、あるいは地主神のほうがそうだったのか、どちらなのか。
『日本書紀』で最初に「諏訪」の神が登場するのは、「持統天皇」の時代です。
「持統紀」の「五年八月条」に、
とあります。
「信濃の須波」というのが、『延喜式』の「神名帳」にある、「南方刀美神社二座」のことだと思われます(「水内」の神は、「善光寺」のある場所に鎮座していた「建御名方富命彦神別神社」だと考えられています)。
さて、『日本書紀』の「国譲り神話」には、「建御名方神」は登場しません。
ですが、「須波」の神が登場します。
『日本書紀』編者は、この神をどう設定していたのでしょうか。
そして、この神は誰なんでしょう。
ますます混乱してきましたが、『日本書紀』的には、「建御名方神」だけはあり得ない、のは確実です。
『古事記』の「国譲り神話」には、ばっちり「建御名方神」が登場するのですが(負けるために)、ここでも疑問があります。
『古事記』「国譲り神話」の直前には、「大国主命」の御子神、その子孫の名を、母神とともにつらつら書き連ねた部分があります。
そこには「建御名方神」は登場しません。
さらにその前には、「建御名方神」の母神とされている「高志沼河比賣」に求婚し、歌を交わした末に、次の夜に会った、という内容が書かれています。
にも関わらず、そこでも御子神が生まれたとも、その神が「建御名方神」だとも書かれていません。
このように交わした歌は、直後に「須勢理毘賣」(スセリビメ/「須佐之男命」の娘で、「大国主命」の正妻と位置づけられている)とのものも掲載されていますが、察するにかなりの特別扱いです。
「高志沼河比賣」はそれだけの価値のある存在だったのでしょう。
にも関わらず、御子神についての記述はない。
つまり、「建御名方神」は、「国譲り神話」の場面で、唐突に登場し、「建御雷神」に諏訪まで追いやられて、閉じ込められる、という役割を果たしただけ、ということになります。
↑には「出雲国風土記」も収録されています。
「出雲国風土記」には、出雲系の神である「須佐之男命」「大国主命」が登場します。
この中の「美保の郷」の条には、
天の下をお造りになられた大神命(註:「大国主命」)が、高志の国に[鎮座して]おいでになる神意支都久辰為命(おきつくしゐのみこと)のみ子の俾都久辰為命(へつくしゐのみこと)のみ子の奴奈冝波比売命(ぬながはひめのみこと)をめとって、お産みになった神御穂須須美命(みほすすみのみおと)、この神がここに鎮座しておられる。だから美保という。
とあります。
「御穂須須美命」……誰?
ここには本来、「建御名方神」の名がなければいけないはずなのですが……。
「美保神社」は、今でも島根県に存在しますが、祭神は「事代主神」に改められています。
だから、せめて「建御名方神」に変えられているのならわかるのですが、どうして「事代主神」なのか。
うーん……。
どうやら、「高志沼河比賣」の御子神と書かれているのは、『先代旧事本紀(旧事紀)』のようです。
こうなるとますます、「建御名方神」の実態が薄く薄くなっていきます。
頭が痛くなるばかりなので、また続きます。
あ、『木曽路名所図会』 で、天下の奇祭「御柱」の描写が薄いのは、基本的に観光案内である『名所図会』で、七年毎の祭りを紹介しても、旅人にはそれほどのインパクトがないから、だと思われます(毎年見られる「御渡」のほうが、いかにも「観光」っぽいです)。
また、「上社前宮」が『木曽路名所図会』で紹介されていないのは、近代になるまで、地元はともかく、世の中では「上社前宮」は「上社本宮」の「摂社」だととらえられていたからです(「上中下十三所」の中にも、「前宮」が入ってます)。
では、続く〜。