べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「今戸神社」(浅草名所七福神)

8/2。

実に(暑い)いい天気に恵まれました。

夏、真っ盛り。

待乳山聖天」を後に、次なる七福神を目指します。

 

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浅草名所七福神

 

↑で紹介されている巡拝コースを、「待乳山聖天」を起点に反時計回りに回るつもりです。

というわけで、次に向かったのは今戸神社

 

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今戸神社公式ホームページ

 

とその前に、「待乳山聖天」から、隅田川沿いをぼんやり進んでいきますと。

 

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「山谷堀公園

山谷堀がいつ頃掘られたかははっきりしないが江戸の遊里吉原との関係からみてもおそらくは江戸初期にできたものであろう。

都下水道局ポンプ場のところから隅田川へと注ぐ約700メートルにおよぶ山谷堀は、北区の音無川を源とし、飛鳥川の北側、王子権現の下を経て通じていた。

当時、この堀は吉原への通路の一つであった。山谷堀を通るので吉原通いを別名、山谷通いともいった。猪牙船などを仕立てて、このコースを使う遊興はぜいたくとされ、まさにおだいじん遊びだった。

堀の上流の方から日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、山谷堀橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋と九つの橋がかけられていたが、埋立に伴いすべて取り除かれており、橋台のみが昔の面影を残している。(以下略)」

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3

 

↑前回紹介した、『江戸名所図会 第3』の287コマに、「山谷堀 今戸橋 慶養寺」の図絵が掲載されています。

 

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そんな公園だからか、なかなかシュールなオブジェ。

 

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そんなことをしていると、案外早めにつきました「今戸神社」。

こちらは福禄寿です。

「元今戸八幡宮」と書かれています。

 

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参道が綺麗に直角に曲っているのが見えますが、果たして高田崇史式怨霊の見分け方」に合致するのでしょうか。

空襲で焼け野原になった町ですので、復興の際にいろいろな悶着があったことも想像され、社地を回復するにこれ以外の配置はできなかった、ということもあるのではないかと。

 

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七福神一覧……かと思ったら違いました。

なんだっけ。

 

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こっちでした。

招き猫もなんだかキッチュです。

 

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右下の怪しい影はスマホのレンズカバーが映り込んでいるだけですのでお気になさらず。

 

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何だこれ……度数拝礼碑……御百度参りを数えるための、「百度石」でしょうか。

 

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歴史を感じる狛犬さんを、歴史を感じる錆びた網が囲んでいる、と。

 

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……スルーしそうになりました。

 

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「今戸焼発祥の地」なのだそうです。

「今戸焼とは現在の台東区今戸の地で焼かれてきた日用品の土器類・土人形類のことで、かつては江戸を代表する焼き物として繁栄していた。(中略)

今戸焼の起源は定かではないが、伝承では天正年間(1573〜91)に千葉氏の家臣が今戸辺りで焼き物を始めたとか、徳川家康入府後三河の陶工が今戸に移って来たともいわれる。「今戸焼」の名としては十八世紀末頃から明らかに見られ、十八世紀前半頃に本格的な土器生産が始まったと思われる。隅田川沿岸はかつて瓦を含めた土製品の生産が盛んであったようで、瓦町の名や瓦焼が早くから知られていた。江戸時代の文献である『江戸名所図会』には瓦作りの挿絵がみられ、『隅田川長流図巻』(大英博物館所蔵)には今戸焼の窯が描かれている。

(中略)

関東大震災東京大空襲により職人が次々に区外へ移り、現在今戸には一軒のみが残り、伝統を伝える「口入れ狐」や「招き猫」などの人形が今でも製作されている。(以下略)」

 

というわけで、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3

 

↑の286コマにその図絵があります。

陶工らしき人が、キセルをくわえながら、何か作業をしています。

焼物(というか芸術全般)に全く疎い私は、何をしているところなのかさっぱりわかりません。

古文書(というほどのものではないですが)も読めないので、何が書かれているかもよくわからないです。

とにかく、図絵を掲載する(ページを割く)ほどには有名だったということですね。

さらに、↑の写真には、ひっそりと

 

沖田総司終焉乃地」

 

という碑もあります。

 

沖田総司は当地に居住していた御典医松本良順の治療にも拘わらず、その甲斐なく当地にて殁したと伝えられている。」

 

ちなみに、当たり前ですが、『江戸名所図会』にはそんなことは一切書かれていません。

そりゃそうです。

 

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裏へ抜ける道。

 

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拝殿。

権現造、のようです。

並んだ招き猫さんが、なかなか独特な風貌です。

 

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案内板(引用に際して、應を応に改めています)。

 

「御祭神

応神天皇 伊弉諾尊伊弉冉尊 福禄寿

 

当社は元今戸八幡宮と称し、後冷泉天皇の時代康平六年(1063)源頼義、義家父子は勅命に依り奥州の夷賊安太夫安倍貞任、宗任を討伐の折今戸の地に到り、京都の石清水八幡を鎌倉鶴ヶ岡と浅草今津村(現今戸)に勧請しました。

応神天皇の母君神功皇后新羅を始め三韓親征の際、時恰も天皇を宿されてその帰路天皇を九州筑紫で誕生されました。

従って応神天皇を別名胎中天皇・聖母天皇とも称し安産子育ての神と崇敬されております。

伊弉諾尊伊弉冉尊御夫婦の神は加賀の白山比咩神社の御祭神にして、嘉吉元年(1441)千葉介胤直が自分の城内に勧請しました。

冉二神は子孫の繁栄を与えられると共に縁結びの神と崇敬されております。

昭和十二年今戸八幡と合祀され今戸神社と改称されました。

今戸の地名は古くは武州豊島郡今津村と称し、その後今戸(別字今都)となりました。(以下略)」

 

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鶴岡八幡宮 - べにーのGinger Booker Club

 

鎌倉のシンボル「鶴岡八幡宮」とも縁があるとは知りませんでした。

 

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で、招き猫ですが。

公式HPの、

 

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今戸焼招き猫

 

↑で、今戸焼の説明がされています。

土人形の一つに招き猫があった、ということのようです。

てっきり「豪徳寺」が元祖かと思っていたのですが、wikipediaによると、様々な説があるようです。

ちなみに、

 

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蔵のある風景|伝統蔵

 

↑で紹介されているように、愛知県常滑市には巨大な招き猫さんがいらっしゃったり、

 

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招き猫ミュージアム

 

↑愛知県瀬戸市には「招き猫ミュージアム」があったりします。

常滑も瀬戸も、焼物で有名です。

何しろ招き猫さん、恐らく日本が生んだゆるキャラの中でも、もっとも広まっているものの一つでしょうから(もう一つはダルマかな……こっちは最近衰退中でしょうか)。

大人気。

 

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神輿庫、だと思います。

 

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去り際に。

立派な木です。

 

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3

 

↑の282コマから、「今戸八幡宮」の記事があります(引用に当たって旧字を改めた箇所あり。判読不能文字は■で置き換える)。

 

「今戸八幡宮

今戸橋より一丁ばかり北の方、道より左にあり。祭神山城國石清水に同じ。別当天台宗にて松林院と號す。祭礼は毎年八月十五日にして、放生会を修行せり。社記に曰く、源頼義朝臣、義家公と共に、勅を奉じて、奥州安倍貞任宗任を誅戮し給ふ。仍て康平六年壬卯八月、其祈願として、鎌倉由比郷および此今戸の地に至り、石清水八幡宮を勧請あり。(今戸社記に、今津に作る。小田原北条家の分限帳に、木内宮内少輔所領に、石濱今津と云ふ地名を■へたり。按ずるに、津戸は通音なれば、いつしか今戸といひならはせしなるべし。)其後、奥州武衡、宗衡兄弟、反逆の時も、義家朝臣、鎌倉鶴ヶ岡、および当社八幡宮等に祈願ありて、賊徒を亡し、勝利ありし故、永保元年辛酉、両社の修造を加へられ、行基彫造の弥陀を以て、ここの本地佛とし、又同作の薬師、および慈覚の作の観音等の像をも安置ありしとなり。其後、文治五年、右大将頼朝公、奥州の泰衡追討として進発の時も、此御神に祈誓ありて、勝利を得給ひ、建久元年庚戌、下河邊庄司行平を奉行として、宮社を重建あり。然に、寛永十三年丙子、台命を奉じ、舟越伊予守、八木但馬守等、是を司り、当社御再興ありしより巳降、神光日々に新に、霊威月々に盛なり。」

 

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今戸神社

 

↑「浅草名所七福神」のHPでは、『江戸名所図会』の内容がほぼそのまま、現代文で書かれています。

ところが、肝心の福禄寿を祀った、という話が載っていません。

まぁ、七福神信仰というのは、原点は室町期だと言われたり、隆盛したのは江戸時代だったり、それもとある人が意図的に流行らせたのではないかと言われたり(陰謀論)。

割と新しい信仰なので、ブームに乗っかって日本全国に「七福神巡り」が出現し、七福神に当てはめた祭神や本尊をでっち上げた、という流れがあるのではないかと思います。

ただまぁ、「八幡」様で「福禄寿」なので。

関係のある人といったら、

 

武内宿禰

 

くらいしか思いつきません。

数代にわたって天皇に仕えた長寿の人ですので。

実際はどうだか知りませんけれども。

 

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余談ですが、うら若い女子が数人、参拝に訪れていました。

狙いが「縁結び」なのか、沖田総司」の歴女なのかはわかりませんでした。