8/2。
よんどころない事情で上京することになりましたので、さてどこを回ろうか。
と少し考えて、
◯こちら===>>>
↑というのを発見しました。
そういえば、行ってみたいと思っていて、なかなか行けてなかったところがありましたので、行ってみました。
「待乳山聖天」。
◯こちら===>>>
何故行きたかったかというと、
「待乳山」
という漢字がずっと読めなかったから、というだけなんですが。
階段を上ると、既に素敵空間な気配が。
石造りの仏像は、今も信仰されているようです。
どの仏様がなんなのかは、私の浅薄な知識ではどうにもなりませんが。
庚申塚です。
寛文年間のもののようです(今ひとつ、読めません)。
日月と、三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)。
こちらも庚申塚。
三猿の上にいらっしゃるのは、恐らく庚申信仰の本尊である「青面金剛」です。
一面六臂(四臂とも)で、青い体の忿怒形が基本です。
元々は、「東方青帝薬叉神」のことのようです。
庚申信仰自体は道教系ですので、その昔、大陸でごっちゃになったのでしょう。
待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇九年(601)夏、旱魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。
ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作
哀れとは夕越えて行く人も見よ 待乳の山に残す言の葉
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和三十年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根。巾着の意匠は、当時の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁昌を表すという二月七日大般若講大根祭には多くの信者で賑う。
なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和三十六年に再建されたものである。」
いい天気でした。
もちろん、ものすごく暑いです。
こちらが「トーキー渡来の碑」。
階段の手すり(?)にも、大根と巾着の意匠。
まずは、御本殿でお参り。
蟇股のところにも、大根と巾着(画面左上)。
さらに大根。
天水桶は巾着。
徹底しています。
シンボルがあると強いですよね。
「宝篋印塔」。
銅製のものは珍しいのだそうです。
「「宝篋印陀羅尼経」というお経を収めたために、こういった名前がある」ようです(wikipediaより)。
本堂を横から。
こちらの天水桶は大根……何故か中華っぽい……。
境内の稲荷神社。
奴が……。
「糸塚」。
三味線の弦、の塚のようです。
先ほど紹介されていた、戸田茂睡関係の碑。
奴がよく見えます……。
あ、ここは裏手の出入り口のようですが、通常は通れません。
ゴンドラ発見。
ご高齢の檀家さんのためのものでしょうか。
つけるのにいくらかかるんでしょうね。
一周してきました。
なんか、空の色がえらいことになっていますが、お気になさらず。
パノラマにしてみました。
舞殿。
仏閣にも必要なんでしょうかね。
右側の小さい碑には、大根です。
香炉も巾着……。
築地塀は江戸期から残るもののようです。
小さな地蔵堂。
提灯はもちろん、巾着と大根です。
「石造出世観音立像」、だと思います……。
山門から。
行きとは別の階段を降りてみました。
地名の由来。
裏手に回ってみました。
階段の隣に、ゴンドラが見えます。
さて、江戸にはもちろん、『江戸名所図会』というものがありまして、
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3
↑こちらの286コマから、「待乳山聖天」に関する記事があります(引用に際して、旧字を改めた部分あり/判読不能文字は■で置き換える)。
なお、wikipediaによれば、『江戸名所図会』は、1834〜36年に刊行され、「神田の町名主であった斎藤長秋(幸雄)・莞斎(幸孝)・月岑(幸成)の3代にわたって書き継がれた」ものだそうです。
「眞土山
今戸橋の南の詰にあり。また待乳に作り、或は信土に作る。萬葉集に亦打とす。沙門契沖いふ、亦打山と書きてまつち山とよむは、多宇の反なればなりと云ふ。
亦打山暮越行而廬前乃角太河原爾獨可毛將宿 辨基
(まつちやま ゆふこえゆきて いほさきの すみだがはらに ひとりかもねむ)
(略)
戸田恭光入道茂睡聖天の宮のかたはらに碑を建たり、其碑面に、
あはれとは夕越えて行く人も見よまつちの山にのこすことのは 茂睡
按ずるに、井蛙抄編、八雲御抄等の書に、萬葉集に載せたる辨基法師が眞土山の詠を駿河國とす。催馬樂註秘抄、宗祇の名所方角抄等には、大和紀伊の國境とあり。藻汐草には武蔵國に入れたり。或書に云く、大和に信土山、角田川ありて、庵崎なし、駿河に隅田川、庵崎ありて、眞土山なし、ただこのむさしには、眞土山、角田川、庵崎、ともにありて、全くそなはれりとす、されどこの地に、眞土山、庵崎あるは、後人萬葉集に因みて名づけしものなりと云々。また按ずるに、西山公の釋萬葉集にも、此書は勅撰の體にあらざるよし論ぜられたり。しかるときは、辨基法師の和歌も、まぎれて駿河國へ入りしならん歟。なほつまびらかに隅田川の條下に注す。菊岡沾涼云く、往古本所の邊海面なりし頃は、当山を沖より入津の船の目当にしけるとぞ。按ずるに今もこのあたりを山の宿とあざなし、新鳥越の地を山谷といふも、皆山に因る名なり。(山谷今は三谷に作る)陵谷の變は、既に古人も論ずる所にして、山川の形勢も千載を経れば同じからぬよしいへり。また或人の説に、今の日本堤を築立つる頃、この眞土山のあたりの土を穿ち取りて築立けるといひ伝えはべれば、この岡いにしへはなほ高かりしなるべし。」
どうも、辨基法師は、この歌をどこの國のものとして詠んだのか、というのが話題になっているようです。
武蔵國じゃなくて、駿河國じゃないのか、と。
うーん……ひょっとしたらですけど、誰かが、
「亦打山」
を、
「眞土山」
と書き換えた上に、
「富士山」
と読み間違えたんじゃないですかねぇ……。
「聖天宮
眞土山にあり。別当は、天台宗金龍山本龍院と號く。伝へ云ふ、大同年中の勧請にして、江戸聖天宮第一の霊跡なりといへり。和漢三才図会、江戸鹿子等の書に、斎藤別当實盛深く尊信の霊像なりといへり。辨財天祠 山の麓、池の中嶋にあり。平政子崇尊の霊像なりといへり。
此所、今は形ばかりの丘陵なれど、東の方を眺望すれば、墨田河の流は、長堤に傍て溶々たり、近くは葛飾の村落、遠くは國府台の翠巒まで、ともに一望に入り、風色尤も幽趣あり。」
あんまり情報がありませんな。
↑で紹介した公式HPのトップには、浮世絵に描かれた「待乳山」がFlashで表示されますので、それもご覧いただければ、と。
ところで、288コマには図絵がありまして、それを現在のものと比べると(当たり前ですが)よく似ています。
隅田川方面から入る表門と裏門に入り口が分かれていて、それぞれから少し階段を上る、というところはそのままです。
そして、図絵には明らかに、「本社」と書かれ、鳥居が描かれ……あれ?
元々仏閣なんじゃなかったでしたっけ?
どういうことなんでしょうか……。
◯こちら===>>>
でも紹介されていますが、開基からして神社の入る隙のない感じがします。
いやいや、待て待て、「別当は……」と書かれているので、神宮寺が「待乳山本龍院」で、「聖天宮」は神社……確かに「お宮さん」ですね……。
どうやら、「大聖歓喜天」をお祀りするのに神社になっちゃったようです。
素晴らしきかな、神仏習合。
また、
◯こちら===>>>
↑こちらの52コマで、戦前の「待乳山聖天」の写真が見られます。
隅田川が近く、孤立したような丘だ、ということがよくわかる写真ですので、一度ご覧下さい。
というわけで、「浅草名所七福神」一つ目終了。
時刻は、まだ午前中。
本日の目的は、
徒歩
で回り切ることです。
なお、裏テーマとして、「七福神の御朱印はいただかない」、というのがあります。
↑の『江戸名所図会』の地図には、「辨財天」があるとは書かれていましたが……。
ちょこっと検索してみたところ、こちらの「浴油祈祷」というもの、「浴油供」とも言われるようで、供養の方法は様々ありそうですが、どうやら「歓喜天」と「双身毘沙門天」にも用いるそうです。
この辺りに何か関連があるんでしょうけれども……深すぎて私には。
「歓喜天」については、
◯こちら===>>>
「袋町お聖天」 - べにーのGinger Booker Club
↑にも少し書きました。
今回、「大根」だけでなく、「巾着」も、「歓喜天」のシンボルだということがわかりました(収穫)。
ところで、「巾着」が「砂金袋」で「商売繁昌」なんて、嘘だと思います(後世の付け足し)。
貨幣経済が浸透していない時代に、「商売繁昌」なんて発想がどれだけあるのか、という話で。
とはいえ、そもそも、「巾着」がいつから「歓喜天」のシンボルなのかがわからないので、調べるならそこからですが。
とりあえず、二股の「大根」については、いろいろと、
お察し
ということにしていただきまして。
「巾着」も、そういった性的な信仰に由来するのではないか、と思っています。
妄想ですけど。