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「今戸神社」を後にしまして、隅田川沿いに北上していくと、
分かりやすい。
◯こちら===>>>
民家の合間にある、ひっそりとしたお寺です。
ちょっと、京都にあるような風情を感じました。
観光客はおらず、檀家さんが法要かお墓参りでいらっしゃっていました。
本堂。
お寺でいただいたパンフレットによれば、
「橋場不動尊の名で親しまれる当院は、天平宝宇四年(760)寂昇上人によって開創されました。奈良時代末期のことですから、文字通り橋場第一の古刹といえるでしょう。
本堂は弘化二年(1845)の建立で、その古色をおびた佇まいはうるおいに満ちています。
本尊の不動明王像は、『江戸名所図会』に「縁起に曰く、本尊不動明王は良弁僧都相州大山寺にありし頃、彫刻ありし三体の一にして、かの寺の本尊と同木同作なり云々」とあり、良弁僧都の御作であることがわかりますが、この本尊は秘仏となっており拝観できません。しかし、お前立ちのご本尊としての不動明王があり、これは鎌倉期のものと推察されています。
昔は近隣の住民や奥州街道を往き来した人たちが、境内にある樹齢700年の大銀杏を目印にして、本尊の不動明王や薬師如来の参詣に訪れていたのでしょう。」
とあります。
「良弁」は、華厳宗の名僧として知られるお方です(私は知りませんでしたが)。
華厳宗は、「南都六宗」の一つで、聖武天皇の拠り所ともなりました(「南斗六聖拳」なら知っていますが)。
仏教は何しろ奥が深く、おまけにインドでの崇拝が大陸を渡ってくるうちに、かなり独自な物に変化し、日本への伝来後には、ほぼ唯一の思想的学問として、千年以上にわたって時々の天才達が揉んでいるので、知ったかぶりが通用しません。
だから、素直にwikipediaでもなんでもいいですが、参考にしましょう。
仏教大辞典、なんてものがあるといいのですが、そんなもの多分、ヒグマでも撲殺できそうなとんでもないものになると思いますので、図書館とか、手軽な参考書などで諦めます。
こちらは地蔵堂。
というわけで、御本尊は秘仏なので拝見できませんし、他の仏像も……ひょっとしたら、参拝できたのかもしれないですが。
先を急ぐ旅でもあるので(旅?)。
さて。
パンフレットにも引用されていましたが、
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3
↑の280コマに「砂尾不動院」の記事があります(引用に際して旧字を改めた箇所あり/判読不能文字は■で置き換える)。
「砂尾不動院
橋場寺と號す。渡場の少し南の方、道より右にあり。天台宗にして、浅草寺に属せり。(往古は法相宗なりしが、住持教圓師の代、長寛癸未歳より、宗風を転ずといふ。宝亀四年癸丑、良弁僧都の上足寂昇上人、当時を開基し、本尊に不動明王の像を安ず。
縁起に曰く、本尊不動明王は、良弁僧都、相州大山寺にありし頃、彫刻ありし三体の一にして、彼寺の本尊と同木同作なり。僧都一時、上足寂昇師に告げて云く、三体のうち、一体は此山にとどめ、一体はみづから持念す、残る所の一体は汝に附属すべし、何方にても有縁の地に安ずべしとなり。依て僧都化寂の後、(宝亀四年満八十二にして寂せり。)寂昇上人、上総の方へ赴く道の次適此地に至り、霊告を得て有縁の地たる事をしり、ここに安じ、則ち村老野人にかたらひて、草堂を営み、砂尾不動尊と號す、云々。砂尾薬師如来、寺内にあり。本尊は、恵心僧都の作なり。(南向亭茶話に云く、或説に、此處に往古砂尾修理大夫といふ人ありて、太田道灌と合戦す。これを石濱の戦といふ。則ち砂尾氏建立せし寺あり、天台宗にて、砂尾山不動院と云ふと云々、されど当寺伝記に、修理大夫の事を載せず、また道灌と戦ふこと諸書に見あたらず、なほ考えるべし。)」
まず、「上足」ってなんだろう、と思ってweblio辞書で調べてみました。
◯こちら===>>>
↑「弟子の中で特にすぐれたもの」という意味でした。
「良弁」の高弟が「寂昇」、ということですね。
「相州大山寺」というのは、関東で「大山」と言ったら神奈川県伊勢原市の「大山」のことですから、
◯こちら===>>>
↑です。
学生時代は厚木市に住んでおりまして、その頃にせめて「大山」だけでも登っておけば……とかなり本気で後悔しています。
ですが、いずれ、春先とか、いい陽気のときに、上京することがあれば行ってみたいところです。
「良弁」僧都は、「大山寺」の開基でもあり、こちらも不動明王がご本尊ですので、奈良時代に東国では不動明王信仰が盛んになったのだろうと思われます(という伝説を、後からばらまいただけかも知れませんが)。
◯こちら===>>>
↑実は、公式HPでは、他の様々な文献からの引用も載せて、歴史を紹介されていますので、(私の稚拙なブログより)ぜひこちらもご参考にしていただければ、と思います。
また、271コマの図絵で、当時の不動院の様子が見られます。
隅田川、道との位置関係が、今と変わっていない様子がうかがえます。
(※14/10/26追記)
その他、
◯こちら===>>>
↑では「浅草名所七福神」に関する丁寧な解説があります。
こちらの「布袋尊」は、江戸後期の作、ということなのですが、どのような縁起で祀られることになったのかが書かれていません。
また、こちらには「富貴弁財天」という、「弁天様」もお祀りされています(画像を見ると、所謂「弁天様」ではなく、一面八臂のお姿です)。
さらに、↑↑公式HPの「歴史」のところでは、明治時代、政府に提出された「寺院明細帳」の内容が書かれており、その中には「大黒天」の文字も見えます。
「七福神」信仰——信仰と言えるのかどうか、「流行神(はやりがみ)」なのかも知れず、しかし現代まで残っているのですから既に定着して文化になっています——が盛んになった頃、どの寺院でも(あるいは神社も)、
「七福神」を揃えていたのではないか、
と思ってしまいます。
恐るべし、「七福神」。
まだまだお昼頃、快調に歩いています。