べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「八幡神社」(静岡市)

9/24。

スマホの地図を頼りに移動して見たら、思ったより全然遠かった、「八幡神社」。

 

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www.at-s.com

 

住宅街の中に、急に小山が現れる、といういい感じのロケーション。

社標と鳥居。

 

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鳥居から参道。

なんだろう……良い。

 

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彼岸花

 

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拝殿。

昭和の頃に建てられた感じがします。

 

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お、お祭りのとき用の土俵かな。

 

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八幡神社
楼門は飛彈甚五郎の作なり社後ニ松山アリテ風致ヲ存シ又其山腹ニ射的場等アリテ運動ニ適ス」

 

何からの引用だったかな……。

 

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拝殿の後ろの……階段の急勾配たるや……。

この階段は立ち入り禁止、というわけで、傍に作られている石段を登ります。

 

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こっちも十分きつい……。

 

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登りきった……ので拝殿を見下ろしてみると……やばいですねこれは。

 

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ほら。

 

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こちら本殿……かな。

彫刻が素晴らしい。

 

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こんな感じで、塀で仕切られていました。

 

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本殿の近くにあった、「荒神社」。
御祭神は「興津彦神」「奥津姫神」。

 

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こちらは「日枝神社」。

 

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案内板。
縁物、というのがちょっと珍しい説明かもしれないですね。

荒神様」なのでもちろん竃。

日枝神社」のほうは、猿。

 

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もう一つ案内。

おっと、「迦具土神」も合祀されているようです。

 

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遠景はこんな感じ。

良い季節、良い天気。

 

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こちらも摂社……なんか、案内の置き方が……。

 

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向かって右は「若宮八幡社」。

仁徳天皇」ですね。

 

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次が「駒形神社」、これは珍しいのかな……「ヒメオオカミ」は「八幡信仰」の中に組み入れられていますね、「宗像三女神」と同体になっているんでしたっけ……でも「コマガタ」なんだな……「ムナカタ」がなまったかな……。

「衢社」は、「庚申社」で「猿田彦神」。

「庁の宮」。

これは面白いので引用を。

 

「祭神 タカミムスビノカミ
当社で最も尊い大神様です。八幡神社以前より鎮座し、駿河守護・大名などにより駿府城等に遷座した記録がある政(まつりごと)の神様です。(略)社伝によれば、この社の神事は総社(現 静岡浅間神社)の庁守大夫、庁分大夫(神主)が神事を行うことが務めとされました。これは、静岡浅間の祭神で衣服を織り始めた神様 タクハタチチヒメノミコトの親神で オオナムチノミコトに詔を下した神話からと推測されます。当社神職応神天皇の先祖・子孫を祀る安居神社、三保神社、三之御前社に神事のために出向くことがあったと記されていました。」

 

なるほど……いかん、面白そうだけど静岡の歴史に全く詳しくない……郷土史家のみなさんにお任せするか……。

 

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さらに遠景、こんな感じに配置されています。

 

少し下っていくと、こんなお社が。

 

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「渡りの大神」というそうで、掲示されていた本から引用してみると、

 

「(略)さて、この「渡りの大神」とは、八幡神社推古天皇時代からという、今から千三百五十年も前の神社で、これより少々後の時代に祀られたとのことであるから、相当古い神様ということになるが、何でも西方から海を渡ってくる疫病神を防ぐための守護神として西南に向けて建てられたという。眼病をはじめいかなる病気、特に重病には実に霊験あらたかな神で、地元の人々の話によると、相当数の重病人の回復祈願に効能があったという。事実、参詣してみると、一人、二人と参詣者によく出会う。(以下略)」

 

ふうむ、「蘇民将来」か……だったらそういう名前で残っていても良さそうですが……静岡の西方の海、って言ったら太平洋……まあそこまでではないにしても、そうだなぁ、紀伊半島ってことになるのか……あるいは浜名湖辺りに何かいたのかもしれない……でも隣接しているわけでもないしな……何かしら、海から漂着した神がいたのかもしれないですね……で、その防疫神がなんで「渡りの大神」なんだろう……むしろ、その神が「渡ってきた」んじゃないでしょうか……。

 

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しかし、風景に溶け込んでいて、よいです。

で、意を決して、山頂まで行ってみましたですよ。

 

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八幡山城
応永十八年(一四一一)頃、駿府へ入った駿河守護今川範政は、周辺の要所要所に城塞を築いて駿河防御の万全を期した。八幡山城もその一つである。
文明八年(一四七六)今川氏のお家騒動で、鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣した。この紛争は今川家の客将伊勢新九郎(後の北条早雲)の活躍によって一応の落着をみた。
八幡山城は、駿府城へ一・五キロメートル、北方愛宕山城へ二キロメートル、東方小鹿範満の館へ二キロメートル、西方安倍川を隔て持舟(用宗)城まで五キロメートル、それらはすべて指呼の間に一望することのできる重要地点であった。そこで、新九郎は八幡山城を修築して、その麓に居館を構え、自ら駿府の警護に当っていた。長享元年(一四八七)小鹿範満を倒して、今川氏親駿府館へ迎え入れた後、新九郎は興国寺城(沼津)へ移った。永禄十二年(一五六九)武田信玄の第二回駿府侵入以来十二年間にわたる武田軍占領時代には、他の城塞と同じくここを使用した。天正十年(一五八二)武田氏が滅びて徳川家康が入国したが、天正十八年(一五九〇)関東へと移った後廃城になったと思われる。城址は、標高六三・七メートル、南北五〇〇メートルの独立丘陵で、近年公園隣、大きく変貌したが、今なお曲輪や空堀などの遺構を見ることができる。」

 

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なるほど、山城の跡でしたか……。

というわけで、なかなかの絶景。

 

しばし休息して、下山します。

 

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途中で発見「山神社」。

 

 

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途中で発見「本居神社」。
なかなか珍しい、「本居宣長」を祀った神社、だそうです。

 

「(略)江戸時代末期に、駿府国学士により創建したと伝わり、県内でも古く市内で一柱で祀る唯一の本居神社です。学の神として崇敬されます。「松坂の一夜」という話には、浜松市の県居神社祭神賀茂真淵(1697〜1769)が、伊勢の神宮参拝の際、生涯一度だけ会い宣長を門人にしたといわれ、後に古事記伝等を編纂しました。天保11年(1840)3月境内地にありましたが移築され参道が整備されて「鈴の宮参拝道」と名付けました。これは、明治時代の古地図に記されています。(以下略)」

 

国学者は、多分に偏ったイデオロギーではありましたが、日本古来の形ないものを甦らせようとした、という点では非常に意義深いことを成した、のでしょう(多分)。
伝奇好きにとっては、怪しい人たちなんですけれども……そういえば『古事記伝』読んだことないな……。

 

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拝殿から本殿の階段の様子、「渡りの大神」などの配置などが伺えます(いつのものかわかりませんが……この絵図の感じ、名所図会系を参考にしていそうなので、江戸末期かな……)。

 

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「本居神社」と階段。

 

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「山神社」。

 

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他にも境内には、「津島神社」、「三峰神社」などがありました。

朽ちかけの石灯籠は、文化年間のもの。

獅子かなぁ……。

 

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三峰神社」はこんな感じ……風情。

 

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ここから降りてきました。

 

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遠景……初秋、まだ萌える緑と空に社殿のマッチング。

 

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狛犬さん。

素朴。

 

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正面に近い遠景。

 

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おっと、ここでもさっきの図会が……「古式子供相撲」というのが奉納されるようですね。

 

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正面から。
ちらっと見える階段がよき。

 

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御朱印

 

さて。

 

◯こちら===>>>

なおりその記. 中巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『なおりその記』という郷土史を研究されている方(と思います)の本より。

55コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「【八幡神社】八幡といへる所に八幡の社あり ((略)此社の祭神、民部省圖帳に駿河國烏渡郡久能路八幡推古五所祭応神天皇也と云々、風土記には駿河國烏渡郡八幡岡八幡神社神護景雲三年九月太宰神主阿曾鷹、五機七道各置誉田先君宮令舎、誉田天皇之旧宮也と云々、社伝には、往昔源義家奥州下向の時祭る所の由をいへり) 此社の神楽所(三間四間)及び拝殿(四間五間余) 昔神祖五箇国御守護の時、建玉ひしとぞ、又楼門は慶長十八年彦坂九兵衛を奉行とし、中井大和守へ仰せて造らせられしとなり、此時九兵衛神祖の仰を承り、大和守へ伝へし九兵衛自筆の書翰今此社の神主八幡西市が家に蔵せり、又此楼門の左に彫める随身の後に、甲州住人(河内下山)石川清助、慶長十八年十一月吉日と彫つけ、又右りには山城國上京住人櫻井三蔵、慶長十八年十月吉日と彫付く、此楼門神祖の建玉ひし時鬼板の瓦に御紋を焼たりしが、明暦二年の大風の為に悉く地に落て、大方碎たりとぞ、されど当時のものなりとて、御紋をやきたる瓦一つを今猶神主が家に蔵せり、又本社の神前に葵の御紋を織出たる綿のへりつけし翠簾のいたく古りたるをかく、是なんいつの時いかなる故によりて寄附し玉ひしかしれさる由神主等のいへり、此社も昔武田家の軍勢乱入せし時、兵火の為に焼れて、古記大方紛失せしが上に、万治年中神主が文庫回禄せしかば、社記更に亡て伝らず、蓋し天正十一年十一月晦日、御判物の状を賜ふ、今猶蔵せり、其文左の如し、
(略)
神祖江府へ移らせ玉ひ、此国中村式部少輔一氏の守護となりし頃、豊太閤より先規の通たるべきとの令詞を與ふ、かくて再び神祖国府に移らせ玉ひ、慶長七年十二月の八日に、重ねて御朱印の令詞を下し賜ふ、其文左の如し
(略)
又清水記に慶長十七年正月十五日、家康公ヨリ駿府八幡宮エ御代参として酒井為右衛門、頼宣卿御代水野藤右衛門ト云々、又同書に、慶長十六年正月十六日、同じき十八年六月十五日同十九年三月二十七日、頼宣卿此社に詣で給ひし由を記せり」

 

まあ、八幡様ですから大人気。

 

◯こちら===>>>

駿河志料. 第2編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『駿河志料』にも記事がありますので、そちらもご参考に。

戦国時代にうといので、「中村一氏」が誰だかわからない……。

 

◯こちら===>>>

中村一氏 - Wikipedia

 

推古天皇」時代から続いていたかはどもかく、街の真ん中に小山が出現すると、ちょっと驚きます(もっとも、江戸時代以前、この辺りの居住状況を知っているわけではありませんので)。

小山の頂上に神社(鳥居)があったら、それはもう古墳、といっても過言ではないと思いますが(過言です)、さすがにちょっと、古墳というには大きいでしょうか……この辺りの地理には全く疎いので、この山がどうだったのかわからず……ただ、意味もなく信仰の対象にはならないわけで、昔から神体としての山だったのだろうな、と思いました。

観光地としてはメジャーではないのかもしれない、と思いましたが、頂上までいくと近所の家族づれやお子さんが遊んでいて、地元に愛されている山で神社なのだなぁ、と。

いや、よい神社でした〜。

 

「伊河麻神社」(静岡市)

9/24。

とんだなあ……あまり神社仏閣に行けていない証拠なのですが。

というわけで、お休みだったので、静岡まで所用でお出かけついでに、ちょっくら巡ってみようとまず最初に「伊河麻神社」へ。

 

◯こちら===>>>

shizuoka-jinjacho.or.jp

 

……静岡県神社庁にはもう少し頑張ってほしい……。

 

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社標。

式内社、なのですな。

 

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鳥居。

 

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拝殿。

 

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コンクリート造(?)の獅子鼻、かな。

 

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境内の忠魂碑。

 

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の前のお猫様。

 

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境内社

向かって左が「稲荷神社」、右が「金刀比羅神社」。

 

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遠景。

 

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ご神木かな……かなり雄壮でいらっしゃった(この枝ぶりよ……)。

 

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別アングルから。

 

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「伊河麻神社
(略)
祭神名 品田別命 例祭日 九月十五日
(略)
境内社 金刀比羅神社 稲荷神社 火産神社
(略)
由緒
延喜式神明帳に「駿河有渡郡 伊河麻神社是也」と所載され、諸郡神階帳に「正四位伊河麻明神、白鳳四年四月創建ス」とある。駿河志料には「伊河麻神社 今井鎌大明神といふ、当社は延喜式神明帳所載にて、風土記に有渡清水(或は玉潔水)伊軸麻神社浄見原天皇御宇四年四月被祭之、應勅処分、為四宮奉祭譽田天皇所也」と見え、神階は諸郡神階帳に「正四位下伊賀麻明神」とありて古はいかめしき御社にど有りけむ。此地を去りて遥かに鳥居株井垣添など云う字ここかりこに残り古の大社の俤あり、今は村持の社なれど古木茂れる森なり、今川家の近臣に四宮右近光匡あり之此社の神官にして武役を勤めし人にやありけん」と記されている。明治八年二月郷社に列し(以下略)」

 

ふむ、御祭神が「応神天皇」でも、「八幡」を名乗っていない、ということですか……。

珍しいのか、何か事情があるのか……。

 

さて、式内社といえば『神社覈録』ですが、ちらっとみたら由緒書と変わらない感じだったので、

 

◯こちら===>>>

特選神名牒 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『特選神名牒』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

183コマです。

 

「伊何麻神社
祭神
今按社伝祭神応神天皇と云るは是も偽風土記の誤を襲へるものにて信じがたし別神なるべし
(略)
今按一説に上島村井鎌明神と云社是なりと云り井鎌明神と云ならんには此に由ありげなれど未だ明証を得ざれば附て考に備ふ」

 

式内社ですから、歴史的にはかなり古いと思われます(現在の社にそのまま繋がっているかどうかはともかく)。

御祭神が「応神天皇」かどうか、に関してはなんともですね……ある時期からは、そういった認識があったのでしょうから、それ以上遡ってどうこう、というのはなかなか難しいかと……静岡といえば、「日本武尊」ゆかりの神社なのか、と思えばそういうわけでもない様子……名前に何かヒントはないか、と思っても「いかま」……比較的安倍川に近いので、水神関係かなと思ったりもしますが(昔の川の流れについてはわかりません)、「鎌」は関係なさそう……むしろ「いかずち」と同じ「いか」だとすると、「厳」ですから、神の威力の表現、であれば特定の神性というよりは地域の神の総称っぽい……ううむ、詳しくは地域の方にまかせるしかないようで。

 

ともあれ、プチ静岡巡りです〜。

「烏森神社」(東京都港区)

7/14。

青山方面に用があったので、なぜかわかりませんが、「烏森神社」へ。

 

◯こちら===>>>

karasumorijinja.or.jp

 

御朱印が有名らしい、という御朱印本の情報のみで出かけたら、大勢並んでおられました……(そりゃそうだ)。

 

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社紋。

 

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拝殿……なのか……都会の真ん中にぽつねん、と佇む……というよりは、何か、はまり込んだまま消えなかったテトリスのブロックみたいな存在感でした。

 

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狛犬さん。

最近、狛犬さんの形式も勉強せねば、と思っているのですが全然覚えられず……(社殿形式もろくに覚えませんから)……よく見るタイプの意匠ですが、都会のせいか、黒ずんでいるのがなかなかの迫力。

 

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遠景。

鳥居……鳥居。

 

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「烏森神社縁起
御祭神 倉稲魂命 天鈿女命 瓊々杵尊
平安時代天慶三年(約一千年前)に平将門が東国で叛乱を起こしたとき 征伐将軍藤原秀郷が当社に戦勝を祈願したとも このとき勧請したとも伝えられている 室町時代の享徳四年(約五百年前)には室町幕府関東管領古河公方と云われた足利成氏は 当社に戦勝を祈願した その祈願状は今日も当社に宝物として伝えられている
江戸時代は稲荷信仰により祭礼も二月初午の日に執行せられ 稲荷祭としてその賑わいは 江戸で一二を争うものであった
明治以降は五月四五六日を祭日とし、夏祭のはじめとしてその名をうたわれている
当社殿は 伸びゆく新橋の地にふさわしい近代建築美の中に 神社本来の伝統を加味し 昭和四十六年十二月 氏子の熱意により竣工をみたものである
(略)」

 

なるほど……ちょっと変わった取り合わせの御祭神ですね……いろいろ合祀された結果かな。

 

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御朱印

時間がなかったので、既に押されていた御朱印帳を購入しました。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会. 第2輯第3編 江戸名所図会 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『江戸名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

125コマです。

 

「烏森稲荷社
幸橋より二町ばかり南の方、酒井下野侯邸の北の横通にあり。往古よりの鎮座といへとも、年歴来由共に詳ならず。元禄開板の[江戸鹿子]といへる草紙に、天慶年間、藤原秀郷、将門退治の時の勧請なりといへども、信としがたし。又如何なる故ありてや、当社の神宝に古き鰐口一口を納む。表に元暦元甲辰年正月、下河辺庄司行平建立と彫付けてあり。[江戸名所ばなし]に、日比谷稲荷の條下に云く、此宮地は借地にてありしに、既に断絶におよぶべき頃、稲荷の神、宮守に告げて、古来よりの証拠なりとて鰐口ひとつを与へ給ふ。宮守公へ訴へ、此証によつて、宮居つづがなしとあるは、当社の事を誤りていふならん歟。或人云く、明暦の回録に奇瑞ありしかば、其後社の辺除地となるとぞ。(略)祭礼毎年二月初午に執行す。幸橋御門に仮屋を補理ひて、神輿を移す。参詣群集して賑はへり。
古河御所
足利成氏願書一通(当社に蔵す。)

稲荷大明神願書事
今度発向。所願悉於成就者。当社可遂修造。願書之状如件。
左兵衛督源朝臣
成氏判」

 

藤原秀郷」というのは、いわゆる「俵藤太」のことですね、オオムカデ退治の……あれ、違いましたっけ。

で、その「藤原秀郷」が勧請した、ということが『江戸鹿子』に書かれているのですが、『江戸名所図会』としてはばっさり。

何かしらイデオロギー的なものがあるのか、明治になって何か証拠が出てきたから、現在の由緒なのか(まあ、「〜とも」と推定の表現なので、実際はわからない、というところでしょうが)。

少なくとも「古河公方」の頃には存在していた、というわけなので、関東にあっては十分な古社、ですね。

足利成氏」という人は、

 

◯こちら===>>>

足利成氏(あしかがしげうじ)とは - コトバンク

 

コトバンクの『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、


室町時代の武将。古河公方 (1455~97) 。鎌倉公方持氏の子。幼名永寿王。永享 11 (39) 年2月持氏が永享の乱に敗れて鎌倉で自害したとき,瑞泉寺の僧昌在に保護されて,のち信濃の大井持光を頼った。翌年3月兄春王,安王の下総結城 (ゆうき) での挙兵に参加したが,翌月落城,春王,安王は美濃で殺された。成氏は許されて在京していたが,宝徳1 (49) 年上杉房定が関東の諸将にはかり,室町幕府に願って鎌倉公方としたため東下して,9月鎌倉に入った。次いで 11月元服。同3年2月従四位下左兵衛督となる。成氏は,父持氏を敗死させた上杉憲実および憲忠の父子を憎み,一度は幕命を奉じて和睦したものの,享徳3 (54) 年 12月には憲忠を鎌倉の屋形に襲い殺した。幕府はただちに成氏追討を命じ,関東は成氏と上杉氏との対抗を中心に大動乱に陥った。康正1 (55) 年正月成氏は武蔵分倍河原 (ぶばいがわら) に出陣して,憲忠のあと上杉家を継いだ弟の房顕を破り,以後,次々と上杉方の諸将を攻めた。しかし6月になると,幕命を受けた駿河守護今川範忠の軍に鎌倉を奪われ,成氏は長禄1 (57) 年下総古河城を治めて,ここに拠った。幕府はさらに将軍義政の弟政知を伊豆堀越に下し,関東を鎮定させようとした。政知を堀越公方,成氏を古河公方と呼ぶのはここから出た言葉である。これより戦況は一進一退して決定しなかったうえ,文明9 (77) 年には房顕の後嗣顕定とその家臣長尾景春との間に戦いが起り,関東は一層乱れた。かくて成氏,上杉氏とも次第に勢力を失い,同 10年成氏は顕定と和した。次いで同 14年成氏は幕府,政知とも和睦した。」

 

という人で……室町後期〜戦国、乱れに乱れた時代のことで、私が一番苦手な時代です……勉強したい……。

 

このあとは、芝の「増上寺」、「芝東照宮」なども巡りまして、よき旅、よき宴を堪能しました〜。

「青山熊野神社」(東京都渋谷区)

7/14。

とある宴のために上京しまして、久々に上野辺りに行ってみたのですが、たまには違うところに……ということで、青山熊野神社へ。

 

◯こちら===>>>

www.tokyo-jinjacho.or.jp

 

相変わらず、東京神社庁のHPは素晴らしい……。

 

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参道入口。

 

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提灯……葵の紋。

 

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扁額。

 

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拝殿正面。

権現造っぽい豪奢な感じ。

 

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境内社、読めませんが……左から「秋葉神社」と、「伏見稲荷神社」、「御嶽社」。

 

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です。

 

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文政期の天水桶……でいいのかな。

「浄性院」は、この神社の別当、ということでしょうか。

 

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稲荷の社標……「伏見稲荷」と、「赤房稲荷」。

 

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狛犬さん。
造形的に、近代のものっぽいです(ちゃんと見てきてない)。

 

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ご神木……かな。

 

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拝殿遠景。

 

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手水鉢にも葵紋。

 

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さらに遠景。

 

御朱印は……いただけるようですが、神職さんが不在だったのかな……。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会. 第2輯第4編 江戸名所図会 第2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『江戸名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

84コマです。

 

熊野権現
同所東南の方三町計を隔てて原宿町にあり。祭る所南紀熊野権現に同じく三社なり。青山の総鎮守にして、祭礼は、隔年九月二十一日に修行す。別当真言宗にして、浄性院と號す。」

 

うむ、わりとあっさり……。

さきほどの、東京神社庁のHPによれば、御祭神は、

 

「五十猛ノ命(いだけるのみこと)
大屋津姫ノ命(おおやつひめのみこと)
抓津姫ノ命(つまつひめのみこと)
伊弉冊ノ命(いざなみのみこと)」

 

とのことです。

由緒も引用させていただきますと、

 

「当神社は、元和五年徳川頼宣卿の邸内(現在の赤坂御所)に奉斎されていた御宮を町民の請により正保元年正月七日現在地に移遷し、翌年四月本殿拝殿その他造営し完成。青山総鎮守と仰ぎ奉り熊野大権現より神仏分離の令により社号を青山熊野神社と改称された。」

 

ということです。

確かに、現在の御祭神を見ると、建築関係の神々が多いのですが、熊野の神ではないですよね……『江戸名所図会』で「熊野権現」と同じ、と言っているのに……というわけで、神仏分離に際して何か操作があったかな、と思います。

『新編武蔵風土記稿』も探したのですが、私、こちらの「御府内」を書いたものが今は存在しないことを知らず、原宿村を探しても「あとは御府内のほうを見ろ」としか……。

なかなか妄想も浮かびませんが、いい狛犬さんに会えたのでよし、です。

「大鳥神社」(東京都豊島区)

6/17。

ふう……ついに周回遅れになりましたが、まだ昨年の六月の記事です……気にしない気にしない……。

さて、「長崎神社」「金剛院」の参拝を終えて、結局歩いたんですよね……で、もちろん「鬼子母神」にも伺いましたが、今回の目的地は大鳥神社

 

◯こちら===>>>

www.tokyo-jinjacho.or.jp

 

↑東京神社庁のHPです。

 

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参道入口。

ここから神社までが結構あって、最初だまされたかと思いました。

 

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鳥居と社標。

 

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狛犬さん。

うむ、しゃちほこみたいにお尻をあげていらっしゃる……なかなか面白い造形。

巻き毛の意匠も、表現が面白いですね。

狛犬さんもちらっと……かわいい……。

 

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ええと……読めるか……。

 

「古来三杉稲荷大明神と称し、宇迦之御魂神を奉斎す。元日出町都電通りに鎮座し同方面の旧家総代として崇敬篤く、近時地元有志◼︎◼︎例大祭に参列報賽の誠を効せり。今般高速五号線の新設により社地◼︎地其用地となりたれば崇敬者の総意を以て大鳥神社に合併その境内神社として鎮祭せんとして工を進め茲に正遷座祭を奉仕す。(略)」(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)

 

境内社の「三杉稲荷神社」の由来だったようです(現地では気付かず)。

 

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「三杉稲荷神社」。

 

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その鳥居。

 

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本殿。

 

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どうやら「雑司が谷七福神」のうち「恵比寿」様となっているようで、割と新しめの「恵比寿」様が。

 

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拝殿遠景。
記憶によると、何かのイベント(ハンドクラフト的な?)が行われていて、境内にブースが出ていたりしたので、そちらの写り込みを避けるために写真はあまりないです。

 

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それでも狛犬さんには寄りましたが(蛙……?)。

 

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社紋が巾着袋……。

 

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手水鉢にも。

これで大根もあれば、「聖天」関係かな、と考えることもできますが、そもそも社紋の古さがわからないし、もし御祭神が(後述の通り)「日本武尊」だとするならば、火打石をいれていた袋、と考えることもできるわけで……ちょっと苦しいかな……。

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御朱印都電荒川線つき)

これだけか……。

 

というわけで、とりあえず先ほどの東京神社庁のHPから、現在の御祭神は、

 

「日本武命(やまとたけるのみこと)
倉稲魂命(おいなりさま)
蛭児大神(えびすさま)」

 

となっている、とのこと。

「三杉稲荷神社」と七福神の「恵比寿」様を除くと、主祭神は「日本武尊」ですね……まあ、「大鳥神社」ですから。

では、と。

 

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大日本名所図会. 第2輯第5編 江戸名所図会 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『江戸名所図会』の「鬼子母神堂」のところから引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

101コマです。

 

「鷺大明神(さぎだいみょうじん)祠 堂前左の方にあり。祭る神詳ならず。或は云ふ、出雲国神戸郡鷺村の鷺浦に鎮座し給ふ素盞嗚尊の妾女皐諦女なりといふ。此神は疱瘡の守護神にして、正徳の頃、松平羽州侯神告に依て是を勧請す。疱瘡寄願の輩、広前の小石を拾ひ得て、守護とす。例年八月朔日祭あり。また毎月朔日を以て縁日とす。」

 

◯こちら===>>>

「長崎神社」(東京都豊島区) - べにーのGinger Booker Club


↑「長崎神社」のところで引用した「十羅刹女」の中に、「皐諦」という神がおられまして、そちらが単独で祀られたということになっている……どうやら「十羅刹女」の中でも、「皐諦」はトップだと考えられていたようですので、そのことが関係しているのか……もちろん「鬼子母神」に勧請されたということなので、その娘である「十羅刹女」も祀られて不思議ではない、と。

「素盞嗚尊」と習合した「牛頭天王」は、ある意味で疫病神としては最強、もう全部の流行病をその身に受けているといっても過言ではないわけですが、「櫛名田比売命」が「鬼子母神」と習合したのがよくわからず……ああ、「牛頭天王」系の本がすぐに取り出せないのですよね……。

 

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「雑司が谷鬼子母神」(再・補)「稲荷鬼王神社」(再) - べにーのGinger Booker Club

 

鬼子母神」のところで、『新編武蔵風土記稿』の引用をしていたのですが、ここでは御祭神が「瓊瓊杵尊」になっていて謎……「瓊瓊杵尊」に疫病神としての属性が見当たらないのですよね……じゃあなんで今は「日本武尊」なのか、というと、これは神仏分離の際に、「鷺大明神」、つまり白鷺で、「日本武尊」を引っ張ってきたのではないかと思います。

氷川神社」系の勢力といいますか、「大鳥」とか「鷲」とか「鷺」とかの、鳥の名前のつく神社の勢力が関東地方で広がっているので、それに引っ掛けて「日本武尊」にしたんじゃないかと思うのです……でも、元々は疱瘡神、それも出雲から直々にお招きしている……わりに、ちらっと調べてもその神社の存在がはっきりしない……疱瘡神にしても、「疱瘡神社」なんてたくさんあるわけで、それと一線を画す意味での「鷺大明神」だとすると、祭神を「日本武尊」にしちゃうのはどうなんでしょうね……まあ、実際のところは、「祭神詳らかならず」、なんでしょうけれども(「鬼子母神」の境内社だったのに「詳らかならず」というのも引っかかりますが……歴史というのはそこまで親切ではない、ということでしょうかね)。

江戸時代の、「鬼子母神」流行の余波、なんでしょうか(天台宗日蓮宗の隆盛、とも言えるのかもです)。

 

いろいろと、調べてみたいことが残りました〜、出雲の勉強、したいなぁ……。

 

 

 

おまけ。

 

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……キョンシー

 

「金剛院」(東京都豊島区)

6/17。

さて。

「長崎神社」の参拝を終えて、お隣の「金剛院」へ。

 

◯こちら===>>>

www.kongohin.or.jp

 

その前に、

 

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「「長崎不動尊」案内板
このお堂は、「長崎不動尊」と呼ばれ、ご本尊に不動明王、脇仏には明王を護る従者である制咜迦、矜羯羅の二体をお祀りしております。不動明王が剣や索、火焔を備えて忿怒の強い形相を示されておられるのは、煩悩を滅して私たちを救い、降魔を払うためです。
(略)
「長崎不動尊」は、昭和二十一年十月に地域の守護仏として、そのご加護を頂けるよう当地へお祀りされました。また同時に長崎不動講を結成し不動尊の運営と管理にあたってきました。
このたび堂宇の老朽化に伴い再建建立を発願して、併せて慈悲深い観音菩薩像を造立しました。清浄水にて観音さまの御仏体を洗い流しながら、観音菩薩真言、あるいは宝号を唱えてお参りください。
(略)」

 

……ナータくん……ちょっと、なんというか、なんだろうなぁ……「不動くん」ではいかんかったのか……まあ可愛いからいいのかもしれないですが(「不動明王」の梵名「アチャラナータ」より)。

 

 

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地蔵尊の由来
この舟型浮彫地蔵尊は、寛政八年(一七九六)八月二十四日に道標をかねて造立された道標地蔵尊です。地蔵尊の石中には「念仏供養」、その左右には「北・下板橋道 南・ほりの内道」という文字が刻まれています。ほりの内というのは、杉並区堀ノ内のことです。江戸時代には、宿場町として栄えた中山道板橋区仲宿方面、また厄除け祖師の堀ノ内・妙法寺へ、お参りする人々の道しるべになっていて、南北に通じる道があったことを教えてくれています。また、この地蔵尊の御仏体は、江戸城築城の時に使われた石の一部であると言い伝えられています。
(略)」

 

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こちらは、味のある……というより、空襲にでも晒されたような痕の残る「地蔵菩薩」像。

六道の導き手である「地蔵菩薩」は、「馬頭観音」、「猿田彦」などと並んで、道標に選ばれやすい御仏なのでしょうか。

 

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というわけで、

 

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ええと、あれ、いきなり本堂です。

 

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石仏や、宝篋印塔(かな)などがあちこちに見られました。

 

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灯篭には……狛犬じゃないかな、邪鬼か……。

 

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大師堂。

 

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こちらにもまたいろいろと。

 

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うーん、梵字は読めない……『密教事典』はあるので、見てみましたが、「a」かな……「胎蔵界大日如来」の種字……違ったらすみません。

 

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こちら「お砂踏み」参拝所。

八十八ヶ所巡りをぎゅっと圧縮して体験できる、という例のやつです。

いつかお遍路してみたい……。

 

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庚申塔、と「馬頭観音」と書かれています、どちらも道標、だと思われます。

 

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案内板……が、さすがに小さくて字が読めない……。

 

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こちら、赤門。

 

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こっちも小さいなぁ……。

 

「金剛院は、聖弁和尚によって大永2(1522)年に開創された真言宗豊山派の寺院で、正式には蓮華山金剛院仏性寺という。本尊は、観世音菩薩と勢至菩薩を脇侍として配した阿弥陀三尊である。開創当時は現境内地から北西方向に800mほど離れた。長崎三丁目の観音堂(現在は当寺の境外仏堂)の位置にあったといわれており、宝永6(1709)年ごろに当地へ移転した。
宝暦8(1758)年には、「百字真言梵鐘」と呼ばれる釣鐘が鋳造されている。その後の安政年間(1854〜60)には、寺子屋が開設され、長崎地区の庶民教育の拠点となっていたほか、明治元(1968)年の神仏分離令までは長崎神社を管理する別当寺でもあった。さらに、明治34(1901)年には、境内に長崎村役場が置かれていた。
薬医門様式の山門は、安永9(1780)年に建立されたものである。その装飾は彫りが深く、意匠的にも優れているため、平成6(1994)年6月に豊島区指定有形文化財になった。
本堂は、昭和29(1954)年に建てられた鉄筋コンクリート造で古典建築の造形を単純化しながらまとめられた点に特徴がある。客殿は、昭和9(1934)年の建築で、客殿の主室に洗練された造作の座敷飾を備えてあるのが特徴である。これらの点が評価され、二つの建物は平成26年に国の登録有形文化財となった。
境内にある2基の板碑のうち、1基には阿弥陀如来の画像が、もう1基には永享12(1440)年の年号が刻まれている。また、宝永4(1707)年に長崎村の村人が造立した庚申塔も1基残されており、いずれも地域の歴史と文化を伝える貴重なものとして、豊島区登録有形文化財になっている。」

 

なるほど、本殿はコンクリート造でしたか。

 

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赤門から境内を。

向かって右隣にあるのは、お寺カフェの「赤門テラス『なゆた』」です。

いろいろなイベントも行われているようです。

こうして、地域の中で生きているお寺、というのは、神社仏閣好きというだけで参拝しているものには敷居が高い……また、高くてもいいのだと思っています(お寺の側がどう思われているのかはわかりません)。

そして、ホームページの充実ぶりがすばらしい……昔、どうしても独鈷杵が欲しくて、高野山に行ったときに仏具屋さんに寄りたいと親に言い出せなかったことを後悔したことのある私です……(孔雀王』の影響です……荻野真先生、合唱……)……当時、こんなものがあったらな……。

 

御朱印はいただいておりません(いただけるかどうか、未確認)。

 

さて。

 

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大日本地誌大系. 第5巻 風土記稿1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『新編武蔵風土記稿』より。

139コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「金剛院
新義真言宗多磨郡中野村宝仙寺末、蓮華山仏性寺と號す、本尊五智如来中興僧は貞享五年寂す、鐘楼 鐘は寛文年中鋳造なり ◯地蔵堂 金剛院持」

 

公式HPによれば、現在の御本尊は「阿弥陀三尊」です。

五智如来」のほうが、密教的ではありますね……。

 

HPの記述がとても詳しくわかりやすいので、そちらをご参照していただいて(特に、江戸期の寺社の場合、妄想を働かせる余地があまりないもので……いかんいかん……面白そうなんですけれどね、寺子屋を開設した比丘尼さんの話とか)。

 

次は、飽きもせず雑司が谷の「鬼子母神」……と思わせておいて、その周辺です〜。

「長崎神社」(東京都豊島区)

6/17。

池袋からしばらく歩いて(といっても、結構あった気がしますが……)、やっとこさ「長崎神社」に到着。

 

◯こちら===>>>

www.tokyo-jinjacho.or.jp

 

↑東京神社庁さんのHP(いい仕事だ……愛知県神社庁さんも頑張ってくだされ……)。

 

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鳥居。

 

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「長崎神社
長崎神社の創建年代は不詳ですが、元来、櫛名田比売命を祀り、武州豊島郡長崎村(現在の豊島区長崎・南長崎・千早・要町・高松・千川と、目白四・五丁目、西池袋四・五丁目、池袋三丁目の一部)の鎮守として信仰を集めました。江戸時代の中期には十羅刹女社とも称せられ、境内には享保十八年(一七三三)に奉納された「十羅刹女」と刻まれた手水鉢が残されています。隣接する金剛院は、明治元年(一八六八)の神仏分離令まで、長崎神社の別当寺でした。
その後、明治五年(一八七二)には村社と定められ、同七年須佐之男命を合祀して長崎神社と改称し、今日に至っています。精緻な彫刻物を有する本殿は嘉永二年(一八四九)に、拝殿は明治三二年(一八九九)に建立されたもので、旧社殿は絵馬を納める額堂として使われています。ほかに山岡鉄舟揮毫の神社額と祭礼幟などがあります。(以下略)」

 

ふうむ、「十羅刹女」と……。

 

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扁額……これは山岡鉄舟揮毫ではないと思います。

 

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参道。
なかなかの敷地を誇っております。

 

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狛犬さん。

溶けちゃった……わけではないと思います。

幾星霜風雨にさらされて……それでも残っておられるのに感謝、ですね。

 

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そして、獅子山も。

 

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鳥居。

こちらが山岡鉄舟揮毫……ではないと思いますが(?)。

両部鳥居(四脚鳥居)、でしょうか……真言宗別当のようなので、さもありなん、というところか。

 

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脚の向こうに、かつての石鳥居の基部と思われるものが……となると、もともと両部鳥居ではなかったか……。

 

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いきなり、境内社の「小柳稲荷神社」へ。

おキツネさまが、屋根の狛犬さんっぽくて、飛んでます。

 

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ちらりと覗く本殿。

 

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こういうの、なんていうんでしたっけ……。

 

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本殿向かって左側でした。

 

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拝殿。

瓦の装飾がよろしいかと。

 

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拝殿正面。

 

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巴。

 

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木鼻の狛犬さん。

 

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こちらはなんだったか……。

 

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打ち捨てられた感じの案内板。

 

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拝殿向かって左からの遠景。

 

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こちらが、案内板にあった額堂でしょうか……バケツの並びが……。

 

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こちら、火消しの役割を書いた額、のようです……なかなか面白い。

 

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狛犬さん。

 

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十羅刹女」の手水鉢。

 

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ポンプ。

 

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参道から、拝殿遠景。

絵になる……。

 

御朱印は……いただけたのかと思うのですが、神職さんがいらっしゃらなかったのか……あまり記憶しておりません。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本地誌大系. 第5巻 風土記稿1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑今回も『新編武蔵風土記稿』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

139コマです。

 

十羅刹女 金剛院持」

 

……うむ、まあ、致し方ないな……『江戸名所図会』も探してみたのですが、残念ながら見つからず……ただ、板橋辺りの記事に「十羅刹女祠」とか「十羅刹女宮」とかありましたので、江戸ではあちこちに見られたのではないか、と思われます。

その「十羅刹女」について、『密教辞典』から、

 

密教辞典

密教辞典

 

 

法華経陀羅尼品に説く、法華経を守護する鬼神。尼藍婆(にらんば)・毘藍婆曲歯華歯黒歯多髪・無厭足・持瓔珞皐諦奪一切衆生精気の10で、天台・日蓮両宗で信仰され、儀軌には法華経十羅刹法(略)があり、蓮華三昧経(法華経密教的に解説した偽経、以下略)や孔雀経に説くが異説が多い。(以下略)」(p354)

 

という感じです。

『日本の神様読み解き事典』

 

日本の神様読み解き事典

日本の神様読み解き事典

 

 

という本でも項目があり、そこでは他の名前も記されていますが、漢訳されたときの意訳と音訳、誤伝でこうなった、みたいな感じを受けます。

 

「『法華経』第十、総持品には、「時に一魅あり、有結縛と名づけ、また離結と名づけ、また施積と名づけ、また施華と名づけ、また施黒と名づけ、また被髪と名づけ、また無著と名づけ、また持華と名づけ、また何所と名づけ、また取一切精と名づく。仏所に往詣し、鬼子母と諸子と倶なり。」とある。」(p363)

 

どうも、天台宗日蓮宗系で尊崇されたようで(『法華経』の守護神なので)、

 

日蓮宗の開祖・立正大師日蓮上人は、『日女品供養』で、「十羅刹女と申すは十人の大鬼神女、四天下の一切の鬼神の母なり。又十羅刹女の母あり、鬼子母神是也。鬼のならひとて人を食す。人に三十六物あり。所謂糞と尿と唾と肉と血と皮と骨と五臓と六腑と髪と毛と気と命等なり。而るに下品の鬼神は糞等を食し、中品の鬼神は骨等を食す。上品の鬼神は精気を食す。此十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す。疫病の大鬼神なり。鬼神に二あり。一には善鬼、二には悪鬼なり。善鬼は法華経の怨を食す。悪鬼は法華経の行者を食す」と書き残している。」(p363)

 

という感じに「日蓮」上人は考えていたようです……まあ解釈は人の数だけありますから。

で、案内板に、「元来、櫛名田比売命を祀り」とあるのですが、あんまり「櫛名田比売命」を単独でお祀りしている神社ってないと思うのですよね……関東独自の事情として、「氷川神社」の勢力が非常に大きく、そこではもちろんお祀りされております。

で、なぜ「十羅刹女」なのか……「須佐之男命」といったら、かつては「牛頭天王」と習合しており、「櫛名田比売命」もその妻の「婆利采女」と習合、「八王子」も日本神話の五男三女神と「牛頭天王」と「婆利采女」の子である八柱の天王が習合……どこにも「十羅刹女」の出番がない、しかしなぜか、「須佐之男命」の娘が「十羅刹女」だ、という伝承があったりする、と。

日蓮」上人としては、「疫病の大鬼神」と考えている、と。

疫病神つながりとして、「須佐之男命」と「十羅刹女」がつながるのはまあ、わからないでもない。

しかし、嫁さんの立場も、「八王子」の立場もない……と、ここで「氷川神社」なのかな、と。

牛頭天王社」でも、「八坂社」(祇園系)でも、「津島社」でもなく、「氷川神社」として尊崇されていた一大勢力が、女神信仰を取り入れる際に、「婆利采女」=「櫛名田比売命」を持ってくるのは差別化が図れない、というところで「十羅刹女」に白羽の矢が立ったのかな、と。

江戸では天台宗がかなりの勢力だったでしょうし、日蓮宗も強かったことでしょうから、『法華経』を信仰する人たちに説教しやすくなりますし。

しかし、「須佐之男命」の妻が十人います、というのはなかなか(いや、実際には複数いるんですけれど)説明しづらいので、御子神にした、ということなのかな。

 

まあ、わかりませんけれど。

 

この、関東(武蔵、相模)での「氷川神社」系の独特さ、というのも勉強してみたいところですね。

 

時間がない。

 

というわけで、次はお隣「金剛院」です。