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スマホの地図を頼りに移動して見たら、思ったより全然遠かった、「八幡神社」。
◯こちら===>>>
住宅街の中に、急に小山が現れる、といういい感じのロケーション。
社標と鳥居。
鳥居から参道。
なんだろう……良い。
彼岸花。
拝殿。
昭和の頃に建てられた感じがします。
お、お祭りのとき用の土俵かな。
「八幡神社
楼門は飛彈甚五郎の作なり社後ニ松山アリテ風致ヲ存シ又其山腹ニ射的場等アリテ運動ニ適ス」
何からの引用だったかな……。
拝殿の後ろの……階段の急勾配たるや……。
この階段は立ち入り禁止、というわけで、傍に作られている石段を登ります。
こっちも十分きつい……。
登りきった……ので拝殿を見下ろしてみると……やばいですねこれは。
ほら。
こちら本殿……かな。
彫刻が素晴らしい。
こんな感じで、塀で仕切られていました。
本殿の近くにあった、「荒神社」。
御祭神は「興津彦神」「奥津姫神」。
こちらは「日枝神社」。
案内板。
縁物、というのがちょっと珍しい説明かもしれないですね。
「荒神様」なのでもちろん竃。
「日枝神社」のほうは、猿。
もう一つ案内。
おっと、「迦具土神」も合祀されているようです。
遠景はこんな感じ。
良い季節、良い天気。
こちらも摂社……なんか、案内の置き方が……。
向かって右は「若宮八幡社」。
「仁徳天皇」ですね。
次が「駒形神社」、これは珍しいのかな……「ヒメオオカミ」は「八幡信仰」の中に組み入れられていますね、「宗像三女神」と同体になっているんでしたっけ……でも「コマガタ」なんだな……「ムナカタ」がなまったかな……。
「衢社」は、「庚申社」で「猿田彦神」。
「庁の宮」。
これは面白いので引用を。
「祭神 タカミムスビノカミ
当社で最も尊い大神様です。八幡神社以前より鎮座し、駿河守護・大名などにより駿府城等に遷座した記録がある政(まつりごと)の神様です。(略)社伝によれば、この社の神事は総社(現 静岡浅間神社)の庁守大夫、庁分大夫(神主)が神事を行うことが務めとされました。これは、静岡浅間の祭神で衣服を織り始めた神様 タクハタチチヒメノミコトの親神で オオナムチノミコトに詔を下した神話からと推測されます。当社神職も応神天皇の先祖・子孫を祀る安居神社、三保神社、三之御前社に神事のために出向くことがあったと記されていました。」
なるほど……いかん、面白そうだけど静岡の歴史に全く詳しくない……郷土史家のみなさんにお任せするか……。
さらに遠景、こんな感じに配置されています。
少し下っていくと、こんなお社が。
「渡りの大神」というそうで、掲示されていた本から引用してみると、
「(略)さて、この「渡りの大神」とは、八幡神社が推古天皇時代からという、今から千三百五十年も前の神社で、これより少々後の時代に祀られたとのことであるから、相当古い神様ということになるが、何でも西方から海を渡ってくる疫病神を防ぐための守護神として西南に向けて建てられたという。眼病をはじめいかなる病気、特に重病には実に霊験あらたかな神で、地元の人々の話によると、相当数の重病人の回復祈願に効能があったという。事実、参詣してみると、一人、二人と参詣者によく出会う。(以下略)」
ふうむ、「蘇民将来」か……だったらそういう名前で残っていても良さそうですが……静岡の西方の海、って言ったら太平洋……まあそこまでではないにしても、そうだなぁ、紀伊半島ってことになるのか……あるいは浜名湖辺りに何かいたのかもしれない……でも隣接しているわけでもないしな……何かしら、海から漂着した神がいたのかもしれないですね……で、その防疫神がなんで「渡りの大神」なんだろう……むしろ、その神が「渡ってきた」んじゃないでしょうか……。
しかし、風景に溶け込んでいて、よいです。
で、意を決して、山頂まで行ってみましたですよ。
「八幡山城
応永十八年(一四一一)頃、駿府へ入った駿河守護今川範政は、周辺の要所要所に城塞を築いて駿河防御の万全を期した。八幡山城もその一つである。
文明八年(一四七六)今川氏のお家騒動で、鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣した。この紛争は今川家の客将伊勢新九郎(後の北条早雲)の活躍によって一応の落着をみた。
八幡山城は、駿府城へ一・五キロメートル、北方愛宕山城へ二キロメートル、東方小鹿範満の館へ二キロメートル、西方安倍川を隔て持舟(用宗)城まで五キロメートル、それらはすべて指呼の間に一望することのできる重要地点であった。そこで、新九郎は八幡山城を修築して、その麓に居館を構え、自ら駿府の警護に当っていた。長享元年(一四八七)小鹿範満を倒して、今川氏親を駿府館へ迎え入れた後、新九郎は興国寺城(沼津)へ移った。永禄十二年(一五六九)武田信玄の第二回駿府侵入以来十二年間にわたる武田軍占領時代には、他の城塞と同じくここを使用した。天正十年(一五八二)武田氏が滅びて徳川家康が入国したが、天正十八年(一五九〇)関東へと移った後廃城になったと思われる。城址は、標高六三・七メートル、南北五〇〇メートルの独立丘陵で、近年公園隣、大きく変貌したが、今なお曲輪や空堀などの遺構を見ることができる。」
なるほど、山城の跡でしたか……。
というわけで、なかなかの絶景。
しばし休息して、下山します。
途中で発見「山神社」。
途中で発見「本居神社」。
なかなか珍しい、「本居宣長」を祀った神社、だそうです。
「(略)江戸時代末期に、駿府の国学士により創建したと伝わり、県内でも古く市内で一柱で祀る唯一の本居神社です。学の神として崇敬されます。「松坂の一夜」という話には、浜松市の県居神社祭神賀茂真淵(1697〜1769)が、伊勢の神宮参拝の際、生涯一度だけ会い宣長を門人にしたといわれ、後に古事記伝等を編纂しました。天保11年(1840)3月境内地にありましたが移築され参道が整備されて「鈴の宮参拝道」と名付けました。これは、明治時代の古地図に記されています。(以下略)」
国学者は、多分に偏ったイデオロギーではありましたが、日本古来の形ないものを甦らせようとした、という点では非常に意義深いことを成した、のでしょう(多分)。
伝奇好きにとっては、怪しい人たちなんですけれども……そういえば『古事記伝』読んだことないな……。
拝殿から本殿の階段の様子、「渡りの大神」などの配置などが伺えます(いつのものかわかりませんが……この絵図の感じ、名所図会系を参考にしていそうなので、江戸末期かな……)。
「本居神社」と階段。
「山神社」。
他にも境内には、「津島神社」、「三峰神社」などがありました。
朽ちかけの石灯籠は、文化年間のもの。
獅子かなぁ……。
「三峰神社」はこんな感じ……風情。
ここから降りてきました。
遠景……初秋、まだ萌える緑と空に社殿のマッチング。
狛犬さん。
素朴。
正面に近い遠景。
おっと、ここでもさっきの図会が……「古式子供相撲」というのが奉納されるようですね。
正面から。
ちらっと見える階段がよき。
御朱印。
さて。
◯こちら===>>>
なおりその記. 中巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『なおりその記』という郷土史を研究されている方(と思います)の本より。
55コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「【八幡神社】八幡といへる所に八幡の社あり ((略)此社の祭神、民部省圖帳に駿河國烏渡郡久能路八幡推古五所祭応神天皇也と云々、風土記には駿河國烏渡郡八幡岡八幡神社神護景雲三年九月太宰神主阿曾鷹、五機七道各置誉田先君宮令舎、誉田天皇之旧宮也と云々、社伝には、往昔源義家奥州下向の時祭る所の由をいへり) 此社の神楽所(三間四間)及び拝殿(四間五間余) 昔神祖五箇国御守護の時、建玉ひしとぞ、又楼門は慶長十八年彦坂九兵衛を奉行とし、中井大和守へ仰せて造らせられしとなり、此時九兵衛神祖の仰を承り、大和守へ伝へし九兵衛自筆の書翰今此社の神主八幡西市が家に蔵せり、又此楼門の左に彫める随身の後に、甲州住人(河内下山)石川清助、慶長十八年十一月吉日と彫つけ、又右りには山城國上京住人櫻井三蔵、慶長十八年十月吉日と彫付く、此楼門神祖の建玉ひし時鬼板の瓦に御紋を焼たりしが、明暦二年の大風の為に悉く地に落て、大方碎たりとぞ、されど当時のものなりとて、御紋をやきたる瓦一つを今猶神主が家に蔵せり、又本社の神前に葵の御紋を織出たる綿のへりつけし翠簾のいたく古りたるをかく、是なんいつの時いかなる故によりて寄附し玉ひしかしれさる由神主等のいへり、此社も昔武田家の軍勢乱入せし時、兵火の為に焼れて、古記大方紛失せしが上に、万治年中神主が文庫回禄せしかば、社記更に亡て伝らず、蓋し天正十一年十一月晦日、御判物の状を賜ふ、今猶蔵せり、其文左の如し、
(略)
神祖江府へ移らせ玉ひ、此国中村式部少輔一氏の守護となりし頃、豊太閤より先規の通たるべきとの令詞を與ふ、かくて再び神祖国府に移らせ玉ひ、慶長七年十二月の八日に、重ねて御朱印の令詞を下し賜ふ、其文左の如し
(略)
又清水記に慶長十七年正月十五日、家康公ヨリ駿府八幡宮エ御代参として酒井為右衛門、頼宣卿御代水野藤右衛門ト云々、又同書に、慶長十六年正月十六日、同じき十八年六月十五日同十九年三月二十七日、頼宣卿此社に詣で給ひし由を記せり」
まあ、八幡様ですから大人気。
◯こちら===>>>
↑『駿河志料』にも記事がありますので、そちらもご参考に。
戦国時代にうといので、「中村一氏」が誰だかわからない……。
◯こちら===>>>
「推古天皇」時代から続いていたかはどもかく、街の真ん中に小山が出現すると、ちょっと驚きます(もっとも、江戸時代以前、この辺りの居住状況を知っているわけではありませんので)。
小山の頂上に神社(鳥居)があったら、それはもう古墳、といっても過言ではないと思いますが(過言です)、さすがにちょっと、古墳というには大きいでしょうか……この辺りの地理には全く疎いので、この山がどうだったのかわからず……ただ、意味もなく信仰の対象にはならないわけで、昔から神体としての山だったのだろうな、と思いました。
観光地としてはメジャーではないのかもしれない、と思いましたが、頂上までいくと近所の家族づれやお子さんが遊んでいて、地元に愛されている山で神社なのだなぁ、と。
いや、よい神社でした〜。