べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「金剛院」(東京都豊島区)

6/17。

さて。

「長崎神社」の参拝を終えて、お隣の「金剛院」へ。

 

◯こちら===>>>

www.kongohin.or.jp

 

その前に、

 

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「「長崎不動尊」案内板
このお堂は、「長崎不動尊」と呼ばれ、ご本尊に不動明王、脇仏には明王を護る従者である制咜迦、矜羯羅の二体をお祀りしております。不動明王が剣や索、火焔を備えて忿怒の強い形相を示されておられるのは、煩悩を滅して私たちを救い、降魔を払うためです。
(略)
「長崎不動尊」は、昭和二十一年十月に地域の守護仏として、そのご加護を頂けるよう当地へお祀りされました。また同時に長崎不動講を結成し不動尊の運営と管理にあたってきました。
このたび堂宇の老朽化に伴い再建建立を発願して、併せて慈悲深い観音菩薩像を造立しました。清浄水にて観音さまの御仏体を洗い流しながら、観音菩薩真言、あるいは宝号を唱えてお参りください。
(略)」

 

……ナータくん……ちょっと、なんというか、なんだろうなぁ……「不動くん」ではいかんかったのか……まあ可愛いからいいのかもしれないですが(「不動明王」の梵名「アチャラナータ」より)。

 

 

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地蔵尊の由来
この舟型浮彫地蔵尊は、寛政八年(一七九六)八月二十四日に道標をかねて造立された道標地蔵尊です。地蔵尊の石中には「念仏供養」、その左右には「北・下板橋道 南・ほりの内道」という文字が刻まれています。ほりの内というのは、杉並区堀ノ内のことです。江戸時代には、宿場町として栄えた中山道板橋区仲宿方面、また厄除け祖師の堀ノ内・妙法寺へ、お参りする人々の道しるべになっていて、南北に通じる道があったことを教えてくれています。また、この地蔵尊の御仏体は、江戸城築城の時に使われた石の一部であると言い伝えられています。
(略)」

 

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こちらは、味のある……というより、空襲にでも晒されたような痕の残る「地蔵菩薩」像。

六道の導き手である「地蔵菩薩」は、「馬頭観音」、「猿田彦」などと並んで、道標に選ばれやすい御仏なのでしょうか。

 

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というわけで、

 

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ええと、あれ、いきなり本堂です。

 

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石仏や、宝篋印塔(かな)などがあちこちに見られました。

 

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灯篭には……狛犬じゃないかな、邪鬼か……。

 

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大師堂。

 

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こちらにもまたいろいろと。

 

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うーん、梵字は読めない……『密教事典』はあるので、見てみましたが、「a」かな……「胎蔵界大日如来」の種字……違ったらすみません。

 

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こちら「お砂踏み」参拝所。

八十八ヶ所巡りをぎゅっと圧縮して体験できる、という例のやつです。

いつかお遍路してみたい……。

 

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庚申塔、と「馬頭観音」と書かれています、どちらも道標、だと思われます。

 

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案内板……が、さすがに小さくて字が読めない……。

 

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こちら、赤門。

 

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こっちも小さいなぁ……。

 

「金剛院は、聖弁和尚によって大永2(1522)年に開創された真言宗豊山派の寺院で、正式には蓮華山金剛院仏性寺という。本尊は、観世音菩薩と勢至菩薩を脇侍として配した阿弥陀三尊である。開創当時は現境内地から北西方向に800mほど離れた。長崎三丁目の観音堂(現在は当寺の境外仏堂)の位置にあったといわれており、宝永6(1709)年ごろに当地へ移転した。
宝暦8(1758)年には、「百字真言梵鐘」と呼ばれる釣鐘が鋳造されている。その後の安政年間(1854〜60)には、寺子屋が開設され、長崎地区の庶民教育の拠点となっていたほか、明治元(1968)年の神仏分離令までは長崎神社を管理する別当寺でもあった。さらに、明治34(1901)年には、境内に長崎村役場が置かれていた。
薬医門様式の山門は、安永9(1780)年に建立されたものである。その装飾は彫りが深く、意匠的にも優れているため、平成6(1994)年6月に豊島区指定有形文化財になった。
本堂は、昭和29(1954)年に建てられた鉄筋コンクリート造で古典建築の造形を単純化しながらまとめられた点に特徴がある。客殿は、昭和9(1934)年の建築で、客殿の主室に洗練された造作の座敷飾を備えてあるのが特徴である。これらの点が評価され、二つの建物は平成26年に国の登録有形文化財となった。
境内にある2基の板碑のうち、1基には阿弥陀如来の画像が、もう1基には永享12(1440)年の年号が刻まれている。また、宝永4(1707)年に長崎村の村人が造立した庚申塔も1基残されており、いずれも地域の歴史と文化を伝える貴重なものとして、豊島区登録有形文化財になっている。」

 

なるほど、本殿はコンクリート造でしたか。

 

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赤門から境内を。

向かって右隣にあるのは、お寺カフェの「赤門テラス『なゆた』」です。

いろいろなイベントも行われているようです。

こうして、地域の中で生きているお寺、というのは、神社仏閣好きというだけで参拝しているものには敷居が高い……また、高くてもいいのだと思っています(お寺の側がどう思われているのかはわかりません)。

そして、ホームページの充実ぶりがすばらしい……昔、どうしても独鈷杵が欲しくて、高野山に行ったときに仏具屋さんに寄りたいと親に言い出せなかったことを後悔したことのある私です……(孔雀王』の影響です……荻野真先生、合唱……)……当時、こんなものがあったらな……。

 

御朱印はいただいておりません(いただけるかどうか、未確認)。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本地誌大系. 第5巻 風土記稿1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『新編武蔵風土記稿』より。

139コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「金剛院
新義真言宗多磨郡中野村宝仙寺末、蓮華山仏性寺と號す、本尊五智如来中興僧は貞享五年寂す、鐘楼 鐘は寛文年中鋳造なり ◯地蔵堂 金剛院持」

 

公式HPによれば、現在の御本尊は「阿弥陀三尊」です。

五智如来」のほうが、密教的ではありますね……。

 

HPの記述がとても詳しくわかりやすいので、そちらをご参照していただいて(特に、江戸期の寺社の場合、妄想を働かせる余地があまりないもので……いかんいかん……面白そうなんですけれどね、寺子屋を開設した比丘尼さんの話とか)。

 

次は、飽きもせず雑司が谷の「鬼子母神」……と思わせておいて、その周辺です〜。