べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「烏森神社」(東京都港区)

7/14。

青山方面に用があったので、なぜかわかりませんが、「烏森神社」へ。

 

◯こちら===>>>

karasumorijinja.or.jp

 

御朱印が有名らしい、という御朱印本の情報のみで出かけたら、大勢並んでおられました……(そりゃそうだ)。

 

f:id:bennybebad:20180714134051j:plain

社紋。

 

f:id:bennybebad:20180714134640j:plain

f:id:bennybebad:20180714134637j:plain

拝殿……なのか……都会の真ん中にぽつねん、と佇む……というよりは、何か、はまり込んだまま消えなかったテトリスのブロックみたいな存在感でした。

 

f:id:bennybebad:20180714134653j:plain

f:id:bennybebad:20180714134710j:plain

f:id:bennybebad:20180714134728j:plain

f:id:bennybebad:20180714134743j:plain

狛犬さん。

最近、狛犬さんの形式も勉強せねば、と思っているのですが全然覚えられず……(社殿形式もろくに覚えませんから)……よく見るタイプの意匠ですが、都会のせいか、黒ずんでいるのがなかなかの迫力。

 

f:id:bennybebad:20180714134805j:plain

遠景。

鳥居……鳥居。

 

f:id:bennybebad:20180714134817j:plain


「烏森神社縁起
御祭神 倉稲魂命 天鈿女命 瓊々杵尊
平安時代天慶三年(約一千年前)に平将門が東国で叛乱を起こしたとき 征伐将軍藤原秀郷が当社に戦勝を祈願したとも このとき勧請したとも伝えられている 室町時代の享徳四年(約五百年前)には室町幕府関東管領古河公方と云われた足利成氏は 当社に戦勝を祈願した その祈願状は今日も当社に宝物として伝えられている
江戸時代は稲荷信仰により祭礼も二月初午の日に執行せられ 稲荷祭としてその賑わいは 江戸で一二を争うものであった
明治以降は五月四五六日を祭日とし、夏祭のはじめとしてその名をうたわれている
当社殿は 伸びゆく新橋の地にふさわしい近代建築美の中に 神社本来の伝統を加味し 昭和四十六年十二月 氏子の熱意により竣工をみたものである
(略)」

 

なるほど……ちょっと変わった取り合わせの御祭神ですね……いろいろ合祀された結果かな。

 

f:id:bennybebad:20180716201209j:plain

御朱印

時間がなかったので、既に押されていた御朱印帳を購入しました。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会. 第2輯第3編 江戸名所図会 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『江戸名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

125コマです。

 

「烏森稲荷社
幸橋より二町ばかり南の方、酒井下野侯邸の北の横通にあり。往古よりの鎮座といへとも、年歴来由共に詳ならず。元禄開板の[江戸鹿子]といへる草紙に、天慶年間、藤原秀郷、将門退治の時の勧請なりといへども、信としがたし。又如何なる故ありてや、当社の神宝に古き鰐口一口を納む。表に元暦元甲辰年正月、下河辺庄司行平建立と彫付けてあり。[江戸名所ばなし]に、日比谷稲荷の條下に云く、此宮地は借地にてありしに、既に断絶におよぶべき頃、稲荷の神、宮守に告げて、古来よりの証拠なりとて鰐口ひとつを与へ給ふ。宮守公へ訴へ、此証によつて、宮居つづがなしとあるは、当社の事を誤りていふならん歟。或人云く、明暦の回録に奇瑞ありしかば、其後社の辺除地となるとぞ。(略)祭礼毎年二月初午に執行す。幸橋御門に仮屋を補理ひて、神輿を移す。参詣群集して賑はへり。
古河御所
足利成氏願書一通(当社に蔵す。)

稲荷大明神願書事
今度発向。所願悉於成就者。当社可遂修造。願書之状如件。
左兵衛督源朝臣
成氏判」

 

藤原秀郷」というのは、いわゆる「俵藤太」のことですね、オオムカデ退治の……あれ、違いましたっけ。

で、その「藤原秀郷」が勧請した、ということが『江戸鹿子』に書かれているのですが、『江戸名所図会』としてはばっさり。

何かしらイデオロギー的なものがあるのか、明治になって何か証拠が出てきたから、現在の由緒なのか(まあ、「〜とも」と推定の表現なので、実際はわからない、というところでしょうが)。

少なくとも「古河公方」の頃には存在していた、というわけなので、関東にあっては十分な古社、ですね。

足利成氏」という人は、

 

◯こちら===>>>

足利成氏(あしかがしげうじ)とは - コトバンク

 

コトバンクの『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、


室町時代の武将。古河公方 (1455~97) 。鎌倉公方持氏の子。幼名永寿王。永享 11 (39) 年2月持氏が永享の乱に敗れて鎌倉で自害したとき,瑞泉寺の僧昌在に保護されて,のち信濃の大井持光を頼った。翌年3月兄春王,安王の下総結城 (ゆうき) での挙兵に参加したが,翌月落城,春王,安王は美濃で殺された。成氏は許されて在京していたが,宝徳1 (49) 年上杉房定が関東の諸将にはかり,室町幕府に願って鎌倉公方としたため東下して,9月鎌倉に入った。次いで 11月元服。同3年2月従四位下左兵衛督となる。成氏は,父持氏を敗死させた上杉憲実および憲忠の父子を憎み,一度は幕命を奉じて和睦したものの,享徳3 (54) 年 12月には憲忠を鎌倉の屋形に襲い殺した。幕府はただちに成氏追討を命じ,関東は成氏と上杉氏との対抗を中心に大動乱に陥った。康正1 (55) 年正月成氏は武蔵分倍河原 (ぶばいがわら) に出陣して,憲忠のあと上杉家を継いだ弟の房顕を破り,以後,次々と上杉方の諸将を攻めた。しかし6月になると,幕命を受けた駿河守護今川範忠の軍に鎌倉を奪われ,成氏は長禄1 (57) 年下総古河城を治めて,ここに拠った。幕府はさらに将軍義政の弟政知を伊豆堀越に下し,関東を鎮定させようとした。政知を堀越公方,成氏を古河公方と呼ぶのはここから出た言葉である。これより戦況は一進一退して決定しなかったうえ,文明9 (77) 年には房顕の後嗣顕定とその家臣長尾景春との間に戦いが起り,関東は一層乱れた。かくて成氏,上杉氏とも次第に勢力を失い,同 10年成氏は顕定と和した。次いで同 14年成氏は幕府,政知とも和睦した。」

 

という人で……室町後期〜戦国、乱れに乱れた時代のことで、私が一番苦手な時代です……勉強したい……。

 

このあとは、芝の「増上寺」、「芝東照宮」なども巡りまして、よき旅、よき宴を堪能しました〜。