べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「七寺」「大光院」「陽秀院」(補)

さて。
「七寺」に関しては、

 

○こちら===>>>

「稲園山七寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑昔の記事で『尾張名所図会』の引用をしております。
今回は、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史』の「社寺編」から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
261コマです。

 

「八 七ツ寺

七ツ寺は稲園山と號す、中区門前町五丁目の西側に在り、(略)京都智積院の末寺なり、往古は中島郡下津里の南、阿波手浦の西、萱津原の裏(略)に在り、天平七年七月、行基の開創と伝ふ、初め正覚院と號す、天応元年七月、河内権守是広 河内誉田の人、世々河内郡平岡城に居す。  出羽鎮秋田城介となりて、奥羽に赴き、七年の後帰りて、萱津に宿し、兒 初め征東の役に赴くや、妻娠むあり、別後四月にて男子を産み、光麻呂と名く、其年十月二十三日妻逝く、乳母に養はれ、是歳光麻呂父を尋ねて此駅に至りて卒すと云ふ の死を聞き、悲歎に堪へず、正覚院二世智光 行基の弟子、伝は元享釋書に見えたり に依りて、之を院の西に葬り、堂を建てて、兒所持の薬師仏像を安んず、河内に帰るに及び、延暦六年十二月、当寺を再建し、七区の精舎、十二の僧坊を建て、七年五月落慶す、時に世俗呼んで七ツ寺と稱すといふ、仁和三年七月晦日、大地震あり、殿堂倒潰し、無住となること五十餘年、天慶四年、将門の兵乱に遇ひて、再び大廃す、仁安二年七月、尾張権守安長(略)亡女の爲めに、其女婿豊後守親實 上総介永實の二男 と共に、中興の工を始め、九月七堂伽藍を落す、時にもと十二坊の魁名を採りて、稲園山長福寺と改め、高野山金剛峰寺に隷す、是に於て始めて真言の道場となるといふ、次いで十二坊を復建して支院となす、安元元年正月、安長一切蔵経を書写せしめ、治承二年三月、鎮守十二所権現社を建て、八月五千餘巻の写経を慶讃し、転法輪蔵を鎮守社の前に建てて之を納む、文治元年四月、住僧栄俊、仏工運慶及び其子湛慶を招きて、本尊木造三尊 観音、弥陀、勢至坐像 及び二天 毘沙門、持国の立像 の像を修彩せしむ、建武四年兵乱に遇ひ、寺宇重ねて頽破し、弥陀堂及び半壊の経蔵(略)を存して、悉く烏有となる、荒墟二百五十餘年、天正十九年三月、鬼頭孫左衛門尉吉久 春日井郡朝日庄清須郷の人、視髪して法山宗敬居士と號す慶長三年三月六日卒去す 豊臣秀吉に請ひ、遺宇を清須城に畔に移建し、良圓(略)を請じて、中興開山となす、文禄三年三月、本堂を経始し、四年七月、落慶供養を修す、時に性海寺の末寺となる、良圓中島郡の旧地に草堂一宇を営みて、桂林寺と號し、鎮守十五所権現、神明、弁天の三社を留祀す、慶長十六年秋、二世良祐(略)名古屋日置村 即ち今の地 阿弥陀堂を移建し、楼閣、門、庫を一新す、又十五所権現、天満大自在天神 尾張霊異記に掘源之進屋敷の天神のうつしなりと見ゆ を巽隅の丘陵 俗に天神山と呼ぶ に勧請す(略) 良祐又清須の旧地に一院を建てて、真福寺と號し、薬師仏の塑像(略)を安んず、後本堂の東南に一院を造り、木造不動像を安んじて、一乗院と號し、退隠の地となす、寛永三年、本堂の東北に護摩堂を営み、五大尊の像(略)を安んず、正保二年、護摩堂の東に客殿を新建し、木造正観音立像(略)を安んじて、仏殿及び祠堂に充つ (中略) 八世良卓(略)の時、享保十五年春、地蔵院流の法地となりて、色衣を許さる、此時藩主始めて抂駕あり、爾後山城嵯峨世尊院を兼帯して、藩主の祈願所となり、一国の触頭となる、元文三年五月、始めて境西に裏門を開き、一乗院をその邊に移す、六月二十八日消失す、次いで太子堂、築山亭、観音堂(略)、聖天堂、浴油所、所化寮、稲荷社、八幡社、秋葉社(略)を新建し、三十三所の観音、善光寺常夜燈、六角堂及び銅造大日如来坐像(略)等を造る (略) 明治八年十二月、境内の南方を割きて、往来の路とす、十二年七月二十四日、智積院の直末となる、本尊は木造阿弥陀如来坐像、脇士同観音、勢至二菩薩坐像(略)なり、現今の堂宇には、本堂(略)、庫裏、書院、影堂(略)、弁天堂(略)、三重塔、吒枳尼天堂(略)、太子堂(略)、聖天堂(略)、大日堂(略)、経蔵(略)、鐘楼(略)、総門等あり(略)」

 

↑略してもこれだけの記述がある、ということで、往時の規模が偲ばれます……それを思うと、今の境内の寂しいこと……残念です。

 

尾張霊異記」

 

↑気になるなぁ……。

 

 

 

続いて「大光院」は、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』から参りましょうか。

73コマです。

 

「興国山大光院
同町西側にあり。曹洞宗武州忍の清善寺末、慶長の初め、従三位中将忠吉君清須御在城の時、雲門寺といへる廃寺の跡に此寺を建立し、旧名雲門を以て寺号とし、明嶺和尚を請じて開山となり給へり。和尚は武蔵国の人にて、清善寺の住持たりしが、道徳堅固にして、眠る事を好まず、昼夜をわかたず端坐して道を修しければ、道徳顕はれ、兼ねて死期をしり、種々の霊異を示して、慶長十四年二月二十八日遷化す、是より前、東照神君明嶺を帰依し給ひ、忠吉君も同じく帰依し給ふ事厚くまします故に、清須に招請し給ひしとぞ。忠吉君御逝去の後、大光院殿と申せしは、此明嶺和尚が奉りし御法号なり。さて慶長十五年の御遷府の後、名古屋日置の地にうつして、日置山大光院と改号し、のち又今の山号に改む。寺領は、忠吉君の御寄附なり。
本尊 釈迦の木造
(略)
二天門 寛政三年の建立。二天の像は春日井郡鹿田村仁昌寺の観音堂に在りし古像なり。
光石地蔵堂
牌堂
烏瑟沙摩明王堂 境内にあり。此明王はむかし釈尊にちかひて、もろもろの不浄を清浄に改めなし給ふ神通備りましますよし、[穢跡金剛経]に見えたり。毎月二十八日を縁日として、参詣の諸人羣集をなす。又一切下部の諸病までをも守らせ給ふ大悲願ある仏なれば、婦女子の参詣ことに多し。堂の傍に松の大樹・櫻の古木あり。
塔頭 陽秀院、大光院二世大庵の弟子嶺奕の建立なり。
地蔵尊 陽秀院境内にあり。腫物其外一切の諸病を祈願する時、尊体に紙を張り、病癒ゆる時は其紙をとる事なり。立願の諸人絶ゆる事なくて、尊容見ゆる時なし。故に紙張地蔵と稱す。(以下略)」

 

図絵もありますが、当時「明王殿」が伽藍のごく一部だったということがよくわかります。

松平忠吉」のことがさっぱりわからない(戦国時代音痴)ので、

 

○こちら===>>>

kotobank.jp

 

↑「コトバンク」より『朝日日本歴史人物事典』です。

 

「没年:慶長12.3.5(1607.4.1)
生年:天正8(1580)
江戸初期の武将。名は甚太郎,福松,忠康。下野守,薩摩守と称す。徳川家康の第4子で母は西郷局,東条松平家忠の養子となり,文禄1(1592)年2月に従五位下下野守に叙し,武蔵忍城の10万石に封ぜられる。その妻が井伊直政の娘であった関係から,慶長5(1600)年の関ケ原の戦に際しては,舅の井伊直政と共に徳川隊の先鋒の大役を務めた。ことに徳川秀忠率いる軍勢の到着が遅れたことから,関ケ原における徳川将兵の軍事力は劣弱であったが,直政と忠吉の徳川勢は力戦して島津義弘隊ほかと戦ってこれを破り,忠吉は初陣ながら自ら敵の首級をあげるなど軍功著しく,父家康を大いに喜ばせた。戦後は尾張清洲城を賜り,52万石を領し薩摩守と改める。10年に従三位左近衛権中将となり,28歳で没した。嗣子なくして家は絶えた。」

 

そうか……私は関ヶ原の戦いのことも井伊直政のこともさっぱり知らないわけですね。

どうやら噂に聞こえた「島津豊久」をやっちまったすごい人みたいです。

若くして亡くなったのがなんとも残念……なのかな(徳川秀忠」が暗殺したんじゃないの、とつい思ってしまうのが悪い癖です)。

 

「武蔵忍城の10万石に封ぜられる」

 

この辺りで、「明嶺」和尚とか、「清善寺」との縁があったようですね。

おっとついでに「陽秀院」の記事が。

 

「石地蔵尊 陽秀院境内にあり。腫物其外一切の諸病を祈願する時、尊体に紙を張り、病癒ゆる時は其紙をとる事なり。立願の諸人絶ゆる事なくて、尊容見ゆる時なし。故に紙張地蔵と稱す。」

 

↑確かに、「紙張地蔵」は江戸期からあったものでした。

祈願で貼り付け、成就で剥がすって書いてあるけれど……自分の紙がきちんとはがせた人ってどのくらいいるのかなぁ……その祈願、果たして成就するんでしょうかね……まあお地蔵さんは広大無比の慈悲ですから、ちょっとくらい大丈夫でしょうけれど。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

尾張志』はどうでしょうか。
35コマです。

 

大光院
門前町の西側にありて興国山と号し武蔵國埼玉郡忍の清善寺の末寺也開山明嶺和尚はむさしの國の人にて道徳の名誉あり平常眠る事を好ます昼夜端座して道を修しかねて死期を知り種々の霊異を示して慶長十四年二月廿八日寂せり此事村老の口碑に伝ふ是よりさき清善寺の住持たりしとき家康公崇信し給ひ忠吉君にも帰依深く禅を談し給へり清須におはせしとき雲門寺といへる廃寺(略)の跡に一宇を建立し明嶺を迎へて開山とし清善寺と号け給へり忠吉君御存生の時法号を明嶺に請給ひて大光院殿と申ししか慶長十二年江戸にてうせ給ひし時御遺言によりて清須の此寺に葬り奉らむとせしを増上寺の衆徒異議を申により増上寺に葬り霊牌を此寺に建て日置山大光院と改めしを慶長年中ここに移し御寺の列となせり山号を改めし年月は定かならず(略)」

 

尾張名所図会』と似たようなものですね。

それではお待ちかね『名古屋市史』より。
346コマです。

 

大光院
大光院は興国山と號す、中区門前町二丁目の西側に在り、(略)埼玉県北埼玉郡忍町清善寺の末寺なり、もと清須(略)に在りて、清善寺と號す、松平薩摩守忠吉、同地の雲門廃寺 尾陽雑記、大光院の條に、天正十九年辛卯年、豊臣秀次爲秀長公菩提所創建、雲斎和尚爲開山、其後暫中絶矣、薩摩守忠吉卿以武州清善寺明嶺和尚爲当住持、所領地今在名古屋」と見ゆ、(略) を復興し、改称せしものなり、明嶺理察(略)招かれて開山となる、忠吉大光院殿等山宗勝の法号(略)を受けしより、今の寺号に改む、城下一宗の触頭となり、毎年江湖会を執行せり、忠吉の江戸に薨(略)ずるに臨み、遺命して江戸愛宕下青松寺に火葬し、清須大光院に葬儀を営ましむ、然るに増上寺異議あり、是に於て家康葬儀を彼寺に営ましめ、牌所を当院に建てしむ、慶長遷府の際、二世大菴護奕(略)今の地 当時の日置村 に移し、山号を日置山と改む(略)、後今の山号に復す(略)、(略)明治五年十月、三十世大薩祖梁(略)今の寺格に昇進し、諸堂を再建し、御霊屋、開山祠堂等を修繕す、(略)本尊は木造釈迦牟尼仏坐像(略)なり、現今の堂宇に、本堂(略)、庫裏、山門(略)、開山堂、位牌堂、僧堂、烏瑟沙摩明王堂 文化五年三月建立 鎮守堂 建立年時は詳ならず、吒枳尼天、秋葉権現、金毘羅神の三神を奉祀す 、鐘楼(略)等あり、(略)末寺は陽秀院 同町門外南側に在り、もと塔頭なりき 、聖応寺(略)の二寺あり(以下略)」

 

こちらもまあ、似たような内容(といっても、『名古屋市史』が『尾張名所図会』や『尾張志』などを参考にしているので当たり前)。

 

「鎮守堂(建立年時は詳ならず、吒枳尼天、秋葉権現、金毘羅神の三神を奉祀す)」

 

↑この辺りが、今の「陽秀院」の「秋葉権現」なんでしょうか……。


同じく『名古屋市史』より「陽秀院」。
348コマです。

 

「陽秀院
陽秀院は隣松山と號す、中区門前町二丁目の西側に在り、(略)大光院の末寺(もと塔頭)なり、葉室嶺奕(略)之を開基す、(略)本尊は木造十一面観世音菩薩坐像(略)なり、現今の堂宇に、本堂、庫裏、地蔵堂、総門等あり、その控に十王堂(略)一宇ありしが、全廃す、(以下略)」

 

↑こちらは観光案内ではないので「紙張地蔵」のことは書かれていません……。

 

 

 

ふう……特に名古屋はですね、「清須越」のあとにできた街といっても過言ではないので(その意味では、家康入府以降にできあがった江戸東京と比較できるかもしれないです)、戦国〜江戸初期の歴史の勉強は必須なんですよね……ああ大変……

 

 

 

信長の忍び』で何とかならないですかね(助けて重野センセー!)。

(※アニメも絶賛放送中! 大地丙太郎〜……以上、何の実入りもないステマ……とは言わない宣伝でした。※)


大須門前町、まだまだ掘ればたくさん出てきますよ……ふう……もうちょっと続きます。

「七寺」「大光院」「陽秀院」〜大須ぶらぶら

12/29。

「富士浅間神社」をあとにして、大須ぶらぶら。

まずは「七寺」へ。

 

○こちら===>>>

「稲園山七寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

f:id:bennybebad:20161229094145j:plain

御朱印いただけるのですが、ちょうど参拝客の方がいらっしゃったので、またの機会に。

 

さてはて、さらにぶらぶらしましょうか、ということで大光院へ。

 

○こちら===>>>

「大須観音」「興国山大光院」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事……っていうか、何も書いていないに等しいですね。

このブログの超初期の記事なもので。

 

○こちら===>>>

http://www.ohsu.co.jp/myo1.html

 

↑もご参考に。

 

f:id:bennybebad:20161229094943j:plain

いきなり本殿前。

明王伝レイ』……我が業は我が為すにあらず……じゃなくて「明王殿」。

御本尊は「烏枢沙摩明王」、東司の守護神です(厠のことです)。

 

f:id:bennybebad:20161229094958j:plain

大光院
興國山と号し、曹洞宗の寺院である。もと清善寺と号し、松平忠吉清洲城主、徳川家康の第四男)が崇敬していた明嶺理察和尚を開山とし、清須に創建した。忠吉亡き後その法名をとり大光院と改め、慶長十五年(一六一〇)の清須越でこの地に移された。
境内の明王殿に祀る烏瑟沙摩明王は、世の中の一切のけがれや悪を清め、霊験あらたかであるといわれる。尾張名所図会に「毎月二十八日を縁日として参詣の諸人羣集(群集)をなす」とあり、そのにぎわいは今も続いている。」

 

おっと、「烏瑟沙摩明王」の文字が違っていましたね、↑のやつ……。

 

 

密教辞典

密教辞典

 

 『密教辞典』によれば、

 

烏枢沙摩明王(略)一切の不浄・悪を焼尽する偉力のある明王台密系では。五大明王の北方に配して金剛夜叉明王の代りに用いる)。両部曼荼羅には見えず、空海の将来以後、産褥の穢れ、枯木の精、毒蛇の害、悪鬼の祟り除外など、単独に信仰されたから異像が多い。中国でも盛んに造像されたらしく別尊雑記などに唐本図像が多い。現存の敦煌画には、各臂・両足に蛇が巻付き、髑髏を瓔珞、頭髪は逆立ち、火焔光を負う。像の上方左右に阿閦・阿弥陀両仏を配して火頭金剛と記す。(略)」

 

となっています。

不浄を焼き尽くすことから、厠の守護神につながっていったものと思います。

不動明王」、「孔雀明王」辺りと役割が被っている感じがします。

 

f:id:bennybebad:20161229095020j:plain

参道、「明王殿」。

 

f:id:bennybebad:20161229095043j:plain

門。

「赤門」ですね。

 

大光院」の近く、斜向かい辺りにありますのが「陽秀院」

 

○こちら===>>>

http://www.ohsu.co.jp/ohsu/youshu.html

 

f:id:bennybebad:20161229095338j:plain

曹洞宗で、「隣松山」が山号のようです。

天狗の団扇が寺紋、ということで。

 

f:id:bennybebad:20161229095348j:plain

「紙張水子地蔵尊 秋葉三尺坊」、秋葉さんだったようです。

 

f:id:bennybebad:20161229095328j:plain

「紙張地蔵」というのが有名なようです。

 

f:id:bennybebad:20161229095250j:plain

本堂。

秋葉大権現」。

 

f:id:bennybebad:20161229095307j:plain

門を入ったすぐの左手に「紙張地蔵尊」がいらっしゃいました。

この真っ白のお方です。

 

○こちら===>>>

名古屋市:中区:史跡散策路(中区)

 

↑中区の史跡散策路HPより。

 

曹洞宗の寺院だが、境内にまつられるお地蔵様の信仰で知られる。これは、境内の石地蔵に濡らした紙を張りつけて祈ると、 地蔵が代わりに病苦を受けてくれるという地蔵信仰で、寛永年間の霊験談が現代にまで生きているもの。」

 

身代わり、触穢、接触呪術、というやつですね。

 

……うん、淡白。

 

引用などは次回にします〜。

「富士浅間神社」(名古屋市中区)

(※2017/5/13追記)

 

12/29。

半年前のことなので、そろそろ記憶が薄れつつあります……何しに大須に行ったのやら……とりあえず「北野神社」の参拝を終えまして、続いて「富士浅間神社へ。

 

○こちら===>>>

osu.co.jp

 

大須商店街のHPっぽいですが……何か重い。

 

○こちら===>>>

名古屋市:中区:史跡散策路(中区)

 

「史跡散策路」中区大須コースを確認していただいたほうがいいか、と。

ええと……参拝されている方がいらっしゃったもので、写真の順番がぐちゃぐちゃですが。

 

f:id:bennybebad:20161229093011j:plain

ひとまず、境内社のお稲荷さんを。

「まねき稲荷」と呼ばれています。

 

f:id:bennybebad:20161229093030j:plain

そのお隣に境内末社

 

f:id:bennybebad:20161229093038j:plain

石灯籠。

ちょっと独特のシルエット。

 

f:id:bennybebad:20161229093051j:plain

再びの境内末社

 

f:id:bennybebad:20161229093129j:plain

「まねき稲荷」遠景。

 

f:id:bennybebad:20161229093134j:plain

こちらが正面。

「まねき稲荷」の南側です。

 

f:id:bennybebad:20161229093146j:plain

「まねき稲荷」の社標。

「之より西一丁」と読めますから、以前はもうちょっと離れたところにあったのかと。

 

f:id:bennybebad:20161229093156j:plain

お狐様たら

 

f:id:bennybebad:20161229093203j:plain

お狐様。

 

f:id:bennybebad:20161229093247j:plain

境内にある神馬像。

微妙な逆光。

 

f:id:bennybebad:20161229093338j:plain

本殿向かって左手、ちょっと奥にあります「白龍社」。

多分、「白龍樅木大神」と書かれています。

それより、ちょっとだけ覗く銅像の方が気になりますけども……。

 

f:id:bennybebad:20161229093408j:plain

「白龍社」からちょっと下がってみました。

拝殿。

 

f:id:bennybebad:20161229093421j:plain

境内の奥行きが狭いので、なかなか社殿をずばっと撮影できませんでした。

 

 

f:id:bennybebad:20161229093454j:plain

石灯籠。

建立の時節柄、門前町南部國防婦人會」による奉納。

なんとも、しみじみ……。

 

f:id:bennybebad:20161229093532j:plain

f:id:bennybebad:20161229093539j:plain

よーし、と末社に近づいてみたのですが……神社名が全く読めませんでした……。

 

f:id:bennybebad:20161229093559j:plain

おっと、「まねき稲荷」のお狐様たら

 

f:id:bennybebad:20161229093604j:plain

お狐様。

 

f:id:bennybebad:20161229093638j:plain

神馬像越しの拝殿。

 

f:id:bennybebad:20161229093650j:plain

案内板発見。

 

「富士浅間神社

明応四年(一四九五)六月、後土御門院の勅令によって、駿河浅間神社より分霊を勧請して奉祀したという由緒が伝えられている。

祭神は中央に木花開耶姫命、左に瓊々杵命、大山祇命、右に天照皇大神、彦火々出見命を合祀するほか、数社が祀られている。

なお、この神社には、近くの那古野山古墳から出土した有蓋脚付壺が保管されている。」

 

……「那古野山古墳」ってなんだ……初めて聞いた……。

いつか調べてみよう。

 

f:id:bennybebad:20161229093703j:plain

梅か桜か。

 

さて。

例によって『尾張名所図会』を探ってみたのですが、発見できず……。

というわけで今回は、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑『尾張志』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

16コマです。

 

「浅間社

南寺町清寿院境内にあり明応四年はしめて建立す大永六年当郡小林城主牧氏某これを造営すといへり

稲荷社 弁才天社 飯綱社 なとおなし境内にあり弁才天社は大永六年に勧請し飯綱社は貞享元年甲子九月瑞龍院君の命を奉して造営すといふもと此神像は春日井郡大草村福嚴寺にありしを後に愛智郡籏屋町に移し又下津村正眼寺に安置したりしを故ありて御城内に移し給へるか元禄甲子に又ここに移したりとそ」

 

 

……うーん、「後土御門天皇」の勅令、という話はなかったことになっているのか。

当時のこの辺りの城主である「牧某」が建立したのは間違いないようですが。

全然文字の読めなかった末社の中には、「弁才天社」や「飯綱社」があったようで……「飯綱社」って、結構珍しいのかな……本拠地は信州ですが、距離的には近しいので、結構流行ったのか……。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑困ったら『名古屋市史』。

「社寺編」、158コマです。

 

「二二 富士浅間社

富士浅間社は中区門前町四丁目の西側 旧称は南寺町 に在り、境内七百十三坪七合三勺あり、当社もとは富士権現又は浅間宮と称し、明応四年後土御門天皇の勅に依り、駿河国富士権現を勧請す 市譜、椋園叢書には牧與三右衛門長清の勧請となす 、大永六年、前津小林の城主牧與三右衛門長清再興す、寛永十年、藩祖義直の室於春(高原院)再建以来、当藩より修造せらる、明治初年村社に列し、三十三年頃、社務所を建つ、祭神中央は木花開耶姫命、左は瓊々杵尊大山祇命、右は天照皇大神、彦火々出見尊なり、殿宇には神殿、社務所等あり、境内神社は稲荷社 祭神宇賀之御魂、建立年時は詳ならず、明治四年当末社秋葉社へ合祀し、十一年六月造営遷宮す 、天神社 祭神菅原道真 、金刀比羅社 神大己貴命、旧称金毘羅大権現、明治四年八月、今の名に改む、勧請年時不詳 、出雲社 祭神は大己貴命 秋葉社 祭神迦具土大神 、の五所あり(略)、寛文七年閏二月、藩主光友(二世)より修験清寿院へ給はりしものにして、明治初年まで拝領せり、例祭は六月十一日にして、市より供進使の参向及び湯立の神事あり (略) 社務は勧請当時は駿河富士権現の神職小林某之を奉仕し、其後修験良圓となり、林蔵坊 寛永年中不埒につき追放となる となり、尋いで南寺町愛宕社の別当大乗院村瀬大圓坊良清之を兼ね、寛永十六年、其子実寿院良済、藩主義直より社地及び住地を給はり、本社の別当職に補す。寛文六年十二月、実寿院を改めて清寿院となし、以来明治初年まで同院にて奉仕し、且つ代々御軍貝役をも勤め、座位は古渡稲荷神社の神主の次第に列せり、(略)

飯縄社は又飯綱社に作る、旧称は飯縄権現といふ、徳川時代には本社の奥院なりき、初め御深井矣の向島に鎮座せしを、貞享元年九月、藩主光友の命に依り、本社境内に堂宇を建立して、同年十二月之を遷す、元禄十五年三月、松寿院殿 名はよね、藩主光友の三之丸なり 、修造せらる、以後藩より修営せらる、明治初年、徳川邸より権現の身体を柳原長栄寺に移し、其社殿は村瀬喬臣に賜はる、其堂宇今喬臣宅 旧清寿院の一部 の庭前にあり、其の柱は黒木造りにして、奈良より移建せるものなりといふ、神体は仏教天部の神にして、袈裟を著せる高六尺餘の木像なりと云ふ、一説に空海の作にして、源頼朝の守護神たりといふ、春日井郡大草村(略)福嚴寺 曹洞宗なり一説に同村に一社を建てて祀ると云ひ、又往古は知多郡篠島に在りきともいへり に伝はり、次ぎに愛知郡籏屋町(略)に移り、後中島郡下津村(略)正明寺(略)に遷りしを、故ありて御深井矣に移されたり(略)

弁才天社は徳川時代には本社の境内末社なりき、大永六年の勧請なりといふ(略)
湊川神社は祭神中央は楠木正成、左は和気清麻呂、右は大連物部守屋なり、文久二年、中区天王崎町洲崎神社境内に鎮座す、明治九年五月本社の境内末社として遷座し、十八年五月修造遷宮す、大正元年十二月本社に合祀す(略)」

 

 

由緒は詳しいですが、『尾張志』より新しい時代に、古文献からまとめられたものですので、正しいかどうかはわかりません。

弁才天社」、「飯綱社」は著名だったようですが、明治になって「洲崎神社」から「湊川神社」を遷座しているようです。

何か理由があったのか……。

市内には、「富士神社」や「浅間神社」と称するところが結構ありますが、富士塚が残っているようなところは今のところ見ていないですね。

東京には結構富士塚が残っているところを見ると、「富士講」の盛り上がりよりは、より近い「御嶽講」のほうが盛んだった、ということなのでしょうか。

名古屋からも富士山が見えることもあった……のでしょうかね……富士見って地名はあったような気がするので、見えたのかな……そういったことも知らない、残念なおっさんです……地名に関する本を読めばわかるかもしれません。

そういえば、「まねき稲荷」の由来がわからなかったな……。

 

もうちょっと大須をぶらぶらします。

 

あ、御朱印はいただけるようなのですが(神社の道を挟んで向かいに社務所があります)、私が参拝したときは人の気配がなかったもので、いただいておりません。
いつかいただけるのか。

 

▽※2017/5/13追記▽

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』、改めて目次を見ていたら、ありました……ただし「清寿院」の記事なんですが。

78コマです。

 

「富士山観音寺清寿院
同町西側にあり。山城国醍醐の三宝院の派、尾張・美濃二箇国の修験の先達なり。本尊富士権現は、土御門天皇の勅によりて、駿河浅間大神神職、此地に勧請して造営ありしなり。中世前津小林の城主牧與三左衛門尉源長清、富士権現を崇信して、七度参詣の志願を発し、三度駿河に下りて登山ありしが、晩年に及びて遠路に堪へがたく、残る四度を此社に詣でて、其願をはたせし故、其砌当社を再営ありしとぞ。また信長公の家臣村瀬左馬助の末孫、修験となりて大圓坊といひしが、大乗院及び此院を兼帯住持せし其子宝寿院、国君より当社の地を拝領し、清寿院の号を賜はる。
(略)
飯綱権現社 神像六尺有餘にして、おそろしき尊容なり。もとより霊験あらたなる像なり。例年六月十一日神楽あり。
末社 稲荷・金毘羅・菅神・秋葉・福天。(以下略)」

 

……あれ、「後土御門天皇」じゃなかったですっけ……。

小林城主の牧氏が、富士登山七度の祈願を途中でやめて(やめざるを得ない、と言うべきでしょうか……暇そうで暇じゃないっぽうしな、城主)、この神社を参拝した、というのが妙にリアリティがあります。

「飯綱権現」がその都度言及されているところを見ると、結構特徴的なものだったようです。

もうないのかな……(「清寿院」という寺院は廃寺になっているようなので、残っているとしたら「富士浅間神社」に、なんですが……何となくなさそう……)。

大須界隈は、またぶらぶらするので、もうちょっと気をつけて、あちこち歴史の後先を見つけてみようと思いました。

 

△※2017/5/13追記△

「北野神社」(名古屋市中区)

(※2017/5/13追記)

 

12/29。

年の瀬も押し迫って何をしているのか、といいますと、大須をぶらぶらしています。

しかも、結構早い時間帯から。

取り立てて何をするつもりもないので、神社仏閣を求めて散策。

繁華街から少し外れたところで、「北野神社」を発見しました。

 

 

……オフィシャルHPとかは見つからないっぽいです。

 

f:id:bennybebad:20161229092231j:plain

いきなりの賽銭箱前から。

かなり早い時間なので、太陽が若くて写真が見づらいかと思います。

 

f:id:bennybebad:20161229092240j:plain

狛犬さんたら

 

f:id:bennybebad:20161229092253j:plain

狛犬さん。

 

f:id:bennybebad:20161229092313j:plain

そしてさらに狛犬さんたら

 

f:id:bennybebad:20161229092322j:plain

狛犬さん。

 

f:id:bennybebad:20161229092338j:plain

社標と牛さん。

 

f:id:bennybebad:20161229092346j:plain

社格は村社だったようです。

 

f:id:bennybebad:20161229092435j:plain

境内にお稲荷さんも。

 

f:id:bennybebad:20161229092441j:plain

お狐様たら

 

f:id:bennybebad:20161229092452j:plain

お狐様。

 

f:id:bennybebad:20161229092506j:plain

ええと……確か南面していたはずの鳥居。

 

f:id:bennybebad:20161229092522j:plain

遠景はこんな感じです。

都市計画で遊びなくはめ込まれた感じがなんとも言えず切ないな、と。

御朱印がいただけるのかどうかはわかりません(授与所的なところはなかったと思いますが)。

 

さて。

 

いつも通り『尾張名所図会』を探してみたのですが、どうも見当たらず。

尾張志』もざっと見てみても、やっぱり見当たらず。

こうなると、頼りになるのは『名古屋市史』しかなく……。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

157コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「二〇 北野神社

北野神社は中区日出町下ノ切の東側 徳川時代には北野新地と称しき に在り、境内百十五坪あり、初めは北野社又は北野天満宮と號す、もと尾張中島郡長岡庄大須 今は美濃羽島郡小藪村大字大須 に在り、後醍醐天皇の勅建にして、京都北野の社より菅公の画像を遷して鎮座すといふ、 此画像今大須宝生院に在り 、康永三年二月七日焼失し、其後再建せられたるものは、慶長十年、また木曽川の洪水に流失す、同十七年、徳川家康の命に依りて、今の地に遷座す、今の神殿は当時の建立なり、明治初年村社に列し、三十年頃社務所を建つ、祭神は菅公 今の神体は束帯の木像なり、本地は観世音菩薩にして、真福寺の本尊即是なりき なり、殿宇には、神殿、社務所等あり、境内神社は秋葉社 祭神は迦具土大神 、及び津島 祭神は須佐之男神 、神明 祭神は天照大御神 、八幡 祭神は応神天皇 、春日 祭神は天児屋命 、四社合殿の二所とす、例祭は二月二十五日、九月二十五日 徳川時代は二月二十五日にして、寺子供大文字を奉献し、拝殿及び書院の壁に展観して、諸人の目を驚かし、又桜ノ町天満宮(今菅原町天神社)より数十町の間、往来群聚せりといふ なり、(略) 社務は真福寺(略)を宮寺として、開山能信以来、代々別当職に補し、慶長十七年遷座より、同寺の鎮守として奉仕せらる(以下略)」

 

 

……えっと、「宝生院真福寺」というのはいわゆる大須観音のことでして……現在でも、「大須観音」の鎮守、ということになるのでしょうか。
中島郡から遷座したときでもそれほど大きいわけではなさそうですが、今よりは広かったんじゃないかな……。
そういえばちゃんと「大須観音」のことは調べていないもので。
資料がね、多いんですよ多分……観光客も多いので御朱印もらいづらいしなあ……。

 

徳川時代は二月二十五日にして、寺子供大文字を奉献し、拝殿及び書院の壁に展観して、諸人の目を驚かし、又桜ノ町天満宮(今菅原町天神社)より数十町の間、往来群聚せりといふ」

 

↑ここの部分は、以前の「桜天神社」の記事

 

○こちら===>>>

「桜天神社」(再)(中区) - べにーのGinger Booker Club

 

↑でも触れていますが、こちら「桜天神社」はこれまた大須の大きな寺院である「万松寺」の鎮守、「北野神社」は「真福寺」の鎮守、と「菅公」で鎮守争いでもしているんでしょうか……「万松寺」もきちんと調べてないです……でかい、というのもそうなのですが、今の「万松寺」は……いえ、おいおい参拝しようかとは思っていますよ、はい……。

 

 

 

淡白ですが、このあたりで〜。

 

 

▽※2017/5/13追記▽

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』の目次を見直していたら、「真福寺」の記事のところに「鎮守天満宮」として記事がありました……やれやれ。

82コマです。

 

「鎮守天満宮 此神像は、延喜二年筑紫太宰府にて御自筆に畫かせ給ひ、北の御方及び姫君へ送らせひし畫像にて、天暦年中北野御鎮座の節、神殿に御同座ありしを、後醍醐天皇御崇敬のあまり、長岡庄大須の地に迎へ奉り、御建立ありし旧社なり。 今も北野山と號し大須と通称するは、此因によれり。  例祭は二月二十五日、寺子供大文字を奉献し、拝殿及び書院の壁に展観、諸人の目を驚かしむ。此日桜天満宮よりここに至りて、数十町の間往来羣聚せり。 八幡・伊勢・春日の三神をあわせまつれる小社、また稲荷・秋葉・天王の小社側にならびて鎮座なり。また鰐口の銘に、永享十年の文字見えたり。  境内に芝居及び見世物小屋等数椽ありて、年中の興行絶ゆる事なく、府下第一の勝地なるが、就中五月十八日は、町々より馬の塔を奉納して、新粧の奇観・見物の羣集、又四万六千日の参詣など、実に境内に溢るる計りの賑なり。又堂内に絵馬を多く掲げて、年々歳々の雅致奇巧を争へるも、自から慈眼視衆生諸人結縁の方便ならし。(以下略)」

 

 

うーんと、最後のほうは、神社のことなのか、「真福寺」全体のことなのかよくわからなくなっておりますが……内容自体は『名古屋市史』とほとんど変わりません。

まあ、こっちを参考にして書かれているので当たり前なんですけれど。

 

△※2017/5/13追記△

「松洞山龍泉寺」(再)+「强巴林」(名古屋市守山区)

12/17。

年内に「尾張四観音」をめぐるべし、という御神託があったわけではないですが……守山区方面へ。

もちろん、「尾張四観音」最後の一つ、龍泉寺を目指しまして。

 

○こちら===>>>

「龍泉寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑前回はほぼ三年前の参拝。

お猫様天国だったなぁ……まだいらっしゃるのかしら……。

 

f:id:bennybebad:20161217101048j:plain

f:id:bennybebad:20161217101052j:plain

f:id:bennybebad:20161217101055j:plain

四国八十八ケ所巡礼、だと思われます。

 

f:id:bennybebad:20161217101402j:plain

参拝していると、縁起を発見。

あれ、前回も同じような内容を……ともかく。

 

「松洞山大行院龍泉寺
伝(熱田の宮の奥の院として創建)
本尊 厄除開運馬頭観世音
脇侍 大聖不動明王 毘沙門天
三剣(熱田の宮の八剣の内)

桓武天皇の御代延暦年間僧最澄(傳教大師)僧空海弘法大師)の創建なるも建造物は天正十二年兵火に全焼し慶長十二年七堂伽藍を再建したが、明治三十九年二月五日放火にて全焼(仁王門、塔を残す)
参拝の心得
拝禮し柏手を打つてお参り下さい
本尊御真言
オンアミリ トドハバウン バツソワカ

 

「伝(熱田の宮の奥の院として創建)」「三剣(熱田の宮の八剣の内)」

 

↑改めて、この辺りが気になりますね……。

 

「参拝の心得
拝禮し柏手を打つてお参り下さい
本尊御真言
オンアミリ トドハバウン バツソワカ

 

↑……これも「?」ですね、一見。

神仏習合時代を思わせますが……なかなかそういった寺社は残っていないと思います。

 

f:id:bennybebad:20161217101422j:plain

何の絵なのかはわからない……宝船ではなさそう……。

 

f:id:bennybebad:20161217101528j:plain

拝殿……あれ拝殿なのかな。

 

f:id:bennybebad:20161217101553j:plain

「でんわ」はともかく「でんぽう」……レトロです。

 

f:id:bennybebad:20161217101615j:plain

本堂の主瓦。
2015年に、本堂などの大改修が終わったのだそうです。
平成の大改修が、ここ十年くらいあちこちで行われていますよね……思い出す限り、「日光東照宮」でも遭遇、「香取神宮」でも遭遇、「松平東照宮」でも遭遇、「田縣神社」でも遭遇、岡崎「六所神社」でも遭遇……はぁ……文化財を残すためですので致し方ありません(が、遠方に出かけて遭遇すると、さすがにちょっとへこみます……事前に調べろ、と)。

 

f:id:bennybebad:20161217101622j:plain

多宝塔。

確かに、美しくなっております。

 

f:id:bennybebad:20161217101626j:plain

本堂遠景。

 

f:id:bennybebad:20161217101644j:plain

f:id:bennybebad:20161217101655j:plain

仁王門。

 

f:id:bennybebad:20161217101718j:plain

f:id:bennybebad:20161217101712j:plain

狛犬ならぬ、狛馬……などという言葉はありません。
そうか、ご本尊が「馬頭観音」だから、なのですねきっと。

 

f:id:bennybebad:20161217101736j:plain

仁王門遠景。

 

f:id:bennybebad:20161217102158j:plain

「龍泉辨財天」。
水は相変わらず枯れております。

 

f:id:bennybebad:20161217102213j:plain

そして、お猫様遭遇!
一匹さんだけだった……ああ残念。

 

f:id:bennybebad:20161217193027j:plain

御朱印
あれ、前と文字が違う気がします……いや、達筆に過ぎるだけか……。

 

さて。

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会


↑『尾張名所図会』の「春日郡下」より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
結構忘れがちなんですが、守山区は江戸時代には名古屋ではないし、愛智郡でもないんですよね。
103コマです。

 

「松洞山龍泉寺 吉根村にあり。天台宗、野田密蔵院末。延暦年中伝教大師、熱田宮に参籠して修法ありしが、ある夜童女一人来り、大師に逢うて告げて曰く、是より東北にあたれる地に龍泉あり、我は其池に住む龍女なるが、師の法恩をうけて、永く無生を證せんと思ふ、願はくは我為に一妙句をしめし給へと、かたりもあへず忽然と見えずなりぬ。大師其童女がいひしままに、跡を尋ねて当山に至りしに、山の西南に池ありて、其中より俄に浪を起し、龍女出現して大師にいふやう、前の日熱田にて契りまゐらせしに、今かしこくも尋ね来り給へる事、謝するに言葉なし、此上は我累劫の苦患を救ひ給へと請ひしかば、大師則法華一実の妙旨授けられき。龍女悦ぶ事かぎりなく、今より後旱魃あらば、必ず甘雨を降して、普く人民を救はんと誓ひ、終りて池に入りぬ。其池を多羅々が池といふ。扨池中より閻浮檀金の馬頭観音の尊像湧出して、側なる椎の木の梢に飛び懸り給へり。大師感喜の思をなし、茅堂をいとなみ、其像を安置せられしが、幾程なく本堂を造立し、(龍神威力を現じて造立せりといひ伝ふ。) 本尊と崇め、龍泉寺と名く。[沙石集]に、尾張国龍山寺は、むかし龍王の一夜のうちにつくりて供養せる寺なり。夜明けければ壍はほりさしたりとて、当時も其跡見え侍り。馬頭観音にて霊仏におはしますと見え、熱田の旧記に、当寺を熱田の神の内院とし、八剣のうち三剣を此地に埋めし故、今に至るまで印刻の観音の像の傍に、三剣を図するよしいへり。其後弘法大師熱田の神宮寺にて、本地供を百箇日修しけるに、日毎一人の童子来りて、樒と閼伽の水とを奉れり。大師あやしみて、童子が帰るを見送りしかば、此山の麓の多羅々が池に入りぬ。大師はじめて龍神なりける事をさとり、夫より結夏のあはひ、此山に十度参詣し、彼観音の金像を供養し、結願の日、熱田の榊を折り来りて、堂の南に植ゑ、当寺繁栄のしるしとせしとぞ。其榊枝葉茂りて、今に遺れり。此故に当寺を伝教・弘法両大師の開基とす。今百度の夏参をし、あるひは四月五日と七月六日と、此山に詣づる事は、ひとへに弘法大師の遺例によるものなり。今当国四観音のうちに列し、三十三観音の一所とす。中昔より度々の兵火にかかり、天正十二年長久手合戦の時、秀吉公の軍卒殿堂を焼きしかば、什宝旧記悉く失せたりしを、慶長三戊戌秀純和尚再興し、本堂・二王門・多宝塔を造立したりしより、むかしに倍して繁昌の霊地となれり。殊に近年は、開運厄除等の守札を賦与す。正月十八日又節分の日などは、諸人群参して札守を受くる、幾千人といふ数をしらず。
本尊 馬頭観音は上にいへるが如く、凡工の鎔鑄ならねば、霊験いちじるし。
多羅々が池 山内にあり。たららの名義解しがたし。たたらを誤り伝へにしや。たたらは周防国の地名にもあり、[海邦名勝志]にはたたらとかけり。考ふべし。
椎木 たたらが池の側にあり。むかし本尊観世音、此木の上に飛び上り給ひしよしいひ伝へし古跡なれども、中世枯木して、株のみ残りしを、天和年中の暴風にて吹倒れて、今は名のみ残れり。
榊木 堂の前にあり。むかし弘法大師夏中日参百度の結願に、植ゑ置かれしよしいひ伝へしが、是又枯れうせて其跡のみ残れり。
西国三十三所観音堂 近年の建立にて、山内所々に小堂をいとなむ。春の頃はとりわけ参詣多く、此堂を巡拝する者少からず。
当山は勝川の流れに傍ひたる山岸にて、書院及び本堂の後なる裏山より、西北の眺望いかばかりなく、西に金鱗の光あざやかにして、小牧山尾張不二・本宮山はさらなり、尾北をはじめ、近国の連山波濤をなし、近くは勝川の緑水清冷にして、曠野の平遠なる篠木の村落、枰面に石を下せるが如く、寸馬豆人の往来ふさままで、風光他に増りて、実に城東第一の絶景、雅俗帰路を忘るるの勝地なり。しかのみならず、此山は龍の御山とて和歌の名所なり。(略)」

 

龍神が池から出てきたので「龍泉寺」。

ストレートで素晴らしいと思います。

 

「熱田の旧記に、当寺を熱田の神の内院とし、八剣のうち三剣を此地に埋めし故、今に至るまで印刻の観音の像の傍に、三剣を図するよしいへり」

 

↑こんなことが書かれておりました。
「熱田の旧記」というと『熱田太神宮縁起』でしょうか……『群書類従』に入っているんですが、確認していないな……。

ざくっと検索して見たら、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 熱田旧記

 

↑そのままのが引っかかりました……内容をざっと見てみましたが、「伝教大師」と「弘法大師」は出てくるのですが、「龍泉寺」云々は見えなかったので(見落としの可能性はあります)、別の「旧記」なのかもしれないです。

伝教大師」も「弘法大師」も、「熱田神宮」へ参籠した、という伝承は、江戸時代までには有名になっていたようです。

現代人はあんまり知らないかも……。

尾張名所図会』、次のコマには絵図が掲載されているのですが、どうも、

 

「西北の眺望いかばかりなく、西に金鱗の光あざやかにして、小牧山尾張不二・本宮山はさらなり、尾北をはじめ、近国の連山波濤をなし、近くは勝川の緑水清冷にして、曠野の平遠なる篠木の村落、枰面に石を下せるが如く、寸馬豆人の往来ふさままで、風光他に増りて、実に城東第一の絶景、雅俗帰路を忘るるの勝地なり」

 

↑寺院がどうこうよりも、風光明媚なほうがお知らせしたかったようで(名所図会、観光案内の側面も大きいです)。

伽藍の絵図も残してほしかったな……。

いつも頼りの『尾張志』は、ほぼ同じ内容(字句まで……)なので、今回は割愛。

神仏習合をひっそり残した名刹です。

 

これで「尾張四観音」巡りは終了〜。

すぐに年も明けようというのに……年明けてからにすればよかったかな……。

 

せっかく守山区まで来たので、気になっていたところにも。
「强巴林(チャンパリン)」という、チベット仏教の寺院です。

 

○こちら===>>>

強巴林とは│チベット仏教│良縁成就・恋愛成就・人脈開運のチベット仏教寺院 強巴林

 

」は「強」の異体字なもので、環境によっては表示されていないかもしれません……。

 

f:id:bennybebad:20161217104634j:plain

f:id:bennybebad:20161217104721j:plain

f:id:bennybebad:20161217104650j:plain


寺院内の写真はありませんが、チベット仏教の絵画が飾られており、エスニックでビビッドな雰囲気を味わうことができます。

設立の経緯などは、↑公式HPをご参考いただいて、日本ではなかなかお目にかかれないマニ車があったり、世界史の教科書でしかお目にかからない「ツォンカパ」師や「ソンツェン・ガンポ」師の肖像なんかも(確か)あったと思います。

ちょっと入りづらいですが、興味のある方はどうぞ。

修行をされている僧侶のかたが、簡単な解説と案内をしてくださいました……いつもしていただけるのかはわかりませんが……。

 

私は、中学生の頃に、チベットやネパールの仏教に興味がありまして(?)、それっぽい本も持っていました(がどっか行っちゃったな……)。

あちらの仏教はまた独特でして、「十二観自在」とか「へールカ神」とか、若干中学生には刺激の強い仏様なんかもおられますが、もうちょっと勉強してみようかな……。

昔、NHKスペシャルか何かで、今のダライ・ラマ師が、ポタラ宮で、砂絵で時輪曼荼羅を描く、っていうのをやっていた気がするんですが……これも記憶違いかも、です。

 

f:id:bennybebad:20161217193121j:plain

御朱印
書き置きをいただきました。

 

さて、これで2016年分が……まだ終わっていなかった……高速初詣の記事は、夏頃になるかもしれませんです……。

「白山神社」(再)+「津島神社」(名古屋市西区)

12/3。

車の点検に外出したもので、ちらっと西区へ。

以前も訪れました、白山神社

 

○こちら===>>>

「白山神社(名古屋市西区)」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑桜の頃の「白山神社」です(ちょっと写真が汚いです……申し訳ない)。

 

f:id:bennybebad:20161203113112j:plain

むきむきたくましい狛犬さん

 

f:id:bennybebad:20161203113119j:plain

たら狛犬さん。
この手の造形はあちこちで見かけるので、人気がある(あった)のでしょうか。

 

f:id:bennybebad:20161203113132j:plain

拝殿。

 

f:id:bennybebad:20161203113143j:plain

神馬。
赤銅製でしょうか、珍しい。

 

f:id:bennybebad:20161203113203j:plain

狛犬さんたら

 

f:id:bennybebad:20161203113211j:plain

狛犬さん。
目元キリッと。

 

f:id:bennybebad:20161203113241j:plain

「弥栄」の柱。
国家神道時代の名残でしょうか。

 

f:id:bennybebad:20161203113251j:plain

f:id:bennybebad:20161203113255j:plain

石灯籠。

 

f:id:bennybebad:20161203113310j:plain

狛犬さんたら

 

f:id:bennybebad:20161203113318j:plain

狛犬さん。
こちらもむきむき。
参道に三対の狛犬さん、なかなかに豪華です(?)。

 

f:id:bennybebad:20161203113431j:plain

こちら摂社末社狛犬さんたら

 

f:id:bennybebad:20161203113458j:plain

狛犬さ……痛ましい……。

 

f:id:bennybebad:20161203113512j:plain

摂社末社

 

f:id:bennybebad:20161203113533j:plain

榎の木。
こちら「榎権現」とも呼ばれている神社ですもので。

 

f:id:bennybebad:20161203113600j:plain

灯篭。

 

f:id:bennybebad:20161203113606j:plain

末社「田道間守社」。
合わせて薬祖として「大己貴命」が祀られているのは、昔はお菓子も薬も同じだった、と見るべきか、「トキシクノカクノコノミ」絡みと考えるべきか。

 

f:id:bennybebad:20161203113612j:plain

鳥居。

 

f:id:bennybebad:20161203113623j:plain

f:id:bennybebad:20161203113632j:plain

権現橋の欄干。

 

f:id:bennybebad:20161203113656j:plain

昭和十二年の天長節紀念の碑。

 

f:id:bennybebad:20161203113718j:plain

遠景。
いい天気。

 

f:id:bennybebad:20161203113758j:plain

もっと遠景。

 

f:id:bennybebad:20161203113814j:plain

斜め遠景。

 

f:id:bennybebad:20161203114617j:plain

f:id:bennybebad:20161203114630j:plain

さて、ということで、近くに神社はないものか〜とちょっとうろついていたら発見。

「平安山正信寺」というお寺と、その境内の津島神社

 

○こちら===>>>

正信寺

 

f:id:bennybebad:20161203114720j:plain

津島神社」。

 

f:id:bennybebad:20161203114735j:plain

狛犬さんたら

 

f:id:bennybebad:20161203114739j:plain

狛犬さん。

 

f:id:bennybebad:20161203114748j:plain

新し目の狛犬さんたら

 

f:id:bennybebad:20161203114754j:plain

狛犬さん。

 

f:id:bennybebad:20161203114814j:plain

鳥居。

 

f:id:bennybebad:20161203114849j:plain

f:id:bennybebad:20161203114902j:plain

社殿を斜めから。

 

さて、では、


○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史 社寺編』より引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
150コマです。

 

白山神社
白山神社は西区押切町五丁目の北側 もと愛知郡山田庄鴛鴦喜里村、俗に榎町と稱せり にあり、(略)、もとは白山権現社と云ひ、俗に榎権現と称す、文明九年、斯波治部大輔義廉、加賀の白山権現を勧請す、元禄十二年十二月、文久二年六月、明治二十年三月に各、改造遷宮あり、明治初年村社に列す、祭神は、菊理媛命に天照皇大神、豊受比賣命 二神はもと境内神社たる神明社の祭神なりき、神明社はもと兒玉村(今西春日井郡金城村大字兒玉)に在り、文明元年伊勢大神宮を勧請す、寛永年中本社境内に遷座し、その跡に庚申塚を築きしが、享保八年四月、其塚をも本社境内に移せり、元禄十二年十二月修造、明治三十年10月に本社へ合祀す 迦具土命 もと境内神社たる秋葉社の祭神なりき、明治三十年十月、本社へ合祀す 、を配祀す、殿宇には、神殿、祭文殿、玉垣、神饌所、手水屋形、祭器庫 明治四十二年寄附 、金刀比羅社拝殿(略)、境内神社は金刀比羅社 神大国主命、菅原贈太政大臣、文政三年再建す 、稲荷社 祭神宇迦之御魂神 、戸隠社 祭神手力雄命 の三所あり、例祭は七月十七日、市より供進使参向、十八日湯立神事あり、両日とも神楽を奏し、楽車一台を出す(略)、別当は福満寺(略)
織田信長今川義元桶狭間に攻むるや、先づ本社に奉幣し、戦捷の後、亦本社に詣して、太刀一口を寄進すといふ、今其太刀無し、また徳川家康の家臣志水甲斐守も奉幣す、諸大名通過の際は必ず本社に参拝し、福満寺書院を以て其休憩所となしきといふ(略)」

 

以前の記事では『尾張名所図会』から引用していますが、「美濃路」の解説が神社にあるように、様々な人たちがこの辺りを通過したのは間違いないようです(必ず参拝したかどうかはわかりません)。

津島神社」については、

 

○こちら===>>>

名古屋市:城下町散策コース(西区)

 

↑でごく簡単に解説が。

 

「鐘と太鼓を打ち鳴らして町内を練り歩く石取まつりが毎年5月に行われます。」

 

……うーん、もうちょい何かあるだろう、という感じがします。

 

○こちら===>>>

isidori.jp

 

↑「石取祭」というのは、もともと桑名のお祭りのようで、ユネスコ無形文化遺産にも登録された日本の祭りの中にも含まれています(あれは、無形といいながらも、山車が重要視されたんでしたっけ)。

今では小さな社ですが、氏子さんの手でしっかり守られているようですので、よしとしましょう(?)。

御朱印はありません〜。

妄想も特にありません〜。

ときにはこんな記事も。 

「太郎坊阿賀神社」(考)

さて。
文字だらけですので、苦手なかたは回避してください。

 

いつも通り『近江輿地志略』の目次をぐるぐる見ていたのですが……「阿賀神社」も「太郎坊」もどこにもないんですよね……これは何かあるな、と思って、ひとまず神社でいただいた御朱印の押さえ紙を。

 

「神社名 太郎坊・阿賀神社(通称太郎坊宮)
御祭神 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(天照皇大神の第一皇子神・天孫瓊瓊杵尊の御父神)
御神徳 勝運授福
御社紋 輪宝
(以下略)」

 

うん、ヒントがない。
国会図書館デジタルコレクションで検索してみると、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 太郎坊阿賀神社神拝祝詞

 

↑そのものが見つかっちゃったもので……こちらから(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
2コマです。

 

「○御霊験
抑々近江八日市赤神山に鎮座まします太郎坊阿賀神社は太古天津神我朝の萬民の病患貧苦を憐み當山千丈巨巌に降臨し給ひて大神の神力を以て巨巌を左右に押開き此の間を通行して参拝するの輩は即座に病苦を除き諸願成就せざる事なし、
欽明天皇の御世聖徳太子霊威顕著なるを聞食し参籠し給ひ國家安泰風雨順次百穀成熟萬民快楽を大神に懇念し給ふ是に於て大神を阿賀霊神太郎坊大権現と奉稱し給えり桓武天皇の御宇傳教大師當山に参籠し廟社を建立し社坊成願寺を設け赤神山と號せり、古来霊験顕著にして其の御守護を蒙る者擧ぐるに遑あらず殊に近年信者著しく増加し大正拾参年以来本殿再築し其他諸設備に着手し本年十月當敬神會より荘厳無比なる社名石を献納するに至れり。」

 

……うーん、伝承はある程度わかりましたが、「太郎坊宮」「阿賀神社」と呼ばれた始まりが……おっと、

 

「社坊成願寺」

 

……なるほど、見逃すところでした。

社紋が「輪宝」という時点で、そのくらい思い至らないといけないですね……。


というわけで、「成願寺」に関する資料をデジタルコレクションで当たってみると、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 近江蒲生郡志. 巻7

 

↑『近江蒲生郡志』巻7にありました「成願寺」。
299コマです。

 

「成願寺
成願寺は中野村大字小脇に在り天台宗なり本尊薬師如来なり、寺傳に延暦十八年傳教大師草創の古刹にして全盛五十餘坊の塔中あり、一旦兵火に罹り爾後行萬坊石垣坊の二院を存するに過ぎず太郎坊を以て有名なる所なり、天正蒲生氏郷制札を寄す(蒲生氏世代志参照)慶長八年十月幕府の寺社奉行は五ヶ條の掟書を下して寺規を定め京都町奉行板倉伊賀守勝重は寺領十七石に諸加役免除地の特典を附與す、元和三年六月延暦寺の執行天海僧正は三條の寺法を下して寺僧を戒飾すそれ等の史料は左に列記す、寛永十七年住僧寶壽院行承及び行萬坊の祐盛願主となり洪鐘を鋳造す、明治以後神仏分離令出でし時太郎坊社は阿賀神社と改稱し各別立す、境内に不動堂あり寛永中僧行承の再建せし所なり。(略)」

 

……なるほど。
この書き方だと、「太郎坊宮」は塔中の一つだったのかどうか、もよくわかりませんね。
ただ、江戸の頃にはすでに「太郎坊宮」で有名だった、と。
蒲生氏郷」については……ええ、戦国時代に疎い私はさっぱりですが、超有名人ですよね確か。
検索していただければわかると思いますが、近江は蒲生郡の出身だったようです。
ふむ……では『近江輿地志略』も見ておきましょう。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 近江輿地志略 : 校定頭註

 

421コマです。

「[成願寺]成願寺村にあり。赤神山成願寺と號す。其記に曰く、夫當山は人皇五十代桓武天皇延暦十八乙卯年傳教大師草創の伽藍にして、本尊薬師如来十二神将御自作なり。鎮守は熊野権現、往古は五十餘坊あり、今漸く二坊を存す。行萬坊石垣坊是也。峯は金剛胎蔵の曼荼羅中央は不動明王垂迹、悪魔降伏の太郎坊、此處に十丈許の妙岩二行に立つ。これ阿吽の二字を表す云々と。杉谷善住坊は五十三家の侍也。娘を屋形義賢公へ出し妻となす。此腹に端三郎といふ子出生、之に依りて善住坊無二の忠を盡し、成願寺の峯に楯籠り、忍びて信長公をねらへども幸なければ空く過ぐる折節、千草越を尾張へ下り給ふと聞き、彼山中に忍び鐡砲を以て打つ、信長運強くはづる。杉谷深く隠れしが高島にて磯野丹波守、高島小川へ所替の節、堀川阿弥陀寺にて生捕られ生害す。

 

むむ……ほとんど何もわからないに等しいです……。

 

「中央は不動明王垂迹、悪魔降伏の太郎坊」

 

↑これって、つながっているんでしょうか?
だとしたら、「太郎坊」は「不動明王」の垂迹ということになります。
むむむ……。
普通、「太郎坊」ったら、明らかに天狗のことなのですが……。

 

 

日本妖怪異聞録 (講談社学術文庫)

日本妖怪異聞録 (講談社学術文庫)

 

 

小松和彦大天狗……じゃない大先生による『日本妖怪異聞録』を最近読んだので、そこから引用しますと、

 

「江戸も中期頃に作成されたとされている『天狗経』なる書がある。それによると、京都の北西の愛宕山には太郎坊という天狗、比良山(比叡山の奥)には次郎坊、鞍馬山には僧正坊、比叡山には法性坊、さらに横川(比叡山)覚海坊、富士山陀羅尼坊、日光山東光坊、羽黒山三光坊、妙義山日光坊、常陸筑波法印、彦山豊前坊、等々、霊山には合計四十八天狗がいる、と書かれている。

この天狗名、固有名詞であるかに見えるが、霊山に結びつけられている名であろうから、むしろ天狗の地域的集合名を考えた方がいい。愛宕山の太郎坊と称される地域的天狗集団があって、そのなかに、さらに個々の名前を持った天狗がいたというわけである。
『天狗経』の筆頭にあがっていた愛宕山の天狗が「太郎坊」つまり「長男」の天狗とされているように、愛宕山平安時代から天狗の拠点とされていた。前章で那須野の妖狐「玉藻前」の話を紹介したとき、左大臣藤原頼長近衛天皇を呪詛したという噂が流れた、という実話について少し述べたが、この頼長の、おそらく修験もしくは陰陽師を用いて行なった呪詛法は、愛宕山の天狗像に釘を打ち込むという方法であった。つまり、その当時から、愛宕山には天狗像が祀られていたのである。
鳥類タイプの天狗がしきりに活動していたのは、平安時代であった。この頃の天狗をめぐる伝承の多くは、仏教とりわけ比叡山、つまり天台宗の僧たちにかかわるかたちで語られている。」(p74)

 

「……こうした天狗伝承から明らかになってくるのは、比叡山密教僧たちは、この世のなかの「異常」を「天狗」によって説明しようとしていたかにみえる、ということである。大雑把ないい方をすると、陰陽師が「鬼」を想定することで、あるいは「妖狐」を想定することで、「異常」を説明しようとしたのに対し、天台の密教僧は「天狗」を想定することで「異常」の説明の独自性を主張したのだ。彼らは、天狗と戦い、これを退治することでその存在を主張し、かつ仏の教えを人びとの間に広めようとしたというわけなのである。」(p81)

 

「比良山の天狗が、是害坊(ブログ筆者注:『今昔物語集』を元にして作られた、鎌倉時代に大人気を博したらしい、大陸からやってきた天狗)をそそのかすために語った話のなかに、文徳天皇の女御染殿后の話があった。その話とは、「文徳天皇の女御染殿后は、石山の行者、紺青鬼となりて、悩ましたてまつりしを、智証大師、加持し給ひければ、その後は、近江の水海(琵琶湖)に隠れ侍りしかども、恥をかくことはなかりき」というものであった。石山の行者が紺青鬼という鬼になって、染殿に憑いて病気にしたが、智証大師の祈祷で退散させられた。退散した鬼は琵琶湖の底に隠れて出てこなかったので、恥をさらすことがなかった。それに引きかえ、あなたは一度ならず二度までも恥をさらしている、とさり気なく是害坊を責めていたのだ。
ここでは、石山の行者が鬼になったと表現されているが、ある書物によると、染殿を悩ました邪気が天狗で、しかも、もとは紀僧正という立派な僧であったという。つまり、僧が戒めを破って天狗になることもあったのである。染殿についた天狗は、柿本天狗という名の天狗であった。この柿本天狗を調査してみると、意外や意外、もと真言宗の僧で、知徳秀逸にして験徳無双の聖であったが、大法慢(慢心)して、日本第一の天狗になった、その大天狗が愛宕山の太郎坊だ、というのである。(略)」(p98)

 

↑といったことが書かれています。

他にも、大陸から渡ってきた「是害坊」はなぜか「不動明王」に深く帰依する僧侶にやられていることが多かったりして、「天狗」と「不動明王」の関係になにやらありそうな感じがします。

 

「天狗」の初出は……という話をすると長くなるのでやめますが、もっぱら修験者と同一視された、というのはよく知られた話だと思います。

山に「天狗」が住んでいるのは、山岳で修行する修験者とイメージを重ねているからですね。

で、おそらくですが、これが正式な仏教僧にとって、都合の悪いことがあったのでしょう。

正式な得度を受けていないのに、仏法を使役し、ときに祈祷もやってのける民間仏教者ですから、認めがたい部分が多かったのではないかと思います。

一方で仏教、特に密教は山と所縁が深いのも事実で、何しろ「秘密」な仏教ですから隠しておきたいことがあるでしょうし、修行も厳しくするために山が選択された、ということもあったのでしょう(大陸の仏教の影響は、もちろん巨大です)。

とすると、実は修験者と密教僧というのは、近しい存在でもあるのです。

天台宗の「千日回峰行」の話を読むと、特にそう感じます。

巨大勢力天台宗としては、ときと場合によって、「天狗」をいいように利用したのではないでしょうか。

全てではないでしょうが、↑であげた「柿本天狗」の話を見ていただくと、真言宗の高僧が「天狗」になった、と書かれています。

大きく争っていたわけではないにしろ、天台宗真言宗はライバル関係、であれば相手をそこはかとなくディスるために、真言宗の僧侶は「天狗」になることがあるんですよ、とネガティブキャンペーンを張る。

一方で、大陸からやってきた「是害坊」と退治して調伏するのは天台宗の高僧。

相手を落としつつ、自分をあげる、という基本戦略に基づき、しれっと「真言宗天台宗」を植え付ける。

その仲立ちを「天狗」がしているとなると、天台宗と「天狗」はほぼ共犯関係にありますね。

マッチポンプってやつです。

こうなってくると、天台宗の高僧が「不動明王」の加護で「天狗」を退治した、というのも怪しいもので……ああ、ひょっとすると、「中央は不動明王垂迹、悪魔降伏の太郎坊」ってそういう意味なんでしょうか。

 

「天狗」に堕ちる、あるいは「天狗道」という六道になぞらえた言い方もありますが、「天狗」が堕落したものである、という観念が結構定着しています(他の「天狗」もいるでしょうが)。

これが、キリスト教における「堕天使」の取り扱いと似ていたりします(「天狗」は仏法の敵なのですが、例えば「神の敵対者」と呼ばれる「サタン」とダブります)。

洋の東西を問わず、人間の考えることは似ているのかなぁ……とちょっと思ったり。

 

 

日本の霊山読み解き事典

日本の霊山読み解き事典

 

 

 

『日本の霊山読み解き事典』から、「愛宕山」の記事をちょっと引用してみましょう。

 

「中世になると神仏習合色が強まり、愛宕山を行場とする修験者や聖が現れたが、その一人に蔵算がいた。蔵算は、愛宕山から伯耆大山に行き、六年間にわたって修行を積み、伯耆大山で盛んであった地蔵信仰を愛宕山に持ち帰った。その結果、愛宕権現本地仏を勝軍地蔵とする説が生まれ、愛宕山本地垂迹説が完成した。そして、勝軍地蔵など五尊を祀る白雲寺が成立し、愛宕神社別当寺となった。白雲寺は、愛宕神社の祭礼に深く関与するとともに、天台宗の勝軍院長床坊・教学院尾崎坊・大善院上坊・威徳院西坊、真言宗の福寿院下坊の五つの院坊を擁した。
また、奥の院に著名な天狗である太郎坊など三座が祀られたのも中世のことで、浄瑠璃「あたごの本地」や祭文「愛宕地蔵之物語」などで天狗が活躍する物語が広く語られたのは、中世から近世にかけてのことであった。」(p410)

 

この事典には、赤神山の項目はありませんが、前回の最初の写真を見ていただければわかる通り、修行にはうってつけな感じですから、修験道も盛んだったでしょうし、それこそ「天狗」もたくさんいたのでしょう。

愛宕の「太郎坊」とは違う「太郎坊」がいたとしても不思議ではないのかもしれないです。

妖怪の勉強は、小松和彦氏とか多田克己氏にお任せしまして(?)。

 

杉谷善住坊は五十三家の侍也。娘を屋形義賢公へ出し妻となす。此腹に端三郎といふ子出生、之に依りて善住坊無二の忠を盡し、成願寺の峯に楯籠り、忍びて信長公をねらへども幸なければ空く過ぐる折節、千草越を尾張へ下り給ふと聞き、彼山中に忍び鐡砲を以て打つ、信長運強くはづる。杉谷深く隠れしが高島にて磯野丹波守、高島小川へ所替の節、堀川阿弥陀寺にて生捕られ生害す。」

 

↑『近江輿地志略』の中に、いきなり「戦国スナイパー」

 

戦国スナイパー 1 信長との遭遇篇 (講談社BOX)

戦国スナイパー 1 信長との遭遇篇 (講談社BOX)

 

 

が出てきたのでちょっと驚きましたが(あ、意味が違うのかな……すみません未読なもので)、「織田信長」を狙うために、どうやら赤神山に篭っていたようです。

 

……ところで、「成願寺」って今もあるんでしょうか。

グーグルマップで調べたら、普通にありました……これだから事前に調べないってのは……。

 

というわけで、今回の滋賀巡りはこれにて終了〜。
溜まりに溜まっている初詣の記事に……まだ突入できませんのです、はい……。