べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「太郎坊阿賀神社」(滋賀県東近江市)〜滋賀めぐり(再)

12/2。

近江神宮」で腹痛をなんとかねじ伏せ、時間があればいろいろと回ってみたかったのですが(「石山寺」とか)、「日吉大社」を堪能して時間を使ったので(そのわりに残念な写真ばかりでしたが)、裏メインとして目星をつけておいた「太郎坊阿賀神社」へ。

 

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勝運の神・太郎坊宮ホームページ | 勝利と幸福を授ける神様・太郎坊宮のホームページです

 

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麓の駐車場付近より。
紅葉が美しいのと、山のシルエットが見事な感じ。
岩山なんですね。
麓から石段で登ることもできるのですが、「軟弱者!」と某ロボットアニメのキャラにビンタされそうなおっさんなもので、山上の駐車場まで車で移動。
檀家さんか職員のかたか、年末に向けての準備を行なっている中、そそくさと。

 

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それでも階段は避けきれず。
紅葉を愛でながら参ります。

 

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社務所・参集殿の近くの狛犬さん。
御朱印は参拝後にいただくので、ここではスルー。

 

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……いい感じに登っていますね……。
紅葉が綺麗だからいいか……。

 

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あら、また狛犬さん発見。

 

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長楽殿。
……あれ、何か解説があったような気がしたんですが……。

 

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……60メートルか……大した距離ではないのに、登りだと言われると……。

 

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というわけで、無理やり紅葉に心を奪われてみました。

 

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永安殿。
うん、すみません、何のための建物なのか……。

 

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赤神山(御神体山)に登ることもできます。

 

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龍神舎。
ここからお山に登る……んじゃなかったかな……。

 

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拝殿へはまだまだ登ります。
途中でまたも狛犬さん。
まるまる。

 

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振り返ってみました。

 

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登ります。

 

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途中で「赤神山愛宕社」を発見。

 

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「赤神山稲荷社」もありました。

 

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「腰掛岩」は、「その昔「源義経」が鞍馬山を下りて奥羽に向う途中に源氏の再興を祈願した際に休息した岩」、のようです。
天狗がらみの話が多いのは、修験道系だから、でしょうか。

 

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夫婦岩」。
「磐境信仰発祥の地・近江高天原」と書かれています。
夫婦というよりは岩戸ですよね。

 

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夫婦岩」あたりからの眺望。
広大な平野であることがよくわかります。

 

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夫婦岩」近くにもにもお稲荷さんが。

 

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夫婦岩」前の鳥居扁額アップ。

 

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通り抜けてきた「夫婦岩」を振り返ってみました。

 

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東近江市指定天然記念物
太郎坊阿賀神社の夫婦岩

阿賀神社の鎮座する赤神山をはじめ湖東平野に散在する山々は、中生代白亜紀(およそ七千万年前)の火山活動でできたと考えられており「湖東カルデラ」と呼ばれている。これらの山々は「湖東流紋岩」と呼ばれる岩石で構成されており、湖東平野の特徴的な地形景観を形成している。火成岩は冷えて固まっていくときに収縮し「節理」と呼ばれる規則的な割れが生じる。この夫婦岩は節理に沿って割れ目が発達したものである。
昔からこの間を通って参拝する者には、即座に病苦を除き諸願成就するが、悪心ある者は岩に挟まれると言われてきた。節理が平行に見事にずれた形状は、まさしく言い伝えの「大神の神力を以て左右に押し開かれた」霊力を感じさせるものである。」

 

なるほど、そういったものでしたか。

 

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「日牟禮八幡宮」〜近江めぐり〜(再作成) - べにーのGinger Booker Club

 

そういえば、同じ湖東にある「日牟禮八幡宮」も岩山にあったなぁ……とふと思いました。

 

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再びの眺望。
うむ、登ってきた甲斐もある。

 

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やっとこ拝殿……御祭神は「正哉吾勝勝速日天之忍穂耳命」です。
天照大神」と「素盞嗚尊」の誓約(うけい)で生まれた五男神の第一神で、「瓊瓊杵尊」の父神です。
拝殿の中の写真はありません。

 

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三度の眺望。

 

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「お帰りは裏参道より、地主社・七福神・一願成就社・不動明王尊・絵馬殿」を経て駐車場へ行けます」とのお誘いですので、乗らないわけにはいかない、と。
腹痛が治って本当によかった。

 

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え〜……やめときゃよかったかな(でも、表参道も大して変わらないか)。

 

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摂社の「地主神社」。
地主神はどなただったんでしょう……あとで調べてみましょう。

 

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……あれ、どっちに行ったんだっけ。

 

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ここから、道々に「七福神」がお祭りされています。
こちら「布袋」様。

 

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裏参道の鳥居は石造り。
結構太陽が傾いているのが、色でお分かりかと。
冬はね……夕暮れが早いもので。

 

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「寿老人」。

 

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再び鳥居を振り返る。

 

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毘沙門天」。

 

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「弁財天」。
下の洞窟は、「一願成就社」での祈願と何か関係していたと思いますが……気になる人は調べてみてください。

 

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こちら「一願成就社」。

 

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天狗面。
やっぱり「太郎坊」というくらいですから、「愛宕山太郎坊」なんでしょうか。
左手奥に、お百度のための何かがあったような気がしないでもないです(いかん、記憶がどんどん……)。

 

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「一願成就社」を振り返ります。

 

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「恵比寿」様。

 

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「大黒」様と鳥居。

 

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「福禄寿」様。

 

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降りてきての眺望。
まだまだ高いです。

 

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結構降りました。

 

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まだまだ降ります。

 

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なぜか「福助」さん。
もうなんでもありですね。

 

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不動明王」より、手前の手水鉢の烏天狗が気になる……。

 

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神馬像。
いい天気でした。

 

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はい、というわけで社務所付近まで戻ってきましたよ。

 

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麓からガチで登る人の階段。
うーん、無理。

 

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最後の最後に石標を見る、という。

 

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御朱印。

下調べ無しで突っ込みましたので、実際のところどんな場所なのかはよくわかっていなかったりします。
なので、これから検索検索。

 

ちなみに、駐車場から出てきて幹線道路に戻る信号は、車両感知式なので、結構前まで出ないとなかなか青になりません(地元の方に教えていただきました)。


それでは次回は引用で〜す。

「近江神宮」(滋賀県大津市)〜滋賀巡り(再)

12/2。

日吉大社」を後にしまして、境外摂社である「唐崎神社」に向かったのですが、駐車場がなく、市営の駐車場を素通りしたため、やむなく近江神宮へ。

 

○こちら===>>>

oumijingu.org

 

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駐車場が結構奥のほうまで案内され、参道をまともに通らなかった……というわけで、駐車場から楼門へ向う途中。
何やらイベントが開催されていたようです。

 

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参道側を振り返っての鳥居。

 

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境内図。
いろいろと歌碑が置かれているのが特徴なのかしら。

 

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「由緒
御祭神 天智天皇 天命開別大神

御祭神は第三十八代の天皇であるが、はじめ中大兄皇子と申上げ、今を去る■千三百年の昔 大化改新の大業を■■ばされ、我が国古代に於ける■国の体制を確立せられ、雄大な建国の理想を■■■られた中興の英主であらせられる。
神界に坐しては、天命開別大神と称えられ、万物の運命開拓のことを司掌し給う宝位につかれ、吾等が運命の開■をはじめ、明治維新の大業も現■の■■■しい文化的飛躍もその冥助によるところとして敬慕して 「世直しの大神」「開運の大神」と信仰されている。
小倉百人一首の「秋の田」の御製で昔から国民に親しまれ「学問の神」「御恵の神」と崇められると共に御存世の時初めて漏刻台を置き、時刻を国民に開知せしめられた御事蹟により時計関係の祖神と仰がれている。
当神宮はその御聖徳を敬仰する県民■廣の請願が発端となり官幣大社として昭和十五年十一月七日御鎮座になり 爾来例祭は毎年四月廿日勅使御参向■■■に厳修されて今日に至る。」

 

……新しい由緒書なのにあんまり読めない、と。

「天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)」というのが、「天智天皇」の和風諡号ですので、神号はここからとったものと思われます。

 

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楼門への階段。

 

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紅葉が綺麗ですが逆光。

 

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楼門。
鮮やかです。

 

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いきなりですが、外拝殿から内拝殿方面を写しています。

 

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参拝順路。

 

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栖松遙拝殿(せいしょうようはいでん)。
公式HPから引用しますと、

 

「かつて高松宮家の邸内社・御霊殿として有栖川宮家以来の御霊を祀っていた建物が、高松宮家廃止にともない、平成18年近江神宮に移築されました。遙拝式はここで行われています。」

 

とのことです。
なるほど、現代宮家のものもある、というのはなかなか貴重ではないかと思います。

 

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栖松遙拝殿の入り口。

 

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外拝殿。
何やら工事が行われていたようです。
紅葉と、白地の石灰岩でしょうか、灯篭・狛犬も鮮やかな対比です。

 

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うん、違うな……白塗りされているだけかな。

 

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外拝殿奥に覗く紅葉がポイント。

 

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火時計。
古代中国で使われていたものらしく、龍の背に糸で玉を吊るし、龍の背にそって線香か何かを燃やし、玉の落ちる音で時刻を知った、というようなものらしいです。

 

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漏刻。
段々の部分を水が流れ落ち、最後の段の目印がどれだけ浮いてきたか、で時刻を知るものだったと思います。
境内には時計館、という展示施設がありますが、今回はスルー。

 

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外拝殿全景。
さすが神宮とつくだけはある、という立派な建築物です。
背景との調和も美しいです。

 

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戻ってきました。

御鎮座が昭和十五(1940)年なので、『近江輿地志略』なんかをたどるわけにはいかないので、『日本書紀』より。
天智紀十年四月の条です。

 

「夏四月の丁卯の朔辛卯に、漏剋を新しき台に置く。始めて候時を打つ。鐘鼓を動す。始めて漏剋を用ゐる。此の漏剋は、天皇の、皇太子に為す時に、始めて親ら製造れる所なりと、云々。」(岩波書店日本書紀(五))

 

また、斉明紀六年五月の条に、「天智天皇」(当時は「中大兄皇子」)が初めて漏刻を作った、という記事があります。
中央集権化を進めるにあたって整備するものは、度量衡、官僚制などいろいろありますが、人の動きを支配するという意味で「時」を明確にすることも、一つ重要な要素なのでしょう。

日本書紀』は、「天武天皇」の正当性を知らしめるために編纂されており、そのため「天智天皇」はどちらかといえば、不甲斐ない感じに描かれています。
とはいえ、滋賀県の人にとってみれば、都を開かれた偉大なお方だと思いますので、明治以後の、天皇を中心とした国家神道に呼応して、神社を建てたい、という気持ちはわかります。
天智天皇」と「大友皇子弘文天皇)」は、「天武天皇」方に滅ぼされているので、何なら怨霊になったっていいのですが、そういった記録を見た記憶がありません(あったらすいません)。
ということは、それほど無下には扱われなかった、ということなのでしょうか。
あるいは、「天武天皇」方に無謬の正当性があり、かつ臣民もそれを支持したので、怨霊化することもできず、放置されたのでしょうか。
実はこっそり「持統天皇」あたりが何かしているのかもしれません(「持統天皇」は、「天智天皇」の娘です)。

 

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御朱印。

 

 

本当はのんびり時計館なども回りたかったのですが、どこで何をやらかして祟られたのか、急な腹痛にしばらく苦しみまして……(コンビニで食べた何かがあたったか……)。
車の中で休んでいるうちに時間が過ぎていったので、いそいそと次の目的地に向かった次第です。
う〜ん、あっさりめ。

 

「日吉大社」(考)〜おまけ

さて。

とりあえず前回で妄想はすませているのですが、参考文献なぞを。

といっても、いくつもありませんが。

 

日本の神社 34号 (日吉大社・建部大社) [分冊百科]

日本の神社 34号 (日吉大社・建部大社) [分冊百科]

 

 

ディアゴスティーニから発刊されていた『日本の神社』シリーズ。

34巻が「日吉大社・建部大社」になっております。

神社の写真や絵図が豊富なので、思い出すのに役に立ちます。

 

「……比叡山では「山王は、天にあっては北斗七星、地にあっては山王七社で、七仏薬師の影現」といわれており、比叡山にほど近い日吉大社でも、北斗七星信仰にまつわる配置が見られます。上の七社の西本宮・東本宮・宇佐宮・牛尾宮・白山宮・樹下宮・三宮を、そんな思いでまわってみるのはいかがでしょうか。」

 

↑というガイドさんのお話が掲載されています。

私は、北斗七星信仰と言われると、すぐに「平将門」が浮かんでしまうもので……。

 

 

日吉大社と山王権現

日吉大社と山王権現

 

 

続いて、アマゾンで検索するとこれしか出てこない、というくらいの『日吉大社山王権現』(嵯峨井建、1992年、人文書院)。

古本で買いました。

内容はかなり専門的ですが、比叡山焼き討ちから再興までの流れと、その功労者祝部行丸について詳しく書かれています。

 

「……それではこうした流れの中で、『古事記』にいう「近つ淡海国日枝の山に坐す神・大山咋神」のうしはき坐す神地に、異国の神・十一面観音を受容した基盤は何であったろうか。私はその事由を神宮寺の立地と環境の内に求めたい。すなわち日吉信仰の基本因子の一つをなす水分神的性格である。山岳重畳する比叡の山合より、流れる大宮川・小谷川は八王子山の裾をめぐり、ゆるやかな段丘平野を細かな支流でうるおしつつ琵琶湖に流れ注ぐ。この山麓に定住する古代の人々にとって、この水系を中心とした自然の恵みは、生活の糧であった。こうした自然の恵みへの感謝を、宗教的心意として日々仰ぐ秀麗な八王子山に集約せしめたのが、日吉信仰の発生であり、また十一面観音の受容の基礎である。十一面観音と水との関わりは、東大寺二月堂のお水取で代表されるように、従来から指摘されるところである。水の恵みを中心とした農耕が営まれ、こうした村落共同体の神として日吉社が成立し、かかる神山・八王子山の奥ふかくに異国の神をまつるとすれば、咒術性の強い変化観音のうち、水神ひいては農耕神と関連ぶかい十一面観音をおいて他にないと考えられる。山上の八王子社内で三月十五日行われる牛神楽は、山麓の人々にとって春のことぶれを告げる農耕神事であり、水神信仰が牛によって耕作される広義の農耕神に転化をみせた、その名残とみられよう。また樹下宮の御霊代直下に霊泉を秘めていることも、有力な一例とすることができる。」(p132)

 

 

これは、かつてあった神宮寺の本尊「十一面観音」に関する考察です。

本地垂迹説から遡って、古代の信仰の様子を考えると、こんな感じになるのかもしれないです。

 

 

中世神話 (岩波新書)

中世神話 (岩波新書)

 

 

最後に、『中世神話』(山本ひろ子、1998年、岩波書店)。

中世神話、という概念については本書を当たっていただくとして、

 

「……大宮権現は、天智天皇の御代に大和国から来臨した三輪明神であった。神の鎮座譚は、しばしば、その神の奉斎者の始祖伝承と絡んで語られる。右の縁起では、神の感得者・琴御館宇志丸は、日吉社社司家の始祖となるのである。
山王神道は、この大宮権現(山王)を、法華の教主=釈迦如来垂迹とみなし、「法宿菩薩」という法号を与えている。一方、二宮の本地は薬師如来で、法号は「華台菩薩」と称する。神仏習合の中世では、これは日吉社サイドも受容するところであった。
(略)
釈迦が大宮権現(山王)としてこの世に化現したのは、釈迦が入滅の際に発した本誓によるとして、本地(釈迦)ー垂迹(山王)関係を根拠づけているのである。またここには、機根の衰えた末世の衆生を救済するのは、仏菩薩よりむしろ神であるという信仰機制が認められよう。
さて大宮縁起は、三輪からやってきた神が鎮座地を求めて旅をし、感得者に遭遇し、卜定された勝地に鎮まると語られていた。大宮権現は、ほかの土地からやってきた賓客なのだ。とすればここから、先住していた地主神=二宮(小比叡明神)との関係が問われてこよう。」(p124)

「……ところで地主権現と呼ばれはするが、二宮は、世界の初まりの時から叡山の小比叡に止住していたわけではない。津島の牛頭天王がそうであったように、実は二宮も来臨した神であった。」(p126)

 

 

なんて辺りを引用してみます。

地主神、というのは古くからその地方を支配していた氏族の主神なのですが、輪廻転生を唱える仏教的には、始原(世界の始まり)からそんなものにいていただくのは困るわけです(聖書原理主義者が、進化論を認めない、みたいな話です)。

ですから、たいていの神様は、その前世に仏教の仏を持ってきて、仏教の古さ、偉大さを唱えつつ、地主神としてのプライドもまあある程度保つ、という欺瞞に満ちた工作がなされているわけです。

ですので、「東本宮(二宮)」の「大山咋神」を「薬師如来」の垂迹だ、とすること自体には、それほどの意味があるとは思えません(日本で薬の神といえば「少彦名神」と、一緒に国土を建てた「大国主神」もそう呼ばれますかね……ですから、屁理屈をつけたいのであれば、これらの神々の本地を「薬師如来」とするような気がしますが、「大山咋神」は今ひとつ御神威のわからない神で、どうして「薬師如来」とリンクしたのか……まあ、本地垂跡説なんでそんなもんですが)。

ここで引っかかったのは、

 

「実は二宮も来臨した神であった」

 

の部分ですね。

どんな地主神だって、突き詰めればどこかから「来臨」しているのですが、こうした本地垂跡の神話が生まれる背景として、「そもそも、「東本宮」も地主神ではない」という伝承があったとしたら、いかがでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

信じるか信じないかはピョン……。

 

 

 

というわけで、「日吉大社」シリーズは今回で終了〜。

近江旅の続きに戻ります……がすでに4月とな……。

「日吉大社」(考)〜その8

さて。

前回の系譜を、自作してみました。

わかりづらいですが……何となく、こんな感じです(「大己貴神」は、一応「素盞嗚尊」の末裔だと考えておきました)。

 

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それはともかく。

日本の神話には様々な神様が登場され、それらが複数の名前を持っていることがあります。

元々、それらの神々は、氏族単位(血縁関係にあるか、ある一定の土地で共同体を作っているか、程度のものとお考えください)で信仰されていたものが多かったと思われます。

で、神の名前が複数ある理由を説明するのに、

 

(1)元々は一つの神格だったのに、何らかの理由でいくつもの名前で伝わることになってしまった

(2)元々は別々の神格だったが、何らかの理由で一つの名前で伝わることになってしまった

 

という二つの説が用いられることが多いでしょう。

(1)は、信仰が伝播していく段階で、その土地に根付いてしまうことで、本来の神格が失われ、土地のものとなった、ということが一つ。

神々に個別性の高い名前がつくようになるには、ある程度文化的な素地が必要なので、ムラやクニと呼ばれる集団が形成される頃のことなのかもしれません。

また、いわゆる<神社伝承学>などで(1)が用いられる場合には、いろいろな神を(現代において)習合させて、面白説やトンデモ説に結びつけることが多いかと思います。

これはこれで、真実の側面もあるのでしょうが、多用すると危険な技なので注意しましょう(?)。


(2)のほうは了解しやすいのではないかと思います。

「A」という神を信じる人たちと、「B」という神を信じる人たちがいて、彼らが一つの氏族集団を形成した場合、「A」を主な神とするか、「B」を主な神とするか、いっそのこと「C」という新しい名前の神を作り出すか、といった感じでしょうか。

歴史学的にも民俗学的にも、↑の話は超乱暴ですので勘弁願いたいですが、そうですね……西洋だと、ケルト神話とかゲルマン神話の神々が、似ている神格だからということでギリシャ神話の神々の名前で記録されてしまうことが結構あります(記録する側の都合なので、ということは大抵ローマ帝国文化のせいなのですが)ので、そんなイメージかな、と。

日本神話で一番名前を持っているのが「大国主神」、記紀神話で公式に「7つの名前を持つ神」ということになっています(『古事記』と『日本書紀』で扱いが違います)。

これは、その7つの名前を持つ神々がそれぞれにいて、それがどんな理由でかはわかりませんがきゅっと集められて、結果一柱の神、ということになったものだと考えられます(先にも書きましたが、もっぱら記録する側の都合、というのが大きかったと思いますので、『古事記』『日本書紀』の編纂者たち、あるいはそれ以前から存在していたとされる『旧辞』『帝紀』、各氏族の独自の伝承、などが残されるにあたってそうなったものかと)。

別の神ではないか、というのを端的に示すのが、「大己貴神」と「大物主神」の関係です。

なにせ『日本書紀』の国譲りの段の一書では、別の神として堂々と登場しちゃいますから。

 

と、いうようなことから考えて、前回の、

 

大山咋神」≠「山末之大主神」、

 

という話です。

大山咋神」と「山末之大主神」が同じ神である、という認識が強ければ、後世に「日吉大社」の二十一社について説明するための後付けの理屈だとしても、「山末之大主神」の「荒魂」だけを独自に祀る必要性はないと思うのです。

元々別の神格だという認識があり、そのため(人間側の)必要に応じて、様々な名前を使い分けているのではないか。

基本的に、「山末之大主神」が、元々の日枝の辺りの地主神だった……あるいは、八王子山に限定するべきでしょうか。

そこに、「大山咋神」(を戴く氏族)がやってきて、一帯を支配するに至った。

「山末之大主神」の「荒魂」だけを、改めて祀っているのは、おそらくあまり穏やかな形での支配権移行ではなかったのでしょう。

ともかく、「大山咋神」(とその妻神)は、八王子山の「金大巌」を依代として降り立った、ということになった、と。

さらに時代が下ると、その「大山咋神」(とその妻神)も、山の支配権を奪われることになったのか、あるいは一応は素直に恭順したのか。

大山咋神」(とその妻神)の「荒魂」は、そのまま「金大巌」に残され、里宮としての「東本宮」(「小比叡」)一帯が整備された。

「荒魂」を別にお祀りするのには様々な意味があると思いますが、一つには、「祟り」を分離させる機能があるのではないか。

本来、不可分であり、その表象の差異だったはずの「和魂」「荒魂」(加えての「幸魂」「奇魂」)は、分離できるようになっていたのですね、いつの間にか。

古事記』『日本書紀』成立の頃にはそういった解釈がなされています。

これを、日本古来からの独自のものと考えるのか、大陸由来の陰陽思想などに根元を見るのか、これまた一つには決められませんが。

とりあえず、仏教側にはうってつけ、な感じがしますよね。

仏の輪身(如来、菩薩、明王が一つの仏なんだよ〜的な考え方)、あるいは本地垂跡のきっかけは、この辺りにあったりするのかもしれないです(だから、本地垂跡なんていうなかなか突拍子もない考え方も受け入れられやすかったのかも)。

神格から「荒魂」だけ取り出したら、残るのは理論的には「和魂」になるはずなんですが、「大山咋神」(とその妻神)にはそこまでの説明はない、と……いえ、そういった説もあったようですが、まあそんなこといちいち言わんでもわかるだろう、くらいのノリかもしれません。

「祟る」系の「荒魂」は、今も「金大巌」に鎮座ましましておられるのです。

で、多分どこかの段階では、この「大山咋神」(とその妻神)の一党が、「牛頭天王」と習合したんでしょうかね……いえ、「八王子山」っていう呼称がどの程度古いのかわかりませんが、「八王子」ったら「牛頭天王」ですから(?)。

だから「牛尾宮」なのかと。

この辺りはもう、さっぱりわかりません。

 

地主神を祀っているくらいですので、「東本宮」のほうが歴史的には古いようなのですが、実際に周辺に社が整備されたのがいつなのかは不明です。

整備している人たちに、賀茂氏系の人たちがいたことは確かなようですが(宇志麻呂さんも、そうではないか、と伝わっているようですし)。

「素盞嗚尊」→「大年神」→「大山咋神」という、国津神の系譜に、「八咫烏」として「神武天皇」東征を導いた「鴨建角身命」の系譜が接続されているのは、記紀神話的にも公式なものなので、あんまり文句をつけても仕方ないところです。

で、昔の呼び方で、「鴨建角身命」を祀る「氏神神社」は「山末社」だったのですが、だからといってこちらが短絡的に「山末之大主神」だったのかというと……あれ、別にそれでもいいのか……いや、どうなんだろう。

神話の世界の話なので何とも、ですが、賀茂氏は今の京都(山城)辺りに勢力を展開していたようなので、比叡山辺りも抑えていたのかもしれないですね。

だからこそ、「神武天皇」が最初に入れなかった大和への誘導ができたのかも。

そうすると、「鴨建角身命」の本拠地の一つを、「大山咋神」が奪い取ってしまった、ということになりますか……うーん、そりゃ「鴨建角身命」も祟る気がしますね。

で、結果、娘は「大山咋神」と結婚しちゃうと……それがそろって「荒魂」として祀られているのもちょっと不気味な感じがします……その御子神(「鴨別雷神」)はどこか飛んでいっちゃいますし、何か踏んだり蹴ったりな感じがします。

まあ、その後に都となる山城は依然として賀茂氏勢力下だったと考えれば、案外その祟りも弱かったのかもしれません。

 

で、「西本宮」です。

こちら、基本的には「天智天皇」の御代、近江遷都に前後して、やってきた神様が祀られていると考えられています。

 

○こちら===>>>

「三井寺」(補) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「三井寺」の記事でも触れましたが、この近江遷都、なかなかに人気がなかったようです(が、書かれているのが『日本書紀』であることを考えると、表面上は「天智天皇」の持ち上げつつも、「天武天皇」をさらに持ち上げるために書かれている部分が大きいともされますので、少なくとも『日本書紀』編纂者の頭にはそうした記事を入れておきたい願望や正当性があったもの、と思われます)。

 

 

 

吉野裕子氏の『日本古代呪術』には、この近江遷都を呪術的に考察した説が掲載されており、非常に面白いのですが、妄想するには専門的すぎて私にはついていけません。

ですのでここは「日吉大社」の伝承に従って、「西本宮」には「三輪山の神」を勧請した、ということにしましょう。

それは当然のことながら、「大物主神」のはずなのですが、誰が勧請したのかというと、「天智天皇」自身だったのではないか。

大和の地主神としての「大物主神」の祟りの力は絶大で、それをうまいこと収めたからこそ、大和には都が長く存続することになったわけです。

その力、さすがに「天智天皇」の御代には薄らいでいたものと思われますが、朝廷内でも劣勢に立たされていた「天智天皇」が勢力挽回するための奇策が近江遷都で、その正当性を認めさせるためにも、「大物主神」ごと遷都しようとした、と。

で、実際に遷宮しちゃった。

分霊を勧請、というよりは、まるっと遷宮しちゃった、くらいの勢いだったのではないでしょうか。

その先が、「日吉大社」の「西本宮」だった。

それを受け入れるだけの余地が「日吉大社」(当時は、「大山咋神」を祀っている地主のお宮でしょうか)にあったのか、というとこれがあったりするわけです。

何しろ「大山咋神」、出自は「素盞嗚尊」系ではありますが、おそらく蛇神であり、雷神でもあります。

山城国風土記逸文」でも書かれているように、「丹塗矢」神話の主神であり、「大物主神」と属性が非常に似ています。

ひょっとすると、「大山咋神」と「大物主神」は、古代には同じ神だったのかもしれません(というくらい似ているのです)。

そうしますと、日枝の辺りの賀茂氏系氏族は「天智天皇」の味方になるかもしれないですし、遷都前後に百済からの亡命者を近江近辺に住まわせていたりして、「天智天皇」としては自分の政権の足場固めをしているようにも思われます。

 

ところが、「天智天皇」とその皇子「大友皇子(「弘文天皇」)」側は、「天武天皇」方に敗北します。

歴史は勝者が作るものですが、「天智天皇」の業績を無しにできるほど朝廷は歴史を軽んじることができない時期にあったと思われます(文化水準が上がった、と言えばいいのか)。

しかし、「天武天皇」的には、「天智天皇」をそこはかとなく貶めたいし、自分の正当性は主張したい。

そのためには、「大物主神」にそのまま日枝にいていただいては困るわけです。

なぜなら、ちょっと忘れがちになるのですが、「大物主神」と「勢夜陀多良比売」の間に生まれた「比売多多良伊須気余理比売命」は、他ならぬ「神武天皇」の皇后なのです(という神話を、朝廷はせっせと作ってきたわけです)。

大物主神」の神威がどの程度残っていたのかはともかく、初代天皇の皇后の父神がそのまま近江にいらっしゃったのでは、後々禍根を残すことになりかねない。

で、「天武天皇」、ふと考えを巡らせて……

 

「あれ、そういえば「大物主神」と「大己貴神」って、おんなじだよってことになってなかったっけ?」

 

……と思い出しました(ピキーン!)。

というわけで、「大物主神」じゃなくて「大己貴神」なんだよ近江にいるのは、とやってしまった。

もちろん「大物主神」には、いそいそと三輪山にお戻りいただく。

一方で、「天智天皇」に味方した(しようとした)賀茂氏系の氏族に対する手当を忘れては、今度は山城国一帯を敵に回しかねない。

そこでですね、「大物主神」ではなく、「大己貴神」を「西本宮」にすえた、もう一つの理由です。

冒頭の、自作の見づらい系譜を見ていただくと、「大己貴神」と「田心姫神」の間に生まれた「下照姫神」が書かれているのですが、もう一柱御子神がおられまして、「阿遅志貴高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)」とおっしゃいます。

記紀神話では結構面白い役割を果たす方なのですが(以前、入れ替わりトリックを考えたことがあります

 

○こちら===>>>

「鷲宮神社」(続)〜関東巡り〜 - べにーのGinger Booker Club

 

)、なぜか日枝の二十一社には入っていない……で、ここに系譜の工作があるのではないか、と思ったのです。

 

大山咋神」と「鴨玉依姫神」の間に生まれた「鴨別雷神」。

実は、この方と「阿遅志貴高日子根神」が同じ神格なのではないか、というか「天武天皇」がそういう系譜作りを賀茂氏に許したのではないか(ただし、賀茂氏側では「阿遅志貴高日子根神」の名前は出さないように、とかいう条件付きで)。

古事記』には、「阿遅志貴高日子根神」は「迦毛大御神(かものおおみかみ)」と紹介されています(「出雲国造神賀詞」でも、「阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ」とあります)。

「鴨別雷神」も「阿遅志貴高日子根神」も雷神です。

「鴨別雷神」は父の元へ行けと言われて飛んで行っちゃいましたし、「阿遅志貴高日子根神」は友人「天稚彦」の葬式に出たのにそっくりすぎて間違われて怒って喪屋を切り倒して飛んで行っちゃいましたし。

「鴨別雷神」=「阿遅志貴高日子根神」……これを賀茂氏に許可することで、「天武天皇」としては賀茂氏をある程度取り込みたかったのかもしれません。

ところが賀茂氏、これじゃ不足だとばかりに、もう一つ手を打ってきます。

古事記』の崇神天皇条、例の「大物主神」が盛大に祟りまくってですね、「意富多多泥古(おおたたねこ)」という自分の子孫に祀らせれば祟りをおさめるぞの場面。

この時の「大物主神」は、「丹塗矢」に化けたりはしていないのですが、妻の名前は「活玉依毘賣」、その子孫(子供)の「意富多多泥古」は「鴨君の祖」とばっちこいで『古事記』に書かれています。

表向き、「大物主神」の「丹塗矢」神話で「神武天皇」の血統に結びつくことはかないませんでしたが、実際にはこれこの通り、大和地方の祭祀一族につながることができていますし、祖先の片方は「素盞嗚尊」、もう片方で「八咫烏」、と朝廷的には功績抜群な氏族として歴史に名を残すことに成功したわけです。

 

……。

…………。

………………。

 

と、ここまで妄想してきて、『古事記』の「意富多多泥古」の記述で見落としていた部分があるのに気がつきました。
「鴨君の祖」はいいんですが、「神君(みわのきみ)の祖」とも書かれている、と。

 

いえ、「大物主神」の血統ですから、「三輪」氏族の祖であっても何も間違いではないんですが、何か忘れてるな……と慌てて『日本書紀』を探ってみますとですね。

天武紀の元年六月の条に、

 

「……是の時に、三輪君高市麻呂・鴨君蝦夷等、及び群の豪傑しき者、響の如く悉に将軍の麾下に会ひぬ。乃ち近江を襲はむことを規る。」(岩波書店日本書紀(五)』p90)

 

とありました。

ええと……つまりこれは、「壬申の乱」において、賀茂氏族は三輪氏族とともに、「天武天皇」方についていた、ということですね。

そうすると、今までの妄想が全部おじゃん……いえいえ、むしろその方がわかりやすいのかと。

近江朝についていた賀茂氏族を取り込むため、というよりは、「壬申の乱」での功績を讃えての系譜作成の許可だったのではないか。

元々、賀茂氏族が三輪氏族と祖先を同じにしているとしたら、「丹塗矢」神話を同様に持っているのもうなずけますし。

そうではなく、この段階で血統をより集めたのだとすると、三輪氏族としては「大物主神」の御神威を譲り渡すわけにはいかないとしても、それを「大己貴神」とダブらせることでよしとしたのかもしれないですし、賀茂氏族的にも「わかる人にはわかる」から手を打ったのかもしれません。

流れを見直してみると、

 

(1)「天智天皇」が近江に遷都するにあたり、その御神威を被りたかったために、「大物主神」の遷座も求めた。
(2)しかし、「壬申の乱」で、「大物主神」の奉斎氏族である三輪氏族は、「天武天皇」方につく。
(3)同じく、元々は大和の葛木にあって、勢力を山城に伸ばしていた(「風土記逸文」より)と思われる賀茂氏族も、「天智天皇」に協力したかに見えたが、結局「天武天皇」方につく。
(4)結果、賀茂氏族は、三輪氏族と同様に、有力な氏族と見なされて、記紀神話に名前を残すこととなった。

 

といった感じでしょうか。

こうなってくると、「鴨別雷神」はやっぱり「阿遅志貴高日子根神」なんじゃないでしょうか。

賀茂氏族系の伝承では「丹塗矢」神話で生まれていますが、大和朝廷としては、そこは譲れない(あるいは、三輪氏族が譲らなかったのかもしれないです)。

そこで、「大己貴神」を持ち出してきて、その御子神の「阿遅志貴高日子根神」という神格を作り出し、朝廷としてはこっちを認めるけど、まあわかる人にはわかるだろうし尊重するよ、的な手打ちになる。

その背後に透けるのは、「天稚彦」の存在……以前「阿遅志貴高日子根神」」と「天稚彦」の入れ替わりトリック、あるいは一人二役トリックを妄想したのですが、もし「天稚彦」=「阿遅志貴高日子根神」が成立するとなると、これまた面白いことにですね、「天稚彦」は「天津國玉神」の御子神ということになっているのですね。

それ以外に登場しない、よくわからない神なのですが、明らかに天津神系だと思われます(あるいは、思わせたい)。

大国主神」の別称「顕國玉神」との対比にも何かありそうですが、ここで重要なのは「天稚彦」が天津神系であることが明らかで、ということは同じく天津神直系(であるはず)の神武天皇」に匹敵する存在だ、ということです。

実際、天津神の子孫の神器である「天之波波矢」を所持していましたから(ちなみに、物部氏族の祖先である「饒速日」も持ってました)。

天稚彦」の葬儀の場面では、たくさん鳥が出てくるのですが、そこにはもちろん「鴨」はいません。

が、賀茂氏族の祖で、「迦毛大御神」と呼ばれる「阿遅志貴高日子根神」が、「天稚彦」のそっくりさんとして登場します。

この神話が、賀茂氏族が天津神系だったといいたいのかどうか、はおいておいて、「神武天皇」同様にその資格がある、つまり「大物主神」の「丹塗矢」神話の結果生まれた神だとしても不思議ではなく、大和朝廷皇統譜にも入り込む余地があるのだ、という意味だとすると。

このいくつにも重なり合った状況をざっと見てみると、

 

・「大山咋神」=「大己貴神」=「大物主神」(=「天津國玉神」)
・「鴨玉依姫神」=「田心姫神」=「勢夜陀多良比売」(=「活玉依毘賣」)
・「鴨別雷神」=「阿遅志貴高日子根神」=「天稚彦

 

てなことに……何か、我ながら収集がつきませんな……。

そろそろやめるか……あ、そうでした、例の、『日本書紀』天智紀五年の、

 

「是の冬に、京都の鼠、近江に向きて移る」

 

ってやつですが、これ、後から「鼠」にしたんじゃないのかな、と思います。

吉野裕子氏のように呪術的な意味があるかどうかわかりませんが、「天智天皇」が近江に呼びたかったのが「大物主神」だとしたら、ここはやっぱり「蛇(巳)」じゃないといけないと思うんですよね。

で、三輪山の神が移ってきた、という伝承が日枝にあるから「大物主神」でいいんじゃないの、と思われるでしょうが、大和朝廷的には表面上「大己貴神」に移っていただかないと具合が悪い。

だから、「鼠(子)」なんですよね……ほら、「大己貴神」=「大国主神」だとしたら、「鼠」じゃないですか。

ただ、実際には、一時的にしろ「大物主神」が遷座されたために、天智紀六年条の、

 

「三月の辛酉の朔己卯に、都を近江に遷す。是の時に、天下の百姓、都遷すことを願はずして、諷へ諫く者多し。童謡亦衆し。日日夜夜、失火の処多し。」

 

となった……つまり祟ったわけですね(どの時代までかはわかりませんが、火事というのは、古代において雷の神の属性でもあります)。

梁塵秘抄』の「四句神歌」のなかには、

 

「東の山王恐ろしや、二宮客人の行事の高の王子、十禅師山長石動の三宮、峯には八王子ぞ恐ろしき。」(岩波文庫版『梁塵秘抄』p49)

 

とあります。

基本的にみんな恐ろしや、ということになっているのですが、一番恐ろしいのはどなたなのか……ちょっと忘れがちですが、「山末之大主神」が元々の地主神で、賀茂氏族に土地を奪われたとしたら、かなり祟っている……と思います。

でも、そのあとに、古代最強の祟り神「大物主神」がやってきちゃったから、もう何だかなぁ……とぼやいているのかもしれません。

 

 

 

 

と、いうような妄想を、「最澄」以下比叡山を手中に収めた天台宗が生み出して、二十一社を整備していったのではないか、という妄想でした。

いや長かった……書きながら、確認しながら、妄想するものですから、最初に見えていた結論がどんどん遠ざかっていくという……。

ひとまず妄想はこんなところで〜。

「日吉大社」(考)〜その7

さてはて最果て。

とりあえず、妄想はあまり浮かびませんが、「二十一社」というのを系譜的に並べ替えてみようかな、と思います。

いやいや、日吉といえば百八社あったらしい、ということを考えると、日本神話の神様はほとんど祀られているのではないか、という気もしますが……そこまで付け加えられちゃうと妄想する気も失せますので。

古事記』と『日本書紀』、あるいは他の文献などで扱いが異なる場合もありますが、概観する程度、で。

「二十一社」の御祭神は、wikipedia参照、ということにします(ので、当然異論噴出なわけですが、そこは妄想ということで)。

 

○素盞嗚尊(早尾神社)【早尾】 


五男三女神(八柱社)【下八王子】

 

いきなり難題ですね……何しろ「天照大神」との誓約(うけい)で生まれた神々のこと、のはずなので、どんな理由で二十一社に加えられたのか……というかですね、三女神のほうは「宗像三女神」なので、他にお祀りされているわけです。

やはり、「八柱社」の御祭神を「五男三女神」と考えるのはちょっといかがなものか、と思います。

 

○素盞嗚尊(早尾神社)【早尾】

大年神大物忌神社)【大行事】

 

大年神」は、「素盞嗚尊」と「神大市比売命」の間に生まれています(兄弟神に「宇迦之御魂神」がいらっしゃいます)。

 

大年神大物忌神社)【大行事】


○天知迦流水姫神(新物忌神社)【新行事】

 

大年神」と「天知迦流水姫神」は夫婦神です。
その間に生まれたのが、

 

○奥津彦神・奥津姫神(竈殿社)【大宮竈殿・二宮竈殿】

大山咋神(東本宮)【二宮(小比叡)】

 

です。

 

大山咋神(東本宮)【二宮(小比叡)】

○鴨玉依姫神(樹下神社)【十禅師】

 

大山咋神」と「鴨玉依姫神」は夫婦神です。

 

○鴨別雷神(産屋神社)【王子】

 

「鴨別雷神」は、「大山咋神」と「鴨玉依姫神」の御子神
一方で、

 

鴨建角身命氏神神社)【山末】

○玉依彦神(樹下若宮)【小禅師】
○鴨玉依姫神(樹下神社)【十禅師】

 

鴨建角身命」は「玉依彦神」「鴨玉依姫神」の父神ということになります(ここでの「玉依彦神」が、本当に「鴨建角身命」の御子神かどうか、はちょっと怪しいですが)。

この辺りは、「風土記逸文」や賀茂氏系の伝承のようなので、記紀神話とは区別するべきものかもしれません。

次は、

 

大己貴神(西本宮)【大宮(大比叡)】


田心姫神(宇佐宮)【聖真子】

 

大己貴神」と「田心姫神」には、夫婦神という伝承があり、その御子神に、

 

下照姫神(宇佐若宮)【聖女】

 

がいらっしゃいます。
また、先にもあげましたが、

 

田心姫神(宇佐宮)【聖真子】
市杵島姫命・湍津島姫命(巌滝社)【岩滝】

 

この三柱で「宗像三女神」です。
ええと、これで二十一社のうち、あげていないのは……

 

大山咋神荒魂(牛尾神社)【八王子】
○白山姫神(白山姫神社)【客人】
○鴨玉依姫神荒魂(三宮神社)【三宮】
○山末之大主神荒魂(牛御子社)【牛御子】
○瓊々杵命(剣宮社)【剣宮】
仲哀天皇(気比社)【気比】

 

以上でしょうか。
このうち、

 

○瓊々杵命(剣宮社)【剣宮】
仲哀天皇(気比社)【気比】

 

この辺りはかなり新しく勧請されたのではないか、と思います(し、元々の御祭神は別の神だったのかもしれません。「気比」と呼ばれている場合には「気比神宮」の御祭神「伊奢沙別命」が想起されますし、「剣宮」というだけであれば日本神話にいくつか登場する武神なのかもしれませんし)。

 

○白山姫神(白山姫神社)【客人】

 

こちらは、旧社名もあからさまに、他の地域から勧請した方なので、やはり新しめなのではないかと(なお、江戸時代の被差別民と「白山神社」には関係があるらしいので、そちら方面からのアプローチもありかもしれないです)。

 

大山咋神荒魂(牛尾神社)【八王子】
○鴨玉依姫神荒魂(三宮神社)【三宮】

 

ここは悩みそうになりますが、そもそも八王子山の「金大巌」と関係しているようなので、元々の地主神(夫婦神だったかどうかはともかく)で、それらが「大山咋神」などと呼ばれるようになってから、「荒魂」ということにしたのではないか、と思います。

 

○山末之大主神荒魂(牛御子社)【牛御子】

 

で、いちばん悩むのがこちらなんですけどもね……「大山咋神」は別名を「山末之大主神」、あるいは「鳴鏑神」ですから、元々は別の神格だったものが習合したと解釈すれば、「山末之大主神」の「荒魂」というのもわからないではないですが……習合したあとに、わざわざその一つをまた分けて、しかも「荒魂」だけ祀る、というのがよくわかりません。
古事記』の書き方は、

 

「……次に大山咋神。亦の名は山末之大主神。この神は近つ淡海國の日枝の山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ。」(岩波文庫版『古事記』より)

 

 

です。
大年神」の御子神の中では記述が多いので、何かしら特別視する理由があったと思われます。
で、この記事を素直に読めば、「この神は近つ淡海國の日枝の山に坐し」という部分は、「大山咋神」にかかるわけですが、もしこれが直前の「山末之大主神」にかかっているとしたらどうでしょう……つまり、もともとの比叡山の地主神は「山末之大主神」で、その後に「大山咋神」がやってきた、と。
だからこそ、「牛御子社」では、「山末之大主神荒魂」をお祀りしているのです。
祟られちゃうので。

 

……ん?
ということは、「松尾大社」にいらっしゃる「鳴鏑神」(御祭神は、公式には「大山咋神」と「市杵島姫命」となっているようです)も、「大山咋神」ではなく、「山末之大主神」だったりするのでしょうか?
あるいは、松尾の神も、「大山咋神」、「山末之大主神」とは別の神だったりするのでしょうか?
うーむ……混乱してきました(これぞ妄想)。
次回、もうちょっと妄想を燃やしてみようと思います。

近況再び

相変わらず本記事は進んでおりませんが。

4/11。

よんどころない事情により休暇をとりまして(いえ、重要な用事はありませんでしたが)、市内をぶらぶらしておりましたので。

まだ本記事では書いていないのですが、名古屋市大須にある「三輪神社」にご参拝。

 

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いきなり境内社のお稲荷様のお狐様ですが。

雨に濡れて、ちょっと潤い。

 

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ひっそり恵比寿大黒。

 

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春雨の中の花見、でした。

 

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二枚目が、四月限定御朱印。

お狐様もいらっしゃいます。

 

続いて、ぶらぶらしていてたどり着いたのが「城山八幡宮

 

◯こちら===>>>

「城山八幡宮(しろやまはちまんぐう)」 - べにーのGinger Booker Club

 

四年前か……最近参拝していなかったな、と思いまして。

 

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昭和塾堂は、結構屋根が剥落していました。

何とか修復できないものでしょうか……。

 

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御朱印、増えていました……えらくポップな感じのものまで。

 

それから、近くまで来たので、花見の名所である平和公園へ。

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記事を書いている今日(4/12)はよく晴れて……12時間くらいずれていれば、という感じでした。

見事な満開ではありましたが。

 

そして、普段はほぼ近づかない、名古屋城に。

といっても、城内は閉館間近でしたので、外からだけですが。

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一眼レフがほしいな、とちょっと思いました。

 

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よんどころない用事が名古屋駅でしたので、夜景なぞを。

カメラアプリのシャッター速度を遅くしてみたのですが、案外うまくいった感じ。

簡易スタンドでじたばたする様は、おそらく怪しげだったと思います……。

 

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帰り際に通りすがった公園で、夜桜。

 

完全に、有給休暇を取る日を間違えた……のですが、よんどころない事情に合わせてだったので、致し方ありますまい……。

朝から晴れていたら、岡崎か近江辺りに行きたかったです。

 

みなさま、今年のお花見はどうだったでしょうか。

例年に比べて、咲き残っているところも多いのではないかと思います。

週末までは天気がよいようなので、ぶらっと近所の夜桜を愛でてみてください。

 

次回は、本記事に戻れますように……。

 

「日吉大社」(考)〜その6

さて。
ちょっと妄想の燃料が足りないので、ぶらぶらと検索をしていると、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 史料通信叢誌. 第9編

 

↑『史料通信叢誌』というシリーズの第9編に収録されている『日吉社禰宜口傳抄』という書物を発見。
こちらからも引用してみようと思います(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える/返り点は省略)。
159コマです。

 

「日吉 比叡 稗衣 日枝
上代日吉神申者。今八王子社也。此岑在比叡山東尾。又曰牛尾。又曰弁天槌。其五百津石村者。山末之大主神之陵也。世人曰牛尊。山末之大主神者。又ノ名大山咋神。又曰鳴鏑大神。其妻鴨玉依姫神相殿云云。神宮寺御蔭大巌者。鴨玉依姫之陵也。又曰鴨玉依姫之陵者。在比叡山西日尾之前。今御蔭社云々。神宮寺御蔭大巌者。降臨之地云々。別雷神昇天之時。丹塗箭鳴動飛去。在比叡社。其後飛去。在乙訓社。又飛去在松尾社。今猶現在。云々。」

 

もともとの「日吉の神」は、今の「八王子社」ということは「牛尾宮」ですね。

八王子山の山頂で、いろいろと呼び方があり、ついでに「山末之大主神」の陵がそこにある、と。

今もある、「金大巌」のことでしょう。

世人は「牛尊」と呼んでいたらしいですが、「大山咋神」にしろ「山末之大主神」にしろ、牛とはあまり関係なさそうですけれども。

丹塗矢の神話は「山城国風土記逸文」にある、いわゆる「上賀茂神社」「下鴨神社」の由来の話によっています。

ただ、丹塗矢が「比叡山」に寄った、というのは「風土記逸文」にはなく、一方で『古事記』には「大山咋神」は「日枝の山」にいらっしゃるとはっきり書かれていると……うーん。

あ、この丹塗矢というのが、賀茂氏伝承では「大山咋神」のことなんです……「風土記逸文」では「火雷神」、「乙訓神社」にいらっしゃる神になっていますけれども……。

賀茂建角身命」は、「下鴨神社」つまり「賀茂御祖神社」の神で、「八咫烏」となって「神武天皇」を導いたとされています。

その御子神に、「玉依彦」「玉依姫」という神がおられまして、この「玉依姫」が丹塗矢に遭遇することで生まれたのが、「賀茂別雷命」。

「別雷命」が成人した際に、「賀茂建角身命」が「父に酒を飲ませてあげなさい」と言ったところ、天井を突き破ってどこかに行ってしまった、と。

で、父神が「火雷神」であれば、「乙訓神社」、「大山咋神」であれば「日枝の山に行った」、ということになるはずなんですが、『日吉社禰宜口傳抄』ではいい感じに、「丹塗矢はまず比叡に飛んできて、次に乙訓に行って、最後は松尾(※「大山咋神」の別名としてあげられている「鳴鏑神」を御祭神とする「松尾神社」のこと)に行ったんだよ〜」とつなげてまとめています。

しかも、移動したのは丹塗矢で、「別雷神」のことはここではスルー。

さて、どれが古い伝承なのか……。

 

「大比叡宮
大宮相殿四座。中央大己貴神。左大玉咋神。右田心姫神。正面掛天照大神御體於天津眞坂木。安置之。
天智七年戊辰三月三日。詔鴨賀島八世孫宇志麻呂。祭大和国三輪坐大己貴神比叡山口。曰大比叡宮。九年庚午負祝部姓於宇志麻呂。被附粟津御戸代。
天武三年依先帝御願。被造別宮於大宮之東。奉移田心神姫。相殿祭下照姫。世人曰宇佐宮。後曰聖眞寺宮。聖眞寺者。在別宮之南。創立之年月未詳。夏僧通夜于此。中古配祀天之忍穂耳尊。亦年月未詳。弘仁年中伝教大師。自大唐帰朝。又祭応神仲哀神功三座。云々 

竃殿。
天智七年大宮造営之刻。造御炊殿於其東。宇志麻呂請小比叡御炊殿之二座祭之。」

 

「西本宮」の記事。
「大玉咋神」は、「大山咋神」の誤記だと思います。
大和国三輪山からやってきた「大己貴神」をお祀りしている、という伝承はわりと一貫しているので、当初からそうだったのではないか、と思われます。
合わせて「聖真子」すなわち「宇佐宮」についても書かれています。


「早尾社
天武三年與別宮同時造御殿。云々素盞嗚尊猿田彦命相殿二座。」

 

修復中だった「早尾社」。
現在の祭神は「素盞嗚尊」。
かつては、一緒に「猿田彦命」が祀られていることになっていたようです。


「小比叡宮
二宮 大山咋神自神代領此地。故曰地主明神。相殿四座。大山咋神玉依姫神。玉依彦神。別当神。
崇神天皇七年。有詔祀弁天槌之和魂於山本。以鴨鹿島爲祝。被附神戸。
天智七年大宮造営之後。以当社曰小比叡宮。大小之名始于斯矣。山中法師有波母山之感見以来。配祭国常立尊年月未詳。」

 

「東本宮」ですね。
別当神」とあるのは、「別雷神」の誤記だと思われます(旧字で「当」は「當」なので)。

認識としては、「地主明神」、つまり元々の神はやっぱり「大山咋神」だと。

ここまで書かれているんだから、きっとそうなんでしょう。

 

「小比叡別宮相殿三座。鴨玉依姫神。玉依彦神。別雷神三柱坐。曰樹下宮。又曰十禅師宮。件名宝亀年中内供十禅師之延秀於香積寺蒙神託。造小比叡別宮。奉移本宮之玉依姫玉依彦別雷神三柱。云々山中法師殊加崇敬。毎於舞殿爲論議決択。又配祀天津産々瓊々杵尊。年月未詳。又伝曰賀茂中社在田中。田主挿苗。其苗俄変槻木。玉依姫在此樹下爲神。故曰樹下宮。云々。」

 

こちらは「十禅師」とのことなので、「樹下宮」ですね。
「樹下宮」の名前の由来が書かれていますが、なんか普通の伝承ですよね……。


「大行事社。祭大年神。此神者大山咋神之御父也。陵在御後。山曰旋臺。又曰華縵臺。私云華縵臺者御母陵歟。」

 

こちらは「大物忌神社」。

どうやら、社の後ろには陵があるようですが……あったかなそんなもの……。


この続きは、

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 史料通信叢誌. 第10編

 

↑『史料通信叢誌』の第10編に収められています。
149コマです。

 

「新行事社。祭天知加流水姫神。此神者大山咋神之御母也。
竃殿祭奥津彦神奥津姫神。相殿二座。大山咋神之御兄神也。小比叡御炊屋坐見也。
以上。
崇神天皇御宇被附神戸云々
仁和年中大物忌行事秋主。新物忌行事弘津。造営御殿二座。故世擧曰大行事社。新行事社。云々竃殿以下。小比叡御眷属。前社数多坐。失伝。強不可沙汰。云々新行事社。中古配胸形瀛津姫爲三宮之若宮。年月未詳。」

 

「新物忌神社」ですね。

御祭神は今と同じです。

この文献を中心として御祭神の整理が行われたのでしょうか。

 

「小禅師社。祭玉依彦神。延暦年中香積寺延秀弟子延暹。依宿願造別殿。自樹下宮奉写一柱世俗曰小禅師宮。延秀延暹俗姓賀茂縣主。中古配彦火々出見尊。年月未詳。」

 

こちらは「樹下若宮」。

 

「王子宮。別雷神降誕産屋之権殿也。在禰宜祝等斎館之北中島之地。四月未日御祭。小比叡宮荒和之神四柱神幸。被遣降誕之仮儀。昇天之仮儀。終日厳儀。在地警固厳重也。入夜神宴将終取兒間案上酒盞擲地。在地人々作鯨波聲。傔仗一人棒白羽箭趨出。四柱神輿競先出御於大比叡宮。云々
貞観年中。慈覚大師感見文殊師利於中島之地。造聖経蔵。又祀熊野不思議童子神。及眷属之神云々弁天宮相殿二座。在山末之大主神荒魂。右玉依日女神荒魂。或説云。自古御殿二座。世俗皆略山末之三宇。曰大主尊。又曰牛御子。
天智七年三月三日夜。慶雲薄靡于比叡山之東尾。八人童子天降于弁天槌之上。漸々歌舞而降于小比叡宮之華縵臺。又歌舞于大比叡宮之神庭。歌曰。宇禮志美津夜。彌津本能夜久邇。伊摩佐加邊。宇禮志母彌津々夜。多邊須美津々母夜。云々
天智天皇潜龍之時。御願之由。人々皆曰五男三女神之化身。私建八柱小社於弁天槌之傍。其後配五男神於左宮。配三女神於本宮。故曰八王子宮。三宮奉移其小社。祀于小比叡之南門之前。又其後配祀国常立尊於二宮時配国狭槌尊以下惶根尊以両宮者歟。年月未詳云々。」

 

「産屋神社」と、途中から「牛御子社」や「三宮」、「八王子」つまり「牛尾宮」の話が混ざってきています。

降臨した「八人童子」を「弁天臺(金大巌)」の側に祀ったので「八王子」というのですけれども、あくまで「金大巌」は「大山咋神」の磐座、五男三女神はその後、「東本宮」の南門の前にお祀りし、それが「下八王子」つまり「八柱社」だと……ああ、何だかよくわからなくなってきました。

 

「下八王子社。祀天照大神奇魂前五柱。所謂五男神之幸魂。曰矢取早取。若宮。彌高之御子也。岩船者、大神之荒魂也。悪王子社。素盞雄尊奇魂也。前三柱所謂三女神之幸魂。曰巌瀧。相殿二座祀市杵島姫。瀛津島姫也。田付社田凝姫也。即其社前石村者。素盞雄尊荒魂也。天智七年三月三日。八童子歌舞畢。時及暁天頃。明星赫耀。八童子自内馬場召御馬向東方去。宇志麻呂送之到天岩船下。而不見神影。但被遣御馬一匹。云々其後造神殿於岩船之邊。云々前八社者。自弁天槌奉。云々或説云。下八王子祭明星。即天御中主神也。云々」

 

「八柱社」です。
『近江輿地志略』でも取り上げられていた、御祭神「天之御中主神」説が、ここにもあげられています。
妙見信仰とか、いろいろごちゃごちゃと混ざった後に出てきた話じゃないかな、と思います。


氏神社 祝部之始祖賀茂建角身命。即大山咋神之舅神也。在小比叡宮南門之外。
持統御宇。宇志麻呂男赤丸。祀父宇志麻呂之霊於大比叡宮之東門之外。但用弁天槌。山末之大主神旧殿修造之。故世人擧曰山末社近来祝岩遠依霊託奉移于氏神社。相殿二座。」

 

今も「氏神神社」です。
なぜかつては「山末社」と呼ばれていたか、の説明が一応されています(「牛尾宮」の古い社殿を使った、ということのようです)。

 

「客人宮 所祭白山比賣神。又名菊理姫神。則伊奘奈岐伊弉奈美之奇魂也。天安二年夏六月十八日。相応和尚感得相樹霊誥祭之。此日大霊。云々被造本宮與劔宮於大比叡別宮之東。内殿所祭九座。中央白山比女。左方自東安置。佐羅王宮 賀寳 禅師 劍宮 兎(兒カ)宮六柱。但劍宮空座也。右方自西安置。小白山 別山行事 大己貴三柱。中古右方三座被造別殿。云々」

 

「白山宮」ですが……内殿に祀られているらしき神々が謎すぎて……どんな文献に当たればいいのやら。
細かい祭祀を研究しないことには……でも、古い祭祀なんてわかりゃしないのです「日吉大社」の場合……文献が残っていないというのもさることながら、ほら、尾張の大うつけが焼いちゃったもので……。

うーん……全然妄想の燃料になりませんでした……。
次回はあるのか……(別の神社の記事になっていたら、放棄したと思って生暖かく見守ってくださいね……)。