さて(以下、引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える/また、神名については『古事記』『日本書紀』から適当に用いているので、混同があるとつっこまないでくださいね)。
「鷲宮神社」でいただいた由緒略記によれば、
「当神社は、出雲族の草創に係わる関東最古の大社である。神代の昔に天穂日宮とその御子武夷鳥宮とが、昌彦・昌武父子外二十七の部族等を率いて当地に神崎神社(大己貴命)を祀り、さらに天穂日宮の御霊徳を崇め、別宮を建てて奉祀したのに始まる。
崇神天皇の御世には、太田々根子命が司祭し、豊城入彦命、彦狭島御諸別王が、それぞれ幣帛を奉納した。景行天皇の御世には、日本武尊が当社の御神威を崇め尊み、社殿の造営をし、併せて相殿に武夷鳥命を奉祀した。桓武天皇の御世には、征夷大将軍坂上田村麿が、武運長久を祈り奥州鷲の巣に当社の御分社を奉祀した。中世以降には、関東の総社また関東鎮護の神として、武将の尊崇が厚く歴史上有名な武将だけでも藤原秀郷・源義家・源頼朝・源義経・北条時頼・北条貞時・新田義貞・小山義政・足利氏歴代・古河公方・関東管領上杉氏歴代・武田信玄・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康等があげられ。武運長久を祈る幣帛の奉納や神領の寄進。社殿の造営等がなされた。江戸時代には、四百石の神領を与えられ、歴代将軍の朱印状が残されている。明治天皇の御世には、神祇官達により准勅祭社に定められ、勅使参向のもと幣帛の奉納がなされた。そして明治天皇行幸の際、当社に御小憩され祭祀料として金壱封を賜り、昭和天皇の御世にも幣帛を賜った。終戦の後、神社本庁包括宗教法人として氏子崇敬者の尊信を専らにしてかわることなく今日にいたっている。」
とあります。
主祭神の「天穂日命」は、「天照大御神」と「素戔嗚尊」の誓約(うけひ)によって生まれた五男三女の神の一柱で、
↑の神代上では、
「次に天穂日命。是出雲臣・土師連等が祖なり」
とあります。
また、
↑では、
「さ噛みに噛みて、吹き棄つる気吹のさ霧に成れる神の御名は、天之菩卑能命。」
とあります。
活躍(?)するのは国譲りの場面で、最初に天降るのですが、
「故、高皇産霊尊、八十諸神を召し集へて、問ひて曰はく、「吾、葦原中国の邪しき鬼を撥ひ平けしめむと欲ふ。当に誰を遣さば宜けむ。惟、爾諸神、知らむ所をな隠しましまそ」とのたまふ。僉曰さく、「天穂日命、是神の傑なり。試みざるべけむや」とまうす。是に、俯して衆の言に順ひて、即ち天穂日命を以て往きて平けしむ。然れども此の神、大己貴神に佞り媚びて、三年に此及るまで、尚し報聞さず」(『日本書紀』)
「この葦原中国は、我が御子の知らす国と言依さしたまへりし国なり。故、この国は道速振る荒振る国つ神等の多なりと以爲ほす。これ何れの神を使はしてか言趣けむ。」とのりたまひき。ここに思金神また八百万の神、議りて白ししく、「天菩比神、これ遣はすべし。」とまをしき。故、天菩比神を遣はしつればすなはち大国主神に媚び附きて、三年に至るまで復奏さざりき。」(『古事記」)
「高皇産霊尊」に「葦原中国をとりあえず平定しようと思うんだけど誰がいい?」と聞かれた神々に推薦されて天降ったのに、「大己貴神」(「大国主神」)に「媚び諂って」、三年経っても音沙汰なし、ということになっています。
久々にちゃんと『日本書紀』を読んだんですが、「惟、爾諸神、知らむ所をな隠しましまそ」という表現、「お前ら、ふさわしい奴が誰か知っているなら、隠すんじゃないぞ」って意味ですよね。
「高皇産霊尊」といったら、高天原の実質的な最高神、その神に「隠すなよ」と言われているということは、何か裏がありそうです(それが何かはわかりません)。
それはともかく。
では、「天穂日命」の御子神については、といいますと、『古事記』では、
「天菩比命の子、建比良鳥命、こは出雲国造、无邪志国造、上菟上国造、下菟上国造、伊自牟国造、津鳥県直、遠江国造等が祖なり。」
となっており、出雲国造の祖先が「建比良鳥命」、その父神が「天穂日命」ということがわかります。
「故、仍りて其の子大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)、(略) 亦の名は武三熊之大人(たけみくまのうし)を遣す。此亦還其の父に順りて、遂に報聞さず。」
ということで、御子神の名前は違っています(「そび」を鳥の一種と解釈して、「建比良鳥命」との類似性を指摘する説もあるようです)。
その御子神は、父「天穂日命」に従って、やはり高天原には戻らなかったようです。
さて、出雲臣について、『日本書紀』の補注から引用しますと、
「出雲臣(略)
一説に大和国城上郡出雲村、また山城国愛宕郡出雲郷など、畿内を本拠とし、出雲に進出したともいう。大和朝廷の出雲地方服属に参加、同国出雲郡杵築郷の出雲大社の祭官になったらしく、代代、出雲国造を兼ねる。奈良・平安時代を通じて、国造新任の際は朝廷で特に儀式が行なわれ、神賀詞を奏上した。姓氏録、左京・山城・河内の神別に天穂日命の後とする。」
とあります。
一般的にイメージする「出雲」の国、の人々ではなく、畿内から移動した人々が、出雲国造になっていったのではないか、ということです。
記紀神話に投影されている「天穂日命」のエピソード(「大己貴神に服属して三年帰らず」)というのは、出雲臣の果たした役割を描いているのかもしれません。
「奈良・平安時代を通じて、国造新任の際は朝廷で特に儀式が行なわれ、神賀詞を奏上した。」で書かれているものは、今では「出雲国造神賀詞」と呼ばれています。
wikipediaによれば、
「出雲国造は都の太政官の庁舎で任命が行われる。任命者は直ちに出雲国に戻って1年間の潔斎に入り、その後国司・出雲大社祝部とともに改めて都に入り、吉日を選んで天皇の前で奏上したのが神賀詞である。六国史などによれば、霊亀2年(716年)から天長10年(833年)までの間に15回確認できる。」
とあります(>出雲国造神賀詞 - Wikipedia)。
○こちら===>>>
↑の75コマからありますので、一部引用してみようと思います。
「(略)
高天の神王高御霊・神魂命の皇御孫命に、天の下大八嶋国を事避さし奉らしし時に、出雲臣等が遠つ祖天穂比命を、国體見に遣はしし時に、天の八重雲を押し別けて、天翔り国翔りて、天の下を見廻りて、返事申し給はく、「豊葦原の水穂国は、晝は、五月蝿如す水沸き、夜は火瓮(ほべ)如す光く神在り。石根木立青水沫も事問ひて荒ぶる国なり。然れども鎮め平けて、皇御孫命に安国と平らけく知ろし坐さしめむ」と申して、己命の兒天夷鳥命に布都怒志(ふつぬし)命を副へて、天降し遣はして、荒ぶる神等を撥ひ平け、国作らしし大神をも媚び鎮めて、大八嶋国の現事・顕事事避らしめき。
乃ち大穴持命の申し給はく、「皇御孫命の静まり坐さむ大倭の国」と申して、己命の和魂を八咫鏡に取り託けて、倭の大物主櫛𤭖玉命(おおものぬしくしみかたまのみこと)と名を稱へて、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提に坐せ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇孫命の近き守神と貢り置きて、八百丹杵築宮に静まり坐しき。是に親神魯伎・神魯美の命の宣りたまはく、「汝天穂比命は天皇命の手長の大御世を、堅磐に常磐にいはひ奉り、いかしの御世にさきはへ奉れ」と仰せ賜ひし次ての隨に、供齋仕へ奉りて、朝日の豊榮登りに、神の禮白臣の禮白と御祷の神宝献らくと奏す。
(略)」
引用の前段は、「天穂日命」が大八嶋国を見て回って「高皇産霊尊」「神産霊尊」に報告し、改めてその子「武夷鳥命」が「布都怒志命」を副えられて大八嶋国を平定した、という内容です。
後段はいわゆる国譲り神話に近いですが、最終的に「大穴持命」が「杵築宮」(出雲大社)に鎮まり、「天穂日命」がそれを祀る役目を負うことになった、という感じです。
「出雲国造神賀詞」の成立は、明らかに記紀より後だと思われる(例えば「天皇」という言葉が使われている)ので、記紀との整合性の上で書かれたものだと思われます。
記紀では、
「「天穂日命」は、「大己貴神」に媚びへつらい、三年は戻ってこなかった。」
んですが、「出雲国造神賀詞」では、
「「天穂日命」は、国を見て回って報告し、自分の御子神に国を平定させた。最終的には、「国作らしし大神」(「大国主命」)も従った」
という違いがあります。
もっとも、記紀神話では、「天穂日命」は戻ってこなかったんですが、その後に「天稚彦」が遣わされたり、最終的には「建御雷神」と「経津主神」が、「出雲国造神賀詞」での「武夷鳥命」の役割を果たしているので、違っていると言ってもいいのかどうなのか。
なぜ、出雲国造だけが、任命と同時にこんなことをしなければならなかったのか。
それは、朝廷が出雲をかなり恐れていた(根拠があるのか、そう伝わってきただけなのか)からなのでしょうが、見えてくるストーリーとしては、
(1)「天穂日命」は、本当に「大己貴神」に媚び諂って、高天原を裏切ったけれど、最終的にはやっぱり「大己貴神」を裏切って、高天原についた。その裏切りを忘れさせないように、子孫に代々奏上させている。
(2)「天穂日命」はスパイだった。「大己貴神」の信頼を得るために、御子神も一緒に寝返ったふりをした。「三年戻らなかった」のは信頼を得るためで(それ以降もスパイ活動をしている)、その間に集めた情報を高天原に報告した。そのことを、朝廷と確認し合うために奏上している。
というのが代表的だと思います。
記紀神話、特に『日本書紀」では、「天穂日命」は、「是神の傑なり」といわれています。
「傑」は「いさを」と訓がふられており、意味としては「すぐれている」「抜きん出ている」「(指揮を)執る」「傲(おご)る」があるそうです。
当時の高天原では「抜きん出てすぐれた神」だと認識されていたわけです。
「高皇産霊尊」の命令が「葦原中国の邪しき鬼を撥ひ平けしめむ」だったことを考えれば、あるいは「武神の指揮官」だったかもしれません。
で、そんな神がですね、(1)みたいなことになるでしょうか。
なぜかといえば、その後に派遣された「天稚彦」はですね、やっぱり「大己貴神」の傘下に入ったのですが(というより「大己貴神」の姫神の「下照姫」にメロメロになっただけっぽいですが)、探りを入れてきた鳥(雉)を殺してしまったとはいえ、「8年も戻ってこないってどういうことだよ」とばかりに射殺されているんですね。
「天穂日命」は、3+8で、単純計算で11年は「大己貴神」の元にいた、と考えますと、よく高天原側に殺されなかったな、と思うのです。
つまりこれはですね、最初から殺されるはずがない、(2)のスパイ説が有力なのではないか、と思うのです。
ただ、「大己貴神」側としては、高天原でも「傑出した神」がやってきて、御子神も一緒に付き従ったら、疑わしいですよね。
それ以降、誰もやってこなかったら(ちょっかいでもいいので戦をしかけてこなかったら)、もっと疑わしいですよね。
「こいつ、ひょっとしてスパイじゃね?」ってなると思うんです(そんなこと考えない、素朴な人たちだった……のならそれでもいいですけどね)。
ここにですね、以前にも登場した「天稚彦」と「阿遅志貴高日子根神」(「大己貴神」の御子神)がそっくりさんだった件を重ね合わせてみます。
二柱の神がそっくりさんだった事件は、ミステリ的に解釈すると「入れ替わりトリック」ではないか、というのが私の妄想です。
つまり、「天稚彦」が殺された、と見せかけて「阿遅志貴高日子根神」になってしまった、と。
▼「天穂日命」は、高天原のスパイだった。彼は葦原中津国の主神である「大己貴神」に取り入って、内情を探ることになっていた。それには、長い年月がかかった。
▼
▼高天原側としては、全然戻ってこない「天穂日命」の様子が疑わしい、ということを葦原中津国側にアピールしておく必要がある。そこで、第二陣として「天穂日命」の御子神「武夷鳥命」を派遣した。
▼
▼父の計略を知っている「武夷鳥命」も、同じように葦原中津国にとどまる。親子して寝返ったのであれば、「大己貴神」も信頼するだろう。ところが、「大己貴神」側はまだ不信を抱いているらしい。そこで三たび、今度は「天穂日命」と血縁ではない武神「天稚彦」を派遣することにした。
▼
▼「天稚彦」は、「天穂日命」の思惑とは異なり、葦原中津国の一員として、国を収めようとした。そのため、「大己貴神」の姫神である「下照姫」を娶った(あるいは、「下照姫」にデレデレになっちゃったので、「大己貴神」の傘下に入った)。
▼
▼「天穂日命」は「天稚彦」の扱いに困り(スパイしていることは味方にも悟られるわけにはいかないし、まして「大己貴神」の婿になったやつにばれては計画が頓挫する可能性がある)、「武夷鳥命」(雉に擬せられる)にその様子を探らせた。「天稚彦」は、「天探女」の助言に従って、彼を殺した。
▼
▼「天穂日命」は怒るが、ここで正体を明かしてはそれまでのスパイ活動が水の泡。そこで、「大己貴神」をそそのかして、「天稚彦」を殺させることにした(あいつは高天原のスパイだ、とでも言ったのか)。
▼
▼自分の婿を信じたい「大己貴神」だが、「天穂日命」も信頼し(はじめ)ているので進言を無下にはできない。そこで、「天稚彦」が死んだということにして、葬儀を行った。そこにそっくりさんの自分の御子神「阿遅志貴高日子根神」として「天稚彦」を登場させて、別人であることを強調して、ひっそりとどこかへ逃がした。
うーん、ちょっと無理がありますかね……。
ただ、『古事記」では「天稚彦」を「天津国玉神」の御子神、としているのが気になります。
「顕(うつし)国玉神」といえば「大国主神」の別称です。
また、「倭大国玉神」が、『日本書記』の崇神天皇条に登場します(「天照大御神」と一緒に、天皇との同衾を拒んで祟りをなしたお方です)。
「国玉」といえば、その国の発展に大きく寄与した神に与えられる称号である、と考えられます。
ということは、「天津国玉神」は何なのか……普通に考えれば「天照大御神」か、「高皇産霊尊」(高木神)あたりでしょうか。
これを、「阿遅志貴高日子根神」と対比させてみますと、
・「阿遅志貴高日子根神」の父は「大国主神」≒「顕国玉神」
という感じで、容貌どころか出自までそっくりさん、ということになります。
ちなみに、「阿遅志貴高日子根神」の母神は、「天照大御神」と「素戔嗚尊」との誓約で生まれた「宗像三女神」の一柱、「多紀理毘売命」ですから、こちらの血統は「天穂日命」の御子神「武夷鳥命」と比べても遜色ありません。
ん……?
ということはですね、ひょっとすると比較するべきは、
・「大己貴神」と「多紀理毘売命」の御子神「阿遅志貴高日子根神」
ということになるのでしょうか。
▼「天穂日命」は、スパイとして葦原中津国に派遣された。
▼
▼ついでにやってきた「武夷鳥命」が、「大己貴神」の姫神「下照姫」にデレデレ、結婚。
▼
▼そりゃまずい、と思った「天穂日命」、「大己貴神」に入れ替わり工作を持ちかける。
▼
▼「天稚彦」というよくわからない人物が創造され、高天原側に殺されたことにする。
▼
▼「武夷鳥命」を「阿遅志貴高日子根神」という神にしてしまう。
▼
▼機熟して、スパイ活動終了。「天穂日命」は高天原に報告し、その後に「阿遅志貴高日子根神」となった「武夷鳥命」に決断を迫る。
▼
▼「武夷鳥命」(「阿遅志貴高日子根神」)、仕方なく葦原中津国を平定する。
▼
▼その後、出雲臣の血統は「天穂日命」ー「武夷鳥命」の子孫が継いでいく。一方で、「阿遅志貴高日子根神」は大葛城に封じられ、賀茂氏族の祖先となった。
「阿遅志貴高日子根神」なんですが、『古事記』によれば、「迦毛大神」だと書かれているんですね。
「出雲国造神賀詞」にも、「己命の御子阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ」とあり、「阿遅志貴高日子根神」を畿内・葛城の神としています。
この方、『古事記』で、「天稚彦」と間違えられて、怒って喪屋を切り倒して飛び去ったときに、「高比賣命」(「下照姫」)に、
「天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に 穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴高 日子根の神ぞ」
と詠まれています。
「天上界にいるうら若い機織り女が、頸にかけておいでの一本の緒に貫き統べた首飾りの玉。首飾りの玉よ、ああ。その玉のように谷二つにも渡って照り輝いておいでのアジシキタカヒコネの神である。この歌は雷神の電光を讃嘆したもの。」
ということです。
つまり、「阿遅志貴高日子根神」は雷神でもある、と考えられていたらしいのです。
国譲り、雷神といえば、「建御雷命」ですよね。
「出雲国造神賀詞」で、「建御雷命」の役割を、「天夷鳥命」(=「武夷鳥命」=「阿遅志貴高日子根神」)が果たしているのは、雷神つながりなのではないでしょうか。
また、この歌の後には、
「この歌は夷振(ひなぶり)なり。」
と書かれています。『古事記』の註では、
「歌曲の名。田舎風の歌曲の意。」
とあるのですが、これが田舎風なのかは現代人にはさっぱりわからないものの、ひょっとすると「夷鳥のふり」とかいう意味ではないのでしょうか。
つまり、「阿遅志貴高日子根神」が「武夷鳥命」なんだ、と伝えている、と。
さらに言えば、歌にある「玉の御統」ですが。
「天穂日命」が「天照大御神」と「素戔嗚尊」の誓約によって生まれたことは何度か書きました。
どのように生まれたのか、と言えば、「天照大御神」が身につけていた「八尺の勾玉の五百の御統の珠」を「素戔嗚尊」が借り受けて、それを噛んで吹き出した息吹の中から生まれたのです。
そして、「天照大御神」は、高天原では機織りをしておりました。
ということは、歌の解釈としては、「二柱の神の誓約で生まれた「天穂日命」の血統に連なる「阿遅志貴高日子根神」」なんてのも可能なんじゃないでしょうか。
また、葛城の賀茂氏といえば、祖先として「賀茂建角身命」がありますが、この方どうやら「八咫烏」でもあったようです。
「武夷鳥命」の「夷(ひな)」を「日な」だとすれば、「日の鳥」で、大陸から渡ってきた「太陽の中に住むのは烏」という伝承と入り混じったと考えられます。
・「武夷鳥命」=「阿遅志貴高日子根神」=「迦毛大神」=「賀茂建角身命」=「八咫烏」
いやぁ、俄然熱の入った妄想になってしまいました。
肝心の「鷲宮神社」のことには全く触れておりませんので、続きは次回に〜。