さて。
とりあえず前回で妄想はすませているのですが、参考文献なぞを。
といっても、いくつもありませんが。
ディアゴスティーニから発刊されていた『日本の神社』シリーズ。
34巻が「日吉大社・建部大社」になっております。
神社の写真や絵図が豊富なので、思い出すのに役に立ちます。
「……比叡山では「山王は、天にあっては北斗七星、地にあっては山王七社で、七仏薬師の影現」といわれており、比叡山にほど近い日吉大社でも、北斗七星信仰にまつわる配置が見られます。上の七社の西本宮・東本宮・宇佐宮・牛尾宮・白山宮・樹下宮・三宮を、そんな思いでまわってみるのはいかがでしょうか。」
↑というガイドさんのお話が掲載されています。
私は、北斗七星信仰と言われると、すぐに「平将門」が浮かんでしまうもので……。
続いて、アマゾンで検索するとこれしか出てこない、というくらいの『日吉大社と山王権現』(嵯峨井建、1992年、人文書院)。
古本で買いました。
内容はかなり専門的ですが、比叡山焼き討ちから再興までの流れと、その功労者祝部行丸について詳しく書かれています。
「……それではこうした流れの中で、『古事記』にいう「近つ淡海国日枝の山に坐す神・大山咋神」のうしはき坐す神地に、異国の神・十一面観音を受容した基盤は何であったろうか。私はその事由を神宮寺の立地と環境の内に求めたい。すなわち日吉信仰の基本因子の一つをなす水分神的性格である。山岳重畳する比叡の山合より、流れる大宮川・小谷川は八王子山の裾をめぐり、ゆるやかな段丘平野を細かな支流でうるおしつつ琵琶湖に流れ注ぐ。この山麓に定住する古代の人々にとって、この水系を中心とした自然の恵みは、生活の糧であった。こうした自然の恵みへの感謝を、宗教的心意として日々仰ぐ秀麗な八王子山に集約せしめたのが、日吉信仰の発生であり、また十一面観音の受容の基礎である。十一面観音と水との関わりは、東大寺二月堂のお水取で代表されるように、従来から指摘されるところである。水の恵みを中心とした農耕が営まれ、こうした村落共同体の神として日吉社が成立し、かかる神山・八王子山の奥ふかくに異国の神をまつるとすれば、咒術性の強い変化観音のうち、水神ひいては農耕神と関連ぶかい十一面観音をおいて他にないと考えられる。山上の八王子社内で三月十五日行われる牛神楽は、山麓の人々にとって春のことぶれを告げる農耕神事であり、水神信仰が牛によって耕作される広義の農耕神に転化をみせた、その名残とみられよう。また樹下宮の御霊代直下に霊泉を秘めていることも、有力な一例とすることができる。」(p132)
これは、かつてあった神宮寺の本尊「十一面観音」に関する考察です。
本地垂迹説から遡って、古代の信仰の様子を考えると、こんな感じになるのかもしれないです。
中世神話、という概念については本書を当たっていただくとして、
「……大宮権現は、天智天皇の御代に大和国から来臨した三輪明神であった。神の鎮座譚は、しばしば、その神の奉斎者の始祖伝承と絡んで語られる。右の縁起では、神の感得者・琴御館宇志丸は、日吉社社司家の始祖となるのである。
山王神道は、この大宮権現(山王)を、法華の教主=釈迦如来の垂迹とみなし、「法宿菩薩」という法号を与えている。一方、二宮の本地は薬師如来で、法号は「華台菩薩」と称する。神仏習合の中世では、これは日吉社サイドも受容するところであった。
(略)
釈迦が大宮権現(山王)としてこの世に化現したのは、釈迦が入滅の際に発した本誓によるとして、本地(釈迦)ー垂迹(山王)関係を根拠づけているのである。またここには、機根の衰えた末世の衆生を救済するのは、仏菩薩よりむしろ神であるという信仰機制が認められよう。
さて大宮縁起は、三輪からやってきた神が鎮座地を求めて旅をし、感得者に遭遇し、卜定された勝地に鎮まると語られていた。大宮権現は、ほかの土地からやってきた賓客なのだ。とすればここから、先住していた地主神=二宮(小比叡明神)との関係が問われてこよう。」(p124)「……ところで地主権現と呼ばれはするが、二宮は、世界の初まりの時から叡山の小比叡に止住していたわけではない。津島の牛頭天王がそうであったように、実は二宮も来臨した神であった。」(p126)
なんて辺りを引用してみます。
地主神、というのは古くからその地方を支配していた氏族の主神なのですが、輪廻転生を唱える仏教的には、始原(世界の始まり)からそんなものにいていただくのは困るわけです(聖書原理主義者が、進化論を認めない、みたいな話です)。
ですから、たいていの神様は、その前世に仏教の仏を持ってきて、仏教の古さ、偉大さを唱えつつ、地主神としてのプライドもまあある程度保つ、という欺瞞に満ちた工作がなされているわけです。
ですので、「東本宮(二宮)」の「大山咋神」を「薬師如来」の垂迹だ、とすること自体には、それほどの意味があるとは思えません(日本で薬の神といえば「少彦名神」と、一緒に国土を建てた「大国主神」もそう呼ばれますかね……ですから、屁理屈をつけたいのであれば、これらの神々の本地を「薬師如来」とするような気がしますが、「大山咋神」は今ひとつ御神威のわからない神で、どうして「薬師如来」とリンクしたのか……まあ、本地垂跡説なんでそんなもんですが)。
ここで引っかかったのは、
「実は二宮も来臨した神であった」
の部分ですね。
どんな地主神だって、突き詰めればどこかから「来臨」しているのですが、こうした本地垂跡の神話が生まれる背景として、「そもそも、「東本宮」も地主神ではない」という伝承があったとしたら、いかがでしょう。
信じるか信じないかはピョン……。
というわけで、「日吉大社」シリーズは今回で終了〜。
近江旅の続きに戻ります……がすでに4月とな……。