べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「岩村城趾」(岐阜県恵那市)

6/20。
そう、城です(?)。
前回、「苗木城」に行ってみて、「あら、城もいいんじゃないの?」と思い始めた構造物好き。
今回は、美濃の山城の中の「岩村城趾」に行ってみましたよ。

 

○こちら===>>>

onna-jyoushu.iwamura.jp

 

美濃に向かっているので、愛知県から通る道は変わらず、なんとなくのデジャブに陥りながら、駐車場を目指したのですが、結構な細い道を車で登った気がします……向かわれる方はお気をつけて。

 

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なんか、いきなり出丸ですが……写真の順番をよく覚えていない……。

 

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あ、こっちだこっち。
駐車場のところにあった案内図です。
そう、根性なしなので、本丸近くの駐車場まで登ったのです……麓から歩けよ、という話なのですが。

 

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ちょっと歩いて、すぐ石垣。

 

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うーん、中南米感……この、石垣沿いの細い山道が……行ったことのない中南米感。

 

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とにかく景色、というか石垣、というか構造物を楽しんできましたので、こんな写真ばっかりです。

 

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こんな。

 

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これは道なのか……。

 

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上の方が、まだ角が綺麗……石垣に疎いので理由はわかりません。

 

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こんなのとか。

 

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埋門。

 

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櫓か、門の礎石でしょうか。

 

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こんなのとか。

 

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野面ですか?(まだよくわかっていない)。

 

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先ほどの埋門から入ってきて、振り返ったところです。
クランクのある通路、ですね。

 

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クランク。

 

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野面ですか?

 

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本丸のあったフロア(?)に到着。

 

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景色。

 

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本丸案内板。


岩村城
岩村城は別名を霧ケ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、標高七一七mに位置し、江戸諸藩の府城の中で最も高所にあり日本三大山城の一つである。
城の創建は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝重臣加藤景康が、文治元年(一一八五年)に遠山荘地頭に補せられたのに始まると伝わる。景康の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に改め、以来遠山氏が代々居城し、東濃地方から信州の一部まで勢力下とした。
戦国動乱の時代に入り、天正元年(一五七三年)武田信玄の臣秋山虎繁(信友)が岩村城を奪取して入城したが、同三年に織田信長の軍に攻略されて、河尻秀隆が城主となった。その後は森長可森忠政、田丸直昌と城主は目まぐるしく交代した。
慶長五年(一六〇六年)の関ヶ原合戦以後は、大給松平家松平家乗が城主となり二代、丹羽氏五代のあと大給松平家分家の松平氏七代を経て明治維新を迎えた。
城郭は中世城郭を近代城郭へと修築し、本丸二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等が設けられ、丸と曲輪は石垣や堀切をもって区画され、要所に櫓、門は構えられた。
山城の建造物は明治六年(一八七三年)の廃城令を受けて競売に付され、すべて取り壊された。」

 

森長可」……知っていますよ、「攻めの三佐」と言われた、織田家臣団初期からの猛将「森可成」の息子ですよね(「森蘭丸」のお兄さん)。
ありがとう重野先生!(戦国時代の知識は、すべて『信長の忍び』で入手しています……ほら、三国時代の知識をみんな横山光輝先生の『三国志演義』で手に入れたようなものですよ)。

 

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鬱蒼……建物があったころは、こんなに木は生えてなかったんでしょうか。

 

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角。

 

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角と花。

 

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見上げれば、角と花。
なんでこんな写真が多いのか、といえば、地元と思われる団体さんがスケッチに勤しんでおられたので、邪魔しないようにとアングルを探ってたら……だったと思います。

 

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角、角、角。

 

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長局埋門。

 

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あそこの、切れているところが門だった、ということですか。

 

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おお……石垣の上に石垣……なんか、自分が作ったわけではないのに、よい画だ、と思ってしまいます。

 

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六段壁。
これが噂の……。

 

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とその前に、角。

 

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うーん、なんだろう、なんとも言えない味わい……。

 

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角。
ちょっと、手前の影と、奥の日向の対比が面白かったので。

 

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野面ですか?

 

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そして、六段壁です。
……中南米感……。

 

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かっこいいですなぁ……。

 

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これなんかまさに、という感じで……晴れててよかった。

 

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ちょっと離れたところから。

 

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で、麓に降りていきます(結局歩いて降りるんだったら、麓から登ってこればよかった……と思ったのは内緒です)。

 

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「菱櫓と俄坂
山の地形にあわせて石垣を積んだので、菱形になった。山城特有のものである。この上にあった建物も菱形であったので、菱櫓と呼ばれた。菱櫓は全国城郭にもその例はあまりなく、中世期の山城を近世城郭に改築した城郭の貴重な歴史的遺構である。菱櫓の前に俄坂門(櫓門)があり、番所、多門があって、大円寺、水晶山方面を遠望監視した。
中世の頃はここが大手門(正門)で、大円寺城下町説もあり、大円寺へ通ずる険しい急坂も残っている。
実際は裏手の門で、普段は使わないが、落城等の非常口として用いられた。俄坂もその意味がある。俄坂の途中に中世城の遺構である東曲輪があるが、天然の峻険を利用し敵の来襲に備えていた。」

 

ふうむ……初耳のことばかり。
自分の降っている道が、「大円寺」に通じているのでしょうか……「大円寺」って今もあるのかな……。

 

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六段壁を振り返る。

 

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麓に行く途中の、角。

 

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八幡神社……え、神社あったっけ?
お参りしてないけど……結構広い空間だな……なんで写真がないのかな……。

 

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霧ヶ井。

 

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こちらがそう、らしいです。

「城に秘蔵の蛇骨を投げ入れると、忽ち霧が立ちこめ」るとな……「蛇骨」ってなんでしょうね……水と反応して煙が出るなら、石灰とかかな……。

 

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角。

 

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角でもない。

 

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追手門・三重櫓。
結構降りましたよ。

 

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中南米感はないな……。

 

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あ、こっちの角は反り返ってる。

 

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角は綺麗に揃えるんですよね……なんて言いましたっけ……いい造詣。

 

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ちょっと、なんでしょう、光の加減と緑の色合いにジ○リテイストを感じたようです。

 

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同じような構図ばっかだな……。

 

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紅葉がすごい……秋は美しいのでしょう……行ってみたい……(コロナ……)。

 

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麓までいかずに戻ってきましたよ、六段壁。

 

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さっきも見たな。

 

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また本丸のほうへ参ります。
うん、この見上げる感じは中南米っぽいちょっとだけ。

 

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ラマ歩いてないかな、ラマ……。

 

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角。

 

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これは、最初に入ってきた埋門のところでしょうか。

 

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このクランクが敵を防ぐ……んでしたっけ。

 

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このクランク(略

 

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ごつごつ。

 

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垂直と水平。

 

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傾斜。

 

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右奥にあるのが駐車場です。

 

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傾斜。

 

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野面……かなぁ……。

 

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ちょっと滑らかな角。

 

 

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さて、麓まで降りて行って、御城印をゲットしました。
観光案内所だったかな……。
その行き帰りで、風情ある町並みをふらふらと歩いてみると、いかん、ここでしばらく過ごしたくなってきた……『半分、青い』というドラマのロケも行われたのですね(テレビ観ないからわかんない)。

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で、「岩村神社」を発見。

 

岐阜県指定史跡 一条宰相中将信能終焉の地
承久三年(一二二一)後鳥羽上皇鎌倉幕府打倒の兵をあげたが、幕府によって鎮圧された事件を「承久の乱」という。承久の乱頭目とみられたのが承久殉難五忠臣といわれる五人の公卿で、一条信能はその一人である。彼は官軍の一将として宇治川の芋洗で幕府軍と戦ったが敗れ、捕らえられた。信能は幕府軍として出陣した岩村城主遠山景朝に伴われて鎌倉へ護送される途中、幕命により同年八月十四日、ここ遠山荘岩村の相原で処刑された。享年三十二歳であった。承久記では処刑を悼み、その模様を美文で綴っている。処刑の日を吾妻鏡では七月五日としているが、公卿補任では八月十四日とされ、他の四忠臣との関連から後者の説が正しい。村人はこれを哀れみ、処刑地にて小祠を建てて霊を弔い、若宮社と称してささやかな供養を続けてきた。
其の後、六百数十年を経て明治の王政復古となり、明治十三年(一八八〇)六月、明治天皇中山道御巡幸の折、承久の乱にあたって殉じた一条信能の英魂を御追認され、特旨をもって岩村へ勅使を派遣、祭粢料を賜った。
同十四年三月に社号改称の沙汰があって岩村神社と称することになった。昭和三年(一九二八)十一月、正三位贈位の恩命があった。
現在は岩村夏祭りとして毎年八月に全町をあげて祭礼を行っている。
(以下略)」

 

承久の乱」……全くピンとこない……この間源平の本を読んだんだけどもなぁ……。

岩村歴史資料館も訪れました……と思うのですが、なぜか写真がありません……なんでだろう……。

 

恵那地方はかつて遠山と呼ばれていたそうで。
岩村城のパンフレット(よいものだ、みなさん買おう)によれば、「源頼朝」の忠臣「加藤景廉(かげかど)」が始祖とされていて(親友は「梶原景時」らしいです)、その子「景朝」が初めて「遠山」を名乗ったそうで。
吾妻鏡」に記されている(承久元年七月九日条)には、「遠山左衛門尉」とあると……あれ?
えっと、ひょっとすると……『遠山の金さん』って……と思ってウィキペディアを見てみると、やっぱり「明知遠山氏」の分家の五代目となっていて、その「明知遠山氏」は「岩村遠山氏」の分家……以前に訪れた「苗木城」も「苗木遠山氏」、ううむ……これは、時代劇大流行りだった頃に、もっとコマーシャルしたほうがよかったんではないでしょうか……いや、したのかな?
まあ、分家の五代目とかになっちゃうと、縁が遠すぎるのかもしれないですが。
長篠の合戦」前に、「武田勝頼」が行った東美濃攻めで、ほとんどの城が落ちちゃった、けれども、その後もたくましく生き残る遠山氏……岩村では大給松平家が封ぜられたようですが……。
戦国から江戸、明治に至る歴史のロマンは、実はどこにでもあるのですね……勉強したくなってきちゃった……。


というわけで、山城を見に行こう、の企画、今後も山城かどうかはわかりませんが、城はまだ見にいきます。
石垣がなくても、中南米感がなくても。
とりあえず「名古屋城」に行け、と(子供の頃に何度となく登りましたよエレベーターで……ただ、今は登れないんです、木造天守復元するのかどうなのか、っていう話なので……「本丸御殿」は人数制限で入れたんだっけ)。

「菊名神社」(横浜市港北区)

6/16。
よんどころない事情により横浜に出かけまして、さて要件も済み、どこかへ……ということで行ってみました菊名神社」

 

○こちら===>>>

www.kikunajinja.jp

 

いや、めったに乗らない横浜線なんか乗りまして(20数年前はよく乗った)、菊名駅で降りたのは初めてかな……もっぱら新横浜と町田、相模原の行ったり来たりだったからなぁ……昔厚木に住んでました。

 

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鳥居。
思っているよりもずっとこじんまりとした敷地でちょっと驚きました。

 

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ええと……「菊名総鎮守 菊名神社」ですね。
御祭神は「誉田別命」「天照皇大神」「日本武尊」「木花咲耶姫命」「武内宿禰命」……八幡、神明社浅間神社、あとはなんでしょうね……。
由緒が読めない……。
↑のHPより、

 

「ここ菊名の地には、昭和の初期まで神明社(天照皇大神)、杉山神社(日本武尊)、浅間神社(木花咲耶姫命)、八幡神社(譽田別命)、阿府神社(武内宿禰命)の5社が村社として地域の人々の信仰を集めて参りました。中でも記録に残るものとして最も古くからあるのが、阿府(あぶ)神社であり、その歴史は任和元年(885年)に遡るといわれております。時の天皇光孝天皇が師岡に勅使を遣わされ熊野神社を創建なされた時、勅使がその途上、馬具の鎧をお納めになったことからその名が付いたと史書には書かれております。
 この5社が昭和10年、現在は菊名町公園となっている杉山神社の地に合祀され、名も「菊名神社」と改められました。その後、太平洋戦争の戦火を逃れてからは、同所を保健所建設用地として提供するため、当時の八幡神社の地(現菊名神社の地)に社殿を移設、以降この地で菊名の総鎮守として地域の人々とともに歩み、またその生活を見守り続けて参りました。
 この間、氏子崇敬者の厚いご協力の下、昭和32年には社殿の改修および社務所・神楽殿が建設され、信仰の対象としてだけでなく、地域住民の交流と青少年の研修の場としても大きな役割を担うこととなりました。そしてこの度平成23年には、50年ぶりの大々的な社殿改修工事を終え、21世紀に相応しい姿となって生まれ変わりました。
 新たに完成した拝殿の天井には、中心に「菊」の花を配し、四方にはがまんさまによって守られる24枚の天井画が飾られております。テーマは「菊名の絆」です。これは社殿は新しくなっても、菊名の総鎮守として以前と同様、変わらずこの地の人々とともにあることを示しているのです。拝殿には、24枚の天井画、輪になって咲く菊の花が中心に描かれ、四方は開運招福を呼ぶ四季を背景にしたがまんさまで守られています。」

 

だそうです。
そうか、「杉山神社」は「日本武尊」が御祭神でしたか……横浜、多いんですよね、「杉山神社」。

 

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木鼻……構造的なものではなく、飾りだけになっております……でも残っていてくれるだけでもありがたいか。

 

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「がまんさま」……読めない……ここは、神社で購入した「港北区神社誌」という素敵滅法な冊子(発行は港北区神社氏子総代会さん)のp32より、

 

「がまんさまとは、鳥居をくぐり左手側、手水鉢の四方を支えている四体の「鬼の石像」のことで、寛政年間(一七八九〜一八〇一)に築かれたといわれている。がまんさまは、苦難なことに耐え、同じ仕事に飽きることなく、不平も言わずにじっと忍耐して、長い年月にわたって手水鉢を守り通している。そのがまん強いお姿は、人の進むべき道を諭しているとして、昔より人々の親と尊敬を集め、今に至っている。」

 

とのことです。

 

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拝殿遠景。

 

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狛犬さん。
今まで、岡崎型(というんでしたか)の狛犬さんで、彩色されているものは「おいおい」な感じに思うことがありましたが、こちらはよい具合に塗装されているのではないかと思います。

 

 

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こちらが「がまんさま」です。
鬼……なんですかね……何か、もうちょっと意図のある意匠にも思えます……力士とか……あ、鬼か……ううむ、不思議な造形。

 

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神明社」。

 

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おっと、こちらに「がまんさま」の由来がありました。

ふうむ、残っているのは一体だけですか。

 

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御朱印

「がまんさま」大人気。
すでに結構な暑さだったように記憶していますが、御朱印を待つ人も多く、涼しい社務所の中で待つことができました(今は、コロナで難しそうですね……)。

 

さて。

 

○こちら===>>>

横浜市史稿. 神社編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

久しぶりの『横浜市史稿』の神社編から。
205コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
まず、社格は村社の「八幡神社」から。

 

八幡神社は、神奈川区菊名町字和田前七百十六番地に鎮座。境内は百四十三坪。同町の鎮守である。
由緒は不詳で、維新前は、大豆戸村の本乗院が別当であった。明治六年、村社に列せられた。
祭神は応神天皇
社殿は入母屋造。本殿(略)は草葺、向拝附。
附属建物には、石鳥居(明神形)一基、手水鉢一箇、玉垣がある。
(以下略)」

 

続いて、無格社の「神明神社」。

 

神奈川区菊名町字籠久保二百九十五番地に在る。境内は五百十七坪(略)。
由緒は不詳。維新の前は、諸岡の法華寺で進退した。
祭神は天照大神
社殿(略)は亜鉛葺、外に石鳥居(神明形)一基、手水鉢一個がある。
(以下略)」

 

そして「阿府神社」。

 

「阿府神社は、神奈川区菊名町字宮谷六百五番地に在る。境内は百六十五坪。同所宮谷で奉祀して居る。
由緒は詳でない。往古は鐙明神社と云つたものと伝へ、武蔵風土記稿には「鎧明神社。村の艮にあり。土人の伝へに云、往古貴人のここを過ぎる時、乗たる馬の鐙をここへ落せしかば、其鐙をもてかく崇めたりと。篠原、長福寺持。」とある。享保七年、元文四年、安政三年、明治三十一年の四度に、社殿の造営をし、最近は大正九年に社殿の修築と家根の葺換とを行つた。明治初年に無格社に列せられ、阿府神社と改称したものである。(略)
祭神は武内宿禰
社殿(略)は亜鉛葺。
例祭は無し。
(略)」

 

そして、「杉山神社」。

 

杉山神社は、神奈川区菊名町字宮田に四百八十六番地に在る。境内は一千十三坪。(略)同所宮谷で奉祀する。
由緒は不詳。維新の前は、諸岡村の法華寺別当して居たといふ。
祭神は日本武尊
社殿(略)は亜鉛葺。外に石鳥居(明神形)一基がある。
祭礼は無し。」

 

浅間神社」は載ってなかったです……安易にこういう便利な本を頼っては、と思って、『新編武蔵風土記稿』も見てみましたが、引用されている以上のものはなく、でした。
境内地の広さを見てもわかりますが、最初「杉山神社」に合祀されたときは広大だったんでしょうね……「八幡神社」では、境内地が9分の1くらいですから(官有地もあったりしますので、一概に「杉山神社」が土地を持っていた、というわけではないのかもしれません)。
で、思ったんですが……「がまんさま」は、五社のうち、どの神社にあったんでしょう?
この流れで行くと、「八幡神社」にあったと見るべきでしょうか……「手水鉢」がある、とわざわざ書いているくらいだし。
でも、「神明神社」にも「手水鉢」は書かれているんですよね。
……みなさん気にならないのかな……よそ者の私が気にすることではない、ということにしておきましょう(そこまで案内してくださるとありがたいですが)。


港北区の神社、全部巡ってみたいな、また横浜に行くことがあればそれも……と思っていたらこのコロナですから……。


地元と東京以外であまり神社巡りをしていなかったので、一箇所とはいえ楽しかったです〜(時間がもう少しあれば、いくつか巡ってみたかったです)。

「金王八幡宮」(東京都渋谷区)

5/19。
というわけで、東京在住中の頃から前を何度も素通りしてきた金王八幡宮へ。

 

○こちら===>>>

金王八幡宮 ご祈願 ご参拝 東京都渋谷区

 

渋谷のど真ん中にこんな神社が、とか思っても見なかったもので……さすが江戸やで。

 

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狛犬さん。
凛々しい。

 

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あれ……鳥居に戻ったんだっけ。

 

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金王八幡宮
御祭神 応神天皇品陀和気命
(略)
由緒
金王八幡宮は、寛治六年(皇紀一七五二年、西暦一〇九二年)渋谷氏の祖 河崎基家により鎮祭され、基家の子重家が鎌倉街道沿いの要所であるこの地に館を構えて居城として以来、渋谷氏の氏神として尊崇されました。
渋谷重家には嫡子がなく当神社に祈願したところ、大神の御神徳により渋谷金王丸常光のちの土佐坊昌俊を授かりました。金王丸の活躍は平治物語吾妻鏡などにみられる通りであります。当神社は当初「渋谷八幡宮」と申しておりましたのを、金王丸の名声に因み「金王八幡宮」と称するようになりました。
また、境内の金王桜(渋谷区指定天然記念物)は、頼朝が金王丸を偲び植えたもので、一重と八重が混じって咲く珍しい桜で、江戸三名桜に数えられました。
江戸時代には、竹千代(徳川家光)の教育役の青山伯耆守忠俊と乳母の春日局が三代将軍就任を当神社に祈願し、その願いが成就したのは大神の神慮によることと、現在の社殿及び神門(渋谷区指定文化財)を寄進されました。
時代は変わりましたが、現在も青山・渋谷の氏神として数多の崇敬を集めております。
(以下略)」

 

……いかん、全く知らないぞ「金王丸」……。

 

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木鼻。
寄進したのが「青山忠俊」と「春日局」ということで、「日光東照宮」に通じるものがある、と考えていいのでしょうかね。

 

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虎。

 

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龍……と鷹かな。

 

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木鼻。

 

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象……か、獏か……。

 

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金王桜」の解説。

 

源頼朝の父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節をしのび、頼朝が金王丸の名を構成に残そうとして、鎌倉亀ヶ谷の館から金王丸ゆかりのこの地に移植したものとされています」

 

抜粋。
そうか、「源義朝」時代の……余計にわからん……。

 

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狛犬さん再び。
よい。

 

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都心の神社は、こういう違和感が魅力だったりしますよね。

 

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渋谷のど真ん中で、境内が広くて、こちらは「玉造稲荷神社」。

 

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お狐さま。

 

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狛犬さん。
小ぶりながら存在感。

 

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御嶽神社」。
武州の「御嶽神社」は行ったことないな……。

 

○こちら===>>>

musashimitakejinja.jp

 

青梅か……おっと、神使は「大口真神」ですか、関東っぽい。

 

「社前の狛犬一対と西参道の鳥居はかつて実践女子学園の校内にあった香雪神社より大東亜戦争後移設したものです。」

 

抜粋。

 

○こちら===>>>

www.izumotaisya-tokyobunshi.com

 

社殿は「出雲大社東京分詞」に移設されたようです。
素通りしたことあるなぁ……いかんいかん。

 

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「金王丸御影堂」。

 

「金王丸十七歳の時、源義朝に従い保元の乱に出陣。平治の乱ののち出家し、土佐坊昌俊と称し義朝の御霊を弔いました。
また、頼朝とも親交が深く鎌倉開幕にも尽力。義経追討の命を受け、文治元年(一一八五)十月二十三日夜、心ならずも義経の館に討ち入り勇ましい最期を遂げました。
この御影堂には、保元の乱出陣の折、自分の姿を彫刻し母に遺した木像が納められています。更に金王丸が所持していた「毒蛇長太刀」も当八幡宮に保存されています。」

 

抜粋。
「毒蛇長太刀」……なんて厨二病心をそそりそうでそそらない名前なんだ……。

 

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狛犬さん。
小鬼系。

 

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「御影堂」。
小規模ながら、独特の雰囲気があります。

 

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拝殿遠景。
陽も落ちかけて、よい感じに。

 

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門。

 

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鳥居。
こちらが正面でした。

 

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社標。

 

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そのお隣に、「豊栄稲荷神社」という神社がありました。

 

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ちょっと面白い構図になった。

 

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拝殿。

 

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神社の由来がほられていますが……読めない……。

とりあえず、「当社は渋谷八幡宮を創建せる河崎土佐守基家の曾孫渋谷高重の創祀」と伝えられていて、「堀の外稲荷」「田中稲荷」「川端稲荷」と呼ばれていたようです。

 

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こちらは、庚申塔の由来。

 

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いや、庚申塔パラダイスだったのです。
青面金剛」と「三猿」、日月が基本モチーフですが、これだけ揃っていると見ていて飽きませんよね。

 

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御朱印

 

さて。

 

○こちら===>>>

大日本名所図会. 第2輯第4編 江戸名所図会 第2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『江戸名所図会』です。
90コマより(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「渋谷八幡宮 同所中渋谷にあり。此所の産土神とす。祭礼は八月十五日なり。
本社祭神 応神天皇一座。社記に云く、此神像は上古弘法大師豊前国宇佐八幡宮の告あるにより、しばらく山城国鞍馬寺に安置し奉りしを渋谷次郎高重護持して当社の神体とあがむると云々。本地仏阿弥陀如来の像は、慈覚大師の作なり。圓證阿闍梨東福寺創建の時、行脚の僧来りて授与せしとなり。
矢拾観世音 社前にあり。本尊は慈覚大師の作にして、金王麿尊信の霊像なりといへり。社伝に保元年間の戦に、此本尊軍卒に化現し、敵の弓矢を多く拾ひあつめて、味方の陣中へ入り給ひしより、かく称したてまつると云々。
子安薬師如来 同所にあり、龍宮出現の尊像なりとぞ。義朝誕生の時、龍宮より出現し、又頼朝尾張国幡屋において出生の時も守護たりしとぞ、仏礼に念珠をかえたり。世俗是を安産守護の念珠と唱へ大に崇信せり。
金王桜 一名憂忘桜とも號けたりしとぞ。伝へ云ふ、往古久寿の頃、源義朝鎌倉亀ヶ谷の館に植えおかれしを、金王丸に賜ふの後、此地に移し、氏神八幡宮の瑞籬にううるとなり。或は社記に云ふ、文治五年七月、頼朝公奥州泰衡退治凱陣の頃、当社に詣で給ひ、太刀一振を納め給ひ、又金王丸の影堂に立寄り、其誠忠を感じ給ひ、鎌倉亀が谷より桜一株を栽えられて、金王桜と號けられけるともあり。又[むらさきの一本]といへる冊子に、紀州亜相頼宣卿の御母堂養珠院殿、此桜の実を御庭に植えさせられ、やや生立ちて花も開かんとせし頃、八幡の社内なりける元木の桜既に枯れたりしかば、御家臣渋谷善入という人は金王丸の遠裔なれば、他の人の植えたらんよりは、祖先への孝養にもなるべしとて、件の実生の桜を善入に下し給ふ。善入恭しく是を拝受して、其枯株の跡へ植え継ぎける。今の桜是なりとしるせり。
(略)
什宝 月輪御籏一流 社記に云く、後一条帝の長元元年五月、平忠常北総に兵乱を起し、近国を掠む。源頼信朝臣、忠常追討の祈願として、秩父の峯に八流の籏を納め給ふ。其内日月の二流は武基に賜はり、大宮の妙見山に収め、八幡宮とあがむ。其後河崎土佐守基家に白籏一流賜はり、独仙北金沢城を攻落せり。依て義家朝臣基家を召され、此軍勝利ありしは、全く正八幡の加護たるべき事を示し、寛治六年正月義家朝臣凱陣の時、谷盛荘へ立寄らせたまひ、月の御籏をば当社にとどめ給ふ。されども、此御籏をみだりに拝する者ある時は、かならず祟ありといふをもつて、能證阿闍梨深く社壇にひめ置きて、写を出し置けりといふ。開帳の時節諸人に拝せしむるは其模なり。
(略)
獅子丸太刀 河崎土佐守仙北金沢にして猛威を振ひ、城を攻め破る。其頃勤賞として義家朝臣より賜ふといへり。
毒蛇長刀 金王丸長田が館、野間の内海にて勢を振ひしも、ひとへに此薙刀の威徳なりとぞ。
(略)
社記に曰く、当社は高望王より五代の後裔、村岡五郎良文が曾孫、秩父別当武基の一子に、同十郎武綱といへる英雄あり。寛治三年六月、清原武衛・同家衛が猛威を摧き、奥羽の間に勢を揮ひ、名誉を天下に輝かしぬ。故に将軍義家朝臣是に感じ、勤賞として其子六郎基家(略)に武蔵国谷盛荘を賜ふ。(略)依て基家勝地を撰び、同六年正月始て采邑の地に当社を営建し、金王麿迄代々氏神と称し、尊重厳なりけるとぞ。別当天台宗にして、渋谷山東福寺と號す。相伝ふ、六孫王経基の開創にして、昔は親王院と呼びしとなり。開山は圓鎮僧正と號す。養和元年百十一歳にして化寂ありしと云々。」

 

ふう……中世〜戦国の知識がすっぽりないもので、登場人物があんまりわかりませんな……これは勉強せねば。
文中に「野間の内海」とあるのは、愛知県の知多半島の話、でしょうかね(最近ちょっと勉強したんだけどなんだったっけなぁ……今の「野間大坊」と関係があったような……)。
「金王丸」のこともよく知らないと……だめだめですな。

 

「金王麿影堂 同所向側、叢林の中にあり。[八幡宮社記]に云く、金王麿十七歳の時、主君義朝の命により、鎌倉に赴く頃、其母別れを惜み、悲嘆の涙に沈む。依て金王麿自ら姿を造りて、母堂の許に残しとどめけると云々。其像は鎧衣二刀を帯する容姿なり。
(略)[保元物語]を以て考ふるに、金王麿は左馬頭源義朝に仕へし童にして、度々手がらをあらはし、頗る大功の者なり。義朝平時元年に大納言藤原信頼にくみしてむほんを起し、待賢門の軍に打負け、尾張国野間の内海にありし御家人、長田庄司忠宗がもとに落ち伸びたまひしを、長田心がはりして、浴室に義朝を弑し奉る。金王麿くちをしく思ひ、走り廻り、むかふ者共をきりふせて、其後都に登り、義朝の妾常盤がもとに参り、其ありさまをかたりて後、義朝の跡をとぶらひまいらせんが為、出家して諸国を修行し、其終る所しらずとなり。金王丸より渋谷と唱ふる歟。縁起には、重家寛治六年渋谷の姓をたまはると見ゆれども違へり。系図を見るに、重家の子重国、其子高重、其子金王丸とあり。社記には、重家一子なきをうれへ、八幡宮へ祈り授かる所、金王丸といふ。高重は金王丸より後にして、文治年中頼朝時代の人なりと云ふこと違へり。」

 

……ああそうか、高田先生の小説を読んだから、野間の話を覚えていたのか……その小説の内容をほとんど覚えていないのは自分でも難儀です……『源平の怨霊』なんですけども。

 

 

源平の怨霊 小余綾俊輔の最終講義

源平の怨霊 小余綾俊輔の最終講義

  • 作者:高田 崇史
  • 発売日: 2019/06/27
  • メディア: 新書
 

 

 

「金王丸」の話は出てこなかったなぁ……毒蛇長刀、どうなったんだろう……。
平治物語』『保元物語』のような軍記物(というのか)、あるいは『吾妻鏡』にしても、ぎりぎり歴史書と言えるかどうか、みたいな扱いですが、江戸期と違ってそこまで書簡なんかも伝わっていないわけで、資料として尊重せざるを得ないと(公家なんかの日記はもちろんあるのでしょうが、個人でそこまではなかなか追えませんし、中世史は興味ありでもメインターゲットじゃないからなぁ……)。
いずれにしろ、「渋谷」「金王丸」の名前が今も残されていること、何かしらの意図を感じたり、地域に根付いたものなんだろうなぁと素直に感心したり……地名を変えることは否定しませんが、元の地名は残しておいてほしいですね。
さて、いい旅だった……あんまり旅してないな、この年の後半は……。

「目黒界隈」〜「五百羅漢寺」「目黒不動」「大鳥神社」〜

5/19。

目黒ということですので、目的地は五百羅漢寺でした、はい。

 

○こちら===>>>

「五百羅漢寺」 - べにーのGinger Booker Club

補遺・「五百羅漢寺」 - べにーのGinger Booker Club

補遺補遺・「五百羅漢堂」 - べにーのGinger Booker Club

 

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まあ、写真にとるところがあまりないといいますか、羅漢様とか撮影禁止ですから……。

 

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御朱印御朱印帖。

 

○こちら===>>>

大日本名所図会. 第2輯第6編 江戸名所図会 第4巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『江戸名所図会』をみていただくと、往時、いかに大きな寺院だったのかがわかります。
このまま残っていたら……と思うと残念でなりません。
で、今回『江戸名所図会』をみていて思ったのですが、

 

 

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ご本尊の後ろに、まるで後戸の守り神のように、みんな大好き「獏王」像があったことが図絵に描かれています。
ところで、まるで狛犬のように、もう一体、瑞獣っぽいものが置かれているんですねこれが。
麒麟」っぽくみえます……が、ひょっとしたら「獬豸(カイチ※OSなどにより表示されない場合があります)」なのかな、と。

 

○こちら===>>>

カイチ - Wikipedia

 

しかたなくwikipediaさんです。
うーん、「獏王」だけが残って、その対となる瑞獣のことは残されていないのか……。
教えて偉い人。

 

続いて、裏道を通っての、目黒不動

 

○こちら===>>>

「泰叡山瀧泉寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

前回も同じルートでしたが、大雨でないだけ随分まし、と。

 

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まずは山王鳥居……あれ、ありましたっけもともと?
天台宗、ということであれば山王一実神道、ですから。

 

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本堂。

 

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狛犬さんズ。
可愛い……。

 

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これは、なんだっけ……近寄れなかった気がします。

 

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ああ、「八大童子」だ。

 

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ぬるりと、犬っぽい狛犬さん。
狛犬ワンダーランド。
リアルな犬っぽい狛犬さんがいるのが、「犬公方」の影響だったりしたら面白いですね。

 

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こっちのうなだれ狛犬さんもよろし。

 

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象。
急に。

 

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烏枢沙摩明王」。
急に(公衆トイレの前に立っていたと思います……ほら、東司の守護神ですから)。

 

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お狐様。

 

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「恵比寿」様。

 

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お狐様だらけ。

乱雑になってしまいましたが、ワンダーランド。

 

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御朱印

 

そういえば、「目黒不動」は引用してなかったですね、ということで。

○こちら===>>>

大日本名所図会. 第2輯第6編 江戸名所図会 第4巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『江戸名所図会』から……多いですけれども。
53コマです。

 

目黒不動
同所の西、百歩のあまりにあり。泰叡山瀧泉寺と號す。天台宗にして、東叡山に属せり。
開山は慈覚大師、中興は慈海僧正なり。
本堂不動明王 慈覚大師の作、脇侍は八大童子なり。
(略)
八幡宮 早尾権現 祭神猿田彦大神。或は素盞嗚尊ともいふ。祭礼は五月十五日なり。此堂何れも本堂の左に並ぶ。
恵比須大黒祠
鐘楼
水神宮
愛染明王
大行事権現 此地の地主神なり。祭神高皇産霊尊なり。五月十五日祭礼あり。
石不動 何れも本堂の右にあり。
稲荷祠
地蔵尊 掌善・掌悪の二童子を置く。
聖観音
開山堂
聖徳太子
天照太神
本地大日如来 本堂の後、峙ちたる山の腰を切り割りて安置す。俗に奥の院と称する。
吉祥天女
天満宮
鬼子母神 十羅刹女祠 虚空蔵堂 遮軍神祠 何れも本堂の後に並び建てり。
結神祠
役小角 女坂の中程にあり。銅像にして前鬼・後鬼の像あり。
三仏堂 弥陀・薬師・釈迦等の三尊を安ず。
子安明神 鬼子母神なり
疱瘡神 粟島明神 石地蔵尊 秋葉権現 六所明神 荒神祠 何れも二王門を入りて右の方にあり。
弁財天祠 江島弁天の模なり。
地蔵堂 堂内焔王・脱衣婆等の像を安せり。
観音堂 中尊は聖観音、廻に西国・坂東・秩父等の札所百番の観音を安置せり。
勢至堂 稲荷祠 前不動 左右に十二天の像を安置す。何れも楼門の左の方にあり。
楼門 左右に金剛・密迹二王の像を置く。裏に使者犬の像を置けり。
独鈷の瀧 当山の垢離場なり。往古承和十四年、当寺開山慈覚大師入唐帰朝の後、関東へ下り給ひし頃、此地に至り、独鈷杵をもて此地を穿ち得たまふとぞ。常に霊泉滔々として漲り落つ。炎天旱魃といへども涸るる事なく、末は目黒一村の水田に引き用ふるといへり。昔は三口にわかれて湧出せしが、今は二流となれり。そのかみ一年此瀧水の涸れたりし事ありけるが、沙門某江島の弁天に祈請奉り、再び元の如しとぞ。故に今も年々当寺より江島の弁天へ衆僧をして参詣せしむる事、怠慢なしといへり。[和漢三才図会]に倶利伽羅の瀧とあり。
鷹居の松 旧名匂松、又腰掛松とも號く。石階の下にありて蒼々たり。寛永の頃、大樹此地に御遊覧ありし時、其御鷹翦れて行方をしらず。依て別当実栄に仰の旨ありて祈念せしむ。然るにたちまち御鷹飛帰り、此松にとどまれり。依て御感ななめならず。此樹に鷹居松の名を賜ふといへり。
縁起云く、平城帝の大同三年、慈覚大師本国下野国より、叡山に赴き給ふ頃、此地に投宿あり。然るに其夜の夢中明王霊示ありて、永く此地に跡を垂れ、群生を度せんと曰ふとみて覚めたり。翌日夢中拝する所の尊容を模して、今の本尊を彫刻し、当山に安置し給ふ。或人云ふ、此地は日本武尊を鎮る所なり。慈覚大師此地経歴の頃、不動尊の像を彫刻して神体に擬せらる。其故に、日本武尊駿河に狩し給ふ時、凶徒放火して尊を襲う其時、尊の佩び給へる叢雲の剣を抜きて、狩犬の綱を切りて放ち、燃え來る草を薙ぎ払い給ふ。尊其火の中に立ちたまふ形相、さも明王の形に似たるを以て、これに比せしとぞ。犬を当山の使者とするもこのゆえなりといへども、此説いまだ考へず。しかありしより千歳の今に甫ぶ迄、理智円明の威力広大にして、迦楼羅焔の徳用深妙なり。元和元年の春、此地の在家より火出でて、餘焔御堂に覆ひし時、本尊みづから猛火を除れ出でたまひ、瀧の下に留り給ふ。人皆奇なりとす。寛永元年大将軍此地に狩し給ひ、同十一年御再興ありしより、結構備りたり。此地は遥に都下を離るるといへども、詣人常に絶えず。殊更正五九の月二十八日、前日より終夜群参して、甚賑へり。又十二月十三日は、煤払にて開帳あり。是も前夜より参詣群をなせり。門前五六町が間、左右貸食軒端をつどへて、詣人をいこはしむ。粟餅・飴および餅花の類を鬻ぐ家多し。

 

そうか、天台宗でしたね、当たり前ですが「日吉大社」に重なるわけです。
絵図をみると、今の堂宇配置とそれほど違いはありませんが、いくつか御堂が失われていたりもしますので、比べてみると面白いと思います(独鈷の滝、男坂女坂は往時のままかな……)。
五色不動といったらもう、『虚無への供物』なんですけれども……あれ、『匣の中の失楽』だっけ……記憶が薄れてきたなぁ。

 

「粟餅・飴および餅花の類を鬻ぐ家多し。」

 

目黒の餅は、さんまよりは有名だったようですが(そうなのか?)、鬻ぐといったら餅や飴だけではない……と思ってしまうのが高田崇史ファンの悪い癖です。

 

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ついでに、ではないですが、「大鳥神社」にも寄りまして、御朱印をいただいてきました。

 

○こちら===>>>

「大鳥神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

『江戸名所図会』の「目黒不動」のところで、唐突な感じで「日本武尊」が出てくるのは、近くに「大鳥神社」があるからなんでしょうねきっと。

目黒は、じっくり巡りたいんですよね本当は……奈良にも京都にも大阪にも東京にも住みたいですねぇ……。
それはともかく、次の目的地へ〜。

「永寿山海福寺」(東京都目黒区)

5/19。
よんどころのない事情で上京しまして、とてもいい時間を堪能し、ひさびさに目黒方面へ行ってみようというか、あそこへまた行かなければ、というわけでその途中にありました「海福寺」に寄ってみました。

 

○こちら===>>>

海福寺 (目黒区) - Wikipedia

 

……あれ、公式HPが見つからない……しゃあないのでWikipediaさんで。

 

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階段の上に、門。

 

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慰霊塔。

「文化四年八月十九日深川八幡の祭礼の時人出のため永代橋が落ち数百人の人々が水死しました。
その霊を供養するため木場の人々が建立した供養塔です。
これは昔は大変有名な事件で歌舞伎では黙阿弥作「八幡祭望月賑」落語では粗忽者の武兵衛が水死者に間違えられ自分の遺体を確認に行くという”永代橋”の素材となっています。」

 

○こちら===>>>

永代橋落ちた 永代橋に刻まれた歴史 | 東京都の地盤調査専門企業 ジオ・フロント株式会社

↑参考に。
全然知らなかったな……合掌。

 

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あ、こっちに詳しい掲示板が。

 

「文化四年(一八〇七)の深川富岡八幡宮の大祭は、大喧嘩が原因で中止されていた祭りが一二年ぶりに催されたため大変な賑わいだった。しかし将軍世子らの御座船が永代橋の下を通過する間、一時的に橋上の通行が禁止された。通行止が解除されて一斉に群衆が橋を渡った時に橋の中央付近が崩落し、多くの人が隅田川に転落。多数の溺死者を出す、江戸開府以来の大惨事が発生した。
事件後、当時永代橋に近い深川寺町通り(現・江東区深川二丁目付近)にあった黄檗宗永寿山海福寺に無縁仏が埋葬された。そして百日忌に供養塔が、安政三年(一八五六)の五〇回忌に石碑が、海福寺境内に建立された。海福寺は明治四三年(一九一〇)に目黒区下目黒の現在地に移転したが、その際にこの供養塔及び石塔も移設され、現在に至っている。
この事件はのちに、戯作者山東京伝の『夢の浮橋』や、京伝の弟山東京山の『蜘蛛の糸巻』、滝沢馬琴の『兎園小説余録』に所収されるなど、江戸市民に大きな衝撃を与えた。溺死者四四〇名とも言われた空前の大惨事を、江戸市民がどのように受けとめ構成に伝えたかを明らかにする重要な資料である。」

 

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鐘楼……じゃないか、鐘撞堂か。

鐘は東京都の指定文化財のようです。

 

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で、この石塔は、また後ほど。

 

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本堂。
この日、檀家さんの法事か何かが行われていて、生きた宗教施設によそ者が入って非常に申し訳ない気持ちでした。

 

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お地蔵さんと、お釈迦様かな。

 

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さて、先ほどの石塔は、なんと「武田信玄」の屋形に置かれていたと伝わっているそうです……深川に「武田信玄」……。

 

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ちっちゃい狛犬さん。
瓦っぽいので、屋根狛さんかな。

 

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四脚門も文化財

 

「海福寺四脚門は明治後期に新宿区上落合泰雲寺にあったものを移建したものであるが、その後の長い年月の間に海福寺境内や周辺の環境によく調和しており、落ち着きのある景観をうみだす重要な建物として定着している。(略)」

 

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こちらです。
本堂が覗くところがよいですね。

 

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何か越しに四脚門。

 

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入り口はこんな感じです。

 

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「海福寺
明から来朝した隠元隆琦が万治元年(1658)に江戸深川に開創した黄檗宗の寺でしたが、明治43年(1910)に現在地へ移転しました。
本尊は釈迦牟尼仏で、他に四天王像や隠元禅師の像、木造阿弥陀如来立像(区指定文化財)が安置されています。木造阿弥陀如来像は彫刻技法の特徴などから12世紀に京都あるいはその周辺で製作されたものと考えられ、都内に現存している稀少な例です。(略)」

 

なるほど、と。
なお御朱印はいただいていません(あるのかないのか……)。

 

さて。

 

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大日本名所図会. 第2輯第6編 江戸名所図会 第4巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『江戸名所図会』から。
115コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

「永寿山海福寺
同所寺町通中程の右側にあり。黄檗派の禅林にして、江戸触頭二箇寺の一員たり。万治元年戊戌の創建、開山は隠元禅師、中興は獨本和尚なり。本尊釈迦如来、左右に迦葉・阿難・十六阿羅漢の像を安ず。開山隠元禅師の肖像もあり。
(略)
九層塔 寺境、池のかたはらにあり。高さ一丈ばかりの石の塔なり。相伝ふ、武田信玄のものなりと。むかし土家氏某これを持ち伝へしが、当寺へうつし建つるといへり。」

 

触頭」ってなんだろう、と日本史の知識のないことをさらけ出しておきます。

 

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触頭(フレガシラ)とは - コトバンク

 

コトバンクさんから、「百科事典マイペディア」より。

 

「江戸時代の寺院統制機構の一。幕府および各藩の寺社奉行の下,本山および一般寺院の上申下達の仲介を行い,また一定の統制にあたった寺院をいい,僧侶身分を一元的に統制する性格をもつ。室町幕府僧録司(そうろくし)(僧録)が起源。宗派別に置かれた場合と,全宗派を合わせて一寺とした場合がある。これとは別に,1635年幕府の寺社奉行設置に伴い,各宗派は江戸に触頭寺院を置き,それぞれ触頭とか僧録とよび,その任にあたった。」

 

……聞いたことがあるようなないような。
『江戸名所図会』の刊行は天保年間、執筆時期は寛政〜文化年間、ということで、「永代橋」が落ちて無縁仏が、という事件とほぼ同時代、記事には反映させられなかったのかな、と思います。
「海福寺」の図絵には、本殿、天王殿(「布袋」さんがいます、いや「弥勒菩薩」ですが)があり、九層の石塔は池というかお社(多分「弁天」様かな)の近くにあるとか、その九層の石塔の図絵があったり、聯がいくつか載せられていたり、鐘に刻まれた「隠元」禅師の言葉も載せられていたり、往時を忍ぶことができますのでご参考に。
もちろん、移転する前ですので、今とは全く違っています。

 

移転……今回の目的地のお寺も、移転したんですよね。

では、次回は目的地ですが、記事にするほどではないといいますか……。

「苗木城址」(岐阜県中津川市)

5/9。
神社仏閣も追えていないのに、ついに手を出した城郭……構造物はもともと好きなので、とりあえず、邪な意図を持って(?)、美濃の山城から「苗木城址へ行ってみることに。

 

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nakatsugawa.town

 

城郭好きの方々には、すっかり有名なところらしいです(すいません、本当に戦国期とか弱くて……)。

 

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駐車場にあった、案内板。

 

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とりあえず、山城だけに、登ってみます……この道であっているかどうかは、わかりませんが……。
新緑が美しい季節でした(雪の季節もよさそうですが、冬の運転は怖くてできません……)。

 

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道路を登っていきます。

 

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鳥居発見。
中には入りませんでしたけれども。

 

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史跡の案内板。

 

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途中の石垣。
きちんと加工して積まれているやつですね(無知)。

 

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再現CG。
……ちょっとあれですね、「メテオラ修道院」を思わせるような……。

 

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撮影スポットだったので、展望台を撮影。

 

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……まあ、マムシも出ますわな。

 

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「風吹門」というところまできました……結構登った気がする……。
でかい自然石がごろっと。

 

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「大矢倉」。
いかん、もう、角度によって中南米感が……あちらは構造物が石造りで、こちらは木造の建物が乗っかっていたのですが、こうしてみると、石造りというのは世界共通言語だったのかなぁ……と。

 

 

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展望台のほうをぱしゃり。

 

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石垣。

 

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「駈門跡」。
この先、「四十八曲り」とありますが、多分降りられるんでしょうな……。

 

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メインストリート(?)に戻って、「大門」まできました。

 

 

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……いやもう、なんかすごい……。

 

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岩の上に、石垣……。

 

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「綿蔵門」。

 

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あの、石垣の端っこの尖ってるところ、すごいですねぇ。

 

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これが野面ですか?(無知)

 

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眺望がすばらしい……多分、戦国期からあまり変わってないんでしょうね。

 

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「坂下門」。
岩……。

 

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岩から石垣……すごいな……。

 

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「千石井戸」「本丸口門」。
ここまで湧き水が……めっちゃ掘ったのか、地形的な恩恵なのか……。

 

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途中にでかい岩がはさまっているのがまた……どうやったんだろう……。

 

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なんか、かっこいい。

 

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反ってますね。

 

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下の方に、先ほどの「大矢倉」が……もうピラミッドじゃん。

 

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「武器蔵」「具足蔵」。

連続体。

 

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右下の尖った端っこの積層具合……。

 

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さて、「天守展望台」を見上げてみました。
岩と石垣の協奏曲、ってやつですか(?)……いい構造。

 

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「玄関口門」。

 

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「本丸玄関」。

 

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石碑。

 

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「苗木城天守建物
苗木城の天守は二つの巨岩のまたがる形で作られ、三層となっていました。(以下略)」

 

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恵那山が望めます。
すぐそこに川が流れている、というのもこの場所が選ばれた要因でしょうかね……。

 

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またがって、というのはこんな感じだっただろう、と。

 

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……はい、そういうことです(?)。

 

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つるつる岩。

 

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なんでしょうねこれ……情報量が多くてよくわからない構造物にしか思えません。

 

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危ない、多分。

 

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「馬洗岩」。
えっと、どれだろう……さっきのつるつる岩、かな。

 

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見上げれば、岩と石垣のコントラスト。

 

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絶景かよ……もうちょっと晴れていれば……。

 

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岩。

 

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「笠置矢倉」。

こんな端っこに建物建てなくてもなぁ……とちょっと思ったり。

 

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振り返る。

 

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左下の尖った部分の積層構造(もういい)。

 

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岩対石垣。

 

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と花。

 

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シミュラクラっぽい。

 

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またまた「大矢倉」を……リャマとか歩いてそうだよなぁ……。

 

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岩。

 

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天守展望台から降りてきまして、正面に再び「大矢倉」。

 

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展望台を見上げるも、この角度では見えず。

 

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自然と人口のせめぎ合いなのか、調和なのか。

 

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積層構造。

 

 

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これは野面じゃないやつですね(無知)。

 


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あの、石垣の角って、なんていうんでしたっけ……前にちょっと勉強したんだけどな……。

(※上の二枚の写真だけ、うまくアップロードできず、大きくなってしまっていますが気にしない)。

 

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こちらはほぼ岩……荒涼の意味合いもちょっと違って見えますね。

 

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なんかいい感じだったから。

 

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うん、アリゾナっぽいな(え?)。

 

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岩を支えての石垣……?

 

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積層構造。

 

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うーん、いい……。

 

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降り始めました。

 

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ちょくちょく振り返り、そしてもう少し晴れていたらと悔やむ……。

 

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ちょっと晴れ間がのぞいた……ら白飛び。

 

で、無事下山(?)して、「苗木遠山史料館」へ。

 

○こちら===>>>

naegi-toyama.n-muse.jp

 

図録を買ってこればよかったな……。

 

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この模型がかわいらしくてよかったです……めっちゃ撮影してしまった。
今は岩と石垣だけ、でも往時はこうして建物が建っていて、こうみると中南米感は全くないですね。
というか、単純に危ないでしょこの建物……すごいところに建てましたね……「清水寺」ほどではないにしろ、懸造……ここに毎日麓から通え、と言われたら断りたいなぁ……。

 

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「風吹門」。
「大泉寺」の再建時、取り壊される「苗木城」から譲り受けたそうです。

 

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御城印……っていうんでしたっけ。
ステッカーになっているんですね。

 

 

 

さて……。
いや、妄想とかないです……郷土史家の方々による研究が多くあるでしょうし、なにしろ戦国期のことはさっぱりなので……ただ、廃仏毀釈の話は面白いなと思いました(なんのことかわからない方は、「苗木遠山史料館」へレッツゴー)……結局は、神仏絡んでこないと面白みを感じない人間なのか。
単純に、構造物としても興味深かったですし、歴史を垣間見るともっと面白そう、「森長可」とか……ああ、すみません「織田信長」様も勉強中です(『信長の忍び』で)。
まだまだ城郭初心者ですので、もっぱら構造物を愛でる感じで行ってみようと思います。
……とりあえず、名古屋城に行け、って話ですな(※本丸御殿修復云々で、はいれませんけども)。
あ、史料館で購入した『苗木の伝記』という本が良い本です。

 

「東別院」(名古屋市中区)

4/6。

桜を求めてさまよって、中区あたりをぶらぶらしていたら、そういえば来たことなかったな最近、の「東別院」へ。

 

○こちら===>>>

www.ohigashi.net

 

真宗大谷派名古屋別院」が正式名称ですが、「東別院」のほうが名古屋人には通りがいい。

なお、「西別院」もあります。

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メインは桜だったりしますので。

 

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最近、『信長の忍び』(重野せんせ〜)他で勉強しているので、「古渡城址」でも足が止まる、と。

 

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「東別院

(略)

元禄三年(一六九〇)、東本願寺一如上人によって開創。諸堂は名古屋の宮大工伊藤平左衛門家の手により元禄十五年に完成した。本堂は壮大な規模と精緻な建築美を誇ったが、昭和二十年(一九四五)の戦災で焼失した。現在の本堂は昭和三七年の再建である。

境内西の鐘楼の梵鐘は尾張藩鋳物師頭水野太郎左衛門家によって元禄五年に作られたもので、名古屋市指定文化財となっている。」

 

……あれ、鐘楼いったかな、俺。

もちのろんで、御朱印をもらい忘れる。

 

さて。

 

○こちら===>>>

大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

尾張名所図会』から引用(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

167コマです。

 

東本願寺掛所

橘町の東二町にあり。天正九年八月、僧祐賢海東郡蟹江村に一寺を建立して、泉龍寺といひしを、慶長十一年名古屋の地(御遷府の◼︎袋町)へ遷せり。其後東本願寺十六世の門主一如大僧正、名古屋に掛所営建の志願ありて、御国の御免許を得、元禄三年七月より福路町川柳寺を掛所となせり。同年十二月古渡村の内にて、境地御寄附ありて、掛所を今の所へ引きうつし、同五年の夏頃より、坊舎を営みはじむ。同十三年四月十二日、一如上人京都本山にて遷化せしも、其子真如大僧正の代、同十五年十月二十八日経営成就し、本堂をはじめ諸堂ことごとく修造卒りしかども、真如上人の開基とせずして、本願一如上人を以て開山とせり。

本尊 阿弥陀如来

(略)」

 

壮大かつ精緻、といわしめた諸堂の様子も、『尾張名所図会』ですからばっちり見られます。

また、同じコマに、

 

「古渡古城

東掛所境内則其あとなり。織田備後守信秀名古屋の城にありしが、天文三年嫡男信長誕生ののち、名古屋の城は信長に譲り、自身は古渡に城を築きて移住せり。卒去の後廃城して田畠となりしが、そののち掛所の境内となりぬ。[信長記]には、信長公ここにて元服せられしよしにしるし、宗牧が[東国紀行]には、禁裡御修理の義を宗牧が東国へ下る序なればとて、則宗牧に仰せ添へられて、ここなる城主信秀に、勅宣を伝へしよしに記せり。こは戦国の有りさま思ひやられぬ。詳なる事は紀行に譲りてここに略しつ。」

 

○こちら===>>>

東国紀行(Adobe PDF)www.klnet.pref.kanagawa.jp/.../018tougokukikou.pdf

 

……まだまだ「織田信長」の勉強をはじめたばかりなので(漫画で、四コマで)、昨日読んだのは、尾張統一のやつで、「古渡城」もばっちり出ていたけれど、「宗牧」は出てないかなぁ……愛知県民ながら情けない話ですが、往時の終わりがどっぷり織田家、ということすら知らず……面目ない……。

近年、「織田信長」像がまた刷新されているようですので、ちょっとずつ勉強しようと思います。