さて、『甦える羅漢たち』から、かつての「五百羅漢堂」の構造物についてその2です。
「右繞三匝(うにゅうさんそう)堂」、あるいは単に「三匝堂」と呼ばれた、秩父三十四・坂東三十三・西国三十三の観音を一堂に会した「百観音堂」です。
完成したのは、寛保元年(1741)、改修されたのが安永九年(1780)と考えられています。
「……象先和尚住持の時、百観音堂を右繞三匝に建つべき志願ありて、自ら其図を作りおかれし……」
と、『禅刹記』という書物に書かれているそうです。
「大雄殿」と「東西羅漢堂」を、立体交差で作った象先禅師の提案になるものなので、これまた興味深い構造です。
「右繞三匝」というのは、右に三度廻る、という意味です。
仏像や石塔の周囲を、右回りに三回廻ることが、最高に経緯を表すことになるのだそうです。
で、どうやって作ったかというと、
こんな感じらしいです(※想像図)。
二階建て、三層のお堂です(↑の図は、内部構造のイメージ図で、建物自体は描いてありません)。
右回りに上るスロープがあり、スロープの左右の壁に、下層は秩父三十四所観音、中層は坂東三十三所観音、上層は西国三十三所観音、が安置されていたようです。
つまり、スロープを上っていくだけで、百観音巡りが成るだけでなく、「右繞三匝」も果たせる、という一挙何得なのか、というお堂なのです。
上層までいたると、三面に張り出し舞台(バルコニーみたいなもの)があり、景色を眺めることができました。
高さが五丈八尺ということなので、凡そ15メートルくらいでしょうか。
◯こちら参照===>>>
五百らかん寺さざゐどう|葛飾北斎|富嶽三十六景|浮世絵のアダチ版画オンラインストア
葛飾北斎の「富嶽三十六景」でも描かれており、当時から注目されたスポットだったことがわかります。
さて、象先禅師はこの「右繞三匝堂」の内部の動線も一考されたようです。
上りはスロープなのですが、下りは階段で下りられるようになっていました。
上りの参拝者と下りの参拝者が、通路ですれ違わなくてもいいように、一方通行にしたのです。
残念ながら、残されている資料等では、下りの階段がどのように設置されていたのかがわかりません(そもそも、↑の図だって、ほぼ妄想で、正しいわけではないのですが)。
これは、参拝客の動きを制御したい、という思いの表れなのですが、その根底には「それぞれのペースで参拝してほしい」という禅師の願いがあったように思われます(「大雄殿」と「東西羅漢堂」の立体交差もそうでした)。
この「右繞三匝堂」、螺旋を描く構造と、「三匝(さんそう)」という読みから、「さんそう堂」→「さざい堂」→「さざえ堂」、つまり「栄螺(さざえ」堂」とも呼ばれるようになりました。
なかなか言い得て妙、さすが江戸っ子の洒落っ気、でしょうか。
江戸後期に大流行した(らしい)「さざい堂」、現在もいくつか残っているようですが、
◯本庄市のさざえ堂(「五百羅漢寺」のものと近いイメージに思えます)===>>>
http://www.knet.ne.jp/~ats/t/jinja/t5/hyaku.htm
◯太田市のさざえ堂(こちらも、「五百羅漢寺」のものと近いイメージ)===>>>
◯会津さざえ堂(こちらは、外見からして螺旋を描いています)===>>>
◯大正大学さざい堂(巣鴨に!現代のさざい堂!!)===>>>
特集 Vol.9 大正大学さざえ堂オープン [2013/05] | 巣鴨地蔵通り商店街
元祖は「五百羅漢寺」
と言われていますので、覚えておきましょう。
それにしても、何というのか、人間なのか、アジア人なのか、仏教系の発想なのか、「きゅっ」とまとめて、一カ所で済ませる、ということが好きですよねぇ。
例えば、「マニ車」なんかも、本来唱えなければならないお経を、経文が刻まれたものを回すだけで「1回読んだ」ことにしちゃったりとか。
四国八十八ヶ所霊場に限らず、観音信仰で多い「◯◯所巡り」を、寺の境内に集めて、現地に行かずとも終えることができるようにしちゃったりとか。
「さざい堂」なんて、「百観音」ですから。
現代でさえ、お遍路さんは、車を使っても大変な道のりですので、当時は「一生に一度」どころか、決して叶わぬ願いのようなものだったのでしょう(特に庶民は)。
困ったことに、これが「信仰心が薄い」からではなく、むしろ篤いからなんですよね……いや、別に困りませんけど。
とにかく、集めて、コンパクトにすることにかけては、「省略の美学」さえ持つ日本人ですから、得意中の得意なんでしょうかね。
これって、現代で言うと、
「まとめサイト」
みたいですよね。
まとめて知ったつもり(やったつもり)になるのが、好きなんだなぁ、日本人……。