べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「永寿山海福寺」(東京都目黒区)

5/19。
よんどころのない事情で上京しまして、とてもいい時間を堪能し、ひさびさに目黒方面へ行ってみようというか、あそこへまた行かなければ、というわけでその途中にありました「海福寺」に寄ってみました。

 

○こちら===>>>

海福寺 (目黒区) - Wikipedia

 

……あれ、公式HPが見つからない……しゃあないのでWikipediaさんで。

 

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階段の上に、門。

 

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慰霊塔。

「文化四年八月十九日深川八幡の祭礼の時人出のため永代橋が落ち数百人の人々が水死しました。
その霊を供養するため木場の人々が建立した供養塔です。
これは昔は大変有名な事件で歌舞伎では黙阿弥作「八幡祭望月賑」落語では粗忽者の武兵衛が水死者に間違えられ自分の遺体を確認に行くという”永代橋”の素材となっています。」

 

○こちら===>>>

永代橋落ちた 永代橋に刻まれた歴史 | 東京都の地盤調査専門企業 ジオ・フロント株式会社

↑参考に。
全然知らなかったな……合掌。

 

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あ、こっちに詳しい掲示板が。

 

「文化四年(一八〇七)の深川富岡八幡宮の大祭は、大喧嘩が原因で中止されていた祭りが一二年ぶりに催されたため大変な賑わいだった。しかし将軍世子らの御座船が永代橋の下を通過する間、一時的に橋上の通行が禁止された。通行止が解除されて一斉に群衆が橋を渡った時に橋の中央付近が崩落し、多くの人が隅田川に転落。多数の溺死者を出す、江戸開府以来の大惨事が発生した。
事件後、当時永代橋に近い深川寺町通り(現・江東区深川二丁目付近)にあった黄檗宗永寿山海福寺に無縁仏が埋葬された。そして百日忌に供養塔が、安政三年(一八五六)の五〇回忌に石碑が、海福寺境内に建立された。海福寺は明治四三年(一九一〇)に目黒区下目黒の現在地に移転したが、その際にこの供養塔及び石塔も移設され、現在に至っている。
この事件はのちに、戯作者山東京伝の『夢の浮橋』や、京伝の弟山東京山の『蜘蛛の糸巻』、滝沢馬琴の『兎園小説余録』に所収されるなど、江戸市民に大きな衝撃を与えた。溺死者四四〇名とも言われた空前の大惨事を、江戸市民がどのように受けとめ構成に伝えたかを明らかにする重要な資料である。」

 

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鐘楼……じゃないか、鐘撞堂か。

鐘は東京都の指定文化財のようです。

 

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で、この石塔は、また後ほど。

 

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本堂。
この日、檀家さんの法事か何かが行われていて、生きた宗教施設によそ者が入って非常に申し訳ない気持ちでした。

 

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お地蔵さんと、お釈迦様かな。

 

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さて、先ほどの石塔は、なんと「武田信玄」の屋形に置かれていたと伝わっているそうです……深川に「武田信玄」……。

 

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ちっちゃい狛犬さん。
瓦っぽいので、屋根狛さんかな。

 

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四脚門も文化財

 

「海福寺四脚門は明治後期に新宿区上落合泰雲寺にあったものを移建したものであるが、その後の長い年月の間に海福寺境内や周辺の環境によく調和しており、落ち着きのある景観をうみだす重要な建物として定着している。(略)」

 

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こちらです。
本堂が覗くところがよいですね。

 

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何か越しに四脚門。

 

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入り口はこんな感じです。

 

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「海福寺
明から来朝した隠元隆琦が万治元年(1658)に江戸深川に開創した黄檗宗の寺でしたが、明治43年(1910)に現在地へ移転しました。
本尊は釈迦牟尼仏で、他に四天王像や隠元禅師の像、木造阿弥陀如来立像(区指定文化財)が安置されています。木造阿弥陀如来像は彫刻技法の特徴などから12世紀に京都あるいはその周辺で製作されたものと考えられ、都内に現存している稀少な例です。(略)」

 

なるほど、と。
なお御朱印はいただいていません(あるのかないのか……)。

 

さて。

 

○こちら===>>>

大日本名所図会. 第2輯第6編 江戸名所図会 第4巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『江戸名所図会』から。
115コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

「永寿山海福寺
同所寺町通中程の右側にあり。黄檗派の禅林にして、江戸触頭二箇寺の一員たり。万治元年戊戌の創建、開山は隠元禅師、中興は獨本和尚なり。本尊釈迦如来、左右に迦葉・阿難・十六阿羅漢の像を安ず。開山隠元禅師の肖像もあり。
(略)
九層塔 寺境、池のかたはらにあり。高さ一丈ばかりの石の塔なり。相伝ふ、武田信玄のものなりと。むかし土家氏某これを持ち伝へしが、当寺へうつし建つるといへり。」

 

触頭」ってなんだろう、と日本史の知識のないことをさらけ出しておきます。

 

○こちら===>>>

触頭(フレガシラ)とは - コトバンク

 

コトバンクさんから、「百科事典マイペディア」より。

 

「江戸時代の寺院統制機構の一。幕府および各藩の寺社奉行の下,本山および一般寺院の上申下達の仲介を行い,また一定の統制にあたった寺院をいい,僧侶身分を一元的に統制する性格をもつ。室町幕府僧録司(そうろくし)(僧録)が起源。宗派別に置かれた場合と,全宗派を合わせて一寺とした場合がある。これとは別に,1635年幕府の寺社奉行設置に伴い,各宗派は江戸に触頭寺院を置き,それぞれ触頭とか僧録とよび,その任にあたった。」

 

……聞いたことがあるようなないような。
『江戸名所図会』の刊行は天保年間、執筆時期は寛政〜文化年間、ということで、「永代橋」が落ちて無縁仏が、という事件とほぼ同時代、記事には反映させられなかったのかな、と思います。
「海福寺」の図絵には、本殿、天王殿(「布袋」さんがいます、いや「弥勒菩薩」ですが)があり、九層の石塔は池というかお社(多分「弁天」様かな)の近くにあるとか、その九層の石塔の図絵があったり、聯がいくつか載せられていたり、鐘に刻まれた「隠元」禅師の言葉も載せられていたり、往時を忍ぶことができますのでご参考に。
もちろん、移転する前ですので、今とは全く違っています。

 

移転……今回の目的地のお寺も、移転したんですよね。

では、次回は目的地ですが、記事にするほどではないといいますか……。