8/21。
小田原を後にして、伊勢原を通り過ぎ(さらば大山……)、さてどちら方面へと考えていて、そのまま小田急に乗っていくことにしました。
降りたのは豪徳寺駅。
行き先は、「大𧮾山豪徳寺」。
○こちら===>>>
wikipediaしかなかったもので。
駅から南に線路沿いを歩き、世田谷の街の中のこんもりとした樹叢を左手に見ながら、道を折れて東に向かうと参道入り口です。
かなり天候が怪しくなってきております。
立派な松並木は有名なようです。
中門……でしょうか。
扁額の文字はええまあ全然読めません。
おっと、井伊直弼公のお墓があるようです。
「豪徳寺」なんて、私たち世代は「豪血寺一族」と勘違いするほどでして……あまり知識はありません。
整えられた庭園です。
大香炉。
「豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明十二年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝える弘徳院を前身とする。天正十二年(1584)中興開山門菴宗関(高輪泉岳寺の開山)の時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。
寛永十年(1633)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の法号により豪徳寺と改称した。直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。仏殿とその三世仏像、達磨・大権修理菩薩像、及び石灯籠二基、梵鐘が当時のままに現在に伝えられている。
境内には、直孝を初め、井伊家代々の墓所があり、井伊直弼の墓は都史跡に指定されている。ほかに直弼の墓守として一生を終えた遠城謙道、近代三代書家の随一日下部鳴鶴(いずれも旧彦根藩士)の墓、桜田殉難八士之碑がある。また同寺の草創を物語る、洞春院(吉良政忠)と弘徳院の宝篋印塔が残されている。」
なるほど、井伊家の菩提寺でしたか。
井伊直弼の墓もあってしかるべしですね。
「豪徳寺仏殿
(略)
豪徳寺仏殿は、寛文から延宝年間にかけて行われた大造営事業の中心的建造物である。この事業を進めたのは、井伊直孝の妻春光院とその娘掃雲院のふたりである。
仏殿は、掃雲院が藩主直澄の菩提を弔うために延宝四年(1676)、建設に着手し、翌延宝五年(1677)に完成した。豪徳寺四世天極秀道の代で工匠星野市左衛門尉積則らが造営に当たった。
当時流行した黄檗様式の影響が随所に見られるとともに絵様肘木など特異な様式が使われており、建築史上、また技術的にも価値の高いものである。」
仏殿内部はもちろん観られますが、写真はありません。
「豪徳寺仏殿像 五躯
木造大権修利菩薩倚像(略)
木造弥勒菩薩坐像(略)
木造釈迦如来坐像(略)
木造阿弥陀如来坐像(略)
木造達磨大師坐像(略)
木造五躯は、仏殿に右記の順に安置されている。胎内銘札によると、延宝五年(1677)、井伊直孝の娘掃雲院が、父の菩提を弔うために「洛陽仏工祥雲」に、五躯一具として造らせたものであることがわかる。
祥雲は黄檗宗の鉄眼の弟子で、のちの本所五百羅漢寺(現、目黒区)の五百羅漢像を彫造した松雲元慶(1648〜1710)のことである。
当時仏殿建立を初め豪徳寺の復興に努めていた掃雲院は、鉄眼ら黄檗僧に深く帰依し、その影響を受けていた。このような関係から仏殿像造立に当たって、祥雲が推挙されたものと考えられる。
木像は、江戸時代の代表的な仏師祥雲の早期の作例として、また黄檗風仏像彫刻の数少ない遺例として貴重である。」
「大権修利菩薩」
というお方のwikipediaがありましたので。
○こちら===>>>
それから参考になりそうなサイトも。
○こちら===>>>
禅宗、日蓮宗辺りの知識は皆無ですので、あまり深く立ち入らないようにしましょう。
「祥雲は黄檗宗の鉄眼の弟子で、のちの本所五百羅漢寺(現、目黒区)の五百羅漢像を彫造した松雲元慶(1648〜1710)のことである。」……おっと、松雲禅師のことはちょっとは読みましたよ。
○こちら===>>>
補遺・「五百羅漢寺」 - べにーのGinger Booker Club
↑『甦える羅漢たち』という本は、当然ながら「五百羅漢寺」を中心に書かれているので、松雲禅師が「豪徳寺」の仏像をいつ掘ったのかはわかりませんが、「羅漢像以外にもたくさんの仏像を彫っている」という内容の記述がありますので、間違いないのでしょう。
禅宗の勉強をしないとなぁ……。
仏殿の裏手、というか奥に本堂があります。
仏殿を本堂の前辺りから見てみますと、
こんな感じです。
天水桶。
細井桁は井伊家の家紋のようです(ま、そりゃそうでしょう)。
灯篭と、奥は納骨堂だったと思います。
何の花でしょう……本当にものを知らないもので。
「本梵鐘は、延宝七年に完成の後、今日まで移動なく当寺に伝えられてきた。
形姿は、比較的細身で均整のとれた優美な姿を呈し、吊手の竜頭は力強くメリハリのきいた雄渾な造形で、細部の表現も精巧な出来栄えである。撞座の意匠も独創的であり、工芸的に優れた完成度の高い梵鐘といえる。
製作者の藤原正次は、別に釜屋六右衛門とも名乗り、当事江戸で名のあった鋳物師である。また世田谷代官大場市之丞吉寛が幹事となっている。(略)」
日本のあちこちに、「鋳物師」や「鋳物○○」という地名があるのではないかと思います。
職人は、表向きの身分こそ高くはありませんでしたが、社会には欠かせない存在として尊重されてきたのでしょう。
西欧から伝わった鉄砲を分解して、ネジを初めて見て、すぐさまそれを作ってしまうという恐ろしい人達ですから。
それなりに扱っておかないと、後でどうなるかわかりません。
「芸人」というのは、本来そういうものなのです。
仏殿の前を向かって左手に行きますと、招福殿という建物があります。
これがお堂です。
お地蔵様や馬頭観音が隅の方にひっそりといらっしゃったりしますが。
ちょっと露出上げすぎですが、おびただしい数の招き猫が。
猫の聖地です。
「豊川稲荷」の霊狐塚でも思いましたが、
○こちら===>>>
これだけ集まるともう、ちょっとしたホラーです。
招き猫に囲まれた仏像の光背には、「如是畜生発菩提心」と刻まれています。
この八文字が、「仁義礼智忠信孝悌」の八文字に変ずる、というのは『南総里見八犬伝』ですね。
「豪徳寺」にやってきた目的は、この招福殿だったので、満足満足。
招福殿の向かいには三重塔があります。
どうも新しいもののようなんですが、一階と二階の蟇股の部分に、なぜか招き猫がいます。
特に一階は、十二支の彫刻で、子(ねずみ)の部分に、ねずみを押しのけて招き猫。
うーん、面白くはあるんですが……あれですか、「隠れミ○キー」みたいな。
まあ、十二支の伝説では、猫さんはねずみさんに騙されて、十二支に選ばれなかったそうですので、ここでそんな倒錯が起こっていても……「招き猫の寺」ですから。
招福殿と三重塔の間を通り、
六地蔵の前を抜けると、
墓所の最奥から、パノラマってみました。
「高野山金剛峰寺」の奥の院への道すがらでも同じでしたが、普通お墓に感じるような恐ろしさとか縁起の悪さ、ではなく、往時の井伊家の勢力を感じさせる整然さと荘厳さに言葉を失います。
どれがどなたの墓なのかは、そういった専門の方に任せるとして(?)。
なぜか色あせた、井伊直弼墓に関する案内板。
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第2輯第4編 江戸名所図会 第2巻
↑から引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
106コマです。
「大渓山豪徳禅寺
常盤橋より五町計西の方にあり。曹洞派の禅刹にして、江戸高輪の泉岳寺に属す。当寺は文明年間、吉良家創建の精舎にして、旧は弘徳庵と号す。其頃は済家にして、馬堂昌譽禅師開山祖たり。其後門庵宗関禅師、今の如く曹洞派にあらたむ。中興の開基は井伊掃部頭直孝候、同中興開山は天極秀道和尚なり。
仏殿 本尊釈迦・弥勒・弥陀等の三世仏の木造を安置す。
額 仏殿の二重家根の軒に掲くる。月舟の筆なり。
選仏堂 仏殿の右に並ぶ。当寺十勝の一なり。額は二重家根の軒に掲ぐ。当寺十五世霊潭の筆なり。
石燈籠 仏殿前、左右に立てたり。延宝五年井伊家掃雲院殿の寄附なり。
臥龍桜 仏殿の前、右の方にあり。当寺十勝の一にして、往古吉良政忠園中にありしと云ふ、至つての老樹にして、単瓣白花なり。
洪鐘 仏殿の前、左の方にあり。旧鐘の銘は寛文十二年鉄牛和尚の製文にして、和尚の[自枚摘稿]に出でたり。今存する所のものは、延宝七年中興天極秀道和尚銘する所なり。
照心堂 客殿の左、林叢の中にあり。当寺十勝の一員なり。
吉良氏古塋 照心堂の前、卵塔の中、大なる松樹の下にあり。古き五輪の石塔並び立てり。一は世田谷御所、吉良右京太夫政忠朝臣の墓なり。当寺過去帳に、『前開基洞春院殿照岳道旭居士、文亀二年壬戌六月十七日卒』とあり。又一は政忠の伯母弘徳院久塋理椿大姉の墓なり。弘徳院は当寺過去帳に『文明十二年庚子十二月二日逝』とあり。
古石燈籠一基 同じ墓の前にあり。政忠庭中のものなりと云ふ。世に云ふ地蔵形これなり。
当寺開基碑 仏殿の西に立つる。寛政十一年の冬、当寺十五世霊潭和尚の撰文にして、往古吉良家に因ある者、力を戮せて霊潭和尚の志を補助し、これを立つるといふ。
碧雲閣 総門の名なり。これも当寺十勝の一なり。其餘黄鳥哺は、同じ門の左の叢林の中にある所の梅樹を云ふ。松柏壇も又同じ方の樹林を名づく。楓樹林も同じ奥にありて、晩秋の紅錦賞すべし。
清涼橋 総門の前の小川に架する橋の名にして、これも十勝の一なり。
当寺は文明年間 或は十二年庚子開創とも。 世田谷御所吉良右京太夫政忠、 其先吉良治部大輔治家、上野国■間の地にありしに、基氏により此世田谷郷を賜はり、初てここに移住す。夫より後世田谷殿と称せり。 伯母弘徳院殿久塋理椿大姉の為に、創建する所の精舎なり。過去帳に、文明十二年庚子十二月二日とみゆ。直に其法号を採りて弘徳庵と号け、昌譽禅師を請じて開山祖とす。其始は済家の禅刹たり。天正年間に至り、宗関禅師来りて薫席し、洞門にあらたむ。萬治年間江州彦根城主正四位上左中将井伊直孝候此世田谷の地を賜ふ。 或は寛永十年癸酉に賜ふとも。 萬治二年己亥六月二十八日逝す。法号久昌院殿豪徳天英大居士と号す。遺言によりて令嗣直澄其遺骸を当寺に葬す。故に弘徳を豪徳に更む。弘豪同音なるによれり。爾後直孝候の賢娘掃雲院殿無染了心禅尼、先考の冥福を弔はむがため、許多の浄資を喜捨して堂宇を経営し、三世仏の木造を安置して、良田数十頃を寄せらるるとなり。」
どうやら「豪徳寺」には「十勝」という見所があったようです。
そのいくつかはまだ残っていますので、そんなことも思いながら参拝していただくと趣深いのではないかな、と思ったりします。
107コマには図絵もあります。
現代と見比べてみるのもいいでしょう。
続いて、
○こちら===>>>
↑昭和11年発行の、ちょっと怪しげな本です。
58コマより。
「豪徳寺の招き猫
東京・世田ヶ谷
新東京世田ヶ谷区の豪徳寺は、もと弘徳寺と言つたもので、世田ヶ谷城主吉良政忠の伯母が、文明年間に建立したものだ。この寺は吉田松陰と井伊掃部頭の菩提寺として有名である。
ところで、この寺はいまでこそ豪壮なものであるが、もとはじつに貧乏そのものの寺で、住職と決つたものも居らず、雲水坊主の通り宿だつたのだ。ところが天正年間になつて、この貧乏寺に住持が出来た。それがこの猫に関係ある宗顕なのである。
その和尚が、ある日、日頃から可愛がつてゐた三毛猫を相手にして日向ぼつこしながら、
「三毛よ、この寺もかう貧乏しては、潰れるより外はない、俺もかう歳をとつては、雲水に出かけることも出来ぬでのう」と愚痴をこぼしたものだ。
それからしばらくたつてそんなことを忘れてゐた或る日のこと、門前に厳しい武家が五六人馬を止めたと思ふと、づかづかと寺へ這入って来た。和尚は不思議なこともあるものだと思つて、挨拶に出たら、その武家が門前を通ると、一匹の猫が不思議にも頻りと手招きするので這入って来たのだと云つた。
その武家こそ井伊直孝だつたのだ。それ以来直孝は遠乗りの途次、この寺へ寄りよりした。そして和尚の宗顕を相手に、話に時を過して行くのが例になつた。この和尚は豪放恬淡であり、且学問もあつたので、直孝とも話が合ひ、気に入られ、終にこの寺が井伊公の菩提寺にとまで運んで行つたのであつた。
豪徳寺は三毛猫によつて救はれた。
井伊公の墓所のうしろにある石塔「招福猫子」は、その三毛猫を葬つたおくつき所なのである。
で俗にこの寺を猫寺といふ。招き猫は、その寺の開運本尊三毛猫をかたどつたものである。右手を掲げて、服を招いで呉れるといふ有難いマスコットなのだ。」
↑本来の話を少し面白おかしく書いているので、実際に伝わっていたものとは異なっていると思います。
しかし、「井伊公の墓所のうしろにある石塔「招福猫子」は、その三毛猫を葬つたおくつき所なのである。」……なんてものはどこにもなかった気がしますけれども……あったのかな、あったら見ておきたかったな。
江戸時代以降の神社仏閣は、それなりに資料が揃っているので、調べ始めると大変です。
ので、この辺りにさせていただきたく。
招き猫、見られたし。